3 思い出よりも-1
フェンスの向こう側に広がる街並みを、試しに遥か遠くまで眺めてみたものの、残念ながら新鮮味のある風景じゃなかった。
もしも空が、真綿のような白雲で一面を埋め尽くされてなければ、少しは風情のある景色になっていたんだろうか。
一時限目が始まる前に学校の屋上へ来たのには、わけがあった。
「屋上まで飛んでくるの疲れた……」
「大丈夫だったか? もし誰かに見付かったら騒ぎになりかねないからな」
「その時は、新しい宗教をつくる。空中浮遊する少女教祖。流行間違いなし」
「頼むからやめてくれ」
俺の横に立ち、同じように街の景色を眺めていた雨模様が冗談を飛ばす。
んじゃ俺は教団幹部で、とか考えながら、俺は風景に背を向ける。体重を預けたフェンスが小さく鳴いた。
俺が屋上に来たのは、雨模様と待ち合わせをしたから。ことの発端は昨日の会話にさかのぼる。
――孝哉は、小さかった頃の思い出とかある?
そりゃあ、あるな。
私はないんだけど、きっと、忘れてるだけのような気がする。
ないのかよ。不思議すぎるだろ。
怪しい場所を回ったりしてるんだけど、まだ行ってない場所があった。
どこなんだ?――
そして雨模様が口にした行き先が、俺の通う高校だったというわけだ。
俺と初めて出会う前から、雨模様は、周辺の街並みや建物を自分なりに探索していたらしい。
――それで、思い出せたことはあったのか?
ぜんぜん。ここまで綺麗に忘れてると、不安というより、すがすがしい。
俺に手伝えることあるか? 力になれるといいんだけど。
じゃあ、ひとつだけ――
こうして今にいたる。昨日の会話では真面目な表情で話していた。
「どうだ?」
「なにが?」
「ほら、過去の記憶を思い出したいんだろ?」
「あ。そんなことも言ってたような、言ってなかったような」
「いや言ってたよ?」
それがうってかわって、今日はいちじるしく目的意識が低下していた。
眼下に広がる景色から視線を外さないまま、雨模様はつぶやく。
「昔がなくても」
「え?」
「昔の思い出がなくても、私はここにいるよね?」
問いかけの声には、不安の色がにじんでいた。
平静を装っていても、雨模様の心の中には、不安や迷いが棲み憑いていた。
もしも、昔の思い出を一切失ってしまったら。
行った場所。出会った人。届けられた言葉。かかえた感情。それら全てが消滅したとするなら。
きっと、どんなに強い人でも、悲しくなる。
過去がなくても今は失われない。だとしても、昔があってこその今だと思うし、忘れて平気でいられるほど、思い出は、ちっぽけな存在じゃないはずだ。
「ああ。雨模様は、俺の隣にいる」
「……もう三回聞きたい」
「……俺の隣にいる。俺の隣に絶対いる。俺の隣に、間違いなくいる」
「当たり前だけどね」
「おい」
淡々と返す雨模様。せっかく気持ちを込めて言ったってのに。
それでも雨模様の横顔を見たら、心なしか微笑んでいたみたいだから、まあ、よし。
「ありがとう」
「いいって」
「舞さんが、孝哉の幼なじみで良かったって言った意味、ちょっと分かったよ」
「どんな意味だ?」
「側にいると安心できる。これを表現する言葉は……便利な人? じゃなくて、都合のいい人?」
「ん。たぶん間違ってる」
頑張って考えた雨模様の発言により、俺の気持ちは持ち上げられて、落とされた。
さらさらと風が吹く。湿気を含んだ冷たい空気が、いつもより早歩きで通り過ぎていった。
「今だから言えるけど」
雨模様が俺の方を向く。身長差があるために、いくらか俺を見上げる形になっていた。
「昔のことが思い出せなくても、私としては、どっちでもいい」
「そうなのか? 大事なことのように思えるぞ」
「孝哉がいるから」
雨模様の灰色の瞳が、まっすぐ俺を見つめる。紫陽花に付いた朝露のように、けがれのない眼差しだった。
「孝哉は私を見てくれる。私の存在を認めてくれる」
「雨模様……」
「昔の私がいなくても、今の私はいるんだって、自信を持つことができる」
雨模様の言葉に宿る安心感。俺みたいなのでも支えになれてると思うと、なんだか嬉しかった。
「でも、たまに思う」
「なんだ?」
「私に一方的に頼られて、孝哉が迷惑していたらどうしよう、って」
雨模様の表情が、かすかに暗くなる。視線は少し、斜めに傾いた。
「もし迷惑していたら、その時は言ってほしい」
「…………」
「私は最初、一人だった。孝哉の前からいなくなっても、元通りになるだけで、さみしくなんか――」
言葉は、中断された。
俺が雨模様の背中に手を回し、ぐっと自分の方に引き寄せたから。
雨模様の額が、俺の胸に当たる。軽くて細い体。ふとした拍子に壊れてしまいそうだった。
「許さないからな」
言い放つ。
「これだけ俺の生活に入り込んで来て、勝手にいなくなるなんてこと、許されると思うか?」
「ゆ、許されない?」
「当然だ。もし許されたいんだったら、まだまだ行動が足りてないぞ」
「うん」
「遠慮しないで、俺を頼ってくれ。力になるから」
「……うん」
額を離し、俺を見上げて返事をする雨模様。
今度は雨模様の方から、俺の胸に顔をうずめてくれた。
ううむ、本当に俺で大丈夫なんだろうか。あんまし自信ない。でも言っちまったもんは仕方ないか。なるようになれ。
唐突に、屋上の出入り口の扉が開かれる。
その音と、俺と雨模様が俊敏に後退したのは、ほぼ同時だった。
「やっと見付けた! 探したよ、ってあれ? 雨模様ちゃんもいるなんて意外だねっ」
「あ、ああ、いた」
「うん、私も、いた」
いきなり出現したのは舞だった。俺にとっては見慣れた制服姿だ。
泳いでいた視線を舞に向ける。舞は、俺たちを興味深そうに観察しながら近付いて来ていた。
「なんか二人とも、態度ぎこちなくない?」
「んなこと、ねえよな?」
「私たち、普通」
「そう? 日本語覚えたての外国人みたいになってるよっ?」
珍しく探ってくる舞。ええい、なぜ今日に限って疑り深いんだ。ごまかすのも大変なんだからな。
「ま、いっか。孝哉、昨日はホントごめんなさいっ! 風邪ひどくならなかった?」
「ああ。逆に治ったよ。菌が洗い流されたのかもな。はっはっは」
「よかったー! でもさ、ただ謝って後片付けしただけじゃ申し訳ないし」
どうやらわざわざ謝りに来たらしい。ほんと妙なとこ律義だな。
続いて舞は、あるものをスカートのポケットから取り出した。
手のひらに収まるくらいの、漆黒の小箱。新発売のマッチだろうか。
「なんだそれ?」
「家宝だよっ」
「なるほど家宝かーってマジかよ!? 紹介の仕方が軽すぎるだろ」
まるでポケットティッシュを取り出すような仕草だったので、かえって驚いてしまった。
舞の家はでかい神社だし、そりゃ家宝も普通にあるよな。質屋に売ったら儲かるだろうか。
俺の空想の合間に、舞は小箱のふたを開けた。
和紙の上に置かれていたのは、道端の砂利と形や大きさが限りなく似た、無色透明の石だった。
「わー神々しい! 面影石って言うんだってさ。こうやって見てるだけでも霊力を感じるよねっ! 話によると、これは私がまだ小さかった頃に」
すらすらと喋る舞を差し置いて、俺と雨模様の目線は、どちらからともなく重なっていた。
「……怪しすぎだろ」
「……でも、わざわざ嘘を言いに来たとは思えない」
「……だよな」
雨模様の意見も最もだけど、俺には加工ガラスの石にしか見えなかった。
舞は俺たちとは違う世界を見ているらしい。幼なじみとして、正しい道に引き戻してやるべきか。
「まだ使ったことはないんだけどーって、二人とも聞いてた?」
「え? ああ、もちろん! すごい石だよな」
「うん。思わず孝哉と語り合いたくなるくらい、すごい家宝」
「すごすぎだよな」
問われて慌てた俺と雨模様の感想は、すごいの叩き売り状態だった。
家宝つっても、持ってると運がよくなるとか、その程度の効果だろきっと。
「そうでしょ! 人の記憶を映像として見れるんだから、きっと使い道たくさんあるよっ」
「なぬっ!?」
変な驚き声を発したのは俺だった。はかったかのような絶好の機会だ。
雨模様には、忘れている記憶がきっとある。もしかしたら面影石は、それを思い出させてくれるんじゃなかろうか。
「舞! 聞いてくれ。話したいことがある」
「へっ? こ、孝哉が言いたいなら聞くけど……でも、心の準備とか、いろいろまだだから、その」
「それを雨模様のために使わせてくれないか?」
「あっ……い、石の話だよね! 告白だと思ったわけじゃないからねっ!」
「なんの告白だ?」
いきなり怒り出した舞。微妙に頬が赤い。俺の風邪がうつってなきゃいいんだけど。
「うるさいなっ! はい、雨模様ちゃんに貸してあげるよっ」
舞は二つ返事で、雨模様に面影石を渡していた。ありがたいけど、うるさいってなんだよおい。
「ありがとう。……どうやって使うんだろう?」
「念じるんじゃないかな。雨模様ちゃんが見たい記憶の場面を」
かなりあいまいな取扱説明が施される。
いずれにせよ失敗しても損はしない。成功したら儲けものくらいの考えでいよう。でも、なるべく本物であってほしい。
「…………」
石を両手で握り、胸の前に抱く雨模様。全員が沈黙を保つ。西に向かって吹いていた風すらも。
小鳥が数羽、頭の上を飛び去っていった。
向かうべき目的地があるのだろうか。それとも、それを探すために翼を広げたのだろうか。
「…………あ」
「どうした?」
「なんかあったかい」
「なになに?」
雨模様が両手を広げる。俺も舞も、石を凝視せずにはいられなかった。
手の中の石は、鮮やかなオレンジ色に染まっていた。夕暮れの斜陽色のようでいて、それよりも明るくて優しい色だった。
「……最近の家宝は色まで変わるのか?」
「……怖いから孝哉に」
「うわっと、え?」
雨模様から投げ渡された石を、とっさに受け止めるため手を広げる。
けれども、石は空中に浮いたままとどまっていた。重力の存在意義は奪われてしまった。
「……浮いた」
「取っていいのか? 爆発しないよな?」
「大丈夫っ。たぶん」
呆然と見つめる雨模様。迷う俺。自信なさげな舞。つまり誰もがお手上げだった。
ただ、幸か不幸か、今回は自ら選択肢を選ぶ必要がなくなった。
ふわりと、体から力が抜けていく。おだやかな水の中に浮いて身を任せたような、なんとも心地いい浮遊感だった。
雨模様も舞も、俺と同じように座り込み、やがて地面に寝転がる。
意識が遠くなった。あたたかい春の陽射しに包まれて、こくりこくりとうたた寝をしている時のような安心感に包まれた。
危機感はなかった。誰かに見守られてるみたいだった。
雨模様の記憶のかけらは、行く先で拾い集められるんだろうか。頼りにしてるからな、面影石。