5 屋根の下から-2
「あの時、私を見てくれてありがとう」
「なんの話だ?」
「夜、初めて孝哉と会った時。私がキスした後の、孝哉の慌てた顔は……とても面白かった」
「お、面白いとか言うんじゃねーよ! そういうのよくないぞ!」
唐突に切り出された話題は、ようやく恥ずかしさを消化した出来事についてだった。もう勘弁してください。
かすかに微笑みをたたえている雨模様。以前より表情豊かになってる。こっちが本来の雨模様なのかもな。
「ふふ、ごめんね。でも、とても安心したよ」
「安心?」
「もう一人ぼっちじゃないんだって、思った。キスしたのは失敗だったかもしれないけど」
「それは撤回してくれないのか……」
俺をからかってるのは喋り方で分かるんだけど、割と地味に傷付く言葉だからねそれ。
遊ばれてばっかりで悔しい。でも、雨模様が孤独だった頃の、あの辛そうな姿を見なくて済むなら、別によかった。
「つまり孝哉は不思議。というよりも、変態」
「なんでだよ」
「知らない相手からキスされたり、悪口言われたら、普通は怒ったり、立ち去ったりするよ」
「自覚あったんかい」
てっきり天然の攻撃だと思ってた。じゃあせめて、失敗宣言だけでも取り消してくれないだろうか。
俺が立ち去らなかった訳か。深くは考えてなかったな。
「あの行動には、きっとなにか秘密があるはず」
「や、特に意味はないな。気が向いたから応対しただけで――」
気が向いたから?
本当にそうか?
いや、違う。俺は無意識の中で、雨模様にあいつの姿を重ね合わせて見ていたんだ。
本当は、忘れるなんて許されないのに。逃げることばかり考える自分の心に嫌気が差した。
「孝哉」
「……え?」
「大丈夫?」
そこにいたのは、心配そうな表情の雨模様。
優しく伸ばされた雨模様の右手が、俺のひたいに静かに触れた。
相変わらず、少しひんやりしている。おかげでいくらか冷静になれた。
「あのね、孝哉は気付いてないかもしれないけど」
同じ高さで目線が重なる。うつむく俺に、雨模様が合わせてくれたから。
「孝哉、ときどき、すごく悲しそうな顔してるよ」
「……」
「なにか……あったの?」
霧雨のように優しい言葉。だからこそ怖かった。誰かに助けを求めてはいけないのに。
あれは俺の責任なんだ。もうすぐ大人になるんだから、後始末は自分で付けられるようにならないと。
「……言えないような、こと?」
「……分からないんだ」
色々な人に支えられて、今の俺がいる。これぐらい克服できないと格好が付かない。かたくなに考えて日々を過ごしてきた。
でも、こうして一歩踏み込んだ言葉をかけてくれたのは、雨模様が初めてだった。
強い戸惑いを感じた。迷いに取り憑かれた。俺は人生経験が足りなさすぎた。
「私じゃ、だめ?」
「違う。そんなことない。俺は悪いことをしたんだ。自分だけで反省しなきゃならない。だから、話せないんだ。分かってくれるよな?」
なだめるように言い聞かせる。雨模様は素直だから、きっと納得してくれる。そう思っていた。
「わからない」
けれど、雨模様の口から紡がれたのは、明確な否定の意思表示。
俺のひたいから、雨模様の手が静かに離れた。
「……わからないよ」
再び、繰り返される。
水面に小さな雨粒が落ちた音のような、とても弱々しい声だった。
「力になりたい。……孝哉の支えになりたいよ」
「雨模様」
「私は明るいところにいて、孝哉だけが暗いところにいるなんて……やだよ」
「違うんだ。俺が、俺のせいだから――」
なぐさめるための言葉が、さえぎられる。
雨模様に抱きしめられたからとか、そんなささいな理由じゃなかった。
雨模様が、俺にキスをしていた。あの時みたいに頬じゃなく、きちんと口同士で。
完全な不意打ち。五感を働かせる余裕なんてなかった。なぜ雨模様がこんなことをしているのか、その理由を思い巡らすだけが精一杯で。
離れた雨模様の口から、かすかに息がこぼれた。
「ね、孝哉」
ありえないほど近い距離で、雨模様と見つめ合う。体に力が入らない。
「どうして私が、あの日キスしたのを失敗って言い続けてるか分かる?」
「……いや、ぜんぜん」
「えっと、答えはね」
ゆっくりと立ち上がる雨模様。
そのまま窓際まで歩き、ガラスの向こう側に広がる雲の景色を見上げた。
「孝哉の都合を、無視してたから。キスをすれば、孝哉は私を忘れないと思った。もう、一人になるのは怖かったから」
「そう……だったのか」
「でも、今は……孝哉が心配。こんな私で、力になれるかは分からないけど」
雨模様の表情は見えない。だけど、俺を思ってくれている感情は、痛いほど感じ取れた。
俺も立ち上がり、雨模様の隣に並んで街を眺めてみる。
立ち並ぶ家々。四方八方に引かれた電線。線路。空を飛ぶカラス。遠くまで見慣れた景色があった。
皆それぞれが、たくさんの思いを抱えながら生きている。定められた正解なんてない。
「遠慮しないで、私を頼って。力になるから」
「……俺だったな。その言葉を言ってたのは」
まさか、発言した張本人が実行出来てないとは思わなかった。
誰かに相談することも、大きな度胸がいるんだ。素直に助けてと言える覚悟が。
助けを求められなくて、いつまでも一人でもがいているのは、解決する気がないに等しい。
(そろそろ、変わらなきゃいけないな)
雨模様になら、打ち明けられる気がした。
もしかしたら、嫌われてしまうかもしれない。俺が逃げてしまったせいで、あいつとの約束を守れなかったんだから。
でも、もう逃げない。
結果は全て受け止める。忘れ続ける日々は、今日限りでおしまいだ。




