2 面倒見-1
寒気が止まらない。体のだるさが治まらない。関節の痛みが癒えない。
風邪らしい。十中八九、昨日冷たい川に落ちたのが原因だろう。
今更だけど、もっと上手い助け方を思い付かなかったものか。無駄な体調不良の気がした。
(学校休みでよかった……)
とはいえ、高校は振替休日が丁度よく挟まれたから助かった。
自宅の居間。布団の中で寝転がる。窓の外は曇り空。これから雨が降るかもしれない。
誰かが来客する予定はない。やるべき用事も片付けておいた。
(まあ、今日はひとまず安静にしてられそうな)
ピンポーン
(気は……しない)
呼び鈴が鳴った。なんとなく妙な予感がした。
だるい体を起こして玄関までたどり着く。のぞき穴から外の様子を確認する。
扉の向こうには少女が立って、なかった。というか誰もいない。
(あれ? っかしいな……呼び鈴鳴ったのに)
今時ピンポンダッシュする物好きもいるんだな、とか呑気に考えた。
昨日、全身ずぶ濡れになった俺が帰宅する際、舞と少女が部屋の前まで付き添いをしてくれた。
ゆえに、少女は俺の家を知っている。
物静かに見えて行動力のある子っぽいから、唐突な来訪を意識してたけど、今回は違ったらしい。
「ま……いいか」
布団に戻るため、何気なく振り返る。
「お久しぶりです」
「どわあああ!?」
少女がいた。涼しい顔して廊下に立ってる。
距離が近かったせいで、俺は驚いて後ずさり、玄関扉に背中と後頭部を強打した。
微妙に陽当たりの悪い廊下は、うまい具合に薄暗くて、そこに灰髪灰色ワンピースの少女がたたずむ構図は、どこかのホラー映画を彷彿とさせた。
「いてえ……し、心臓に悪いわ。いつからそこにいたんだよ」
「さっき。孝哉が外を見てる間に、扉の上の方からすり抜けた」
説明しながら、少女は横に三歩ほどずれる。
そこには風呂場に通じる、閉じられた扉があるのだけど、少女は当たり前のように、いともたやすく扉を通り抜けた。
「わ!?」
「たまに使うと便利」
律儀に風呂場の扉を開けて、中から出てきた少女は言った。
こんなもん驚くに決まってる。
だけどきっと、驚きすぎてはいけない。普通に空中に浮ける少女だというのは知ってるから。
「便利そうだよな……うん」
「あ、それからもうひとつ」
「ま、まだなんかあんのか?」
特技は空き巣なのかな、とか考えていたところ、さらに少女は言葉を紡ごうとしていた。
もうビビらされるのは御免だ。これまで以上に心の準備を整える。
やがて少女は、しとやかに語った。
「雨模様です。どうぞよろしく」
「なんだ? 天気か?」
「私の名前。言いそびれてたから」
「ん……そうか」
遅ればせながらの自己紹介だった。少女、いや雨模様は小さくほほえんでいる、ような気がした。
変わった名前だという点は無視してみる。いちいち気にしたら時間が足りなさそうだ。
住居無断侵入。それでも、時々こうやって丁寧な態度を見せられると、やっぱり悪いやつじゃないんだなと再認識する。
「じゃあ、立ち話もなんなので中に入りましょう。お邪魔します」
「あれ、それ普通は俺のセリフじゃ?」
もしかしたら、ちょっとだけ、強引な性格を隠してるのかもしれないけど。
ピンポーン
また呼び鈴が鳴った。廊下を歩き始めたばかりだけど立ち止まり、雨模様と顔を見合わせる。
今度はまともな訪問者かもしれない。実家からの抜き打ち仕送りだろうか。友達が遊びに来たんだろうか。
ドアノブに手をかけようとした直前、元気よく玄関扉が開け放たれた。
「こんにちはっ! 遊びに来たよー」
「うわあびっくりした! 家主より先に扉あけんなよ!」
舞だった。まともな訪問者じゃなかった。
白い長袖シャツに、太もも丈の紺色ショートパンツ。ひざ上くらいまでの長さがある黒い靴下をはいている。活発な印象を与える格好だった。
うむ、舞は足の形がきれいだな。普段は制服姿だから分かりにくいけど、体型も出るとこは出てるし、意外と色気が――はっ、いかん雑念が!
「やるかやられるかの勝負だからねっ。わあ、雨模様ちゃんも来てたんだ。久しぶりー!」
「うん。昨日はごめんなさい。怪我とかは平気?」
「だいじょーぶ。私の方こそごめんね。心配ありがとねっ」
そしていつの間にか、雨模様と舞は友達同士みたいになっていた。仲良くなるの早えーなおい。
雨模様は飾り気こそないけど、どこか不思議な存在感がある。色白だし、細身だし、意識してみれば顔もかなりかわいい――くっ、静まれ俺の煩悩!
「欲望よ消えてくれ!」
「なにが?」
「へっ? あ、いや、なんでもないです。はい」
危ない。口に出てた。雨模様から疑問を持たれてしまった。用心しよう。
「じゃ、立ち話もなんだから上がっていいよねっ。お邪魔しまーす」
「だからそれ俺のセリフ! どっかの誰かさんも同じことしてたぞ」
ちらっと雨模様に視線を送る。
雨模様は何かを察知したように、一度こくりと小さくうなずいてから、
「孝哉の考えていることは分かる。上がる前にお邪魔しますを言うなんて、二人とも礼儀正しくて素敵だな、と」
「真意が伝わってねえ!」
的外れもはなはだしい解釈を淡々と述べたのだった。
―――――
忘れてたけど居間の真ん中には布団が敷いてある。午後二時なのに。
室内に入った雨模様と舞は、やはりというか布団に意識が向いていた。
「あらま。だめだよ孝哉。布団たたまないと湿っぽくなるよっ」
「そうか? ついめんどくさくてな」
主婦のような指摘が舞から入れられる。風邪だから寝てたんだ、とは言いたくなかった。
我慢できない体調不良じゃないし、馬鹿正直に伝えたら、雨模様や舞は少なからず負い目を感じてしまうはずだ。
川に落ちたのは、俺が勝手にやったこと。暇つぶしなのかもしれないけど、わざわざ家まで来てくれた二人の気持ちが、結構ありがたかった。
「夜ふかししてた?」
「特にはしてないな。言っとくけど変な番組なんて見てない……うっ」
雨模様と雑談しながら布団をたたもうとした途端、不意のめまいに襲撃された。思わずしゃがみ込む。
「きゃ! な、なに? どうしたのさ急にっ」
「……い、いやその。カーペットの手ざわりを確かめたんだ! 買い替えも近いかな」
すぐにめまいは治まる。とっさに舞へ付いた嘘は、我ながら下手だった。
「孝哉。もしかして」
「いやマジで! せっかくのお客さん相手に、状態の悪いカーペットじゃ申し訳な」
「せいっ」
「わー!」
推論から一変、雨模様はいきなり俺を転ばせにかかって来た。
しゃがみ姿勢だった俺は、軽い力で情けなく布団の上に転倒させられる。
「うそつき」
「ぐわ!?」
間髪入れずに、正座をするような流れで俺の腹部に左ひざを落とす雨模様。
加減はしてくれてるみたいだけど、少し苦しかった。
「体調が悪いこと、隠せてないよ」
「か、隠してねーよ!」
「まだ言うの」
左ひざを腹の上からどけた雨模様は、今度は本当に床に座った。
と思いきや、俺の胴体に、はわせるように右足を絡ませてまたぎ、結果的に完成したのは馬乗りの姿勢。
「おしおきしないと」
「お、おしおきかよ……なんだよ、それ」
「気持ちいいこと、してあげるから」
「気持ちいい……こと」
体が、動かない。
雨模様の体重は軽かった。人じゃないからなのか、女の子だからなのか、俺には分からない。
「あ、雨模様ちゃん! 私もいるんだからね。変なことやめてよっ!」
「大丈夫。私が終わったら、次は舞さんがやってあげる番」
「わっ私はいいよう! だって初めてで……ち、違くて、やり方とか知らないし! なにするかも分からないからさ! あ、あはは」
恐ろしく冷静な雨模様と、露骨に顔を赤くして取り乱す舞との対比が面白かった。
って、観察してる場合じゃねえなこれ。早いとこ抜け出さないと。でも手荒な真似はしないように。
「よし、雨模様。なにするか分かんないけどさ、日を改めて実行しないか?」
「安心して。痛くしない」
「あ、目が本気だこれ」
交渉失敗。俺は勝ちをあきらめた。
雨模様が、俺の上半身に向かって両腕を動かす。
胸部、首元、のどを通りすぎて、目の真上まで雨模様の手は伸びてきた。天井が見えなくなる。
え、目の真上まで? これはどういう、
「四白っていう部分があって」
「は」
ぴたっと、雨模様の親指両方が、俺の両眼の下まぶたに当てられる。
雨模様の手は少し冷たくて、ひやっとした。
「めまいに効くツボだから。押してあげ、るっ」
「痛い痛い痛い! 気持ちよくない! これじゃ余計めまいが悪化あああ!」
「そんなはずない。本で読んだんだか、らっ」
「ん゛ーーーーー!」
指圧だった。痛すぎて異世界を見た気がした。
舞は爆笑してた。俺と同じく勘違い全開だったくせに、電光石火で傍観者に転化しやがって。
まさか生きてて、気絶を望む日が来るとは。人生って面白いな。