11 未来を信じて-2
雨模様と過ごす夜も、これが最後になるかもしれないんだよな。
自宅の風呂につかりながら、近付く別れの分岐点に、一人ぼんやりと思いをはせていた。
頭では納得しているのに、心は、思春期のように反発を続けている。理屈と不安の堂々めぐりが治まらない。
だめだ。一人だと色々考えちまう。さっさと湯船から出よう。吹っ切って立ち上がろうとした直前、
いきなり出入口の扉が開いた。あらゆる動作が止まる。
雨模様が脱衣所に立っていた。一切の衣服を着ていない姿だった。つまり完全に裸の状態で、
「…………えっ」
「ご一緒します」
「ええええ!? ち、ちょっと待った雨模様!」
風呂場に強行突入して来たものだから、俺が絶叫と共に目をそらすのも当たり前だった。
え、なんで裸? 風呂場だから? いやいやおかしいよね。俺いるの分かってたはずだよね。あ、実は服着てたとか。再確認? 出来るかそんなん。
「よし分かった! いったん落ち着こう! 俺が出てから入れば自由に使えるだろ?」
「意外と広い。これなら一緒に入れそう」
「うわああ駄目だ聞いちゃくれねえ!」
頭を抱える。出入口までの道に立ちはだかる雨模様。つまるところ脱出不能の八方塞がり。
俺に許された精一杯の抵抗は、壁の方を向いて座り直すこと。男のくせに情けない? やんのかこのやろう。
「失礼します」
雨模様が浴槽に近付いてきた。緊張のせいで全く動けない。なんだよこれ。どんな展開だよ。
小動物みたいに心臓の鼓動が早い。雨模様に聞かれてしまいそうだ。
湯船の水かさが増した。来た。死にそう。裸の雨模様が俺の真後ろに。全身の筋肉が硬直する。
「か、かけ湯するの忘れてるんじゃないか?」
「言われてみれば」
「まあ、なんだ、俺も割と忘れるけどさ。一気につかるのもいいよなー、とか言ったりして」
「…………」
(な、なぜそこで無言になるんだ……?)
苦し紛れの日常会話を口にしてみたものの、平常心は訪れない。発せられた沈黙は正体不明だった。
(分からん! 俺はどうすりゃいいんだよ! あああ一思いに気絶してええ!)
壁に向かって本気頭突きすれば失神できる。そんなひらめきを実行に移しかけていた最中、
「懐かしいね」
ふわりと一言を紡いだ雨模様。おだやかな声は、わずかながら浴室の壁に反響していた。
「私がキスした時も、孝哉は今みたいに慌ててた」
「そ、それは忘れてくれよ。過去の話だ」
「そういえば、私が服を脱ごうとした時も」
「……あれ? やっぱり俺って情けないのか?」
あらためて考えると落ち込む。どっちも不意打ちだったじゃんかと言い訳したいけど、ますます情けなくなるからやめよう。
「孝哉に私を覚えてほしかったから」
「ああ……効果ありすぎだよ。ここまでやらんでも忘れないって」
「ううん」
訂正が入る。
「今夜のは、お礼」
雨模様の接近により、ただでさえ近かった雨模様との距離が、さらに縮まった。
「孝哉は、私を絶望から救い出してくれた。だから今度は、孝哉に幸せになってもらいたい」
「そっか……でも、雨模様がいてくれるだけで、俺は嬉しいんだ。特別なものは、いらないよ」
「そう言うと思った。でも、今夜は許さない」
雨模様の声色からは、かたくなな意思と、ひたむきな感謝の気持ちを感じた。
救われたのは俺の方だ。雨模様のおかげで今の俺がある。人は一人じゃ無力なんだと学べた。
「こんなことしか……私には出来ないけど」
「!?」
全身の神経がざわめいた。間髪を入れずの行為だったから。
わざわざ振り向いて確認しなくても分かった。
ぎゅっと、体全体を密着させるようにして、雨模様が俺に抱きついていた。
あたたかい風呂の中だからか、かすかに冷たい雨模様の体温が心地よかった。背中をなでる髪の感触が、少しくすぐったい。
「どう、ですか?」
「どうって……いやその、悪くない、です」
「意外と腹筋あるね」
「わっ」
おもむろに俺の腹を両手でなでる雨模様。思わず声が出た。
なんだろうこの背中の感触。やばい理性が。いきなりこんなことされたら。いやしかし雨模様をけがすわけには。うぐぐ。
「孝哉が近くに感じる。……どきどきして、不思議な気持ち」
「あ、ああ」
俺の背中に額を付ける雨模様。あ、しか喋れなくなった情けない俺。
これ以上はいろいろ危険だ。心臓が過労死する前に策を講じないと。なんかないかなんか。よし思い付いた。
「少し、のぼせてきたな」
「あがる?」
「ああ。そうするよ」
我ながら嘘が上手いと思った。これならすぐに雨模様の拘束が外れるな。俺天才。
されど、なかなかその瞬間は訪れなかった。天井に生まれた水滴が、湯船に向かって落ちる。
「……あの、雨模様?」
「孝哉が、私を受け入れてくれるなら」
俺を抱きしめる力が強くなる。体に腕が回される。貧血でもないのに、頭がくらりと揺れた。
「孝哉とひとつになりたい。……私のこと、好きにしていいから」
恥じらいの含まれた、かすかにふるえた声。十七年分の道徳観を惑わすのには充分すぎた。
ここまで耐えた。劣情に任せて雨模様をけがしたくなくて、あらゆる雑念を押しのけてきた。
雨模様からの誘惑は、瀬戸際に立つ俺の背を押した。雨模様が悪いんだ。もう限界だった。
「……あ、鼻血」
俺の鼻の中の血管が。
「孝哉?」
「すまん……鼻血だ」
「え」
雨模様にお詫びを入れる。すぐさま手のひらは血まみれになった。
たぶん七割は手の水分で、実際の出血量は大したことないんだろうけど、見た目の衝撃度はなかなかのものがある。
さすがに雨模様も解放してくれた。結果的には助かったのかもしれんけど、これってめちゃくちゃかっこ悪いよな。
大人になるのって難しい。ふがいない立場の中で、しっかりと実感した。
―――――
鼻血も止まった。晩飯も済ませた。寝るための身支度も終わった。
テーブルをどけて、二人分の布団を敷く。
同じ布団で寝ようという雨模様の提案は、泣く泣く却下した。寝床が鼻血まみれになるのを避けるために。
けど、布団は隣合わせだから大丈夫そうだった。広々と眠れるから一石二鳥である。
「鼻血は大丈夫?」
「ああ。びっくりさせて悪かったな」
「漫画みたいだったよ」
微笑む雨模様の感想は正しかった。あの鼻血は、のぼせたせいだと信じたい。興奮したけど。ものすごくしたけど。
まあ、失敗談も思い出のうちだ。明日も学校がある。まだ日付は変わっていないけど、ひとまず部屋の電気は消そう。
ちなみに雨模様の服装は、いつもの灰色のワンピース姿だった。着慣れていて落ち着くんだとか。
「みんなには内緒な? んじゃ、電気消すぞ」
「ちょっと待ってね」
「?」
静かに立ち上がる雨模様。窓際まで移動すると、閉じられていた緑色のカーテンを開いた。
うなずく雨模様を確認した後、ぱちんと部屋の明かりを落とす。
窓からは、はるか遠い天体の、ゆるやかな光が差し込んでいた。
豆電球の橙色を打ち消す、淡い月明かり。耳をすませば、星たちの合唱曲も聞こえる気がした。
「……なるほどな」
「私のおすすめ」
隣に座る雨模様と目が合う。月光のおかげで、はっきりと雨模様の顔を見ることが出来た。
そういえば、初めて会った日の深夜も、月明かりが綺麗だったよな。
雨模様は未雨に戻るだけ。必ずまた再会できる。でも、どうしてだろう。切ない気持ちが治まらなかった。
雨模様と未雨は同一人物。しつこいほどに分かっている。だけど、雨模様は、
「孝哉と見ると、きれいだね」
雨模様は、ここにしかいないんだ。
夜空の月を見上げて微笑む、一人のはかない存在の少女は。
「そうだな。けど、雨模様の方が綺麗だよ」
「えっ……えと、ありがとう、ございます」
「お世辞じゃないぞ。本当の気持ちだ」
雨模様は、照れながら頭を下げていた。普段は口にできないような言葉も、平気で伝えられた。
明日は晴れるかな。舞は泣かずにいられるといいけど。凛は今、なにを考えているんだろう。
時を刻む針の音。不思議と、沈黙が心地よかった。
「明日だね」
「ん、そうだな」
「学校は休んじゃだめだよ?」
「分かってる」
雨模様から注意が入る。元から休むつもりはなかった。雨模様の優しさは知っているから。
時間は手料理に似ている。本質的な良さを理解するには、ゆったりした雰囲気が必要だ。
最後だからこそ、いつも通りに暮らそう。少ない時間をむさぼるよりも、ずっと有意義だろうだから。
「孝哉」
「ん?」
雨模様が俺の名を呼ぶ。ありふれた会話の前置きに思えた。
「好きだよ」
だけど届けられたのは、短い言葉に乗せられた、おだやかな告白。
心の準備不足が災いした。たった四文字なのに、意味を理解するまで数秒も費やした。
「孝哉が、好き」
「……雨模様」
「好きになれたのが、孝哉でよかった」
雨模様の視線は、窓の外をたゆたう夜月に向けられていた。
俺は――俺も。
俺も、雨模様のことが好きだ。今なら勢いに任せて言えそうだった。そんな単純な俺をためらわせたのは、
かすかな月明かりに優しく光る、雨模様の頬をつたう涙の姿だった。
「お、おい、雨模様」
「……本当は、怖い」
慌てて立ち上がり、雨模様の正面に座る。
感情をこらえる雨模様の表情が、莉子の涙の様子と重なって見えた。
「孝哉のこと……忘れちゃうかもしれない。お母さんに会いたいけど、みんなのことも……」
灰色の瞳を両手で隠す雨模様。大切な人が泣いている訳は、今度こそ俺にも理解できた。
未来のために過去を捨てる。俺たちは、時に残酷な選択を強いられる。生きるための代償。
しばしば心は光を失う。血の赤さえ掻き消すほどの闇に支配される。
そんな時、明かりを灯せるのは自分じゃなく、そっと自分を支えてくれる大切な人。
「大丈夫だ。俺が……忘れない。忘れたとしても、絶対に思い出す。未雨の手を握ってみせる」
俺が、雨模様の心を照らす灯火になろう。
雨模様が、枝分かれした道を進めるように。進む先を間違えないように。
「だから、心配すんな」
また、四人みんなで同じ場所に立ちたい。移り行く四季を実感したい。
「これまでも、これからも、みんな一緒だ。……いつでも帰って来いよ」
「……うん」
涙と一緒に咲いたのは、小さな笑顔。
少しだけ安心して、雨模様の隣に座り直す。
俺の肩に預けられた、雨模様の体のささやかな重さは、ずっと長い間、俺たちを繋いでくれていた。
まだまだ夜は続く。月が休めるまでは遠い。
それでもいずれ、朝日は差す。どんな命にも等しく訪れる、様々な結末の未来を照らすために。




