『芍薬の歌』あらすじ 7(九十節~九十六節)
[夜鷹のお舟が飛び乗った吉兵衛の船はどうなったのか。そしてネコ万と群八にいたぶられた幾世のその後は……。この幕ではその間の顛末が一気に埋められる。幾世の危機を救ったのは、お舟と密会をしていた柳吉だった。しかし、夜鷹を買った画家と噂を立てられたことから、柳吉の転落生活がはじまる。]
深川高橋の鰌汁屋で、三浦柳吉と差し向かいで杯を傾けるのは大工の吉兵衛である。酔わないうちにお京か、幾世か観星堂かに返してくれと、柳吉が棟梁に玉を預けたのは、自分の居所を知られないためだった。
「まるで地獄なんだ、その状は」と柳吉が語るのは、幾世がネコ万と群八に材木小屋に連れ込まれた晩の情景だった。じつはあのとき、小屋の奥には、柳吉とお舟が潜んでいたのである。
ここで柳吉はあらためて、お舟とともに吉兵衛の船から降りてからのことを話しはじめた。柳吉が女を追いかけたのは、彼女の手に渡った翡翠の玉を取り戻そうとしたからで、小雨が降りしきることもあって、二人は一つの蛇の目傘に入って歩くことになった。お舟は、
「もう一度来て逢わないじゃ可厭だ」
と言って玉を返さない。いつでもいいから木場から恵比寿の宮に来て、材木を吊り上げる大きな鉄の起重機をカーンと叩けば私は現れる、と言うのだ。
四、五日経った夜に柳吉は、途中で買い求めた金槌を手に約束の場所を訪れると、金槌で重機を叩いた。何度目かを叩いた頃に、背後から肩を抱いたお舟が、
「待ってたわ」
と微笑む。やがて柳吉が連れ込まれたのが、あの材木小屋だった。
お舟は柳吉が、人形の胸から玉を捕りだしたいきさつを聞くと、
「じゃあ、こうかい」
と、帯に手を当てさせる。人形を寝かせて玉を取ったのだと言えば、俎の上に寝そべる。……
そのとき小屋にやって来たのが、幾世を急きたてたネコ万と群八で、柳吉とお舟は慌てて材木の陰に身を隠した。目の前で鬼のような二人が、幾世を材木に縛りつけて杖を振りかざしたのを見て、柳吉は思わず金槌を手に、彼らの前へ躍り出た。驚いたネコ万と群八は、小屋の外に逃げだしていった。
「しっかりしな、大丈夫だ。……新道の菊川鮨の姐さんだろう、私は心配なものじゃあない、知ってるか! 三浦だ」
「存じております、根岸の先生」
と、幾世は柳吉の胸に抱きついた。
一方のネコ万と群八は、悪事の最中に不意を突かれて飛び出したとはいえ、場数を踏んだ悪党なりにこっそりと引き返して、様子を窺っていたのかもしれない。柳吉と幾世がお互い逢えた嬉しさを語りあっているうちに、小屋の持ち主の家の者や若衆たちを引きつれて戻ってきた。
群八が柳吉をひっぱたいているうちに、ネコ万が素速く幾世を連れ去ってしまう。事情を呑み込めない若い衆立ちが突っ立っていると、お舟が芝居をはじめた。肩腰をすぼめて処女のようにしとやかな様子を見せると、
「急な腹痛で倒れて苦しんでおりましたのを、この旦那が見かねて親切に介抱して下さって、夜露は毒だと、中へ抱きこんで下すったんです」
それでごまかせたかに思えたが、若衆たちのなかに交じっていたのが、以前、お舟から脅された救世軍の若者だった。彼が社会道徳のためにと柳吉の姓名を問い質すと風向きが変わって、小屋を出てからもぞろぞろと後をつけてくる。お舟は身軽に身を隠し、柳吉は走って逃げだした。
この一件が新聞種になると、柳吉は材木小屋で実地に夜鷹を研究した絵描き呼ばわりされる。
「我が身で我が身を勘当して、さようなら、と家を出た」という次第だった。
鰌汁屋の戸外に激しい人声、足音が聞こえて、
「火事だ、近え」
と棟梁が息を詰める。
※附記
まったく唐突に発生したこの火事は、文字どおり火急の事態の火口になりそうな印象を与えるのだが、かなり後の百二節で「何、ほんの小火で、火事は直ぐに消えました」と一言で片づけられて、鰌汁屋で起こった別の騒ぎにドタバタした雰囲気を添えた程度の出来事であることがわかる。ストーリー的にはまったく余計な出来事でしかない。
しかしこれがただの書き損ないだと思えないのは、「鏡花小説・戯曲選」第六巻にあるこれも寺田透による『朱日記』の解説が「鏡花には火事と女の性的運命から成る複合躰が、どういうわけかその小説的構想力の底にあったのだと論ずるための根拠になるだろう」と指摘したように、この幕切れでもまた、幾世の貞操の危機と火事が重なっているからで、ちょうど『桜心中』で「一枝を盗むものは一指を切り落とす」というルールがストーリーにも自動適用されるような必然が感じられる。
こういう強迫観念めいた、無意識的なイメージの連鎖が全作品に通底しているところも、鏡花の小説に夢のなかの出来事のような印象を与える要素の一つだろうと思う。




