嗚咽は荒野の空に響いて
「ティアーユに手伝わせるとは思っていなかったぞ貴様」
痛みの原因が無くなり、ある程度冷静さを取り戻したシメアゲカエンリュウを全力で宥めてから頭を地面に降ろさせた私が、鼻血が固まって鼻詰まりが起こらないよう、白いローブコートをティッシュ代わりに腕ごと鼻に突っ込んで、血を吸わせながら回復魔法で応急処置していると、近付いてきたユーステッド殿下にどこか恨めしそうな目で睨まれた。
「てっきりティアーユを安全圏に退避させているのかと思えば、まさかドラゴンの鎮静化に付き合わせていたとは……貴様という奴は本当に……」
「仕方ないじゃないですか。シグルドだけにやらせようと思ったら、指示をきちんと理解させるのにある程度時間も掛かりますし、あの状況じゃあティアーユ殿下に逐一指示を出してもらった方が早くて確実だったんですよ」
今回の一件は、如何にユーステッド殿下がやられる前に鎮静化できるかに掛かっていた。
鬼のような戦いぶりを見せたユーステッド殿下だったけど、それでもドラゴンとは地力に差があり過ぎる。あまり悠長にもしていられなかったのだ。
でも急いで解決することにした甲斐あって、皆無事だ。私は言わずもがな、ユーステッド殿下も軍服のあちこちが黒く焦げていてお互いにボロボロだけど、五体満足で命はあるし、ティアーユ殿下に至っては無傷である。
「まぁ結果オーライってことで良いじゃないですか。ドラゴンを相手にして生きてりゃ儲けものですよ」
「あのな……そういう問題では――――」
「あ、あのっ! どうかアメリア様を叱らないで上げてください、お兄様。全て私が自分で決めてしたことなのです」
軽く言い合っていると、シグルドに乗って近付いてきたティアーユ殿下が、私を庇いに割り込んでくる。
そんな妹にユーステッド殿下は毒気でも抜かれたかのように、深々と溜息を吐いた。
「……私とて、本気で怒っているわけではない。お前の協力があったからこそ、スムーズにドラゴンを鎮静化できたのは事実だ。だからあまり強く言わずにいる」
まぁ普段のユーステッド殿下なら、本気で怒る時は大声で怒鳴り散らすくらいの事はするしね。
すぐ傍にドラゴンが居るから強い怒気を発せないって言うのもあるんだろうけど、あのまま手をこまねいていたら、やられてたのは自分だっただろうから、ユーステッド殿下は今回ばかりは私の判断に強く言えないんだろう。
「余り無茶をしてくれるなと言いたいところではあるが……今回はよくやってくれた、ティアーユ。正直、助かった」
ユーステッド殿下はそう言って、労うようにティアーユ殿下の肩に手を置く。
それはきっと、この人にとっては慣れていない言葉なんだろう。嬉しいのか恥ずかしいのか、あるいはその両方なのか……ティアーユ殿下は、どんな感情を抱いているのか、イマイチ判然としない表情を浮かべた。
「うん、もうそろそろ落ち着いた? ……うん、血も止まったみたいだし、痛いのも無くなったみたいで良かったねー」
私は鼻血塗れになったローブコートを鼻から引き抜き、シメアゲカエンリュウの大きな頭を両腕全体を使って撫で回しながら、興奮状態が収まったのを改めて確認する。
瞳孔や呼吸にも異常はないし、身動ぎも少ない。刺さった物を抜いて助けようとした意思が通じたのか、ユーステッド殿下も囮になっている最中は直接攻撃をしなかったことも相まって、ドラゴンの中では気性の荒いシメアゲカエンリュウは大人しく私たち三人の人間を見つめている。
「さて、と……ほれ、あっち見てみ?」
私は思念波を送り、シメアゲカエンリュウの意識を誘導すると、全長十メートル近くはあろう火竜は、人間と比べてもかなり大きい頭部を少し持ち上げ、ティアーユ殿下を真っすぐに見つめ始めた。
「あそこにいる女の子がね、前に教えたご馳走を毎日あげるって言ってる人間。しかもね、鼻に刺さってた棒を引っこ抜いてくれたの」
「……え?」
概ね、ドラゴンに向けて送った思念波と同じ内容の言葉を口にすると、ティアーユ殿下は思わずと言った感じで、戸惑いの声を上げる。
「そ、それはお兄様とアメリア様、それにシグルドの力によるものでは……? 私自身はアメリア様に言われた通りしただけで、大それたことは何も……」
「いいや、そうでもない」
謙遜しようとしたティアーユ殿下の言葉を、ユーステッド殿下は真っ先に否定する。
「人生で初めての騎乗……それもドラゴンに乗っている最中であったにも拘らず、お前は冷静に状況を見極め、シグルドを適切に動かしていた。だからこそ、このドラゴンの鼻から迅速に異物を引き抜き、苦しみから解き放つことが出来たのだ」
「そういう事です」
長引けば長引くほど、私もユーステッド殿下も死ぬ可能性が高くなっていた状況だったのだ。暴れ回るドラゴンの傍に居座るというのはそれだけ危険な事なのである。
だというのに、ティアーユ殿下は逃げなかった。別に逃げたって誰も責めやしなかっただろうに、それでも立ち向かうことを選んだのだ。
「種の生態によってやり方は異なりますけど、動物の群れのリーダーは仲間に迫る危険を払いのける役割を持っている。そういう意味では、ティアーユ殿下も帝国という一つの群れを統率する皇族の一人として、ちゃんとやってのけたんでしょう。どこかの誰かさんの言葉を借りるなら……自分のやったことに胸を張れってところですかね?」
「……ふん」
どこか気恥ずかしそうにしながら、ユーステッド殿下は私から顔を背けると、シグルドの背中に乗ったままのティアーユ殿下に手を差し伸べる。
ティアーユ殿下はその手を借りながら鞍から降りると、恐る恐ると言った感じにシメアゲカエンリュウの前まで歩みを進めた。
「……上手くいくと思うか?」
「さて、どうですかね。私の方からやれるだけの交渉はしてみましたけど……」
こればっかりは他人が干渉できる話じゃない。あくまで目の前にいる両者のフィーリングの話だ。
駄目だったら駄目だったで、別の個体を探すしかないんだけど……チャンスと言うのはそう何度も転がっている物じゃない。
「何と言えばいいのか……今日貴方に会いに来ることになった日から、色々と考えたのです」
邪気も何もなく、どこまでも純粋な眼をしている野生動物と正面から向き合うティアーユ殿下を黙って見守っていると、殿下は緊張で震える口を懸命に動かしながら言葉を紡ぐ。
「貴方がどのような性格なのかとか、どのように接すればいいのかとか、私の個人的な事情に貴方を付き合わせてもいいのかとか、本当に色々なことを考えて……」
酷な事実を言うようだけど、ドラゴンに対して人間の言葉は無意味だ。日本人が勉強しないと英会話の内容を理解できないように、いくら知能が高くても人間の言葉の内容そのものを理解できないと、どんな言葉もドラゴンにとっては雑音にしかならない。
「本当は貴方を振り向かせるための提案を用意してきたんです。でもこうして実際に貴方を目の前にしたら、そういうのが全部頭から抜け落ちてしまって……だから、私が思っていることを全て、偽ることなく伝えたいと思います」
そのこと自体は、ティアーユ殿下も失念している訳じゃないんだと思う。その証拠に、言葉はあくまでもイメージを補強するのに使っているかのようにたどたどしく、眼差しは何かを訴えかけているように強かった。
「本当はずっと周りの人が羨ましかった……どうして私は皆とは違って走ることも、満足に部屋から出ることも出来ないんだろうって……街中を元気に走る平民の子供も、厳しい訓練に耐える兵士の方々も、大自然を思うままに駆け抜けるアメリア様も……そうした健康な人々は私にとって憧れであり、同時に妬ましいくらいに羨ましかった」
ドラゴンは人とはまるで違う理屈の中で生きている。ティアーユ殿下がこれまでの人生で感じた不平不満も、喜びも悲しみも、同族である人間と同じように共感することは出来ないのかもしれない。
……それでも。
「それでも、そんな私にアメリア様が未来を指し示してくれたのです……前例のない、ともすれば無謀とも思える方法だけれど、貴方の存在そのものが生きていく希望になってくれるのではないか……こんな私でも皆と同じように大空の下を駆け抜けられる未来そのものになるのではないかと、そう思わせてくれた」
それでもドラゴンは、人の心を読み取り、想いを伝え合うことが出来る生物だ。
本来ならば人間の都合など一切関係が無い野生動物でも、人間に助けられたことでその顔を覚え、自分の仲間と認識したかのような行動に移すという事例は、稀にだけど確かに存在する。
懸命な行動と真剣な思いと言うのは、時に種族の差を飛び越えて届くのだ。
「私もドラゴンの背中に乗って、どこまでも駆け抜けてみたい……貴方が駆け抜ける空に、私も連れて行ってほしい……その為なら、私の魔力で良ければ全て差し上げます」
究極的に言えば、別種族同士はその生態の違いから完全に相容れることはない。同種族同士でさえも、殺し合いをすることがあるんだから当然だろう。
それでもドラゴンなら……七年前、海の底に引きずり込まれそうになった私の『生きたい』という想いに応えた、強く賢い生命体ならば、人間と心を通わせるためのハードルは、他の動物と比べればずっと低いのではないかというのが、今の私が考える仮説だ。
「私の都合ばかりで、勝手な願いだと自分でも思うけれど……これが私の偽らざる…………」
「……ティアーユ殿下?」
突然、ティアーユ殿下の言葉が途切れる。
その事に『様子がおかしい』と感じた、その瞬間。ティアーユ殿下は胸を押さえながら両膝を地面に付き、顔を真っ赤にして呼吸を荒くし始めた。
「いかんっ! 発作が出たか!?」
魔蝕病の発作が、こんな重要なタイミングで出てきたのだ。
本当に、肝心なところで運の悪い……そう悪態をつきたくなるような気持ちになっていると、今にも倒れそうなティアーユ殿下の体を、シメアゲカエンリュウが大きな頭で支えるように擦り付け始めた。
「竜車には発作の症状を抑える薬が積まれている! 今からそれを――――」
「いや、待ってください殿下。これは……」
私が言葉を被せるようにしてユーステッド殿下を制止すると、ティアーユ殿下の顔色がゆっくりと戻り、呼吸も見る見る内に落ち着いていく。
魔力の流れを感知して見ると、周囲にまで溢れかえっていたティアーユ殿下の魔力が、接触面を通じてシメアゲカエンリュウに流れていっているのが分かった。
「ティアーユ殿下の魔力を、吸い上げているんだ」
シメアゲカエンリュウが名前の由来になった通り、獲物を締め上げなくても触れさえすれば魔力を吸い取れるというのは知っていた。だからこそ、ティアーユ殿下の生活を支えるパートナーにって思ったわけだし。
それでも、属性変換をしていない状態の魔力を、わざわざ吸い取ってくれるとは思わなかった。
(彼なりの恩返しなのか、それともただ目の前に大量の魔力を持った生物が居たからなのか……)
ハッキリとした理由は分からないけど、結果的に症状の原因が消えたことで、ティアーユ殿下の顔色が元に戻った。
それどころか、ティアーユ殿下自身も戸惑ったかの様子で数回深呼吸をし、これまで強い倦怠感に蝕まれていたであろう体を、スムーズに立ち上がらせたのだ。
「ティアーユ、そんな急に立ち上がって大丈夫なのか……? 立ち眩みなどは……」
「は、はい……それどころか、これは……何と言えばいいのか……何時もより沢山の息を吸えると言いますか……何時になく体が軽くなったような……」
処方されていた薬は治療薬ではなく、あくまでも症状をマシにさせる程度の対症療法的な代物。恐らく今ティアーユ殿下が感じている感覚は、生まれた時から魔蝕病に蝕まれてきたこの人にとっては、人生で初めてのものだろう。
その事にティアーユ殿下が戸惑いを隠せずにいると、シメアゲカエンリュウは殿下のすぐそばの地面に下顎を付け、身の高さを限界まで低くする。
「え、えっと……これは……?」
「蛇竜科のドラゴンなりの、乗れって言う合図です。自分の身体構造的に、この体勢が一番人間が乗りやすいって理解できてるんでしょうね」
そしてそれはつまり、このシメアゲカエンリュウがティアーユ殿下を認めたことを意味している。
「乗りたいんでしょ? じゃあ遠慮なく乗ればいい。貴女は病気の体を押して、この結果を勝ち取ったんですから」
私がそう言うと、溢れ出そうな感情を何とか堪えたかのような顔をしたティアーユ殿下が、ユーステッド殿下の手を借りてシメアゲカエンリュウの頭のすぐ後ろに乗ると、シメアゲカエンリュウの巨体が宙に浮かび上がった。
「わ、わわ……っ!?」
突然の浮遊感に驚いたのか、ティアーユ殿下はシメアゲカエンリュウの角を慌てて掴む。
けれど自分の体に乗っている人間の意思に応えているのか、シメアゲカエンリュウは地表から数メートルほど上空を、まるで遊覧船のようにゆっくりと揺蕩う。恐らく、私とユーステッド殿下に続いて人類史上三人目となるであろう、ドラゴンに乗っての空中飛行だ。
「わぁ……! ほ、本当に飛んでます……! それに呼吸も体調も凄く楽で……それに…………それ、から…………」
それを体験したティアーユ殿下は、今の自分の気持ちを上手く言語化できないながらも、最初は目を丸くして驚き、次に喜びに笑い……そして、最後には涙を零して思いっきり泣いた。
地表上空数メートル。気性の荒いドラゴンを無事に手懐けたのに、顔を両手で覆って声を押し殺すように泣くティアーユ殿下だったけど、その涙は前に見たような悲嘆に染まったものではなく、もっと純粋で清々しい涙だった。
「……良かったじゃないですか、ティアーユ殿下」
シメアゲカエンリュウの生態観察結果に、人間を相手にしたコミュニケーション能力。今回の件で貴重なデータが大量に得られて、私個人としてもウハウハ気分だったんだけど……正直、今はこの光景だけでも満足できそうな気分だ。
……まぁそれはそれとして。
「なんでユーステッド殿下が当の本人よりも号泣してるんですか」
「ぶ、無礼者……っ! 泣いてなど……泣いてなどおらんわっ! 皇族男子たるもの……ひ、人前で……涙など……涙、などぉぉ……っ! うぐっ……お、ぉぉぉぉぉぉ……!」
片手で顔を覆いながら溢れかえる涙と嗚咽を何とか堪えようとしているユーステッド殿下だけど、正直無理があり過ぎる。私のスルースキルにだって限度ってものがあるんだけど。
「い、いいか……勘違……グスッ……勘違い、してくれるなよ……!? こ、これは雨が降ってきただけであって……! 決して……決して私が泣いているからではないのだからな……!?」
「あー、はいはい。もう面倒臭いんで、そういうことにしておきますよ」
「そ、そういうことにしてもらう、必要などぉ……! グスッ……ティアーユ……本当に……本当に、良かっ……ぉぉぉぉぉ……!」
晴天の下、雄大に空を泳ぐドラゴンの上で泣く妹と、その妹よりも感極まった様子で号泣する兄、二人の兄妹の嗚咽が荒野に木霊する。
正直、兄貴の方はこんな時にまでツンデレ発言してて非常に面倒臭いことになってるけど、これ以上は何も言うまい。
こういう時は黙って泣き止むのを待ってやる……その程度の気遣いくらい、私にだってあるのだ。
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