2 面倒見-2
視界がチカチカする。カメラのフラッシュを間近で凝視したような残像が、なかなか消えない。
「今思うと」
「あ……?」
「四白は、もうちょっと下だったかもしれない。鼻の横くらいだったような」
「や、やめろよおい! 押させないからな! 絶対駄目だからな!」
真剣な表情で回想していた雨模様を、冗談抜きで制止した。
あの責め苦から五分くらい過ぎたのに、まだ鈍い痛みが残ってる。次やられたら泣く自信がある。
「あー面白かった! んーーとかって叫び方、なかなか聞けないからねっ。んーー!」
「真似すんな! 幼なじみの危機なんだから、笑ってないで助けてくれてもよかっただろ」
「ほら、あれだよ。人生笑えるときに笑っておかないと!」
「使いどころ間違えてっからなそれ!」
明るい笑顔でいい格言を生み出した舞だが、使用状況がおかしいので全然共感できなかった。
「まあまあ、孝哉は寝ててっ。看病したげるから」
「そう。私たちに任せてくれれば百人力」
「不安しかないんだが……」
なんら根拠もないのに、なぜ雨模様と舞は自信満々でいられるのだろう。もう意味不明だ。
上半身を起こして布団に座っているので、寝る場合は、姿勢を後ろに倒すだけでいい。
ようやく視界も明瞭になってきた。少しだけ横になってみるか。
「えへへー」
「どうした? 急に」
ふと、照れたように舞は笑い始めた。
両手を背中で組み、なにやら話を切り出しにくそうに、体をもじもじさせている。
「んーとね、まだ孝哉に、言ってなかったこと思い出したから」
「なんだ?」
「あ、ありがとねっ。川で私を助けてくれて。孝哉と幼なじみでよかったって、思えたよ」
紡がれたのは、素直な感謝の言葉だった。鈍感な俺でも、これは本音だと直感的に分かった。
予想外の一言。どきどきするかと思いきや、心に去来したのはささやかな安心感だった。
それは多分、お互いに相手を適度に知っていて、近くにいても見栄を張らなくていい関係だから。
「お、俺は別に……肩とか脱臼しなかったか?」
「うん。腕立て伏せで鍛えてるから……たまに」
「そっか。腕立ていいよな……道具いらないし」
やりとりから、沈黙。気まずさと焦りと恥ずかしさが雑多に混ざった、妙な雰囲気だった。
「は、恥ずかしいなあもう……変な空気になっちゃったじゃん!」
「い、いいんじゃないか? こんな時があっても」
「……かっ、風邪の時は水飲まないとだめだよ? 台所借りるねっ!」
迅速に立ち上がった舞は、逃走とも呼べる移動速度で台所に走り去ってしまった。
舞は俺の家に何度も来てるから、きっちり間取りは把握されている。
台所に通じる曇りガラスの戸が閉められる。場は静かになった。
そろーっと、横から顔をのぞき込んできたのは雨模様だった。
見た目には分かりにくいけど、好奇心を抱いているような感じの表情に思えた。
「な、なんだよ」
「超胸キュンした?」
「いつの時代の言葉だ」
年下の少女に茶化されて動揺するほど、俺は子供じゃない。
だから冷静に切り返してやった。どうだ思い知ったか。これが年上の余裕ってやつだ。
「えっちなこと期待してたくせに」
「し、してねえし! 濡れ衣ふっかけんなし!」
「私はいいよ……孝哉になら、好きにされても」
うつむき加減で告げた後、自分の背中に手を回す雨模様。
小さな音が聞こえた。雨模様が、着ているワンピースの背中のファスナーを下ろす音だった。
「雨模様……なにやってんだ?」
「なんだと思う?」
するり。ワンピースの右肩のひもが外された。
色の白い、きゃしゃな肩が強調される。肩ひもがなくなるだけで、なまめかしさが何倍にも増したように感じた。
かあっと、体が熱くなる。年下だと思っていた少女の思わぬ色気に、頭が付いていかなかった。
「よ、よせって……」
「いいから、私を見て」
小さくうつむいたまま、雨模様は左の肩ひもも静かに外していく。
えりの部分を雨模様が押さえているから、ワンピースは下に落ちずに済んでいた。
するり、するりと、まるで涙が頬をつたうように、雨模様は着ているワンピースを下げていく。
見てはいけないものを見ている背徳感。
分からなかった。なぜ、雨模様がこんなことをするのか。からかわれているのとは違う感じがした。
「雨模様。待った」
ほぼ衝動的に、雨模様の手を押さえる。
冷静な会話をしようと努めてはいるけど、心臓の鼓動音が反響するせいで、体の中が騒がしい。
これ以上ワンピースが下がらないよう、しっかり両手でえりを持つ。
「こういうのは、それなりに意味がないとダメなんだと思う。なんつうかだな……見たくないわけじゃないけど、雨模様のことは大切にしたいんだ」
「孝哉」
「上手く言えないんだけどさ、今は、俺にカッコつけさせてくれないか?」
「……うん。分かった」
雨模様は素直に聞いてくれた。助かった。色々と危機的だった。
そういやこの子、初対面でキスをしてくる反則技も披露してたっけ。
あれも恥ずかしかった。本当に不思議な行動をする子だ。なにか理由でもあるんだろうか。
「おまたせっ! ひたいも冷やすといい……よ?」
「ん?」
曇りガラスの戸が開く。舞が固まっていた。
バケツを持ち、居間の入口で彫刻のように立ち尽くす舞。混乱に満ちた視線の先には俺がいた。
「こ、こ、孝哉! な、なにやってんのっ!」
「えっ」
わなわなと震える舞。正面に向き直ってみた。
うつむく雨模様。ワンピースのえりを持つ俺。肩ひもは両方とも外れている。たぶん背中のファスナーも下がっている。
ことのあらましを知らない人が、いきなりこの場面に直面したら、どう解釈するだろうか。少なくとも舞は、
「いっ、いくら雨模様ちゃんがかわいいからって! やっちゃいけないことあるでしょーよ! けだもの! ウデムシ!」
めっちゃ誤解してた。というかウデムシってなんですか。
まあ、慌てず説明すれば分かってもらえるよな。雨模様も協力してくれるだろうし。
「舞さん……助けて」
「んっ?」
あれれ、気のせいかな? 雨模様が今、おかしなことを舞に訴えかけてたような。
「孝哉が、孝哉が……私の体を見たいって……」
「いやいやいや、言ってねえから! 確かにそれっぽいことは遠回しに話したけども!」
「だから、私……すごく怖くて……ぐすっ、声とかも……ぜんぜん出せなくて」
「おいふざけんなおい! 涙は悲しみのためにとっとけって!」
無駄な演技力の高さを見せつける雨模様。なぜだ。なぜここで渾身の嘘泣きをかましてくれるのか。
雨模様が肩ひもに腕を通したのを確認してから、舞に視線を向ける。
舞は、灰色のバケツを両手で構えていた。あれは台所に保管してた未使用のバケツだ。
「孝哉……熱あるんだったよね?」
鬼がいる。善良な人間を狩る鬼が。頭の中で破滅へのカウントダウンが唱えられる。秒読み段階だ。
「ないですそんなの! 下がった! 熱下がったから今すぐ両腕を降ろし」
「早く元気になってねっ!」
「ぎゃあああ!」
バケツに汲まれていた水が、徒党を組んで俺に襲いかかる。風景がスローモーションに見えた。これが走馬灯なのか。
なあ。俺、なんか悪いことしたのかな。どうして世の中って、誰にでも等しく理不尽なのかな。
―――――
「まさかこんなことになるなんて」
「俺が言いたいわそれ」
着替えと髪を乾かし終えた俺の後ろで、雨模様がつぶやく。
あの後で誤解は晴れ、舞は俺に深々と謝罪。水びたしになった部屋の拭き掃除を申し出ていた。
手伝っていたはずの雨模様は、今しがた洗面所に現れて、鏡越しに俺と会話をしている。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
「いや、若干さっぱりしたから許す。舞の手伝いしなくていいのか?」
「一人で片付けたいって言ってた」
「いい心がけだな」
サボりじゃなかったのか。なんだかんだで舞も律儀なとこあるからな。
幸いにも、水はバケツ満杯に汲まれていたわけじゃないし、床はフローリングとカーペットだから乾くし、家具や電化製品に被害は及ばなかった。
雨模様も頭を下げてるし、この件は忘れよう。というか最初から怒ってない。俺にも多少の下心はあったから。いや仕方ないよね?
「うし、じゃあ俺も舞の手伝いするかな。久しぶりの掃除のつもりで」
「じゃあ私も」
「先に戻っててもいいぞ。片付けてから行くから」
舞の心遣いはありがたいけど、まったく手を貸さないのも申し訳ない。
三人で掃除すればすぐに終わるし、なによりその方が楽しそうだ。
風邪の処症状も、いつの間にか治まっていた。本当に風邪だったのか、今となっては不明だ。
「うん。先に行ってるね」
「……ああ」
なにげなく発せられた、日常の中にありふれているはずの言葉。
たったそれだけが引き金となり、頭の中で突発的かつ暴力的に、昔の記憶が蘇る。
支えになれていると勘違いして、心の叫びに気付くことすら出来なかった現実。
俺の自惚れと、根拠のない気楽さのせいで、取り返しのつかない瞬間が通り過ぎた過去。
背負わなきゃいけない記憶なのに、あまりにも重すぎたから、その出来事自体を忘却することで歩き始めた――弱さ。
(先に行ってるね……か)
雨模様は、なんとなく似てるんだ。あいつに。見た目は違っていても、全体的な雰囲気が。
かち、かち、かち。薄くほこりの付いた壁かけ時計は、無責任な針の鼓動を刻んでいる。
掃除に、行こう。
もう、何年も前のことなんだ。今さら思い起こしてみても、あいつはどこにもいないんだから。
ぽつり。
閉じているはずの蛇口から、ひとつだけ水滴がこぼれ落ちて、暗い排水溝の中に消えていった。