犬小屋
二〇一九年、四月十九日。
煌びやかなパーティー会場において、その男の風貌は少なからず異彩を放っていた。一応タキシードを着てはいるものの、クリーニングに出しそびれたのか、ジャケットもズボンも草臥れているし、シャツの襟元には蝶ネクタイをしておらず、だらしなく胸元近くまでボタンを開けているせいで、中の野暮ったい肌着が顔を覗かせている。
極めつけは、頭の上に乗せた真っ赤なベースボールキャップだ。この華やかな社交場において、それは悪い意味で浮いていた。頭だけを見れば、スタジアムと間違えてパーティー会場に迷い込んでしまったベースボールファン、そのものである。
彼が会場内に入った時も、まっさきに、その派手な赤い帽子が目に留まった。目的の人物を見つけられたことへの安堵と、これから行うミッションに対する不安とを等分に抱きつつ、彼は人混みを掻きわけ、そちらへ近づいて行く。
赤いベースボールキャップの男は、空になったシャンパングラスを手にしたまま、若いカップルを相手に講釈を垂れていた。
「つまり、ホモ・サピエンスは『フィクションを信じる力』を得たことにより、急速に勢力を拡大していったわけです。我々が普段何気なく使っているこの能力は、あまりピンと来ていないでしょうが、他の人類には発現しなかった、とても特別なものなんですよ」
「どのように特別なんです?」
ブロンドヘアーの若い女が、興味を惹かれたように尋ねる。男の講義そのものに対してというよりも、珍しい出し物を眺めるような目つきだ。
しかし、野球帽の男は奇異の眼差しなど意に介さず、上機嫌そうに、無精髭に覆われた顎を撫でる。
「どのように……いい質問だ。この『フィクションを信じる力』が、我々ホモ・サピエンスに齎した最大の恩恵。それはずばり、結束力です。我々の祖先は、同じ虚構を共有することで、より多くの仲間と協力することが可能になりました。身近なものに喩えると、同じ会社の従業員同士が、一致団結して仕事に臨んだり……同じスポーツチームのファンが、球場で一体となって応援したり」
「今シーズンのハンターズは、期待できそうですね」
「この調子を維持できればね。いつも夏頃には失速してしまって、我々は悲しい気持ちで秋を迎えています。──話が逸れましたが、これは本当に革命的な出来事でした。他の人類も、当然集団で行動することはありました。ネアンデルターレンシスとかね。我々よりも大きな脳を持ち、体つきもマッチョだった彼らですが、一緒に行動する仲間は、血の繋がった家族のみ。対して、我々の祖先はもっとずっと大勢で力を合わせることができました。それは何故か。──同じフィクションを共有し、信じることができたからです」
「そのフィクションというのは、謂わゆる宗教のようなものですか?」
今度はボーイフレンドの方が、やけに神妙な顔つきで問う。こちらは彼女の方より、講義に関心を持っているらしい。
「そう言い換えることもできます。もちろん、キリスト教や仏教のように、煩雑なものではなかったでしょうがね。実際に、今から約三万二千年前には、ライオンの頭を持った人間の像が作られていました。これは、我々の祖先が、そうした架空の存在を信じていたという証左の一つです。──また、ホモ・サピエンスの歴史において、何より特筆すべき点は、陸生の哺乳動物の中で初めて海を」
のべつ幕なしに語り続けようとした矢先、男の右肩に手を置く者がいた。他ならぬ、彼だ。赤いキャップの男は驚いた様子で、背後を振り返った。
度のキツそうな眼鏡をかけた、いかにも偏屈博士と言った顔貌の男が、離れ気味の両目をパチクリとさせて、彼を見返した。
「誰かと思えば……ソーイチじゃないか! まさか、こんなところでお目にかかるとは!」
「……久しぶりだな、カーネル」
ソーイチこと、鷺沼蒼一は、あくまでも親しみのある笑みを浮かべ、旧友の名を呼んだ。カーネル・レンジャーは驚いていたが、蒼一がこのパーティー会場に現れたのは、単なる偶然ではない。筏を拵えアフリカ大陸を飛び出したホモ・サピエンスよろしく、わざわざ海を越えて、会いに来たのだ。
この、風変わりな人類学者に。
「いやぁ、本当に久しぶりだ! 最後に僕らが会ってから、どれくらい経つと思う? 僕にわかる──十年だ! 十年! それなのに、君は少しも変わらないようで、安心したよ!」
「そっちこそ。相変わらず、弁舌家のようだ」
蒼一の皮肉に、ブロンドヘアーの女が白い歯を零した。
「人と話すことで、脳の老化を遅らせているのさ。今も彼らに脳トレの相手をしてもらっていたところだ。──こちらはベイカー夫妻。二人とも、スチュアートの会社のエンジニアだ」
蒼一はベイカー夫妻それぞれと握手を交わす。続いてレンジャー博士は、蒼一のことを若い夫婦に紹介した。
「ソーイチは、僕の学生時代からの友人でね。共に“犬小屋”で過ごした仲なんです」
「犬小屋って?」と、ベイカー夫人が聞き咎めるように尋ねる。
「私たちが学生だった頃、我らが母校には、愚かしい因習が残っていました。つまり、肌の色が白い者とそうでない者とで、使用する研究室がわかれていたのです。私もソーイチも、このとおり後者でして、黒人や黄色人種は、みな狭くてボロっちい部屋に押し込められました。その様子を、学生や教授の一部が揶揄して、『犬小屋』と呼んでいたんです。
もっとも、こうした悪しき習わしも、ある種『フィクションを信じ共有する能力』のなせる業、と言えます。男尊女卑やユダヤ人への迫害も同じ。差別する側はあれこれと言い分を並べ立てますが、どれも生物学的根拠などありません。結局のところはまやかし──時代の支配階級が、自らに都合のいいフィクションをでっち上げ、永い年月を経て、それが浸透してしまった。もちろん、肌の色や性別の違いによって、知能や品格に違いが現れるはずありません。我々はみな、ホモ・サピエンスという、同じ生物種なんですから」
長広舌が息を吹き返す兆しが見えた。レンジャーの主張には蒼一も賛同するし、犬小屋で受けた仕打ちは未だに忘れられない。が、しかし、今は人種差別について、熱く議論している場合ではない。
「もうそれくらいでいいだろう。これ以上脳を活性化させたら、お気に入りのキャップが入らなくなるぞ?」
わざと戯けた言い回しで遮ったのち、今度は声を潜め、旧友に耳打ちをする。
「……例の件で話がある。ここではなんだから、場所を変えよう」
若いアメリカ人のカップルには伝わらぬよう、蒼一は日本語で伝えた。レンジャーは一瞬だけ眉根を寄せたが、すぐにまた、それまでの穏やかな表情に戻る。
「それじゃあ、我々犬小屋ブラザーズは、外の空気を吸って来ることにします」
ホテルのパーティーホールを後にした二人は、外廊下から、青々とした芝生の茂る庭へ、下り立つ。
そのまま回れ右をして、ホテルの外壁に沿って、しばらく並んで歩いた。
「こうして君と再会できて、本当に嬉しいよ。君が僕にしてくれたことには、全て感謝しているんだ。特に、あの素晴らしい旅行のことは、今でもよく覚えているよ」
「あれくらい、大したことではないさ」
「十分すぎるくらいだ。僕は君のお陰で、キャシーの死と向き合うことができたんだから」
「そうか……」
蒼一は笑みを崩さずに相槌を打つ。が、内心では、レンジャーの話す流暢な日本語を、忌々しく感じていた。
レンジャーに日本語を教えたのは、学生だった頃の蒼一自身なのだが……まさか、ここまで堪能になるとは。
蒼一は、過去の自分の親切心を後悔した。とはいえ、全く利点がないわけではない。これから行われる交渉においては、母国語を使うことのできる蒼一の方が、有利になるはずだ。
パーティーの喧騒が十分に遠のいたところで、二人はようやく足を止める。雲間からわずかに顔を覗かせる月の光が、暗がりに立つ彼らのシルエットを、辛うじて浮かび上がらせた。
「それで? 僕の敬愛すべき親友が、わざわざ人目を忍んでまで話したいことというのは、何なのかな?」
「わかっているはずだ、カーネル。メッセージで送ったとおり、連中との仲を、君に取り持ってほしい」
「……“神薇教”か」
一転して、レンジャーは低い声で呟く。先ほど会場で再会した時から、蒼一の目的を予想していたのだろう。
「そうだ。神薇教を抑え込まなくては、我が一族に、安寧は訪れない。火薬の詰まった不発弾を枕にして、寝起きするようなものだ」
「そこまで怖れる必要があるとは、思えないけどね。いいじゃないか、好きにさせておけば。彼らはただ、鷺沼家を崇め奉るだけの団体なんだろう?」
「連中の言い分そうらしいが、実際のところ何を考えているのか、わかったものじゃない」
そこが蒼一の、最も怖れている点であった。神薇教の連中は、今のところ鷺沼家の味方のように振舞っている。特に信仰に対する見返りを要求するわけでもなく、そもそも向こうから接触して来ること自体、滅多にない。
しかし、だからこそ、常に不穏さがつき纏う。目的のわからぬ以上、手放しに信用するわけにはいくまい。
「僕の認識では」レンジャーは、憎らしいほど冷静な声を発した。「君のお父さんは、神薇教の存在を許容していたはずだ。君や、他のご家族だって、今まで見て見ぬフリをして来たんだろう? それなのに、どうして急に」
「状況が変わった。あの事件について、嗅ぎ回っている連中がいる。一応、そちらへの対処はすでに済ませたが……まだ、安心できなくてね。少なくとも、このまま父の采配に任せていれば、いずれあのことまで、明るみに出てしまうだろう。……それだけは、絶対に避けなければならない。我が一族の──いや、日本の為に」
蒼一は右手で顔を覆った。終戦直後から今日に至るまで、永きに亘り財界に君臨して来た鷺沼家の失脚。それが日本の経済や国際的立場に与える影響は、如何ほどの物か……想像だに恐ろしい。
「……知ってのとおり、我が国はオリンピックとパラリンピックの開催を、目前に控えている。私たち鷺沼グループも、スポンサー企業として多額の協賛金を納めていてね。うちにとっても、日本にとっても、大切な時期なんだ。スキャンダルの芽は、早急に摘み取ってしまいたい」
「……僕に、どうしろと言うんだ」
「取り引きに応じるよう、連中を説得してくれるだけでいい。私たちを崇めていると言う割に、こちらの話には、あまり耳を傾けてくれなくてね」
神薇教の連中が、鷺沼家に対し絶対の忠誠を誓っているのであれば、話はもっと簡単だった。鷺沼家の「秘密」に関して、永遠に口を噤むよう、命じればいい。
しかしながら、彼らはどういうわけか、蒼一からのコンタクトには、一切応じてくれないのである。蒼一が思うに、実際のところ神薇教が崇めているのは、蒼一の父である宗介なのだろう。親の臣下に見下されているようで、腹立たしい限りだ。
「頼む。これは、君にしかできないことだ。どうか、私の家族を護る為だと思って、力を貸してほしい」
蒼一は、腰を折って頭を下げた。誠意を示す為──いや、最後通告のつもりで。
「……申し訳ないが」掠れた声が、ジェルで固めた頭の上から、降って来た。「引き受けることはできない。僕は、ただの人類学者だ。力にはなれないよ」
「…………」
顔を上げた蒼一は、思わず眦を決する。
「凄まれたって、無理なものは無理だ。なあ、ソーイチ。君がどれだけ多くのものを背負って生きているか、僕にだって想像できないわけじゃない。鷺沼グループの新たな代表として、多くの社員たちを、ひいてはその家族の生活を守らなくてはいけないことも、よくわかっている。……けれど、鷺沼家の抱える秘密は、いつまでも隠し通せるほど、ヤワなモノじゃない。神薇教がどうのとか、そんなこととは無関係に……いずれ、聡明で勇気ある誰かが、真実に気づくだろう。それも、もしかしたら、そう遠くないうちに」
──知った風な口を利くな! そう怒鳴りたくなる気持ちを堪え、蒼一は精一杯の懇願を、声色に込めた。
「……我々を、見捨てるというのか?」
「そうじゃない。僕は君のことを一番の友達だと──いや、兄弟とさえ思っている。心からね。だからこそ、鷺沼家の中で君だけは、このまま真っ当に生きてもらいたいんだ」
諭すような、そして哀れむような、穏やかな語調。それは蒼一にとって、堪え難い屈辱であった。
「……そうか。よく、わかったよ」
姿勢を戻しながら、蒼一は努めて平静を装った。わずかに声が震えてしまったが、表情に関しては、うまくコントロールできた方ただろう。
「残念だが、諦めるしかないようだ。……ただ、最後に一つ、教えてくれ」
レンジャーは、イエスともノーとも言わず、主人に打たれた雑種犬のような哀しげな瞳で、蒼一の姿を見つめていた。
「──リンカ・クラハシに、会いたくはないか?」
これが、蒼一の切り札だった。
そして、レンジャーの見せた反応は、蒼一の想定していた中で、最も望ましいもの──明らかな動揺であった。
「だ、誰だって?」
「惚けるなよ、カーネル。君も、いや、君たちも、よく知っている名前だろう」
レンジャーは黙り込んだ。レンズの奥の二つの瞳が、逃げ場を探すように、あちこちに視線を向け、動き回る。
「父が、彼女を我々の『町』に招待してしまってね。あの事件の再調査といい、余計なことをしてくれたものだ……。が、しかし、君さえ協力してくれたなら、全てが丸く収まる。……どうだね、レンジャー。もう一度、リンカ・クラハシと会いたいだろう?」
「……ぼ、僕は、そんな人、知らない」
「シラを切るか。まあ、それならそれで、私は構わないがね」
蒼一はこの時、確信に近い予感を抱いていた。レンジャーは必ず、この話に乗って来る、と。
「しかし、もし気が変わったら、明日の夜までに、私へ連絡してくれ。今度こそ、いい返事を期待しているよ──ケンネル・ストレンジャー」
学生時代、誰かが彼のフルネームを捩って発明した、侮蔑的な渾名を、口にして。
鷺沼蒼一は踵を返し、旧友の前から立ち去った。
呼び止める代わりのような視線が、スーツの背中に投げかけられるのを感じながら……しかし、蒼一は、感情の消えた白い顔を、塗り潰すような黒い瞳を、ただ前にだけ向け続ける。
蒼一は、すでに決意を固めていたのだ。
一族の「秘密」を、そして日本の経済を守る為に。
悪になることを。