『芍薬の歌』のこと
鏡花小説の長編を、岩波全集(1986三刷)での、扉と目次を除いた本文のみのページ数が多い順に並べてみた。
風流線・続風流線(明36・37) 327+295=622p
由縁の女(大8) 552p
芍薬の歌(大7) 461p
婦系図 前・後篇(明40) 218+195=413p
山海評判記(昭4) 381p
竜胆と撫子(未完)(大11) 372p
三枚続(明33)、式部小路(明39) 140+175=315p
日本橋(大3) 220p
鴛鴦帳(大7) 208p
白鷺(明42) 204p
三百頁以下のものは中編とみなす場合もあり、また『竜胆と撫子』は(もとになった『黒髪』や、続篇として書かれた部分を単純に加算すれば最大長編ということにもなりかねないのだが)未完という理由で、『三枚続』と『式部小路』はあくまでも連作という理由で保留すれば、本格的な長編小説といえるのは『風流線・続風流線』『婦系図』『芍薬の歌』『由縁の女』『山海評判記』(執筆年代順)の五作品ということになる(あるいは前四者で「鏡花四大長編」と呼ばれることもある)。『由縁の女』以外は新聞連載ということもあって、比較的読みやすいものが多い。最長の『風流線』は波瀾万丈の伝奇ロマン、『由縁の女』は集大成的な感慨をもちながら楽しめる、『婦系図』は通俗味たっぷりのピカレスク、『山海評判記』はシュールな奇想に満ちていて、それぞれが飽きさせない。しかし『芍薬の歌』だけは……。
ネットを検索しても、読んだという記事や関係論文がきわめて少ない。読後の足がかりになりそうなのは「鏡花小説・戯曲選」第三巻の寺田透と、ちくま文庫「泉鏡花集成」第14巻の種村季弘の解説、吉田昌志の論文「『芍薬の歌』ノート」と同氏のNHKセミナーのテキストが自分の目に付くところにあるくらい。
上記の関連書籍のなかでは「鏡花小説・戯曲選」第三巻の寺田透の解説が、それ自体名作といっていいほど必読の鏡花論になっていて、極端な話、これを理解するために本文にあたることが『芍薬の歌』に触れる動機になってもいいくらいだ。岩波の「鏡花小説・戯曲選」は、全集を版下にして写真製版しただけの本なので価値は低いが、それだけに古書価格がとても安いので(知り合いの古書店では端本を百円均一のワゴンに出していた)、とりあえずいま『芍薬の歌』を読もうとするなら「鏡花小説・戯曲選」第三巻を入手するのもいいかもしれない。また、解説だけを求めるのであれば、寺田透著『泉鏡花』(筑摩書房)に、少し加筆されたものが再録されている。
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とにかく登場人物が多くて、しかもそれぞれがどう絡むのかつかめないまま謎めいた男女ばかりが増えていく前半がしんどい。生島遼一ですら、苦手だったが筋書きを頼りに再読して筋を把握できたと書いているほどで、メモしながらでもないと、すぐに混乱してしまう。
綿密かつ完璧に近く組み立てられた作品とはいえ、わずかながらの混乱は作者にも及んでいるようだ。
寺田透が「黄泉帰りの手法」と名づけた、「現在を過去に引き戻し、過去に説明させながら、すでに過去となってしまった未来を現在に引き出す」鏡花得意の、時間軸を解体したような叙述法は本作でも効果的に多用されるのだが、終幕近くの百四十四、百四十五節で「ネコ万が襖を開けてお京の声に驚く」「ネコ万が階段から転げ落ちる」「ネコ万が拳銃を撃とうとする」「峰が拳銃を奪って弾丸を抜く」というバラバラに記述されるアクションの流れは、(峰にたじろいだネコ万が階段から落ちたと書かれていない以上)どう考えても出来事の発生順に整列しない。
また、観星堂如海は中盤で何度か前原と呼ばれるのだが、偽名を使ったのか、ただの間違いなのかが判然としない。峰桐太郎と大間男爵の妹の名が両名とも「絹子」なのは、峰の妹の絹子の名が菊川の本名「衣」と同じだと柳吉が感じ入る(百十九節末尾)ことからして、同じであっていいはずがない。こちらは単純な間違いなのだろう。もっとも、端役の名前の書き誤りを放置するのは、多筆な鏡花の場合、短編においてすらよくあることだ。
と、細かいことはともかく、きわめて大づかみにいえば、幾世、お京、お舟、峰桐太郎、三浦柳吉という男女五名のそれぞれの運命が、人形に隠された翡翠の玉の縁によって近づいたり離れたりしながら、最後には結びつくという物語である。
彼らのキャラクターを列挙してみると、
・幾世………社会的な弱者でありながらも崇高な心を持つ薄幸のヒロイン
・お京………気高く諸芸万端、しかしでしゃばらず、心優しい富豪のお嬢様
・お舟………世間のモラルに反逆するかのように、刹那的に生きる妖婦
・峰桐太郎…知力、武術、財力に優れ、常に冷静沈着な実業家
・三浦柳吉…腕のいい絵師ながら、頽廃の気質に呑まれていく破滅型の男
ということになって、あまりにも通俗的、類型的、歌舞伎の役柄であるかのように思えるそれがまさにその通りでしかないことにあらためて驚いてしまうのだけれど、寺田透はこの五人のうち、三浦柳吉と幾世という、それぞれの事情で人生の危機にある二人を、救い出し、医すための「甦りを願う歌」が本作の主題であると述べている。
納得のいく解釈ではあるが、研究者、解説者ならぬ一読者にとっては、それすらもこの複雑な群像劇を形づくる一要素にすぎず、その解釈に従うことが読了の充実感の過半を占めるとは思えないから、主題などどうでもいいというのが本音なのだけれど、そこから、
▶そういう [甦りを願う] 祈りへの志向をすら、表立たせず、陰にこもったままにしておかずにはすまされぬ、――およそ露骨なイデオロジーや教義を作品によって語るを好まない、――それがまた覚悟や思想であるより生の形だった作者のありようのせい、宿命といってもいいもののせいではなかったか◀
と、鏡花文学そのものの特質へとつなげる論の運びには、やられた、まさにそれを言ってほしかったと思わざるを得ない。
さらに寺田透のことばをつなぎ合わせて抜き書きすると、
「この選集 [「鏡花小説・戯曲選」] で筆者が解説を担当した二十七篇の作品のうち、完成度がもっとも高いものはこれではなかろうか」。
「筆者にはこの作品は隅々まで頽廃を宿しているように感じられる」。「筋の発展より、相互に牽制しあうために取りそろえた人物」たちによる「状況の収束」「があらかじめ決定されているようなところが、余計この小説を頽廃的と思わせる」。けれどもそのおかげで「主要登場者全部の肌合いが一つに融合したようなきめのこまかい、沈んだ光沢を持つに至った」。
また、この小説では、小説としては不可欠だと思われる人々の住まいの描写が、「飛び飛びに必要な雑作をしるすだけ」にとどまっている。「こういうことは未熟な才能」の作家にありがちなことだが、それを「この小説におけるように密度高く織り上げることはだれにでも出来る事ではなく、それが出来たのには、やはりいつでもどこででも夢を紡げ、外界をたちまち内界にしてしまう鏡花の異才を必要とすることだったろうと思う。
しかしそれが、この小説のなんとなく抽象的と言いたい性格を生み、その印象によって独特の作品として記憶されるということは、やはり言っておかねばなるまい。」
――と、『芍薬の歌』という小説の魅力を鋭く指摘するのみならず、小説家としての鏡花の特異な一面を言い尽くした解説になっている。
たしかに、その場で感覚されるものにはありとあらゆることばを尽くすにもかかわらず、肝心な骨組みとその結合部を曖昧模糊とさせたままの、小説としては不自由でしかない文体を逆に強みにして、精巧な大建築ともいえる奇観を築き上げた長編は、世界文学でも稀な存在だろう。
そしてとりわけ、未熟な才能の作家にありがちだと寺田透が述べたくだりに書かれたように、その文体が不自由である点からは、「私」には「じっくりと見つめたり注意ぶかく耳を傾けたりする能力」が欠如しているから小説らしい小説が書けないと、『見出された時 I』で主人公の内的独白を借りて嘆いてみせたプルーストが、「わたしがいくらよその晩餐会に出席しても会食者たちをよく見ていなかったのは、会食者たちを見つめているつもりで、じつは会食者たちにレントゲンを照射していたからである」と、まさに鏡花と相似形をなすように、外界をたちまち内界にしてしまう異才によって、密度高く小説を織り上げ、抽象的と言いたい性格を生み、その印象によって『失われた時を求めて』を独特の作品として記憶せしめていることを思い出さずにはいられない。
それを隠すのが鏡花であり、自分で言ってしまうのがプルーストであるという違いはあるのだけれど。
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そもそも主人公たち五人の運命をつなぎ合わせる翡翠の玉は、誰もが欲しがる宝物というわけでもなく、ヒロインの一人であるお京が成り行き任せで世に放った二つの数珠玉にすぎない。『八犬伝』の玉のような呪力を持たないことはもちろん、芝居における伝家の宝刀のような、いわゆるマクガフィンとするにもいささか頼りない。案の定、物語は、主題をも隠匿し、必要なことをも省く作者のありように従って、不思議な力をもつ宝玉が転々と人手に渡るといった、単純な「モノをめぐる奇譚」的な表立った印象を回避する。実際には翡翠の玉は、作中で呪物相応の役割を果たしているのだけれど、読書中の心理としては、さほどの威力を発しているようには思えない。
戯作じみた趣向を取り入れるのも好きだが、底が割れそうになる前にひねって、はぐらかしてしまう匙加減が鏡花の巧みな技であって、ふつうならば設定を活用し切れていない瑕瑾となりかねないところを、し尽くさないゆえの奥深さによって、戯作めいた趣向を通俗だとは感じさせないのである。
解釈にも苦労する前半をなんとか通り抜けると、後半には活劇的な展開も待っている。筋書きだけを思い返せば、実際のところ『婦系図』を越えるほどに通俗味満載の、波瀾万丈の物語なのである。
とはいえ劇的な出来事も滑稽な場面も、どことなく抑制された修辞に塗り固められて、スタティックな印象を与える。他の四長編に共通する派手などんでん返しもない。さしたる大風呂敷でもない風呂敷がきちんと広げられると、きれいに畳まれて終わってしまう。舞台も男爵邸がある麻布、峰の邸がある高輪(山の手の世界)が点として示される以外は、江東、中央区の隅田川沿い(深川の世界)に限られているのだし、そもそも、鏡花の長編にありがちな、意表をつく材料の投入や、過去作品のモティーフの流用が、意図的に抑制されているように思える。
まるで直後に書かれる『由縁の女』という、生涯のメイン・モティーフの集大成を前にして、そこで掘りさげられるであろう領域を周到に避けているかのようだ。故郷や血縁への思いにつながる、いつもの鏡花の場所からは隔離された(すなわち隠世の)領域で紡がれた物語なのである。
峰とお舟のどことなくハードボイルドな言動や、幾世とその亡母にまつわる酸鼻な描写、荒れた墓地の風景、仏教的なモティーフ、そして何より、死の祝祭劇ともいえるような結末に至るストーリー作りは、これも鏡花のメイン・モティーフからやや孤立した『髯題目』(明30)のような作品を連想させる。
つまるところ、作家生活の中途から流入して混ざりこんだ「花柳もの」「深川もの」の流れがここでふたたび分離されて、そこから汲みあげられた想像力のみで集大成を築いたものが、『芍薬の歌』という長編なのかもしれない。
そして「花柳もの」「深川もの」という、鏡花にとっては原初的なテーマではない、職業作家として意識的に習得した知識と技術のみによって組み立てられたこともまた、この作品のとっつきにくさ、よそよそしさの正体なのではないかと感じている。
けれども、その、とっつきにくい、よそよそしいといった印象も、いったん読み終えてみると、ひんやりとした距離感が悪く思えない。それどころか、純度の高い鏡花を味わったという充実感に満たされている。きちんと畳まれた風呂敷には、冷たい宝玉が隠されていそうでもある。読んでいるときよりもむしろ、思い返したときの酩酊感が心地よい。
何が面白いのかというと、『由縁の女』とはまったく別の意味で、これもまた、きわめて鏡花的であるから面白いというしかない。読後しばらくすれば、物語はおぼろになるだろうけれど、さらなる玩味にふさわしいのは案外そんなときでないかと、読者の再訪を静かに待っているような作品である。次に読むときには、鏡花の長編のなかでもとりわけ工芸品的な美を感じさせる隠世の異空間は、また違った貌を見せるのかもしれない。
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次頁以降、『芍薬の花』の登場人物とあらすじをまとめてみた。ところどころでは枝葉をカットして単純化したが、おおむね本文を読み進める順に筋を追っている。
上に、「その場で感覚されるものにはありとあらゆることばを尽くすにもかかわらず、肝心な骨組みとその結合部を曖昧模糊とさせたまま」だと書いた、ことばを尽くした部分をカットして、物語の骨組みとその結合部を強調したあらすじだから、もはや鏡花小説の残骸と言っていい、無残なものになっている。鏡花の愛読者からは、無駄なことをと馬鹿にされて、鏡花を読み慣れていない読者からは、あらすじというのならもっと読みやすく書けと非難されるだろう。また、もしあらすじだけを読んでくださる方がいたとしたら、ちょっと高尚化された戯作風物語、あるいは鶴屋南北の通し狂言の真似事といった程度のものかなという、軽々しい印象を与えてしまいかねない。
要するにほとんど自分のために書いた、独りよがりの代物なのだが、それだけに自分にとっては至極有用で、物語の骨格をなす一つ一つの骨片に目印をつけたようなものなのだけれど、そういう気であらすじを書いていくと、物語が終盤に近づくにつれて目印だらけになって、ほとんど省略ができなくなる。冒頭はあらすじなのに、だんだんと現代語訳じみたものに変化していく、不均質なものになってしまったのだが、それはつまり結末への収斂の力強さを示すことでもあって、物語作家としての鏡花の、構成力のみごとさを思い知らされもする。
凄惨な悲劇のたたみかけに隠れがちではあるが、最終的には理想のパートナーを得た柳吉、幾世の夫婦善哉っぷりや、意外と恋愛遊戯を楽しんでいるのではないかと思われる、峰、お京カップルのほほえましさも感じられたことも収穫だった。
峰がお京のことを「ちょッ、可厭な奴だ、お侠め」(百四十五節)と詰る部分を寺田透はシリアスな心情だととらえているのだが、あれはお京のことを社交の好敵手として認めた峰のダンディな洒落っ気、鏡花ふうに言えば「異に搦んで」みせたのではないでしょうか、と恐れながら申し立てたくもなってしまう。なにしろお舟と観星堂の血まみれの自殺死体を前に「皆、好な、思うままな事をして嬉しそうです」などと、皮肉をこじらせすぎたことばを漏らしてしまう男なのだ。終始真摯なキャラクターとして描かれながらも、その言動にはどこか多羅尾伴内的なコミカルなダンディズムを感じさせもするのである。
――ともあれ、独りよがりなものだと言ったあらすじではあるが、全体像をつかむのが容易ではない小説ではあるし、筋書きと解説が掲載されているという「新小説」 第三十巻第五号 臨時増刊「天才泉鏡花」(大14)は高価で紙質も悪そうなので手が出しにくいだろうから、自分自身はもちろん、いつか誰かにとって、その代用としての読書の補助にでもなれば、とも思う。
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原作には二十八の章題が立てられ、一から百五十節までに分かれているが、あらすじは舞台になった場所ごとではなく、意味的なまとまりを重視して、11の部分に分けてみた。この区切りはちょうど、本作を舞台にかかった芝居だとみなしたとき、幕が下りるタイミングにあたると思う(廻り舞台で処理されるような場の転換や、幕外の芝居で済まされるような短い場は同幕内だとみなしている)。
ほとんどの鏡花小説と同様、ちょうど真ん中にあたる6の部分が、多くの伏線の結び目となる、物語の転換点にあたる。
※題名の「芍」の字は、原題では「勹の中に一」の異字体が使われていますが、Web上では表記できないため「芍」を使っています。
※あらすじ内のアスキー略図は、極端な表示調整をした場合やスマホ閲覧の場合、レイアウトが崩れるかもしれません。ご容赦ください。