1 水無月の川-2
「おーっす。おはよっ」
「ああ……おはよう」
約八時間後の早朝、通学路にて。俺は寝坊せずに起床することができた。
それもそのはず。深夜に帰宅した後、少女がこつぜんと消失した驚愕と、いきなりキスされた気恥ずかしさのせいで一睡もできてないから。
おかげですこぶる優れない体調。わざわざ挨拶してくれた同級生の伊坂舞に対して、ごく普通の返答しか思い付かなかった。
「あれ? なんか元気ないね。どしたの?」
「まあ……昨日の夜、ちょっとな」
「はっはーん。気持ちは分かるよ。孝哉もそういう年頃だもんね」
「ん?」
「夜更かししてえっちな番組見るのもいいけど、ほどほどにしときなよっ」
「全然ちゃうわ」
いたずらっぽく表情をゆるませながら、舞は俺をからかう。いつものことだ。だからこそ面白い。
相手の警戒心をほどくような、ほがらかな喋り方。全体的に柔らかい仕草。昔から、舞の性格は変わっていない。
「じゃあ孝哉はさ、そういうテレビとかビデオとか全然見ないの?」
「え!? うーん……誤解なきよう説明するけど、そういうものに全く興味がない男がいたとしたら、そいつは病気だ」
「つまり見てる?」
「たまには」
「きゃー不潔っ」
「悲鳴あげんな」
冗談を全身で表現するかのような身ぶりで、舞は俺から一歩離れる。ちなみに、こういうのもやり慣れた流れだ。
どうでもいいけど、ビデオって久しぶりに聞いた気がする。呪いのビデオとか今なにしてんだろう。
「へへん。ま、私は気にしないけどねっ。孝哉が変態じゃないことはよく分かってる――あれっ?」
「わ。急になんだよ」
「孝哉、なんかにおうね」
「嘘っ!?」
突如立ち止まり、鼻の先を押し付けんばかりの近距離で、俺の腕とか背中のにおいをかぎ始めた舞。
昨夜の少女からの不意打ちキスと重なり、がらにもなくどぎまぎしてしまう。態度には出さないけど。
それほど長さのない、ほのかな薄茶色の髪をふわふわと揺らしながら、舞は俺の体臭をかぐ。それから真剣な面持ちで言った。
「なにか、人間と似て異なる存在に近付かなかった? 昨日の夜とかに」
「夜? ああ、眠れないから散歩には出たな」
「その時、孝哉は人間ではない存在と限りなく接近した! 間違いなくっ! 私の勘は当たるはず」
「うーん……」
真っ直ぐ指を差されて指摘されたら、否が応にも回想せざるを得ない。
昨晩。振り返ったら消えていた少女の姿を思い出す。少女は親切にも、自分のことを人間じゃないと言っていた。
人ならざる存在。その少女のことだろうか。
「仮に、ほんと仮にだけどさ。その、人じゃない存在と接触してた場合、俺に害が出たりはするのか?」
「いろいろいるからね。怪我するだけならいいけど、あの世に連れてこうとする霊もいるし、油断はできないよっ」
「……やべーじゃん」
おい冗談だろ。
あっさり開示された情報は、俺から血の気を失わせるような内容だった。
舞が言うと洒落にならない。舞の家系は普通のそれとは違うから。
「ふっふっふ、どうやら出番が来たみたいねっ。まだ修行中だけど、お祓いは任せといてよ」
「誰が祓うって?」
「え? 私でしょ?」
「……大丈夫か?」
「もちもち」
軽い返事だった。
舞の実家は大きな神社で、家族ぐるみで何かしらのオカルトめいた仕事に従事している。
俺としては深刻な案件なのだが、他に頼る当てもない以上、舞に任せてみてもいいかもしれない。
というか、実はあんまり危機感がない。
幽霊うんぬんよりも、昔から『自称、霊能力者のはしくれ』だった舞の実力を拝見できる方が、俺としては楽しみだった。
「よおおし! 練習の成果を出せる機会が欲しかったんだよねっ」
「無理するなよ? 未知の敵なんだから」
「任せてよっ! 何回も転ばせて倒してみせるから」
舞は燃えていた。気合い勝負なら圧勝だろう。
もし本当に事態が悪化したら、あらためて本腰入れて対策を取ればいい。
あの少女が悪いやつと決まったわけじゃない。事情も知らずに決めつけるのはいかんと思うのだけど、どうだろうか。
―――――
午後の川辺道は、深夜に比べると賑やかだ。道路を車が走る音や、羽ばたく鳥の声が流れているから。
静かだった昨夜は耳に届いたはずの、草の地面を踏みしめながら歩く音は、今は聞こえない。
川面は静かに揺れている。水たちは長い旅の果てに、大海と再会するのだろう。
「あの辺りで少女が川遊びしてたんだ。で、俺はこっちら辺に座ってた。それなりに離れてはいたな。周りはなかなか暗かった」
「分かりにくいねっ」
「ん、俺もそう思う」
昨晩の地点までは距離があるから、歩きながら指差して説明したものの、かなりあいまいな伝達になってしまった。
暗いのと眠いので意識しなかったが、あらためて見てみると、昨夜は、けっこうな道のりを歩いていたらしい。
「でもさでもさ、こうして孝哉と散歩するの久しぶりじゃない?」
「ん、急にどうした?」
右隣を歩いていた舞は、俺より二、三歩前に走り、屈託のない笑顔を浮かべて顔をのぞき込んでくる。
自然と立ち止まった。少しだけ、どきっとした。
「なんでもないですよっ。今回は忙しいけど、暇ができたら、また昔みたいに二人で散歩しようね」
「明日でいいんじゃないか? 基本いつも暇だし」
「んんん、そういうのじゃなくて、あーもう上手く言えないっ! 意味のある散歩がしたいの」
「なんだそりゃ」
再び歩き始める。よく分からない断言を済ませた舞は、軽やかな足取りで俺の隣に戻ってきた。
意味のある散歩ってなんだ。適当に歩き回るのが散歩だと思ってたけど。いかん混乱してきた。
本題を考えよう。敵の調査および退治、それが目的だ。
「仲良しだね」
「ん?」
「え?」
立ち止まり、振り返る。
昨夜の少女がいた。不意に聞こえた声の主。
少女は浮遊していた。二メートルほどの高さの空中で、直立姿勢のまま。
「うわあああ!」
「きゃああ! つ、ついに出たわね悪霊! 不意打ちとはやるじゃないのっ」
ビビる俺と舞。当の少女はというと、
「こんにちは。昨日の夜はお世話になりました」
いたって平静だった。驚いてるこっちがおかしいのかと思えるくらいに。
舞は悪霊とか言うけど、敵意は一滴の雨粒ほども感じなかった。
「こらあ! 挨拶で油断させようとしても効かないからね。きみを抹殺するために来たんだよっ!」
舞は闘争心むき出しだけど。つか抹殺って。直球で言いすぎだろ。
「この元気な人は誰?」
「あ、ああ。なりゆきでな。俺の幼なじみだ」
「よかったら名前を教えてほしい」
「伊坂舞だ。んで俺が、小田桐孝哉」
「敵に自己紹介してどうすんの! なにされるか分かんないよっ」
怒られた。
舞の警戒姿勢も一理あるけど、俺としては、どうにも目の前の少女が危険には思えない。
色白で、細めの体型。灰色の長い髪とワンピース姿がよく似合う。
舞を健康的と表現するなら、この少女は物憂げ、だろうか。かすかにかかる霞のように、はかない。
「敵? いないよ」
「きみのことだからねっ!」
「私なにもしてない」
「浮いて私たちを驚かせようとしたでしょ」
「……たしかに」
「覚悟っ!」
会話の応酬。それを打ち破って先制攻撃を仕掛けたのは舞だった。
どこから取り出したのか、大量の塩らしき粒を少女に向かって撒き散らす。
横に立つ俺は盛大に浴びた。からい。広範囲に攻撃しすぎだ。
「び……びっくり。いきなりなにするの」
空中横移動して避けていた少女は、ふわりと草の地面に着地した。
びっくりとか言う割に、少女の表情に驚きの色はない。洗練された無表情。
「そこだっ!」
威勢よく叫んだ舞。舞の両手には御札が構えられていた。意外と大きい。
舞が駆け出す。少女は逃げようとしない。心なしか迷っているようにも見えた。
直線的に突き出された舞の右手が少女に迫る。舞を見つめる少女。あとわずかな距離で御札が届きそうという時、
「えい」
「きゃああ!?」
移動を加えた少女の足払いにより、舞は転んだ。直前まで走っていたせいで、見事な連続前転を披露する形になった。
うつ伏せに寝転んだまま、舞は動かない。
「お、おい大丈夫か?」
「……こんなに転ばせるつもりはなかった」
申し訳なさそうな様子の少女。たぶん正当防衛だと個人的には思った。柔らかい草の地面だし。
様子を見るために近寄っていた最中、はじかれたように舞は飛び起きた。
「いたた……や、やるじゃないの。なんとなくダメージ受けた気がするよっ」
「ふらふらしてる。大丈夫?」
「く、靴がずれただけ! 勝負はこれから!」
靴をはき直す動作をとる舞だけど、俺から見ても分かるくらい足元がおぼついてない。
「一緒に休もうよ」
「休まないっ!」
心配する少女と、頭を振って平衡感覚を保とうとする舞。すでに勝敗は決している気がした。
そして分かった。少女に敵意はない。舞のことを本当に気にかけている。
もちろん良いやつと決まったわけじゃないけど、最初から疑っていたら、分かち合えるものも分かち合えなくなる。
「動がダメなら静ね……じりじり近付いてやるっ」
「それはそれでこわい。えいっ」
「きゃあ!」
また転ばされた舞。撃退する気満々らしい。なにが舞を突き動かすのか。
好奇心。闘争心。責任感。反抗心。
舞の個人的な感情ならいいけど、もしも、俺を危険から救うために『思いやりや優しさ』で動いているとしたら。
何度も回転している舞を、面白いからという理由で見物してたことが、急に申し訳なく感じた。
「なあ、そろそろお開きにしないか?」
「えい」
「に゛ゃああ!」
鮮やかな身のこなしの少女。いいように振り回されてる舞。二人とも聞いてくれなかった。
しゃあないから間に割って入るか、と決めた瞬間、現実は変化した。
抵抗したせいで変な方向によろめいた舞。その先には安全用の柵がなく、小さな段差になっており、下には川が流れていた。
(間に合えっ!)
駆け出す。全力で腕を伸ばして舞の手首を握り、強い力で引く。
狙い通り、舞と俺の立ち位置が逆転。舞は草むらの方に倒れ込み、俺は段差から川に向かって落ちた。
川は深かった。幸運にも体に痛みはない。
そして六月の川は、とんでもなく冷たい。川底を思い切り蹴って水面めがけて浮上した。
「うわああ! 冷たいの通り越して痛ええ!」
「孝哉ぁ! 大丈夫!?」
「そろそろやばい!」
水中から顔を出すと、二人は左方向から俺をのぞき込んでいた。舞を救えたようでひとまず安心した。
どうやら少し流されたらしい。そこまで流れは急じゃないけど、川のもくずにはなりたくない。
「いかん、冷たさが麻痺してきた」
「た、たた大変! いったん戦いは中止だねっ! 早く助けなきゃ」
「大丈夫。私飛べるから」
さすがに二人の喧嘩も止まったらしい。怪我の功名、だったかな。この状況にふさわしいことわざは。
なんて冷静に考えてる場合じゃない。寒すぎる。洒落にならん。
数十秒後、俺は釣り上げられたイワシみたいに、少女の手により救助された。