1 水無月の川-1
不思議な光景だった。
淡い月明かりに照らされた小川の浅瀬で、一人の少女が水遊びをしていたのだから。
水のゆらめきは、川面を照らす月の光を乱反射させている。
湿気を含んだ、六月特有の生ぬるい弱風は、辺りの草木をざわめかせながら去っていく。
単なる散歩で川辺に来たのだけど、まさか先客がいるとは思わなかった。
(冷たくないのか?)
川原の石階段に座り、少女の様子を観察する。
少女は俺の存在に気付いていなかった。音もなく流れている川の水を、やや不器用に蹴り上げて遊んでいる。
もし呼びかけるとしたら、それなりに声を張らないと届かないくらいの距離は開いていた。
(あれ……よく考えてみると、この時間に女の子が一人で川遊びっておかしい、ような)
時刻は深夜。日付は変わったかもしれない。
月は薄い雲に隠れている。明るさと距離の関係で、少女の服装や表情までは分からなかった。
眠気半分で深夜散歩に来たけど、冷静になって判断してみれば、普通の少女が、こんな時間こんな場所で水遊びをしているのは変だ。
(うーむ……帰るか)
急に、ちょっとだけ背筋が冷たくなった。
ホラー映画的な展開を経験する前に、とっととおいとまするに限る。
そう決めた矢先、状況は変わる。少女が水遊びを止め、俺の方に体の正面を向け、おまけに少しずつ近付いて来ていた。
(気付かれた!?)
まずい。逃げた方がいいんじゃないか。
考えを実行に移さなかったのは、怖いもの見たさのような気持ちがあるせいかもしれない。
本当の緊急時になったら走って逃げよう。そんな気楽さはあった。念のため靴を履き正す。
やがて少女は、川から上がる。
足音を立てながら川原の砂利道を歩き、俺との距離が二メートル程度の地点に来たところで、ぴたりと立ち止まった。
「見た?」
「な、なにがだ?」
「私が遊んでるところ」
落ち着いた話し方。まだ幼さの残る声だった。
見てはいけない現場だったのだろうか。
それならこんなに見晴らしのいい場所を選ぶなよ、と文句の一つもつけたくなったが、まだ責められているとは限らない。
「……見た。というか、意図せず見てしまった」
「そう」
少女の声調子から、感情はうかがい知れない。川の流れのようにおだやかな喋り方。
それきり会話は途切れてしまったので、拍子抜けした感覚が残った。
少女は、さらに俺との距離を縮めてくる。静かな歩調に合わせて、足元の砂利同士がこすれ合う。
薄雲に隠れていた月は、ようやく姿を現した。町の建物や草木、少女のかたちを明るく照らす。
月光のまばゆさに気を取られた、まさにその瞬間、
――ふと、柔らかい感触が、頬に伝わった。
「ありがとう」
少女から贈られたのは、感謝を意味する言葉。
気が付けば、少女が立っているのは、俺と腕一本分も離れていないほどの超至近距離だった。
そこでようやく、俺は少女に、不意打ちで何をされたのかを理解した。慌てて立ち上がらずにはいられなかった。
「あれっ? 間違えてたら悪いんだけどさ……今俺に、き、キスとかそういうの、しなかったか?」
「口同士の方がよかった?」
「いや、違う、そんな意味で言ったわけでは、え?」
むしろ今からでも口同士お願いします。って、そうじゃなくて。
あまりに迅速に終わったので、なにもかにもあったもんじゃない。
もっとゆっくりだったらなお良かったかも、じゃなくて。
「今夜、私にとって良いことがあった。幸せ気分が高まったせいで、あまり深く考えずに行動してしまった、ので」
「ので?」
「初めてがあなたというのは……正直、失敗したように思えてならない」
「勝手にしたくせに酷い言い草だなおい!」
こんなことをされた訳を聞けると思いきや、心を傷付けられた。
ほぼ無表情で物静かに告げられるのは、あからさまに嫌悪されるより、ある意味きつい。
「大体、こんな時間に川遊びっておかしくないか? 君まだ中学生くらいだろ?」
「そういうあなたは高校生? それなら明日も早いから、今日は解散ということでひとつ」
「うんそうだな……って違う! ふざけんなっ」
本当は帰宅したいところだけど、そんな雰囲気じゃない気がする。
月が地上を見下ろし続けているおかげで、少女を観察する機会が訪れた。
銀髪――いや、梅雨時の空模様に似た灰色の髪は、肩より長く伸ばされている。
少女は薄着だった。ひざ丈の灰色のワンピース。霧の風景の中にいたら紛れてしまいそうだ。
服の色と同じで、雰囲気もおとなしめという印象が強い。まあ内面はどうだか知らんけど。直球でけなされたわけだし。
「怒った?」
「そら怒るだろ。失敗したとか言われたら」
「ごめんなさい」
「あ、ああ。まあ許せないほどじゃないけどさ」
素直に頭を下げられると、急にもやもやが消えることは多々あると思う。
さっきからこの少女、表情から感情が読み取りにくい。無表情、とまではいかないけど、かすかな変化しか見えない。
「じゃあ、この件は水に流すということで。ちょうど川もありますし」
「……ああ。もうそれでいいや」
ゆえに、少女が反省しているのかは怪しいところだった。
自分より身長も年齢も下な少女に、うまい具合に乗せられているような気はしたけど、水に流すことに同意したから手遅れか。
なんにせよ、今限りの関係だ。早めに区切りを付けよう。
「そんじゃ帰るか。君も学校あるんだろ?」
「ある。と言いたいところだけど」
「ん?」
なぜか少女は、わずかに口をつぐんだ。
触れてはいけない質問だったのだろうか。
「学校には行ってない」
「まさか、不良か? 学校サボりまくってるとか」
「行けない、と表現すべきかもしれない。それからもうひとつ」
「もうひとつ?」
俺の背中方向に歩みを進めながら、少女は淡々と説明していく。
最初こそ疑っていたものの、語り口調だけで考えるなら、くだらない嘘は含まれていないと感じた。
俺の視界から完全に隠れた少女は、死角の中で続きを告げる。
「私は人間じゃないよ」
――ざあ。と、ひときわ強めの風が吹いた。
枝から離れたケヤキの葉が、大気の揺らぎに引かれて節操なく流されてゆく。
「その冗談は無理があるんじゃないか?」
言葉と共に振り返る。
少女の姿は消えていた。風が立ち去るよりも先に。
俺に許されたのは立ち尽くすことだけ。
素早く辺りを見回す。この短時間で隠れられる物陰は存在しなかった。
俺は、寝ぼけて幻覚を見ていたのだろうか? 疑惑は静寂の闇に溶けていった。
高い夜空の壮麗な月は、再び、薄雲の中に姿をくらませようとしていた。