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8 いつか帰る所-3

 声も他の人には聞かれないらしいけど、西条さん宅の廊下で派手に雑談できる厚かましさはない。

 中庭と解放感のある玄関を無断で抜けたせいか、泥棒気分が拭えずにいることも、口数の減る要因となっていた。


 天井が高いからか声が響く。和風な照明が吊り下げられてる。各部屋に通じている扉がたくさん見える。

 無意味に豪華な調度品は一つもない、簡素で清潔感のある内装だった。


「誰もいないのか」

「さっきの女の人も見当たらんのう」


 二人できょろきょろしながら進行する。博物館見学の感覚である。

 もしかして二階かなと考え始めた矢先、ぴたりと足が止まった。

 廊下の突き当たりにある扉が開かれ、中から出てきたのは、白を基調とした洋服姿の女性だった。

 二十代後半くらいだろうか。細身の体型と綺麗な黒髪。物腰柔らかな歩き姿は、風にゆらめく百合の花を連想させた。


(綺麗な人だな。でも、なんだろう……)


 女性は、俺たちに気付かず隣を通り過ぎる。


(……悲しそうだ)


 すれ違う刹那に見た、女性の表情のかたすみには、かすかな哀愁が居座っていたように感じた。

 あの部屋。さっきまで女性が入っていた部屋に、きっと答えが。


「行こうぞ」

「ああ」


 当然ながら、凛と意志が合致する。

 扉の前に向かう最中、どこからか、ざわざわとした胸さわぎが去来した。

 俺の後ろにいたはずの凛が急に、俺を先導するように歩いている。

 なにが扉の先にあるのか。誰がいるのか。凛なりに確信したからこその行動なのだろうか。

 凛の背中を追いかけて、俺も扉を抜ける。


 和室は、たくさんの日だまりに満たされていた。


 懐かしさを覚える畳の香りと、草原を思わせる静かな雰囲気。緊張感に支配されていた心が、ふわりと軽くなる空間だった。

 そんな、おおらかな部屋の奥、中庭に通じる大きなガラス戸の側に、白い布団が敷いてあるのが確認できた。

 布団がふくらんでいる。誰かが眠っているのだろうか。自然に足が進む。

 月が旅から戻るまでは、まだまだ時間があるというのに。こんなに明るい部屋の中で。


(……眠れる、のか?)


 布団に包まれたまま目を閉じている少女に、心の中で問いかけずにはいられなかった。

 まだ中学生くらいの少女が、健やかな表情をたたえて眠りに落ちている。

 つい数分前に寝始めた。そう言われても違和感がなかった。呼びかければ簡単に起きてしまいそうだった。


「……なあ、この子ってさ、雨模様だよな」

「……魂を失いながらも、生きることをあきらめておらぬ。雨模様氏は、本当に強い子じゃ」


 凛は姿勢を低くすると、いつくしむように少女の頭をなでた。

 似ている。少女と雨模様は。凛が遠回しに肯定するよりも先に、俺は確信を持てていた。

 透明感のある肌と、きめ細かな黒髪。雨模様の生き写しと言えるほど、雰囲気が酷似している。


「……のう、孝哉氏」


 凛が不意に名を呼ぶ。


「どうした?」

「この子は雨模様氏じゃ。だけど、我はそれを喜んでよいのかのう……」


 考え込む凛。発言の意図が読めなかった。

 この子が本来の雨模様だとするならば、雨模様の魂は霧の体ではなく、この子の肉体に戻らなきゃならないんだろう、けど。


「まさか、雨模様の魂を、この子の体に戻すことが出来ないのか?」

「あ、いや、それは平気なんじゃけど、その……」

「大丈夫。現実なんて、どう変わるか分からないんだ。だから今は、良い結果になることを信じよう」

「……そうじゃね。ふふ、孝哉氏は、他者を励ますのが上手いのう」

「それほどでも」


 凛は褒めてくれたけど、この発言は雨模様からの受け売りだった。

 いろいろなことがあるから楽しく生きられる。俺に新しい価値観を教えてくれた言葉だ。

 いい方向か、悪い方向かは不明だけど、おそらく現実は進歩している。まずは喜んでおこう。


 がちゃり。急に後方の扉が開いた。反射的に振り返って確認する。

 そこには、廊下で見かけた女性の姿があった。

 女性は俺たちを認識しないまま、布団で眠る少女の隣まで来ると、そのまま静かに腰を下ろした。


未雨みう


 インターホン越しに聞いた優しい声が、誰かの名前をおだやかに紡ぐ。

 女性の視線は、少女に落とされていた。

 未雨。西条未雨。それが、依然としてまぶたを閉じている少女の名前なのだろうか。

 女性は、愛しむように少女の頭をなでた。優しい微笑みを浮かべながら。


 直感的に理解できた。

 この女性は未雨の、つまり雨模様の母親だ。

 何十億人が暮らす、広い世界の誰よりも、雨模様の心の奥深くまで、あたたかさを届けられる人なんだ。


「もう四ヶ月過ぎたかな。未雨が眠ってから」


 少女をなでる手を止めないまま、ぽつりぽつりと言葉がこぼれていく。

 四ヶ月前。雨模様が一人ぼっちのまま、通行人に話しかけ続けていた時期と重なる。


「未雨が生きててくれるだけでいい。初めの頃は、そう思ってたんだけど」


 室内を風が散歩する。六月特有の湿った空気は、白いカーテンを小さくはためかせていた。


「お母さんね、やっぱり、元気に動いてる未雨に会いたい」


 はかない笑顔は行くあてを探せぬまま、ふわりと風の中に溶けていく。

 真剣に現実と向き合っている。だからこそ、万が一の事態が頭をよぎる。


「いつもは大丈夫なんだけど、今日はちょっとだけ、さみしい気持ち」


 願いでは現実を変えられないのに、それでも願わずにはいられない。途切れぬ不安に押し潰されそうだとしても。

 母親だから。娘のことを愛しているから。誰よりも未雨が好きだから。

 なにかを守ろうとする人の、底知れぬ強さ。凄みすら感じさせる深い優しさの存在を、明確に実感した瞬間だった。


「少しだけ、許してね」


 小さなほころびは、唐突に訪れた。女性は少女の胸に顔をうずめる。

 静かな部屋の中、眠る少女だけに届けるくらいの声で――女性は静かに、涙を流していた。


(限界……なのかな)


 そう思いかけたが、すぐに別の考え方が浮かぶ。

 のんびりした歩調で進み続けたとしても、たまには休みたくなる。脇道の風景を眺めたくなる。

 つまりこれは、休憩だ。また元気に歩き始めるための、つかの間の休息。

 この女性は、つかんでいる可能性を手放すほど弱くないのだから。


 俺と凛は、どちらからともなく部屋を後にした。

 ガラス戸を抜けて中庭に出る。あれほど群れていた雲たちも、今は二、三名しか見えなかった。

 明日の空模様は、彼らにさえも分からない。

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