プロローグ
足が進まない。
いや、正確に言うと足は進んでいる。しかし、その一歩が普段の時と比べて小さく、またこの場に留まりたいというマイナスの欲求が俺を苛むためか、そう思ってしまうのだろう。冷たい風がそんな俺を馬鹿にするかのように逆向きに吹く。俺の周りにいる、おそらく俺と同じ目的の人も皆不安そうな顔つきをしており、同じように微々たる歩幅で前へと進む。三月の終盤、ここはとある国立大学である。
この大学に通う大学生は春休みのためか誰も見ない。いるのは俺と同じ身分の「受験生」だけだ。それもこの大学へ入学できるかどうかを決める最終通告を見にきた受験生だ。俺は試験の出来に自信はなくはない。長年の読書趣味のためか、文章を書くのは苦手ではなく、自分でもいい論文が書けたと思う。しかし、可能性は常に100%ではないし、自分の出来をよく見積もってしまうのが人というものである。例えば前期の出来も俺の中では悪くなかったのに、望ましい結果は得られなかった。そして、もうすぐ春になることを微塵も感じさせない風は俺の身体の奥にまで染み込んでしまったようだ。
微々たる進みではあったが掲示板にたどり着くには数分もかからなかった。俺の受験番号は「1049」である。初めて番号を見た時に49という数字が不吉だなと苦笑いしたことを思い出す。覚悟を決めて首を持ち上げ、1049という番号を探す。1000番代の数字を見つけ、その前の数字を追う、緊張の一瞬だ。1532…1346…1154…1084…1053……1042。
「ない」その言葉が瞬く間に俺を支配した。俺はよく意味を理解することをせず、もう一度掲示板を見る。1053…1042…1033。何度見なおしても「1049」という数字はあるべきところに見当たらない。ああ、落ちたのだと俺は思った。俺の頭と心はこの結果を拒否して認めようとしないが、目の前にある掲示板が落第という二文字を強引に俺の頭に叩きこんでくる。そう、俺は受験に失敗したのである。
何度も見なおしても、一番初めから最後まですべての数字を照らしあわしても「1049」という番号は登場しなかった。数回の確認作業を終えた俺は10分ほどその場に立ちつくしていたが、周りの人があげる黄色い声に耐え切れなくなり、その場を離れた。来た時と同じ道をとぼとぼとたどる途中で高校とは明らかに違う荘厳な雰囲気の校舎を見ると、もうこの大学に来ることは二度とないのかもしれないというしみじみとした思いが胸にこみ上げてきた。
…俺は最後のチャンスに失敗してしまったのだ。この一年間、俺はすべてを大学受験に捧げてきた。高校にいる間、家にいる間、勉強をしていない時はなかった。一年間勉強以外のすべてを犠牲にして、自分のわがままを押し込め、志を高くしてきたのだ。それなのに、現実は俺を突っぱねた。今までの人生で最も真剣に取り組んだきたことは、今までにない落胆と絶望を俺に与えた。なんて最悪な日だろうと思った。
駅へと向かうバスを待っていた時、電話がかかってきた。鞄から取り出して表示されている名前を確認すると、母からの電話であった。要件は合否のことだろうと簡単に分かったが、俺は通話ボタンを押すのをためらった。
なんて言っていいのかわからない、俺の心情を表すとまさにそうだった。俺が引きこもっていた時も見捨てず毎日温かい言葉をかけてくれた母、俺が高校に戻り医者を目指すと伝えた時、俺の必死の決意を本気で信じてくれた父、両親には感謝してもしきれない。もう二度と両親を悲しませないと誓った俺にとって、母にこの最悪の結果を伝えることはあまりにもつらい選択だった。そして、俺が電話にでることを躊躇っているうちに電話は切れてしまった。安堵か後悔かわからぬため息が口から出る。また逃げてしまったと俺は思った。
電話をかけ直すかどうかを悩みながらもバスに乗り、決断を終えることなくそのまま駅についた。俺が受験した大学は主な特産品が農産物くらいしかない田舎と言われるような県にある。しかし、立地は県の中心地にあるため、この駅の周りのみは都会の一風景としてもそれなりにやっていける場所だろう。そして、この県の少ない都会的地域の洗練された場所には、カップルや学生、サラリーマンがそれなりの数いる。
今日も駅の周辺は大量の人が生み出すエネルギーで煩雑としており、すでに心身ともに傷ついている俺にとってはここにいるだけでHPがマイナスへと振り切れそうだ。こんなに多くの人がいる街は今の俺にはとても居づらい。受験生から将来未定の高校三年生へと変身したばかりの俺はさっさと電車に乗って、家へとすごすごと引き返すのが得策だろう。
ところがである。券売機へと向かうために人の間を通りぬけた時だったろうか、どうも変な違和感を覚えた。まず、俺の目の見える範囲にいる人たちが皆動いていないように感じた。日々を忙殺されるサラリーマンも、似たファッションで固めたカップルもみんなその場に棒のように立ち止まっているのだ。次によく見ると、立ち止まっている人は皆携帯を一生懸命に操作しているようだ。ある人は電話をかけ続け、ある人は画面を穴が開くほど見つめている。いったいどういうことかと興味を持った俺は同じように携帯を取り出して、開いてみるが特に変わったことはない。
…いや、あった。電波状態が圏外になっている。これは確かにおかしい。いくらど田舎の県と言ってもさすがに県の中心地、電波が圏外になるなんて普通考えられない。先ほど母から電話がかかってきたように、つい数分前までは使えたはずなのに、いきなり圏外になるとは基地局でトラブルでもあったのだろうか?
回りにいる携帯電話を見つめている人たちも同じように電波が圏外になっているのだろう。ビジネスマンや学生にとって携帯は必需品、普段大丈夫だと思っている分、いざ使えなくなると不安にもなるだろう。まあしかし、俺にはさほど重要ではない。今はこれからどうするかを考えることでいっぱいだ。携帯の電波が良くなったって、受験に落ちた結果は変わらないのだ。俺は切符を買うために、駅へと向う。その時だった。
「マジかよ…」
男のつぶやきがすっと耳に入ってきた。声が聞こえた方を何気なく向くと、サラリーマン風の男が上を見上げていた。いや、見上げているのはその男だけではない。駅にいる、先ほどまで携帯を見つめていた人たちが皆同じように空を見上げていたのだ。
何事かと思い、俺も上を見る。そして、俺は先程の男が言った言葉の意味を理解した。空は青色の快晴だった。太陽とあるかわからないほどの薄い雲があった。そして、もう一つ、そこには…黒い月があった。
青い空にぽつんと浮かぶ黒い何か。その黒い月とでも言うものは、とてつもない存在感を持っていた。俺は周りの人達と同じく、ぽかんと口を開けてその黒い月を眺めていた。
「きゃああああ」
しばらく黒い月を眺めていると、今度は女性の高い声が耳に突き刺さった。上を見ていた皆が声のした方を向く。そこには一人の女性がおり、彼女は身体を震わせながらとてつもなく恐ろしいことを言った。
「…さっきより近づいてる」
俺は目を見開いた。再び空の黒い月を見る。先程より大きいだろうか? …いや微妙なところだ。しかし、女性の声に引きづられて、駅に集まった人が次々に悲鳴をあげる。
「ホントだ! さっきより近づいてきている! ニュースよればあれは隕石なんだろ!?」
「嘘だろ…。 もしかして…このままぶつかるのか!?」
「あんな大きな隕石がぶつかったら…! もう地球はお終いだ!」
悲鳴はついには阿鼻叫喚となり、駅前は絶望の波で溢れかえった。そう、しかし、彼らの気持ちはよく分かる。今俺も分かった。確かにこの黒い月は…地球へと近づいてきている!
「嘘だろ」
俺はつぶやいた。通常隕石というものは地球にぶつかる前に空気との摩擦で燃え尽きてしまうものだ。もし、地球まで届く隕石が合ったとしてもせいぜい数十センチ、それ以上大きなものはめったに落ちない。しかし、この黒い隕石は明らかにスケールが違う。先ほどまでは月と同じほどの大きさだったものは、今はすでに月より二回りほど大きくなっている。もし、これが本当に地球へと衝突したら、日本は…地球は…どうなるのだろうか?
俺は昔NHKで放映された恐竜の絶滅についての番組を思い出した。巨大な隕石が地球にぶつかり、衝撃でめくれた岩盤が津波のように襲ってくる。岩石は熱でマグマとなり、地球は衝撃で巻き起こった埃で覆われる。そして、太陽の光は遮られ、極寒の地へと変貌するだろう。考えるまでもない、人類は絶滅する。4000年以上も続いてきた人類の歴史が、今日終わるのだ。
考えている間に、当たりが真っ暗になった。真昼の烈々とした青空がいきなり夜のように光を失ってしまった。この恨めしい巨大な隕石が、太陽を覆い隠したのだ。いよいよ周りはパニックに陥った。
「うああああああ!!」
「嘘だ! 嘘だ! 嘘だあ!!」
「死にたくない! 逸れろ! 頼むから逸れてくれ!!」
俺もどうにか隕石が逸れることを願う彼らと同じ心境だった。しかし、心の片隅ではもうこの巨大な月は地球へと衝突してしまうのだろうと感じていた。轟々とした風の音が、ひやりとする空気が、地球の危機を俺の肌に直接伝えてくるのだ。
「ああ…これはもう駄目だ。今日は本当に厄日だな」
思い返せば、俺は今日人生最大の絶望を味わったばかりだ。一年間死ぬ気で頑張ってきたのに報われず、これからどうやっていくかもわからない。浪人してもう一年頑張るのか? そもそも両親が俺を許してくれるだろうか? こんな駄目な俺を見捨ててしまうかもしれない。
このことを考えれば考えるほど言葉で言い表せない気持ちが胸を渦巻く。それは、地球が滅びるかもしれないというこの瞬間でも、俺の心を占める最も大きなものであった。そして、俺は当然の帰結として気がついた。俺が受験に失敗したことを親へと伝える機会は永遠に無くなりそうだということにである。
ああ、と俺は強いショックを受けた。あの時母からの電話に出ておけばよかった。俺は伝える機会を失ってしまった。一年間頑張ってきたのは自分でも疑いない。俺は全力で頑張った。ならば、その結果をきちんと伝えたかった。怒られても、呆れられても、見捨てられてもいい。ちゃんと伝えておきたかった。俺の一生懸命に努力した結果を伝えておきたかった。
俺は涙が溢れるのを止められなかった。なんて失敗だ。なんてミスをしてしまったのだろうか。最後の最後にこんなに後悔するなんて。本当に今日は厄日だ。最悪の日だ。
そして、もう地球は終わりかけていた。静かにしかし確実に黒い月が近づいてくる。風はさらに轟々と吹き、大合唱だった悲鳴は完全にかき消された。今までに体験したことのない異様な雰囲気である。これが世紀末というものだろうか。
後数分でこの隕石は地球へと衝突する。そして、俺は大きな未練を残しながら死ぬのだろう。ああ、と俺はつぶやく。
「こんなの最悪だ」
そして、最後の最後の本当に後少しで隕石がぶつかるという瞬間、俺の耳は後ろから女性の声をひろった。
「…あなたは未来を失った」
俺は振り向き、すぐ後ろにいたその声の主を見て、姿を認識したかしないうちに意識は黒く塗りつぶされた。