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10 見守る月に-2

 凛と二人で、秘密裏に通り抜けた長い廊下。

 今日は正式に案内してもらいながら、雨模様と一緒に進んでいる。

 家が大きいせいか、玄関口付近では聞こえていた雨の音色も、ここだと全く耳に届かなかった。


「本当ありがとうございます。雨宿りさせてもらった上に、お見舞いの許可までいただいてしまって」

「ふふ、どういたしまして。私の方こそ、お礼を言わなければなりませんね」

「お礼?」

「しっかり者のお兄さんに、優しい女の子。こんなに素敵な二人が、未雨と友達でいてくれるんですから」


 女性は振り返って笑う。気品に満ちた仕草だった。こんなにおおらかに認めてくれる人は初めて見た。

 俺と雨模様は、未雨の友達だと言っておいた。今の段階では、それが最も適切だろうから。


「忘れてました。小田桐孝哉です。で、こっちが……雨模様です」


 少しだけ迷ったものの、雨模様の名前も正直に伝えることにした。

 雨模様の視線が、ほんのわずか、お母さんの方に向けられる。


「私は、西条志乃しのです。お二人の名前、覚えておきますね」


 俺に合わせて、丁寧な自己紹介が返された。

 西条志乃さん。この名前に、雨模様は聞き覚えがあるだろうか。

 不安と別れられない雨模様の表情を見る限り、記憶の中では出会えなかったみたいだった。


 そして、思った通りだ。志乃さんは雨模様を否定しなかった。

 雨模様という名前は、現実的に考えればおかしい。からかわれてると誤解されても仕方がない。

 でも、志乃さんは自然に受け入れてくれた。ほんとに優しい人なんだ。雨模様と同じで。


 未雨の眠る部屋に近付いていく。遠かった雨の声が聞こえ始める。

 廊下の突き当たりにある部屋の扉は、志乃さんが押し開けてくれた。


「雨模様。行こう」

「怖い、よ」


 立ち止まる雨模様。肩が小さく震えていた。

 当然の反応なんだ。昏睡したままの自分と会うのだから。


「……そうだよな。また後で来るか?」

「……ううん」


 雨模様は、静かに首を横に振った。


「もう、私は一人じゃないんだよね」

「……ああ」


 考えるよりも先に、同意が口から出ていた。

 こんな状況でも前を向こうとする雨模様の強さが、嬉しかった。


 降りしきる雨のせいで、ほのかに暗い室内。

 世の中は少しずつ変わっていく。同じ出来事は決して起こらない。

 なのに、未雨だけが以前と変わらず、数分前に眠り始めたような表情のまま、白い布団の中で目を閉じていた。


(連れてきたぞ)


 心の中で、未雨に語りかける。

 未雨を見つめる雨模様。二つの瞳は滴を流さず、静かに哀しみの色をたたえていた。

 様々な感情があふれているはずだ。雨で氾濫する川が、ゆるやかな流れに見えるほどに。


「お掛けください。座布団があればよかったのですけど」

「や、全然いけます。体育館の床とかで、尻の痛みには慣れてますから」


 志乃さんからの気づかいに、あえて砕けた口調で返す。少しでも雨模様の緊張をほぐすために。

 精巧な人形のように眠る未雨。雨模様は、大丈夫だろうか。落ち着きを保てているだろうか。


「……志乃、さん」


 言葉を発した雨模様に、志乃さんは柔らかく微笑んで視線を送る。


「はい。なんですか?」

「……病気、ですか? 未雨さんは」


 母親と娘の会話。本来は、なにげないものであるべきなのに、ここにあるのは他人行儀のもどかしさ。

 雨模様は思い出せているのか。志乃さんは気付いてるのか。気がかりは尽きなかった。


「ふふ。いいえ。友達を助けた結果なんです」


 志乃さんは、優しい雰囲気を保ったまま説明してくれた。


「三月十日ですね。未雨は、友達との下校途中でした」


 雨模様は、志乃さんの話を真剣に聞いている。淡い記憶に水彩色が塗られていく。


「横断歩道を待っていたみたいなんです。その途中、運転を誤った車が、二人に向かって……」


 志乃さんの目線が、そっと未雨に落とされた。


「未雨は、自分が逃げるよりも先に、友達を突き飛ばしました」

「友達は……大丈夫、でしたか?」

「はい。軽い擦り傷でした。未雨が助けてくれたから、私は生きてられたと、その友達は話していました」


 言葉を途切れさせながら質問する雨模様。志乃さんは丁寧に答えていく。

 久しぶりの親子の会話が、交通事故のあらましになるなんて。いたたまれない現実だった。


「運転手の方は、心筋梗塞でした。お医者様の話によると、心臓疾患を抱えていながら、気付かずに生活している方は沢山いる。気付けなくても無理はない……とのことです」

「運転手は、無事でしたか?」


 雨模様の問いかけに、志乃さんは、こくりとうなずいた。


「幸い、亡くなった方はおりませんでした。未雨は、ちょっとだけ、打ち所が悪かったみたいです」

「……眠ってるみたい、ですね」

「そうですね。心臓も、脳も、まだ生きています。なるべく話しかけたり、触れたりはしているのですが……」


 未雨は生きている。

 未雨が目を覚ますために必要なのは、魂。


「あ! でも、私はあきらめませんよ。未雨の母親ですから、いつだって、未雨を笑顔で出迎えてみせます」


 本当に、それだけだ。

 健康な肉体も、満足に暮らせる環境も愛情も、全てが整っている。

 雨模様の意志一つで、これからの生き方を決められるんだ。


「ごめんなさい。私ばかり話しちゃいましたね。退屈しませんでしたか?」

「……私の知らないこと、忘れてたこと、たくさん聞けました。ありがとう、ございます」

「いえ、私の方こそ。聞いていただいて、ありがとうございました」


 雨模様と志乃さんは、お互いに頭を下げた。

 俺の出る幕はなかった。気が付けば、自然な形で親子の会話は紡がれていた。

 雨模様は、どちらの道を選択するのだろう。

 雨模様として、今のまま生きるのか。未雨として、志乃さんと一緒に暮らすのか。

 どちらが正解かなんて断言できない。それぞれに、良いこと悪いことがある。

 けど俺は、未雨に戻ってほしかった。志乃さんが、未雨の帰りを心の底から待っているから。


「……あの」


 雨模様は初めて、志乃さんの顔を真っ直ぐ見た。


「未雨は……もうすぐ、目を覚ますと思います。お母さんが、帰りを待っているから」


 そして口にする。ひとつの答えを。

 なだらかに発せられた、お母さんという呼び方は、意識されたものじゃないように思えた。


「だから、もう少しだけ、待っていてください。やり残したことが、あるから」


 雨模様は、自分が未雨であることを言っていない。あいまいな言葉を、音に乗せただけ。

 けれど、雨模様を見守る志乃さんの表情は、さっきまで未雨に向けていたものと、なんら変わらなかった。

 雨模様。未雨。共通している、雨という字。

 自分の記憶と向き合った雨模様が、真っ先に探し当てたのは、自らを証明する名前だったんだ。


「ありがとう。私も、未雨に言いたいことがあるの」


 志乃さんは、決して未雨を急かさない。


「帰って来るのは、いつでも大丈夫だから。お母さんは平気。未雨は、未雨の思うように生きて」


 いつ娘が帰ってもいいように、玄関の鍵を開けたまま、出迎えの笑顔を用意しておく。

 そこにあったのは、自分よりも娘の幸せを願う、一人の母親の姿だった。


「……うん。ありがとう。お母さん」


 雨模様の心を張り詰めさせていた氷は、あたたかい日の光で溶かされた。

 志乃さんの愛情を受け取った雨模様は、ようやく、安心したように微笑むことができていた。


―――――


 雨が止んだ合間を縫って、俺と雨模様は志乃さんの家を後にした。

 もう、大丈夫。

 もっと志乃さんと話すべきと思った俺に、そう雨模様が告げたから。

 欠けた記憶のパズルは完成したのだろうか。

 雨模様の表情は、晴れやかではなかった。はるか頭上に広がる灰濁色の空のように、暗く、どこか物さびしい。


「……雨模様」


 名前を呼んだ。聞きたいことがあったから。


「思い出せたか? お母さんのこと。それから、自分のこと」

「……えっとね」


 けなげな雨模様の瞳が、俺を見つめる。そして、


「だめでした」


 ほんの少し、おどけながら言った。舞の仕草に少しだけ似ていた。


「未雨のことも、お母さんのことも、ぜんぜん。これが学校のテストなら、先生からのお説教は不可避」

「そ、そっか……まあ、仕方ないよな」


 わざと明るく振る舞っているようには見えない。落ち込んだり、途方に暮れるのが普通なのに。

 どうして雨模様は、普段と変わらない様子で話せるのか。


「でも、分かったよ」


 その理由は、


「あの人は、私のお母さんなんだって。私は愛されてるんだなって、思えた」


 どこかに思い出を落としたままでも、志乃さんとの繋がりを、意識の中で感じていたからだった。

 結局、俺の心配は、単なる取り越し苦労で終わったらしい。

 頭使って考えるよりも、自然な流れに身を任せるべき時もある、というわけか。また教えられちまったな。

 本当によかった。雨模様は、いつか帰る場所を見付けられたんだ。


「だから……私ね、未雨に戻ろうかなって思うんだ」


 梅雨の風に乗せられた、別れを暗示する言葉。

 応援してたはずなのに、寂しかった。雨模様を忘れたくなかった。

 だけど、未雨に戻らない道を雨模様が選んだとしたら、考えを改めてくれと頼んでいただろう。

 あんなふうに志乃さんは話してたけど、本当は、一日でも早く未雨に会いたいはずなんだ。

 雨模様のいるべき場所は、俺の隣じゃない。雨模様は、家族のところに帰らなきゃいけない。


「舞さんとか、神様にも、話しておかないと」

「……そうだな。明日、みんなで集まろう」


 雨模様の顔からは、迷いやためらいは消えていた。もう前を向いている。

 けどそれは、俺に心配をかけさせないための表情に思えた。

 近いうちに梅雨も終わる。雨雲たちは、海の向こうへ帰っていく。


 本当の気持ちは、雨模様だけが知っていた。

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