10 見守る月に-1
夕陽は役目を終えて、しばしの眠りについた。
薄明かりの残る星空は、欠けた髪飾りで身を彩りながら、月夜への準備を着々と進めている。
港は静かだった。風もない。小さな波の音。灯台の赤い点滅。街からは見られない、ほのかな孤独感のただよう海の景色。
「そんなっ、やだよ……雨模様ちゃんのこと忘れるなんて」
「そうだな……覚えていたいよ、俺も」
雨模様を真ん中にして、両隣に俺と舞。寄り添いながらコンクリートの地面に座る。
凛から告げられた事実を伝えるのは骨が折れたけど、なんとか全てを話し終えた。精神を削ったせいか頭が重い。
「でも、雨模様ちゃんは、お母さんと会えるから……寂しがるのは、変なのかな」
自身を納得させるように言う舞。理屈だけで考えれば、舞の話している通りなんだろう。
だけど、感情たちは意思には従ってくれない。仲間外れにしてみても、彼らは心に居残り続ける。
俺は、大切な人との別れを経験した。けれど奇跡が起きて、また会えた。たくさんの大事なことを教えてもらった。
そのおかげで、人間としての強さを身に付けたつもりでいた。成長できた気になっていた。
けど、間違いだった。
今また、大切な人との別れが間近に迫っている。少しは寂しさにも耐えられると思っていたのに。
心が、苦痛にもがいている。別れを恐れていた。凛の発言の残響に怯えていた。
雨模様は、全く言葉を発さない。体育座りのまま、かすかに揺らぐ黒い海面に視線を落としている。
無理もない。いきなりこんな事実を聞かされて、すぐに受け入れられるはずがないんだ。
雨模様の気持ちが落ち付くまで、ただ待とう。きっと舞も、最後まで付き合ってくれるから。
夕陽の残光が、地平線に消えていく。月夜が始まろうとしていた。
「こうなるかもって、思ってた」
長い沈黙は、静かな声と同時に終わった。
雨模様の声は、落ち着いていた。おだやかな表情のまま、しっかりと言葉を繋げている。
「いつかは、お別れが来るかもしれないって。孝哉と舞さんに会えて、幸せだなって思った時から」
俺の部屋で語り合った雨の日、雨模様は確かに口にしていた。
――私に行くべきところが出来て、孝哉と離ればなれにならなきゃいけない日が来たら、その時は――
続きが紡がれなかったから、その場限りの冗談だと当時は思っていた。
雨模様は、感じていたんだ。残された時間には限りがあることを。同じ風景は永遠には続かない現実を。
雨模様は立ち上がり、海の方に向かって進む。
やがて歩みを止め、静かに振り返る。その表情には、けがれのない笑顔がたたえられていた。
「私は生きたい」
飾らない本音。強さと弱さを内包した。
「雨模様でいるのか、西条未雨に戻るのか。どっちが私にとっての『生きる』なのか……考えたい」
静けさを打ち消すように吹いた風は、雨模様の声の名残を奪い去った。
水面に生まれた潮の泡たちは、波に遊ばれながら海中に帰っていった。
歩き出した雨模様は、俺と舞の間を振り返らずに通りすぎる。
後ろ姿を見失いたくない気持ちが、俺たちを地面から立ち上がらせた。
「雨模様!」
「雨模様ちゃん! また……会えるよね?」
名前を、叫んだ。
雨模様が、二度と手の届かない場所に行ってしまう気がしたから。
「…………」
雨模様は、立ち止まってくれた。
振り返るには至らなかったけど、声が聞けるだけで充分だった。
「孝哉と舞さんが……私を見ていてくれるから、私は一人になりたいって思えた。孤独じゃないから、一人になれる」
紡がれたのは、優しい言葉。前向きな価値観。
「心配しないで」
雨模様は、大丈夫だ。
「明日、学校が終わる頃、また会いに来るから。そうしたら、もし迷惑じゃなかったら……私を、連れていってください」
強い子だから、一人でも自分と向き合える。
俺たちは、静かに見守ろう。もしも雨模様が負けそうな時は、そっと隣に寄り添おう。
「分かった。待ってるよ。また明日な」
「雨模様ちゃん。また、一緒に出かけようねっ」
「……うん」
雨模様の背中が、段々と遠くなっていく。
追いかけるような真似はしない。雨模様を信じているから。
空の闇は深まっていく。街の喧騒は、もう遠い。
地球の引力にひかれた一つの星が、白い光の尾をまといながら、名も知らぬ山の向こうに消えていった。
―――――
翌日の授業には、ほとんど身が入らなかった。
しっかりしなきゃいけないとは思いつつ、いずれ近いうちに、雨模様が遠いところに行くかもしれないと考えると。
ただ黙々とノートを取っていたら、一日の授業は終わりを迎えた。
そして現在、雨模様と二人きりで、未雨が眠る家に向かっている。
―――――
雨の気配を感じた。
雨模様と二人、西条さん宅の格子門の前に立つ。多人数で押しかける迷惑を考えて、舞は来なかった。
正式な形で訪問するのは初めてだ。緊張する。雨模様も不安そうな面持ちを見せていた。
雨模様は、今なにを考えているんだろう。再会した時、お互いに、相手が誰なのか思い出せればいいのだけど。
「準備はいいか?」
「……うん」
雨模様は、俺の左手を静かに握りしめた。
小さくて、ほのかに冷たい雨模様の手。自分の左手に少しだけ力を込める。
「大丈夫だ。俺は、雨模様の側にいるから」
「……そう、だね。孝哉は、いつも私を見てくれる」
ふわりと微笑んだ雨模様は、力をゆるめて自分から手を離した。
俺の発言は、なんの根拠もない無力なもの。道路に落ちている軍手の方が存在意義がある。
そんな言葉から勇気を探し当てられるのは、雨模様が、しっかりと前を向いているからだ。
さて。いつまでも、人様の家の玄関前をふさぐわけにもいかない。
呼び鈴を鳴らすためにボタンを押そうとする。寸前、不意に玄関の格子門が開かれた。自然に視線が向く。
驚いたような表情を浮かべていたのは、未雨のお母さんだった。白い服がよく似合っている。
「あら、まあ。お客様でしょうか?」
未雨のお母さんは、すぐに物腰柔らかく微笑む。警戒心などの尖った情は全く感じなかった。
その笑顔と雨模様の笑顔は、どことなく似ていた。見ていると、心が落ち着くのを実感できる。
「ども、失礼します。この前はありがとうございました。急な訪問で時間をとらせてしまって」
「その声、もしかして、迷子の女の子を探してたお兄さん?」
やや考える様子を見せた後、見事に正解を言い当てていた。
「覚えてくれてたんですか。おかげさまで見付かりました。こんな感じで」
おかげで、自然な形で雨模様を紹介できた。
雨模様は、自分の言葉を探している最中みたいだった。お母さんと視線を合わせられていない。
「いえいえ、お役に立ててなによりです。とってもかわいい子ですね」
「え……あ、あの」
人見知りの子のように、反応の仕方に困っている雨模様。
「ふふ。人の気持ちが分かる子、みたいですね」
そんな雨模様の迷いを、お母さんは、とても優しい表現で言い表していた。
なにげない会話の中にもにじみ出る、相手へのさりげない思いやり。
この人になら、雨模様が未雨の魂から生まれたと打ち明けても、受け入れてくれる気がした。
けれどそれは、雨模様が決めることだ。なにを話して、なにを隠すのかは、雨模様に任せよう。
そんな折、ついに雨の足音が聞こえ始めた。
ぽつりぽつりと降る滴。地面に無数の丸い染みを描いていく。街は雨景色に移り変わろうとしていた。
「降って来ましたね」
「ですね……俺の天気予想は外れました」
顔を見合わせる。このままじゃ全員ずぶ濡れだ。俺以外が雨に打たれてしまうのは避けたい。
また機会は来る。雨模様と目で相談した結果、速やかに話を切り上げようと決まったのだけど、
「ご迷惑じゃなければ、上がっていきませんか?」
未雨のお母さんは、雨模様と俺を、自宅に招き入れる意志を伝えてくれた。
これは、恵みの雨だ。風は良い方向に流れ始めている。
「あの、もし良かったら」
ぶしつけな頼みかもしれないけど、これを切り出す好機は、他に考えられなかった。
「未雨さんのお見舞いをする許可をいただけませんか?」
雨模様の本名を口にする。俺に出来る最大限の、吹き出しそうなほど下手な交渉術だった。
強引でも大丈夫だ。結果は、後から付いてくる。
雨模様には、後悔してほしくなかった。
真夜中、記憶に首を絞められる苦しさで目覚めるのは、俺だけでいい。




