逆行レジスタンス
「僕達は何処にもいかない」
ライラックが、隣りの庭から芳香を放ち。僕は、息を吐きだした。
「僕なんて、よしなさいよ。今時、男でも使わないわよ」
茶化したように、今井さんが言う。年上で、美人とは言い難い女で、父の愛人だ。
「この街で、静かに暮らすんだ」
「そう、相変わらず頑固なのね。あの女に似たのかしら」
今井さんが、あの女という時、それは決まって母の事だ。
「あんたに似なくて良かったよ」
目は見ない。目を見ると、僕はいつも動悸がして、息ができなくなる。
「可愛くない所が、あたしにそっくりよ。なんてね」
彼女は、立ち上がると何やら用事を思い出したらしく、母のいつも座っていた椅子に座ると、誰かに電話し始めた。
最近、猫のブラフが、彼女に慣れはじめたのを見ると、僕が学校に行っている間も、家に来ているのかもしれない。
僕には、ブラフしかいない。ブラフまで、あの女に取り上げられたら、僕は耐えられそうにない。
「新しい家、見に行かないの?」
眉をさっきより吊り上げて、後ろに立った彼女の声がした。
半分は本当に寝ていて、半分は寝たふりで、無視する。電話の相手は父だろう。
「見に行ったってどうせ……」
「あら、意外ね。あたしと三人で住みたいのかしら?」
「そんなんじゃない」
「勝手にすれば、なんならあたしのマンション貸したげようか?この家は、売るって決まってるの、残念」
確認した訳ではない。でも、父が僕と住みたいと思うはずがない。
「猫は飼えるんですか」
冗談のつもりだったらしく、彼女は黙る。
「たぶんね、確か飼えたはずよ」
憐れみの目で、僕を見る。
「そうですか」
彼女は、少し考えて言った。
「ねぇ、あたしと住むのがそんなに嫌なの?」
「嫌……です」
覗き込まれたせいで、上手く話せない。
「仕方ないわね。お父さんは、説得するって言ってたわよ」
「いいんです。僕なんか居ない方が本当はいいんです」
頑固なのは母譲り。確かにそうかもしれない。
「あたしは何も言わないから、言うなら自分で言いなさいよ」
「うん」
ライラックは、あと三日もしたら枯れてしまうかもしれない。この家も、すぐに売却が決まる。
ブラフが、僕の手を離れて庭に行こうと窓を掻く。
真っ直ぐに、僕の方を見ている彼女が窓に写っている。
僕は気付かないふりをして、窓を少し開けた。さっきよりも少しだけライラックの香りが濁ったような気がした。
結局は、同じ事だった。何処にも行けない。この街から逃げても、また他の何かから逃げるだけ。
でも、何から逃げてるんだろう。現実から?今井さんから?父から?
ブラフは、僕を見ることなく、ひょいっと塀に跳び乗って、視界から消えた。
それからすぐに、ブラフが車に弾かれて死んだ。賢い猫だった。老いていたためか、天気が悪かったためかは分からない。
その原因の一端が僕でないと、どうして言えるだろう。
僕の反抗心や惨めな自尊心がブラフを殺したのかもしれない。
それでも僕は止めない。何を?何でも。
思い通りにいかない世の中を、この思い通りにならない手と足と言葉を使って泳ぎ続けなければならない。
僕は、僕だけの為に泣いた。ブラフは僕を救ってはくれない。それが世の中の決まり事なんだ。
頭が理解する前に、僕は庭から飛び出した。
今井さんから鍵を貰おう。母の事やブラフの事なんか考えていられない。
考える事を止めないと僕は溺れてしまうから。
片付いた部屋に差した陽気が妙に懐かしいブラフの仕草のように柔らかい。
僕は、玄関を出ていく。二度と戻らないだろうと思ったが不思議と前を向いていた。
今井さんのマンションは小綺麗に掃除されていて、黒や灰色、それに観葉植物の緑。不自然なぐらいに生活の気配がない。
「これでも片付けたのよ」
そういった今井さんの家具の趣味は良く。母の奇妙な趣向よりは同意できた。
母はよくキルトや、花柄の小物を飾った。僕や父は口に出しては言わないが、嫌だった。
「ありがとうございます。家賃はいくら位なんですか?」
「学生が払える値段じゃないわ。あなたのお父さんが払ってくれるわよ」
「そうですか……やっぱり今井さんが住んでた時も?」
「ええ、愛人ですもの」
変な言い方だなと思ったが、目が合うと嫌なので、そのまま黙っていた。
「ペットは飼ってもいいってさ」
「……そうなんですか」
「あの猫、死んだって?」
こういう事を平気で言うのは今井さんらしい。変に気を遣われるよりもずっと良い。
「私にも結構なついてたんだけど、名前知らなかったんだよね。で、アンタも教えてくれないし、私はチロ助って呼んでた」
「……ブラフです」
「変な名前。やっぱりチロ助がお似合いよ」
そういってケタケタ笑うこの女の事が、僕には分からなかった。
なんで簡単に笑えるのかも分からない。なんで父が母を捨てたのか、なんで母は僕を捨てたか分からない。
このマンションには庭がない。ここから見える自然公園は、公園というよりは森のようだった。
「鍵は渡しとくからね。私物は明後日にでも取りに来るわ」
「はい、じゃあ父さんによろしく」
新しい僕の家。そこは愛人を囲う為に父が用意したマンションで、ライラックもブラフも居ないけれど、僕にはぴったりの家かもしれない。
「ねぇ、余計なお世話かもしれないけど、一緒に住みたかったら……いつでも言ってね。アンタが思ってるより、私達はアンタが嫌いじゃないのよ」
優しい言葉なんて欲しくない。憐れみなら、止めてくれ。
母が死んだ時も、みんな優しさを振り撒いた。
でも、僕は別に悲しくはなかった。それなのに、悲しいフリをしろと周りは無言で要求した。
悲しいフリをする度に嘘をついてるなと思った。そっちの方が悲しくなった。
ブラフの居ない朝。窓を開けると少し風が冷たくて、ぼんやりとしていた頭がスッキリした。
これからの事を考えると頭が痛いけど、あの家で欝屈した日々を送るよりマシだ。
マンションから見えた森は、鳥獣の保護区で、なかなか有名な公園らしい。
気持ちに余裕ができた今は、現実味を帯てくる明日からの生活の事でいっぱいだった。
学校のこと、家事のこと、父親のこと。何より僕はまず、猫を飼うことを考えてみた。
ブラフ以外の猫を想像するのは困難で、感触すら手が覚えている。
誰だって誰かの代わりになんてなれないのだ。例えば、父親は母親には、なれないし。愛人は母親にはなれない。
子供みたいに我儘な僕は、その現実すら受け入れ難く。ただ、時間に逆らう。あの日を取り戻そうと、ただ必死で時間に逆らっている。
強情なのは母に似ている。可愛くないのは市川さんに似ている。失ったものを取り戻そうとしている僕は父によく似ているのだろうか。 そして父が、四日ぶりに会いに来て。僕は、いいよと言っていた。
僕の抵抗はたぶん、ほんのちょっと、もう少しだけ続く。




