5 屋根の下から-3
「仲のいい女の子がいたんだ」
「いた?」
「ああ。もう会えなくなった。死んだんだ」
「……そっか」
あえて死という単語を使う。自分を甘やかさないために。
雨が降っていた。おだやかな音が流れている。無垢な頃に聞いた子守唄のようだった。
「俺が十二歳の時かな。その子は一つ下でさ。莉子って名前なんだ」
「いい名前だね」
「ああ。病院の庭にある木の下で、車椅子に座って休んでた莉子がいてさ。パジャマ姿だったし、側に看護婦もいたから、入院してる子なんだなってすぐ分かったんだ。俺は、突き指で診察した帰りだったんだけどさ」
話すにつれて、ありのままに昔の光景を思い出していく。
あたたかい春の日。病院の敷地内には緑が多かった。その中にある大きな木の、葉の隙間から差し込む木洩れ日を浴びながら、莉子は静かに景色を眺めていたんだ。
話しかけたのは、俺からだった。子供だから遠慮なんか知らなかった。
それに、うたかたのように儚い表情をたたえていた莉子の様子が、なんとなく気になったというのもあった。
「莉子は病気がちでさ。何年も入院してたんだ。友達もいなかった。俺が初めての友達だって、莉子は喜んでくれたんだ」
雨模様は黙って聞いてくれていた。俺の顔から視線を外さないまま。
どうやら俺は、莉子を忘れていなかったらしい。
莉子の表情、話す仕草、心地良い声。記憶のかけらが頭の中でつながっていく。鮮明な風景が再生される。
「すぐ仲良くなった。いろんなこと話した。莉子は病院から出れなかったから、どっか二人で遊びに行ったりとか、そういうのはなかったけどさ」
「莉子は一度も弱さを見せなかった。いつも俺の話で笑ってくれた。それが嬉しくて、ほとんど毎日ってくらいお見舞い……違うな、莉子に会いに行ってたんだ。誰にも内緒で」
「充実してた。心地よかった。友達と遊ぶより、美味いもの食べるより、ずっとずっと幸せだった」
「けどさ」
楽しい思い出話は、ここで終点を迎える。俺が最も隔絶したかった過去を語る時が来た。
覚悟は決めたはずなのに、怖かった。雨模様は耳を傾けてくれるだろうか。愛想を尽かされないだろうか。
底知れぬ不安の中で、恐る恐る言葉を続けた。
「出会ってから大体五ヶ月後。秋が始まった頃かな。初めて莉子は泣いたんだ」
「泣きながら、言ってたんだよ。私も普通に生きたかった、って」
「俺が外の世界の話をしたせいで、莉子を寂しがらせてしまったんじゃないか。そう考えた」
「その日が最後だった。莉子のところに行けなくなったんだ。理由は……よく分からなかった」
「莉子を苦しめたくないのと、莉子に嫌われたくないのと……時間が経てば許してくれる、みたいに考えてたと思う」
「それから二ヶ月。十二月二十一日。真冬の寒い日だった」
「いい加減に謝ろうと思ってさ、いつもみたいに受付で面会の申請したんだ」
「そしたらさ……亡くなったとか言うんだ。何日も前に。信じらんなくて、受付の人が嘘ついてるんじゃねーかって、莉子の病室まで行って」
「でもな、いなかったよ、莉子は。空き部屋になってた。名前の札も外されてた。あたたかさがなくなってたんだ」
「崩れ落ちたよ。意思とは関係なかった。……莉子の痕跡が消えた部屋は、すごく怖かった。こんな部屋で莉子は生きてたんだって考えたら、息ができなくなった」
「帰り道の記憶なんて覚えてない。真冬の風の冷たさすら感じなかった」
「その日は――莉子の十二回目の誕生日になるはずだったんだ」
今から三年と八ヶ月前、莉子と会わなくなった。
今から三年と六ヶ月前、莉子と会えなくなった。
人は、いつ死ぬか分からない。冷徹無比で、けれども当たり前の現実は、幼い俺にはどうしようもないほど残酷だった。
「それから今日まで、俺は莉子のことを誰にも話さなかった」
「莉子の側にいるって誓ったのに、肝心な時、俺は臆病だった。そのせいで、取り返しの付かない現実が通り過ぎてしまった」
「罪を抱え続けるのが罰だと考えてたんだ」
「だけど、俺は逃げてた。運が悪かった。仕方がなかった。そうやって、なにかのせいにしてた」
「けど、もうやめだ」
「莉子の側にいられなかった日々のことは、俺が選んだ現実だった」
「今すぐは難しいけどさ……少しずつ、受け入れていこうと思うんだ」
雨模様が聞いてくれたおかげで、散らかっていた心の整理ができた。
二度と莉子に会えない寂しさを紛らわすために、自分を責めた。
それに疲れると、今度は世の中を責めた。
そうしていくうち、いつの間にか、そのこと自体を忘れていった。
いや。忘れた気になっていただけだ。錯覚だった。本当は、なにもかも最初から分かっていた。
莉子はいない。その現実と向き合う時が来た。
もう昔に縛られたくないから。懐かしい思い出の中で、莉子を眠らせてあげたいから。
「……ありがとな、雨模様。最後まで聞いてくれて」
「ううん、私の方こそ。話してくれてありがとう」
「俺のこと嫌いになったなら、いつでも言ってくれて構わないから」
「なるわけない。孝哉の行動が間違ってたかは分からないけど、私にとって、孝哉は大切な人だよ」
「……雨模様は優しいな」
「おかげさまです」
優しい表情。あたたかい言葉。雨模様は俺よりも、ずっとずっと大人だ。
心の奥底にあった違和感や痛みは、いつの間にか、だいぶ和らいでいた。
たぶん俺は、この先も何十年と生き続ける。長いのか短いのか今は分からない。
終わりまで、考えていこう。また莉子に会った時、まっすぐな気持ちで莉子の瞳を見るために。
雨模様も支えてくれている。舞もいる。大丈夫。俺は一人じゃない。
莉子も、俺と一緒の間は、こんなふうに幸せを感じていたのかな。
逃げた俺に対して、どんな思いを抱えてたのか、いつか会えたら教えてくれないか? 莉子。
合図もなく降り始めていた雨は、上がっていた。
梅雨の季節には似合わないほど澄んだ青空が、東のかなたから顔をのぞかせていた。




