3 思い出よりも-2
俺が直立していたのは、人が適度に往来する歩道の真ん中だった。
この光景は幻。なにも説明されていなくても、そんな確信があった。
(二人はいないのか?)
付近を見回しても、雨模様や舞の姿はない。側にいると思ってたのに。
まあいいや。それにしても、この景色どこかで。
そうだ。俺の家から、ほんの少しだけ中心地に行くと見られる街並み。時間帯は夕方前くらいだろうか。
やや離れた位置にある空き地の端では、桜の木々が美しい花をたたえていた。春の風景があった。
ただ立っていても仕方がない。探索しようと考えた矢先、少し離れた位置に雨模様の姿が現れた。
「雨模様。こんなところにいたのか」
「……」
雨模様からの反応はない。すれ違う通行人たちの顔を、どことなく暗い表情で見つめている。
もしやと思い、雨模様の肩に手を乗せてみたところ、霧に触れるように体を通り抜けてしまった。
(雨模様も幻か……)
雨模様の姿は現在と同じ。舞の言葉を信じるならば、そう遠くない過去の記憶映像だろう。
やがて雨模様は、スーツ姿の若い男性通行人に近付いていった。
「あの……すみません」
男性は――全く立ち止まる様子を見せず歩き去った。雨模様の姿は視界に入っていたはずなのに。
あまりにも堂々とした無視の仕方に、幻と分かっていても腹が立った。
(なんだあいつ……無視するかよ普通)
忙しいにしても、ひどいやつだ。雨模様は別の通行人に歩み寄った。
性格の良さそうな白髪のおばあさんだった。
「すみません……私のこと、見えませんか? 見えてたら……なにか」
おばあさんは――立ち止まらずに歩き続けた。雨模様の姿なんて見えてないと言わんばかりに。
そういえば、周りの通行人たちは、誰一人として雨模様を見ていない。雨模様の行動は少なからず目立つはずなのに。
通行人は途絶えない。雨模様が話しかける回数も自然と増えていく。
「ごめんなさい……聞きたいことがあって」
「私の声だけでも聞こえたら、なにか返事を……」
「ほんの少しでいいから、私のこと……」
「私は、ここにいます。気付いてください……お願いです」
何度も、何度も、通行人に話しかける雨模様。
しかし、その孤独な行為に反応する人は、ただの一人も現れなかった。
雨模様の表情は、注視せずとも分かるほど落ち込んでいる。幻だとしても、見るのはつらかった。
短時間で空が暗くなる。夜が来たらしい。
建物の明かりが街を彩っている。昼間に比べると通行人は激減していた。
雨模様は疲れた様子で、ひざを抱きかかえるようにして、歩道の脇に座り込んでいた。
朝を迎える。幾度も通行人に声をかける雨模様。誰にも気付いてもらえない。
夜が来る。道端に座り込む雨模様。疲労は隠せていなかった。
朝、夜、朝、夜。めまぐるしく景色は変わる。空き地の桜は散り落ちていく。
(雨模様……俺と会う前に、こんなことを)
帰る場所もなく、弱音をはく相手さえいないまま、雨模様は、長い期間を一人で過ごしていたのか?
度重なる夜を迎えた時、ついに雨模様の姿は、歩道からいなくなった。
景色が変化した。夜の川辺だった。
すぐに現在地は分かった。初めて雨模様と会った深夜に訪れた、俺のお気に入りの散歩場所だ。
雨模様は石階段に座っていた。足元に転がっている石に向かって、静かに手を伸ばす。
けれど、雨模様の手は石を透過した。川原の石すらも、雨模様の存在を認識してはくれなかった。
「私……どうして、生まれたんだろう……」
雨模様の声は、かすかに震えていた。心は限界寸前で保たれていると感じた。
一体、何百回確かめたのだろうか。すがるものがなにもないまま、来る日も来る日も通行人に話しかけて。
確かめれば確かめるほど、希望が失われていく残酷さと向き合って。
そして明日も、明後日も、いつ終わるかも分からない、つらい現実と戦わなきゃならなくて。
雨模様は、静かに立ち上がった。ふらふらとした足取りで、川の深みに向かって進んでいく。
その姿は、ある一つの最悪な結末を連想させた。未来に絶望した命が選ぶ、最も悲しい選択肢。
「雨模様! だめだ、それだけはやめてくれ!」
声をあげた。雨模様の耳には届かなかった。
雨模様の体がひざ下まで沈む。冷たい川の水が、雨模様の姿を世界から消そうとしていた。
追いかけようと走り出した瞬間、一陣の風が吹く。草木たちがざわめき、落ち葉が舞った。
「……!」
身じろぎをする雨模様。自然な反応。そこから現状は移り変わった。
雨模様は足を止めていた。ゆるやかに吹いている風の音だけが、辺りに優しく満たされていた。
「……だめだよね、死ぬなんて」
つぶやく声。すんでのところで思いとどまってくれたようだった。
そして雨模様は、川の水を不器用に蹴り上げて遊び始めた。感情をぶつけているのかもしれない。
――ん? 待てよ。この光景ってもしかして。
夜空の月が明るくなる。雲の切れ目を探し当てた証拠だった。
後方から、誰かの足音が聞こえた。石階段を降りているらしい。
その正体が誰なのかを確認するために振り返る。
(はは、寝ぼけた顔してやがんの。誰だよこいつ……って俺だ!!)
だらだらと歩いていたのは孝哉だった。その視線は雨模様をとらえている。
やっぱり、あの日の夜だ。川で遊ぶ雨模様と、初めて出会った六月の深夜。
石階段に座る孝哉。雨模様は、見られていることに気付いていなかった。
(にしても……どうして俺は、雨模様の姿を見れたんだ?)
ふと疑問が持ち上がる。数えきれないほどの通行人たちは、みな雨模様を通り過ぎたのに、なぜ俺は例外でいられたのか。
それを考える時間は、もらえそうになかった。現実に戻る時が来た。感覚で分かった。
ゆるやかに意識が引っ張られる。雨模様は孝哉に気が付いた。水を蹴る動作を止め、孝哉の方に歩み近付いていく。
現実世界に引き戻される直前、雨模様と孝哉の会話が、かすかに聞こえた。
「見た?」
「な、なにがだ?」
「私が遊んでるところ」
―――――
白一色。そんな風景。屋上で仰向けに寝転がっているから仕方がない。
起き上がる。体のだるさは皆無だった。雨模様と舞も、ほぼ同時に目を覚まし始めていた。
結局、あっちで二人とは会えなかったな。どこにいたんだろう。
「……うっす。二人とも無事か?」
「あっ、おはよ孝哉」
「ああ。それよりもだ、本当に過去を見れたぞ。俺と雨模様が会う前の出来事だった」
軽い挨拶の後、簡潔に今見てきた場面を説明しようとする。
「え、孝哉も見てたの? 私も見たよっ」
「まじかよ。雨模様が通行人に話しかけたり、川に入ったりしてたか?」
「してたしてたっ! 雨模様ちゃんも見てた?」
「……うん。秘密にしておくつもりだったから、ちょっと恥ずかしい」
でもどうやら、その必要はないようだ。二人も俺と同じ場面を目に焼きつけていたらしい。
手のひらを広げる雨模様。面影石は、透明色に戻っていた。役目を終えたということか。
「だけど、せっかくだから、私の気持ちを伝えておきたい」
雨模様は手のひらを閉じる。小さく息を吸った。沈黙が消え去る。
「私は、自分でも、自分がどこから来たのか分からない。家族も……友達も、もしかしたら最初からいないのかもしれない」
雨模様の瞳は、俺や舞を真っ直ぐ見つめていた。
そうか。雨模様は儚い子の印象だけど、いざという時は決断できる強さを持ってるんだ。
「それでも、私の存在が迷惑じゃなかったら……どうか、これからも、よろしくお願いします」
「……雨模様ちゃん」
「孝哉と舞さんのこと、絶対忘れないようにします。だから、私のことも、よかったら……忘れないでいてください」
「雨模様ちゃん。大丈夫。大丈夫だから、ね?」
我慢できなかったのだろう。悲願するように話していた雨模様の頭を、舞は優しく撫でた。
雨模様の顔に、ほのかな安心感が宿る。俺も気持ちが楽になった。
「つか、これだけ存在感出しといて、忘れる方が難しいっての」
「存在感なんて出してない……と思う」
「そりゃ勘違いだ。俺たちにとって、雨模様がいることは当たり前になってんだから。なあ?」
「そうだよっ! 孝哉に同意するのはちょっと嫌だけど、今は賛成するね」
「え、俺そんなふうに思われてたの?」
せっかくのあたたかい雰囲気だったのに、気付いたらコケにされていた。
だけど、これは舞なりの、場をほぐすための冗談だと直感的に分かった。だてに幼なじみはしてない。
雨模様も、かすかに笑みをたたえているようだから、舞の作戦は大成功だと言えよう。
「ありがとう……孝哉。舞さん。これ、忘れないうちに返すね」
舞に面影石を差し出す雨模様。こいつがあんな効力を発揮するなんて、不思議なこともあるもんだ。
「ううん、もっと使いなよっ! これから晴れてくるみたいだし」
「そうしたいけど、授業、もう始まってるような気がしたから」
「え」
「あ」
固まる俺、と舞。
そうだった。屋上に来たのは一時間目の授業が始まる前。休み時間は十五分くらいしかなくて。
携帯を開いて時計を確認する。八時五十七分。授業開始から十三分が過ぎていた。
「やべええ始まってた! 時が止まってたとかそういうのはなかった!」
「ほ、ほほほんとだね! あ、雨模様ちゃん、石は一旦預かるね。また貸せるからねっ!」
「うん」
和やかな雰囲気から一転、状況は焦りに支配された。落ち着いてられる雨模様がうらやましすぎる。
面影石を受け取る舞。残念だけど後回しだ。今は一分一秒との戦いがある。
「またな、雨模様! 俺たちは、これから死地におもむきます」
「そして、教室に入りにくかったらサボりますっ」
「うん。……また後で」
足早な挨拶。そして走り出す。雨模様は、小さく手をふって俺たちを見送ってくれた。
けなげな子だ。ささくれた心が癒されるね。
扉を開けて階段をかけ降りる途中、思い付いたように舞は話し始めた。
「あのさっ」
「なんだ?」
「私たちが同時に教室に帰ったらさ、よくない疑いをかけられそうじゃない? 若い男女が二人でなにやってたんだ、みたいな」
「……いやあ、気にしすぎだろ。俺は影薄いし。舞は目立ってるけど」
「ほら、万が一ということもありますし。一限目だけサボっちゃおうよっ」
「つまり、雨模様と一緒にいたいってことか」
「えへへ。ばれた?」
舞は正直すぎるからな。すぐ態度に出るし。
授業に出ないなんて、学費を払ってくれてる親に申し訳ないかもしれない。
だけど、今しか出来ない経験を心に刻むこともまた、学校に通う意味の一つだと俺は思う。
勉強は、後から自習すれば遅れは取り戻せる。成績さえ良けりゃ平気だろ。
「戻ろう」
「賛成っ」
立ち止まり、屋上までの通路や階段を引き返す。行ったり来たりして何やってんだろう俺たちは。
それもまた、悪くない気がした。生きるってこういうのなんだ、きっと。
屋上の扉を開ける。ひんやりした風と白い光が差し込んだ。
フェンスに寄りかかっていた雨模様は、わずかに驚いていたものの、すぐに表情をふわりと柔らかくして、俺たちを迎えてくれた。