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船田鏡介 怪異短編集

彼岸花

作者: 船田鏡介

 思いがけない人物から荷物が届いたのは、前日から続く雨のおかげで残暑がいくぶん和らいだ九月七日の夜だった。

 送り主の名は黒崎悠次。美大の同級生だが、卒業後は一、二度葉書のやりとりをしただけで、すでに二十年以上顔を合わせていなかった。

 旧友とは言え完全に没交渉の状態だったので、インタホンで宅配便の配達員と言葉を交わしていた妻から送り主の姓だけを聞かされても、まさか彼からだとは思い当たらなくて、私はただ首を(かし)げるばかりだった。

「黒崎ねえ……」

「心当たりがないの?」

「さっぱり」

「おかしいわね、確かにあなた宛だって」

「荷物を見ればはっきりするさ。いいよ、俺が出る」

 食器の片づけの途中だった妻にそう声をかけて、私はリビングを出て玄関口に向かった。毎晩のことだが、高一と中二の娘達は、食事を終えるが早いかめいめいの部屋に引き上げている。夕食の間にたまったメールへの返信は、他の何よりも優先されるべきなのだ。

 届いたのは縦横(たてよこ)が四十センチ以上ある板状(いたじょう)の荷物だった。送り主が美大で同じ油絵科だった黒崎悠次だと分かってみれば、中身は彼が描いた絵ではないかという気がしてきたが、それではなぜ突然そんなものを送ってきたのかということになると、結局のところ思い当たることは何もなかった。

 私は荷物をリビングのテーブルの上に置いて、台所から戻っていた妻の前で梱包(こんぽう)を解いた。

「それで、送り主は誰だかわかったの?」

「ああ、油絵科でいっしょだった黒崎悠次だ」

「画家さんなの?」

「どうだろうなあ……。卒業して二、三年後に私費でフランス留学したという話を人づてに聞いただけで、その後のことは何も分からないんだ。ただ少なくとも、作品に買い手がつくという意味でのプロにはなっていないはずだよ。彼の場合、奥さんが資産家の娘で、食うために絵を描く必要はないんだけどね」

 厚手の撥水紙(はっすいし)に包まれていた木箱のふたを取ると、キャンバスを縦に使った油絵が額装したままの状態で現れた。

 描かれていたのはゆるやかに左へカーブした小径(こみち)で、その両側には(おびただ)しい数の真紅の彼岸花が、燃え盛る炎のように()(ほこ)っていた。さほど大きな絵ではないが、私も妻もその迫力に圧倒されて、ただ息をつめて見入るばかりだった。

(すご)いな……」

 私がやっとの思いでそうつぶやくと、妻は小さくため息をつきながら話しかけてきた。

「本当に無名の画家さんなの?」

「多分、今のところはね。ただし、こんな絵が出品されたら、どの公募展(こうぼてん)でも特選間違いなしだ」

「それで、これからどうするの?」

「とりあえず、黒崎と連絡を取ってみるさ。送り状に電話番号がなかったから、手紙を書くしか手がないんだがね」

「それにしても不思議ね。二十年も会っていないんでしょう? それなのに、メモ書きひとつ()えるでもなく、いきなり絵だけをぽんと送ってくるなんて……」

「同感だね。でもまあ、ろくに手がかりもないし、あれこれ考えるのはここまでにしておくよ。自宅でのんびりと名画を()でる機会なんて、めったにないからね」

 私はそう答えると、オーディオラックの脇に置いてあるウイスキーのボトルを取ろうと立ち上がった。


 黒崎に、いきなり傑作が届いて驚いたという感想と、宅配便で返送して万一傷をつけたら大事(おおごと)だから、私が持参することしたいという(むね)を書いた手紙を送ると、すぐに、あれが気に入ったのならもらって欲しい。ただ、せっかく二十年ぶりに連絡がついたことだし、ぜひ顔を合わせて話をしたいという返信が届いた。

 手紙にはさらに、今月下旬には絵のモチーフにした彼岸花が満開になるので、その(ころ)泊まりがけで出かけて来てはどうかと書き添えられていた。

 カレンダーを確かめると、今年は秋分の日が月曜日で、うまい具合に三連休だった。娘達は少し長い連休となると友達とカラオケや映画に行くのが常で、親がわざわざイベントを用意してやらなければならない年頃はとっくに過ぎている。妻にしても、早めに予定を伝えておけば、学生時代の友人と落ち合ったりして気ままに過ごすだろう。

 私は黒崎に、お言葉に甘えて九月二十二日の日曜日に伺うことにしたいという葉書を出した。


 九月二十二日の午後、私は埼玉県の自宅からJRの埼京線、湘南新宿ライン、横浜市営地下鉄のブルーラインと乗り継いで、黒崎の住まいの最寄り駅である湘南台駅に着いた。地下鉄と言っても、私が乗っていた区間は地上運転で、九月の(なか)ばを過ぎてようやく秋めいた郊外の景色を車窓からのんびりと眺めることができた。

 私は西口の改札を出ると、黒崎から二通目の手紙とともに送られてきた手書きの地図を頼りに、彼の住まいを目指して歩き出した。地図には徒歩だと三十分近くかかるという注意書きがあったが、特に急ぐ必要があるわけでもなし、好天に恵まれた見知らぬ町の散策は、日頃の運動不足の解消にうってつけだった。

 用水路のような小さな川の流れに沿ってしばらく歩いた後で、私はすでに廃業している自転車店を目印に右側の脇道に入った。

 道の周りには(ねぎ)南瓜(かぼちゃ)を作っている小規模な畑が多く、その向こうに畑の持ち主が住んでいるらしいこぢんまりとした住宅が、ぽつりぽつりと建っていた。

 やがて、まだ青々とした(いが)をつけた十数本の栗の木が、左曲りになった道の両側に並んでいる場所を通り過ぎると、黒崎が描いた絵そのままの、彼岸花が炎のように燃え立つ光景がいきなり私の目に飛びこんできた。

 道の右側で咲き乱れている花々の背後には、黒崎の絵にもその一部が描かれていた、古い石造りの洋館が建っている。地図に黒い丸で示されていた通りの位置で、あれが彼の住まいに違いない。

 玄関の前に立ってみると、洋館は当初の印象ほど大きくはなかったが、海外の暮らしが長かった夫婦の好みにいかにも合いそうな、吟味(ぎんみ)された材料を使った本格的な洋式建築だった。

 私はドアの脇に取り付けられていた旧式のドアチャイムのボタンを押してみたが、いくら耳を()ませても、(やかた)の中で呼び出し音が鳴ったり、来客に気づいた人が応対に出ようとしている気配はまったくなかった。

 しぶしぶ取り付けたことがあからさまに見てとれるチャイムがまともに動かなくても驚くことではないが、ドアには鍵がかかっているし、どの窓も鎧板(よろいいた)まで閉まっている。そもそも館の中に誰もいないのではないかという不安を覚えながら、私は改めて建物とその周囲の様子をうかがった。

 時刻は午後三時をまわったばかりでまだ日は高いが、目の前の館だけでなく、畑で隔てられた隣家や今しがた歩いてきた路上にも人影はまったく見当たらず、コオロギやマツムシが草むらで鳴く声が聞こえていた。

 洋館の右側は道沿いに立てられた金属製のネットフェンスが回り込んできていて行き止まりになっているが、左側の砂利(じゃり)が敷きつめられた路地を進んで行けば、裏手にまわることができそうだった。

 もし、向こう側の窓まで閉まっているようなら、さすがに留守だとしか考えようがない。その時はもう少し(あた)りをぶらついてから戻ってくることにしよう。私はそう心に決めて、ゆっくりと路地に足を踏み入れた。

 館の裏手側の一階部分には、正八角形を半分に切ったような形をしたサンルームが設けられていた。アルミサッシが使われているなど、工法が館そのものに比べて新しいので、アトリエにするために裏庭をつぶして増築したのだろう。

 こちらの窓も閉め切られてはいたものの、サンルームの左手奥に取り付けられたドアは開け放たれたままになっていた。室内に人の姿はなかったが、黒崎はつい今しがたまで筆を走らせていたらしく、日射しを避けて奥まった位置に据えられたイーゼルには、油絵のキャンバスがたてかけられていた。

 ドアが開いているのはすぐ戻るから中で待っていて欲しいという合図のような気もするし、どうしたものかと迷っていると、ふいに背後で私の名を呼ぶ声がした。

菅沼すがぬま君、よく来てくれたね……」

 あわてて後ろを振り返ると、細長いフランスパンが入った紙袋を抱えた()せぎすの中年男が、穏やかに微笑みながらこちらを見つめていた。

 頭髪の大半が灰色に変わり、目尻や口元の小皺(こじわ)が目立つようになってはいるが、はにかんだような独特の笑い方は、若い頃の黒崎と少しも変わっていない。

「久しぶりだね。しかしまあ、びっくりするくらい昔のままだ。あの頃は中年になった自分達の姿なんて想像もつかなかったが、案外変わらないもんだね。いや、俺のほうは大違いか……。体重は十キロ増し、額の()(ぎわ)は年々じりじりと後退中ときてはね」と、私は黒崎に言った。

「いくぶん貫禄(かんろく)がついただけで、さほど変わっちゃいないよ。さあ、ろくなもてなしもできないが、とりあえず中へどうぞ。そこに内履(うちば)きがあるから」

「ありがとう」

 うながされるままにアトリエに上がりこんだ私は、無造作にフローリングの床から石の壁に立てかけられている四点の油絵に近づきながら黒崎に尋ねた。

「このへんの絵を見せてもらっても構わないかな」

「もちろん。お恥ずかしい限りだが、ご自由にどうぞ」と、黒崎は木製の肘掛(ひじか)け椅子に腰を下ろしながら答えた。

 四点の絵のうち三点と、イーゼルに載せられた描きかけの作品が彼岸花をモチーフにした連作で、残りの一点だけがかなり作風の異なった婦人の肖像画だった。彼の妻(私は学生時代に、結婚前の彼らが親しげに連れ立って大学構内を歩いているところを何度か見かけたことがある)に似ているような気がするが、もし彼女がモデルだとすれば、年のころからして十年程前の作品だろう。正直なところ出来は習作レベルで、他の作品とはとても比べようがなかった。逆に言えば、近年の黒崎が、画家として驚くほどの成長を遂げたということになる。

 私は手に取って眺めていた絵を元の位置に戻すと、クッションのよく効いた革張りのソファに坐って黒崎と向かい合った。

「いいものを見せてもらったよ。こんなに(すご)みのある風景画なんて、そうお目にかかれるもんじゃない」

「そう言ってもらえるとうれしいよ。あのクラスの中で、絵の腕も絵を見る目も、君が一番確かだったからね」

「そりゃ買いかぶりというものだよ。あの頃は有望に見えたかもしれないが、結局(もの)にならなかったわけだし……」と、私は黒崎の思いがけない言葉に困惑を覚えながら答えた。十人足らずのクラスだったから、当然それなりの交遊はあったが、私達は取り立てて親しいというほどの間柄(あいだがら)ではなかった。

「有名な食品メーカーのデザイナーになったと聞いたよ。それだって立派なものだ」

「叔父のコネでもぐりこんだだけさ。お飾りの課長に祭り上げられて、今じゃ線一本引いちゃいない」

「まだまだこれからさ。まあ何にしても、話の続きは一杯やりながらということにしよう。ワインが水代りというあの飲んだくれの国で暮らしたおかげで、僕もかなり飲めるようになったんだよ」

 黒崎はそう言い残してアトリエを出てゆくと、赤ワインのボトルを手にして戻ってきた。

「申し訳ないが、つまみはパンとレバーペーストしかないんだ。ボルドーのワインは味はいいんだが、料理を合わせるのは大変でね。このくらいシンプルなつまみのほうが、かえってワインの良さを引き立ててくれる」

 黒崎はソムリエナイフを使って慣れた手つきでワインの栓を抜くと、別のポケットナイフを取り出して先ほど買ってきたフランスパンを切り分けた。

「どうぞ。焼き上がりの時間に合わせて買ってきたからね。香りも歯ざわりも最高だよ。レバーペーストもパン屋の自家製でね。新鮮さは折り紙付きだ」

「ありがとう」

 黒崎の言葉通り、上物のボルドーワインと出来立てのフランスパンは抜群の相性の良さだった。

「シンプル・イズ・ベストという言葉は、こういう時のためにあるんだろうね。いやあ、最高のご馳走だ」と、私は鼻腔(びこう)の奧に残っているワインの芳香に目を細めながら言った。ネットフェンスの向こう側で風に揺れながら咲き乱れている彼岸花には、周囲の木々の長い影が落ち始めている。

「気に入ってもらえてよかったよ。買い物に出ていたせいで待たせてしまった事は、これで帳消(ちょうけ)しにしてもらえるかな。以前はパン屋がパンを届けてくれたんだが、最近は人手が足りなくなったのか、配達してもらえなくなってしまってね」

 黒崎はそう言いながらさらにパンを切り分けると、小さな丸テーブルの上の皿に盛って私に勧めた。

「いくらも待っちゃいないよ。そんな事を気にされちゃ困る。ところで、奧さんは元気かい? 確か、みどりさんと言ったっけ。結婚の挨拶状をもらった時、『黒』と『翠』ならなかなかの色合いだなんて、他愛(たあい)のないことを考えた覚えがあるんだが……」

「死んだよ。ここに越してくる前だから、五年になるかな」

 黒崎は抑揚のない口調でそう言うと、ワインのグラスを口元に運んだ。

「申し訳ない。何も知らないものだから、いやな思いをさせてしまったね。まさか亡くなっているとは……」

「謝ることはないさ。むしろ、僕の方から先に話しておくべきだったのかもしれないな。今の生活にすっかり馴染(なじ)んでしまったものだから、考えが及ばなかったよ」

 黒崎はそう言ってグラスに三分の一ほど残っていたワインを飲み干すと、自分と私のグラスにワインを注ぎ足した。昔より酒が強くなったというのは本当らしい。

「翠のことは、死んでからのほうがはるかに身近に感じるようになった」

 黒崎はそこでふいに言葉を切ると、奇妙な笑みを浮かべながら再びワインを口にした。

「おかしなものだね。俗物(ぞくぶつ)としか言いようのない人間だったから、死んだ後には何も残らないと思っていたんだが……」

 死者に対して冷ややかすぎるようにも感じられる言葉の真意を(はか)りかねて、私は無言のまま黒崎の顔を見つめていた。

「だいぶ日が傾いてきたね。少し外を歩いてみるかい? 夕闇に溶けこむ直前の彼岸花というのもなかなかの見物みものだよ」

 私の当惑した表情を見て取ったらしく、黒崎は話題を変えようとするかのようにそう言った。


 私は道の(はた)に黒崎とともにたたずんだまま、夕暮れの黄金色の光に映える彼岸花を見つめていた。日がさらに傾くにつれて、血を含んだかのようなそれらの赤は、自らの輪郭の外へとにじみ出ていった。

 やがて、日没とともにあらゆる色彩が持ち去られて黒の濃淡だけの世界が始まっても、彼岸花のシルエットの奥底には、燃え盛る炎の残像がかすかに残っているかのように感じられた。

「黒崎!?」

 刻々と変化する目の前の光景にすっかり心を奪われていた私は、かたわらにいるものだとばかり思っていた黒崎がいつの間にかいなくなっていることに気がついて、思わず声を上げた。

「どうしたんだい? いきなりそんな大声を出して」

 黒崎の怪訝けげんそうな声が返ってきたのは、私が(さが)していたのとは反対の右手後方からだった。と言っても、距離は半歩も離れていない。いくら夕闇に包まれているとは言え、こんな錯覚を起こすほど酔いがまわっていたのかと、私はひそかに苦笑しながら頭を振った。

「なんだ、そこにいたのか……。いつの間にか別の所に立っているから、どこかに行ってしまったのかと思ったよ」

「おいおい、そりゃどういう事だい?」

 黒崎は(あき)れ顔でそう言いながらこちらを見つめた。

「僕は最初からここにいたじゃないか」

「そうだっけ……。まいったな、満開の花とワインの両方に酔ったらしい」

「気にすることはないさ。こうして久しぶりに会ったんだし、季節はずれの花見酒に酔うのも一興(いっきょう)じゃないか。とは言うものの、そろそろ街灯が()く頃だ。蛍光灯の薄っぺらい光でせっかくの風情が台なしになる前に、部屋に戻ることにしよう」

「確かに、あんなものが点いたんじゃ、興醒(きょうざ)めもいいところだね」

 私はコンクリート製の電柱に無造作(むぞうさ)に取り付けられた(ほこり)まみれの街灯を見上げながらそう答えると、黒崎とともに歩き出した。

「さっきから自分のことばかりしゃべっているような気がするな。そちらの近況はどうなんだい? 結婚して、たぶんお子さんもいるんだろう?」と、洋館の脇の路地を歩きながら黒崎が尋ねた。

「取り立てて話すほどのことは何もないよ。さえないサラリーマン暮らしで、家族はかみさんと娘が二人。マンションのローンが二十年も残っている。そう言えば、よく住所がわかったね。十年前に引越した時、案内状を出したら転居先不明で戻ってきたから、もう連絡の取りようがないとあきらめていたんだが……」

「翠が同窓会の名簿を買っていたんだよ。(かよ)っていたのは音大でも、友達のほとんどは姉妹校の美大生だったからね。最近は個人情報の保護とかいって、名簿なんて流行(はや)らなくなったけれど、以前はよく改訂されていたから、新しいものが出るたびに美大と音大両方の名簿を欠かさず買い(そろ)えていたよ」

「君と翠さんが知り合ったのも、美大生のコンパがきっかけだったそうだね」

「やはりな。その口ぶりじゃ、何も覚えていないようだね」と、黒崎はかすかに引き()れたような笑みを浮かべながら言った。

「何のことだい?」

「君もその場にいたんだよ。というか、君のほうが先に翠と話をしていた」

「本当かい? いやあ、昔のことで、まったく覚えがないよ」

「〈あれ〉がマティスの切り紙絵のことでつまらない知ったかぶりをしたら、君が間違いを数え上げてやりこめてしまったのさ」

「俺がかい? そりゃまた何とも青臭(あおくさ)い真似をしたもんだな……」

 あの自意識過剰な、正直言って二度と戻りたくない時代の残滓(ざんし)に触れたような気がして、私は思わず顔をしかめながらそう答えた。

「お嬢様育ちでちやほやされるのに慣れていたから、君の言葉がひどく(こた)えたんだろうな。しょげ返った姿があまりに(あわ)れで少しばかり相手になってやったら、妙になつかれてしまってね……。後になってわかったことなんだが、〈あれ〉のピアノの演奏なんて素人(しろうと)に毛が生えた程度のものでね。爺さんが理事の一人だというんで採点を甘くしてもらわなかったら、合格なんて到底(とうてい)無理だったらしい。

 どうにかこうにか大学にもぐりこみはしたものの、クラスの居心地(いごこち)はあまり良くなかったようだよ。正面切って馬鹿にする者はいなくても、ピアノ科の連中はとにかくプライドが高いからね。自業自得(じごうじとく)といえばそれまでだが、そんな次第で自然と友達も美大の方が多くなっていったというわけさ」

「と言うことは、まったくの偶然にしても、俺は君たち二人の間を取り持っていたわけだ。いやあ、(えん)()なものと言うのは本当だな」

「そうだね。〈あれ〉が君にもう少しましな話をしていれば……」

 そう言いかけてふいに言葉を切った黒崎の顔には、妻が亡くなったと私に告げた時と同じ、何とも言いようのない皮肉な表情が浮かんでいた。

「まあ、二十年近く一緒に過ごしても、あの小鳥のようにちっぽけな脳みそからは、無意味なさえずりしか出てこなかったんだから、こんな()()()に何の意味もありはしないんだがね」

 黒崎はそう言って肩をすくめると、すっかり夕闇の中に沈みこんでしまっている彼岸花に最後の一瞥いちべつを与えた。

「少し冷えてきたね。部屋に戻って飲み直そう。さすがにワインは飽きただろうから、とっておきのスコッチを出すよ」

「うれしいねえ」

 スコッチに目のない私は、黒崎の言葉に思わず小躍(こおど)りして足を速めた。


 黒崎がオン・ザ・ロックで出してくれたのは、スプリングバンクという十五年もののシングルモルトウィスキーだった。

「うーん、これほど複雑な味のスコッチは飲んだことがないよ。とにかく美味い」

「食後の一杯にはもってこいだろう? パリで知り合ったスコットランド人の画家が、自分の生まれ故郷の酒だと言って飲ませてくれたんだよ。

 キャンベルタウンという小さな漁港でね。昔は酒造りが盛んだったらしいんだが、次々と廃業してしまって、今ではごく小さな蒸留所が二つ残っているだけなんだそうだよ。

 この酒は僕らが日本に引きあげることにした時、その画家が餞別(せんべつ)にくれたものでね。このすらりとしたボトルに入った十五年ものはもう作られていないそうなんだ」

「いいのかい? そんな貴重な酒を……」

「もちろん。君は大切なお客様だからね。ずっと君に会いたがっていたから、翠も喜んでいるはずだよ」

「翠さんが、俺に?」

「そうだよ。ずっと、長い間……。さて、酒を変えたところで、もう一度乾杯してくれないか」

 黒崎はそう言いながら、自分のロックグラスをゆっくりと私の前に差し出した。


 夜が更けるにつれて秋の虫達の鳴き声は次第に高まってゆき、ついにはアトリエ全体がその寂しげな響きの中に包みこまれてしまった。友人と一緒にいたおかげでなんとか落ち着いていられたが、もし一人きりだったら心細さにとても耐えられなかっただろう。

「水木しげるが描いた『死声(しにごえ)』という短編マンガを知っているかい?」と、不意に黒崎が言った。

「いいや、読んだ覚えがないな」

「昆虫採集が趣味の青年が、山歩きをしているうちに道に迷って小さな山小屋にたどりつく。その小屋の(あるじ)というのが長年キリギリスの鳴き声の意味を解き明かそうとしている奇妙な老人でね。あと一歩で研究が完成するというので、青年は老人の山小屋に泊めてもらって昆虫採集をしながら結果を見守ることにするんだ。

 ところが、いざ解読が進んでみると、キリギリスの鳴き声は死者の名前を告げる予言らしいということがわかってくる。しかも、その最後にくるのは研究家の老人の名前だというんだよ」

「それで?」

 唐突(とうとつ)に始まった怪談めいた話にすっかり引きこまれて、私は続きをうながした。

「老人から予言の話を聞いた翌日、珍しい昆虫を探していて日が落ちてから山小屋に戻った青年は、白骨になった老人の死体を見つける。キリギリスに食い殺されてしまったのか、死んでからキリギリスに食い尽くされたのかはよくわからない。老人が残したメモ書きを見ると、老人の名前の後に青年の名前が書き加えられている。青年はあわてて逃げ出そうとするが時すでに遅く、山小屋は数え切れないほどのキリギリスの大群に取り囲まれてしまっている……」

「うーん、怖い話だねえ」

「小学四年生の夏休みに親戚の家に行った時、年上の従兄(いとこ)が持っていた単行本で読んでね。寝がけに布団の中で読んだものだから、トイレに行けなくなって本当に困ったよ。

 あれ以来、キリギリスでなくても、夜更けに虫が鳴いている声を聞くと、このマンガのことを思い出すんだ。すっかりトラウマになってしまっているんだね。老人は予言のせいで死んだのか、それとも鳴き声の秘密を知ったせいでキリギリスに殺されたのか……、虫の声に耳を澄ませながら、そんなことをずっと考えていたものさ」

「確かに、深みがあって、色々と考えさせられる話だね」

「特に気になってしかたなかったのは、老人が青年を引き止めたのは、自分だけが死ぬのがいやだったからなんじゃないかという点なんだよ。もちろん、はっきりとそう描かれているわけではないんだけどね。青年の名前をわざわざ書き加えた時、この老人は一体何を考えていたんだろう……?」

 黒崎は私に尋ねているとも自問しているともつかない口調でそう言うと、鳴き(しき)る虫の声にじっと耳を傾けた。

「あのコオロギたちは何を言おうとしているんだろうね。自分の死の予言なんて、絶対に聞きたくないな」と、私は黙りこんでいる黒崎に話しかけた。

「そうだね。翠のように、最期の眠りにつくその時まで、自分が死ぬなんてこれっぽっちも考えていないというのが理想だよ」

「翠さん、そんなに急に亡くなったのかい?」と、私は驚いて黒崎に尋ねた。いくら急病や突然の事故でも、当人がまったく死を予感しないなどということがあるのだろうか?

「ああ。本人はいつも通りに(とこ)について、いつも通りの朝を迎えるつもりだったと思うよ。自分の名前が死者の予定表に書き加えられたことなど気づきもしないでね」

 冷ややかにそう答えた黒崎の口元にかすかな笑みが浮かんでいるような気がして、私は自分の目を疑った。

「何だかおかしなことを口走っているな。酔いがまわったらしい。誤解しないでくれ、僕は翠のことを嫌ってはいないよ。そんなはずないじゃないか……。どれほど〈あれ〉が俗物で、その(あわ)れな頭が考え出すあらゆるものが僕をうんざりさせてくれようとね」

 テーブルの脇に置かれたフロアスタンドの(ほの)かな明かりの中で、黒崎は熱に浮かされたかのように話し続け、大きく見開かれた目は次第に異様な輝きを帯びていった。

「親にねだってアトリエ付きの家を手に入れるのも立派な才能だ。お返しはパパとママが可愛がっているお座敷犬(ざしきけん)を描くだけでいいんだからね。アトリエのためならお安い御用さ。さしずめ現代の錬金術だな。

 そして、アトリエのお披露目(ひろめ)の日には、君を呼んで、今度こそ高尚な会話をする……。可愛いもんじゃないか、二十年も前のことを未だに気にしていたんだ」

「まさかそんなことが……。悪気(わるぎ)はなかったんだが、申し訳ないことをしたな」と、私はすっかり困惑しながら言った。

「謝ることはないよ。〈あれ〉の勝手な思いこみさ。君にこうして意識してもらえただけで本望(ほんもう)だろう」

 黒崎はそういいながら手にしていたロックグラスを軽く差し上げると、四分の一ほど残っていた酒を一気に飲み干した。

「同じ話の繰り返しになるかもしれないが、君の彼岸花の絵はとてつもない傑作ぞろいだね」と、私はグラスにスコッチを注いでもらいながら黒崎に言った。

「実際に咲いているところを見た後だと、その(すご)さがいっそう良く分かるよ」

「ありがとう。ところで、彼岸花にはいろいろな別名があるのを知っているかい?」

 酒を注ぎ終えた黒崎は、自分のグラスを口元に運びながらそう尋ねた。

「確か、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)と言わなかったっけ? 他にも呼び名があるのかい?」

「一番美しい名前が出たねえ。さすがだな。他の名前は『死人花(しびとばな)』、『地獄花』、『幽霊花』、『捨子花(すてごばな)』と、縁起の悪そうなものばかりさ」

「へえ、ずいぶん詳しいね」

「母親の実家の墓地にたくさん植えられていてね。小学二年の頃だったかな、彼岸の墓参りに付き合わされた時、当時はまだ健在だった祖母が、別名の由来や墓地に植える理由を話してくれたんだよ。

 実家の宗教は神道(しんとう)で、戦前はまだ土葬(どそう)の習慣が残っていたそうなんだ。土葬だと死体を動物に荒らされる心配があるから、根に毒を持っている彼岸花を植えるようになったというんだよ」

「彼岸花の根には毒があるのかい?」

「ノビルやアサツキと間違えて食べたりすると、命にかかわる猛毒らしい。飢饉(ききん)の時には毒抜きをして食ったそうだがね」

「あの美しい花にそんな秘密があるとは知らなかったよ。確かに何ていうか、凄味(すごみ)のようなものを感じたことはあったけどね」

「本当に不思議な花だよ。秋の初めになると、それまで何もなかった地面からつぼみのついた(くき)がいきなり伸び出して、一週間かそこらで花を咲かせる。まるで黄泉(よみ)の国の住人が、その時だけ現世に戻ってきたかのようにね」

 黒崎はそう言いながらイーゼルの上に置かれた描きかけの彼岸花の絵に目をやった。

「あの花は死者の体を守り、そこから養分をもらい、やがて死者を再生する……。僕が描いているのは翠の死に顔さ。〈あれ〉が見せた表情の中で、最も美しいものだったからね」

 それでは、妻の死体を道端(みちばた)に埋めたというのか? そして、その上で咲いている花を見ては妻を思い出し、絵を描いていると? そもそも彼女が亡くなったのは、一体何が原因だったのか?

 土の中の死体、毒の根、咲き乱れる真紅の花々……。私は混乱した思考をなんとかまとめ上げようとしたのだが、酒を飲みすぎたせいかひどく頭が重く、気がついてみれば、体の平衡(へいこう)を保っていることさえ困難になっていた。

「ずいぶん眠そうだね。少し横になったらどうだい?」

 こちらの目をのぞきこむようにしてそう話しかけてきた黒崎の口調に、密かにほくそ笑んでいるかのような気配を感じて、私は言い知れない恐怖を覚えた。

 あれは本当に普通の酒だったのか? 眠ってはいけない。眠れば、死が待っている。

「いや、ちょっと酔っただけだ。大丈夫……」

 私はなんとか眠気を振り払おうと必死でそう答えたが、鉛のように重くなった(まぶた)を開き続けることはもはや不可能だった。

「いいからいいから。少し眠ればすっきりするよ」

 私をなだめすかしてソファに横たわらせた黒崎は、毛布を取ってくると言い残して部屋を出てゆこうとしてふいに足を止めた。

「それにしても、やけに虫たちが鳴く晩だ。予言の名簿に新しい名前でも加わったのかな……」

 黒崎の不気味なつぶやきをかろうじて耳にしたのを最後に、薄れかけていた私の意識は完全に途絶(とだ)えた。


 翌朝、私がソファの上で目を覚ました時、アトリエの中に黒崎の姿はなかった。ワインやスコッチのボトルもきれいに片づけられていて、私たちが酒を酌み交わした痕跡はまったく残っていない。

 私は酔いつぶれて眠りに落ちる直前のやりとりを思い出して、黒崎の少々(ひと)の悪い冗談に文句を言ってやりたいと思ったのだが、アトリエの出口のドアから屋敷の奧の方に声をかけても、黒崎からの返事はなかった。

 時刻は午前八時をまわり、アトリエにはすでに朝の日差しが(あふ)れていた。黒崎が散歩か朝食の買い出しにでも出ているのではないかと考えた私は、自分も暇つぶしに周囲を散策することにしてアトリエを後にした。


 屋敷の脇の路地を通りかかった時、私は隣の葱畑(ねぎばたけ)で畑仕事をしていた六十がらみの女性が不審そうにこちらをうかがっていることに気がついた。

 私が足を止めたのを見て取ると、女性は表情をこわばらせたまま、ゆっくりとした足取りで近づいてきた。

「お早うございます」

 私が先手を取って声をかけると、彼女は日よけに被っていた手拭いを取りながら軽く頭を下げた。

「お早うございます……。あの、こちらのお宅にご用で?」

「ええ、友人の画家が住んでいるんです」

「それじゃ、ご存じなかったんですねえ」

「何をですか?」と、私は不吉な予感に駆られながら尋ねた。

「あの方、亡くなられたんですよ。心臓の発作を起こして倒れているところを、パンの配達に来た店員さんが見つけて、(あわ)てて救急車を呼んだんですけど手遅れだったんです。独りでお住まいだったから、そこにはもう誰もいらっしゃいませんよ」

「そんな……」

 一晩中彼と一緒にいて、話をしたり酒を酌み交わしていたのだと反論しようとして、私は途中で言葉を飲みこんだ。奇怪な笑みを浮かべながら、妻を殺して道端に埋めたと(ほの)めかしていたあの人物が、本当に現実の存在だったのかどうか、ふいに確信が持てなくなってしまったのだ。

「それで、黒崎はいつ亡くなったんですか?」

「ちょうど一年ほど前のことです。彼岸花が満開の頃でしたから。近所づきあいもほとんどないし、ちょっと変わった方でしたよ。まあ、絵描きさんなんてそんなものかもしれませんけど」

「話は変わりますが、彼岸花は以前から咲いていたんですか?」と、私はようやく警戒の表情が和らいできた女性に尋ねた。

「いいえ。この先の小出川(こいでがわ)土手道どてみちは、それこそ何万という彼岸花が咲くことで有名なんですが、このあたりには一本もありませんでした。それが、いったい誰が植えたのか、ある年いきなり道中(みちじゅう)に花が咲いて、みんなびっくりしたんですよ」

「いつのことなんですか、それは?」

「四、五年になりますかねえ。はっきりとした覚えがあるわけじゃありませんが」

「そうですか……。どうも、お忙しいのにいろいろと教えていただいて有難うございます」

「いいんですよ。それにしても、黒崎さんのことはお気の毒でしたねえ。わざわざ会いにいらっしゃったのに」

「ええ、本当に残念です。せっかく傑作を描き始めていたのに」

「何ていうか、はかないものですよね。寿命が尽きてしまえば、それで全部おしまいなんですから」

 年輩の女性がため息まじりにそう言った時、まだ幼稚園前の女の子が畑にやってきてきょろきょろとあたりを見回すと、その小さな体からとはとても信じられない大声で叫んだ。

「ばーばちゃん」

「はあい。すみません、私はこれで」

 女性はそそくさと別れの言葉を口にすると、急ぎ足で孫娘のところに戻っていった。

「走っちゃだめよ。ばーばちゃん、今行くから……」


 私は隣家の女性が孫娘と手をつないで自分達の家に入ってゆくのを見届けると、周囲に誰もいないことを改めて確認してから黒崎のアトリエに引き返した。

 室内をいくら見回しても特に変わったところはなく、柔らかな秋の日差しの中で、キャンバスや絵の具などの画材は、ただ静かに(あるじ)の帰りを待っていた。

 黒崎は妻が最期まで死が目前に迫っていることに気づかなかったと話していたが、彼自身も、突然訪れた自分の死を自覚していなかったのではないだろうか? 自分の身に何が起こっているのか分からないうちに肉体は滅びたが、妻の理想の面影(おもかげ)に魅せられたままの彼の魂は、今もこの世界で画家としての生活を送っている……。

 そんなおよそ不合理としか言いようのない奇妙な考えが、ふいに私の心をとらえた。

 早くここを出なくては。彼の死という事実を知ってしまった私と顔を合わせたら、黒崎の亡霊は霧のように消えてしまうだろう。

 去り際にもう一度描きかけの絵に目をやると、昨晩見た時にはなかった、まだ乾ききっていない三つの筆跡(ふであと)が、彼岸花の上で鮮やかに輝いていた。


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