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『芍薬の歌』あらすじ 8(九十七節~百十四節)

[峰の職場に、観星堂如海と幾世が訪ねてくる。親娘の縁を切ることは道に外れないのだろうかという難問を、峰に判断してほしいのだという。幾世の崇高な心根が感じられる問答の末、彼女は群八との縁を切ることを決意する。]


 丸の内にある大理石の建物の一室で勤務中の峰桐太郎に、面会客が告げられた。訪ねてきたのはオフィス・ビルにはとうてい似つかわしくない僧形の老人。峰とは初対面の観星堂如海である。

 鮨屋菊川の件でちょっとした頼みがありますと、慇懃に申し出た如海は、表に幾世を待たせているのだという。峰は退社後に場所を変えてゆっくり話を伺いましょうと提案し、日本橋檜物町(ひものちょう)にある待合茶屋、荻の家を教えた。

 先に着いた二人の前に現れた峰は、

「幾世さん、()(もの)を上げましょう」

 と包みを差し出す。中には峰が菊川を再訪した夜に、幾世が失くしたのと同じ(くし)が入っていた。ただしこちらは新品である。

 自分の頼みのせいで幾世が櫛を失くしたからと、同じ品を買い求め、柳吉に同じ絵を描いてもらったものだった。その柳吉は家出をした先から、乱暴に包んだ竹の皮の小包で送り返してきたのだが、差出元はわからないのだという。峰が最後に会ったのは、夜鷹の絵が完成した先月末で、柳吉は弟子たちを集めて牛飲馬食の最中だった。峰はその絵を立派だと思ったが、かつて柳吉の恋敵でもあった大間男爵が審査員だと、奇抜な題材では落選するだろうと危ぶんだ。峰はお舟による恐喝の一件を知っていて、どうやら男爵への当てつけに、わざとその画題を選んだらしい。

 その話を聞いた如海からは、大工の吉兵衛から聞いた峰の消息が伝えられた。

 高橋の鰌汁(どじょうじる)屋で棟梁は柳吉と飲んでいたのだが、ちょうど近所に小火(ぼや)があったあとで勘定をする段になると、財布の中身が足りない。店からご住所をと訊ねられても、地獄だと答えるばかり。たまたま店内にいた弟子が話をつけて柳吉を連れ出したり、旦那に恥をかかせたと吉兵衛が暴れだしたりと、一騒動になったという。

 あいかわらず柳吉の住所はわからないばかりか、その落魄ぶりが思いやられる話だった。

 一方の峰は、小包を受け取って、幾世に櫛を渡そうと菊川を訪ねたのだが不在だった。そこでなんとなく柳吉がいそうな木場から寺の裏道を歩いていると、幾世に似た人を見かけたので「幾世さん」と声をかけたのだという。

「若旦那、あの、その方がお京さんでございます」

 と、幾世が声を曇らせる。

「お京さん?……」

(まこと)に、御存じではございますまい」

 と如海が口を添えた。峰、幾世、お京が偶然にも間近に居あわせたのがあのときだったが、さらにその傍らの堂内には、夜鷹のお舟とともに、地獄に堕ちた柳吉がいたのだとは、誰も知らなかった。

「まったく……その日でございます。幾世さんがその墓所で死のうとしたのでございまして」

 如海の一言を遮った峰は、その場にいる芸妓(げいしゃ)二人と女中のことを気にかけたようだ。気を利かせて座を外す彼女らに、彼は気前よく別室での食事をおごった。

 幾世の身に起こった事の次第を如海から聞いた峰は、

「余りのことに、何とも言いようがありません、が、幾世さんの身体は、唯今はどこにどうしてあるのですか」

 如海が言うには、ひとまず浄玄寺の学寮で預かったが、お京さんは自分の部屋に引き取ろうと言う。しかしそれでは大家の嫁入り前の秘蔵娘に、群八やネコ万がからむきっかけを与えるのと同じだと、家の者たちが反対する。また鶴兼の老主婦(おばあさん)に話を持ちかけたところ、菊川(おいらん)の娘だと思えば養女にして店を継がせたいところだが、群八と親娘の縁を切ってネコ万から身を引かせる金子(かね)を積まなければどうにもならないと涙を流す。そのことならばお京というあてがあるので、とりあえず幾世は鶴兼に身を寄せているのだという。

「その金子は私に出させて下さるんでしょうね」

 事情を聞いた峰のことばに、如海と幾世は驚いた。

「迷惑ではないのです。較べて見れば、私が以前、翡翠を幾世さんに預けた方が、どんなにお前さんに迷惑だったか知れやしない」

 群八は三千五百円(物価指数換算で今の186万円、公務員初任給比較換算で今の961万円で月給4年2ヶ月分)を要求している。近頃、一人の美婦を発見したから、これを女優に仕立てて、芝居の興業で一発当てるのだと資金にするつもりらしい。それならすぐに用意できるから、帰りに銀行に寄ろうと峰が言う。お京が払うと言っていた件は、「女はそんなことで顔を立てないでも構いません」と退けた。


「幾世に代って、有難くお受けをいたす」

 と如海は手をついたが、訪問した理由はそれではないのだという。なんと、救われるべき幾世当人が、義理にも親とあるものを、子がその縁を切っては道が立たないのではないかと迷っている。ただし、尊敬する峰の判断であれば、人の道に外れたとしても順えると言うのである。

「意外な難題です」

 と、峰は声を沈ませる。しばし熟考ののち、

「天地神明国家に対して、いささかも(やま)しい処なくこの是非を決断するのは、私は百年の難題であろうと思う。……お返事は出来かねます」

 と激して答えた。

 うろたえた如海は、もし貴方が幾世の立場ならどうします、と問う。

 峰は即座に縁を切ると答え、それでも相手が追うようなら、そんな世の中に必要のない相手なら殺してしまうと言った。しかしそれでも、道に外れることを他人には教えられないと、筋を曲げない。

 持て余した如海は、これ以上は幾世自身が峰と対話すべきだと考え、「ちょっと御免を」と席を立ったまま、戻ってこない。女中に聞けば、そのまま帰ってしまったらしい。

 じつはこの観星堂如海には、愛する一人娘が嫁いだ男の不倫に憤って殺してしまった罪で入獄し、発狂を装って牢を出たという過去がある。浄玄寺に隠遁する易者に身をやつしてはいるが、元は倫理学博士、大沢晴観なのだった。


 残された峰と幾世は、対話を続ける。

「貴方のお口から、子が親の縁を切っても構わない、とおっしゃって下さいませんければ、やっぱり、あの、それは道なりません事だと存じますから、義理の父とは(もと)通り親娘でいよううと、(わたくし)は覚悟をいたしました」

 と言う幾世は、殺されてもいい覚悟だと言う。

「道ならぬことをいたしては、神様、仏様、目に見えません尊い方たちの御罰が可恐(おそろ)しゅうございますもの。生命の苦艱(くげん)は同じでも、未来は助かりとう存じますわ」

 それでも峰は、縁を切れとは口にできない。

可厭(いや)だな、世間(よのなか)は、面倒だ」

 その様子を見た幾世は、

「貴方の目を、よくお見せなすって下さいまし」

 と、口でおっしゃって下されないなら、目を見て決めたいと言うのだ。

「それが、目を見れば分かるのかい」

 ええ、と返事をした幾世は、以前、水兵のお(とぎ)をしろと言われたとき、貴方は泣いた自分の目を見て、疑いを晴らして下さったのだと言った。

 幾世が峰の瞳から引き出した答は、群八との親娘の縁を切る、だった。

「そんなに私を信じると、もしか口説いたらどうするんだ」

 からりと気を変えて峰が言う。

「私は死んでしまいます」

「死ぬ。……そんなに私が可厭(いや)かい」

 驚いた峰に幾世は、母が最期まで柳吉を慕っていた思いを引き継ぎたいこと、そして遺言で、もし男の御方がお二方ある時は、落魄(おちぶ)れた人の方へその身を差し上げるのだよ、と言っていたと語るのだった。


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