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白亜の町に死す ドラマツルギー  作者: 若庭葉
第五章:白亜の町に死す
41/42

潮騒

 同日──奇しくも同時刻。


 大阪府警察本部本庁舎にて。刑事部捜査第一課のオフィスを出ようとしたところで、岩尾は呼び止められた。

「岩さん、少しいいですか?」

 部屋の最奥に置かれた自身のデスクに腰かけたまま、岩尾の直属の上司である三井が、彼を手招く。いつ見ても刑事らしからぬ柔和な笑みを、刑事らしからぬマイルドな顔に貼りつけて。

 岩尾よりも四つか五つ歳下の警部は、むさ苦しい刑事部屋を取り仕切る者には不釣り合いなほど、爽やかな風貌をしていた。若者言葉──と、岩尾は認識している──で言えば、イケメンということになるか。

 唯一の難点としては、唇の血色が頗る優れないことで、他のパーツが整っているぶん、余計際立って見えた。三井が刑事部に入った当初など、その唇の色から、「フジキくん」という渾名を陰で口にする者もいたが……それでも、十分に美男子の部類であることは、間違いない。少なくとも、先輩刑事から「岩石顔」だの「大阪組の鉄砲玉」だのといった蔑称を賜って来た岩尾とは、比べるまでもなかった。

 三井は優男風の見た目どおり、基本的に誰に対しても、物腰穏やかであり──だからこそ、取り調べ中の被疑者に侮られる場面が、度々あった。仕事ぶりに関しては優秀そのもので、実際に三井が今のポストに就任して以来、捜査一課の成績は、目に見えて向上したのだが……それにしても、刑事が犯罪者に舐められるなど、メンツが立たないではないか。その点において、岩尾は常々この上司に、不満を抱いていた。

 無論、そんな感情など、一切(おもて)にすることなく──不満どころか、仕事中の岩尾は、全くの無表情でいるよう心がけている──、デスクを挟み、上司に尋ねる。

「何でしょう?」

「さっき、奈良県警から返事をもらいましてね。例のライオンを乗せたトラックは、やはり鷺沼家の保養地に向かった可能性が、高いそうです」

 三井は長い脚を組んでデスクチェアに座り、髭の剃り跡さえない顎を摩る。何気ない仕草一つ取っても、芝居がかって見えた。

「では、直接確認に向かった方が、よろしいですか?」

「そうですね。動物園でのコロシに、鷺沼家の三男が、どの程度関係しているのか……上層部(うえ)が一番関心を寄せている点は、そこでしょうから」

 約二週間前、大阪市内のとある動物園で起きた毒殺事件は、早々に解決することができた。コロシの実行犯である動物園スタッフの男と、被害者の交際相手だった女をしょっぴき、殺人と幇助の罪で逮捕した。

 そこまではよかったのだが……つい三日ほど前になって、予想外の名前が、途切れたはずの捜査線上に、浮かんだのである。

「……余剰動物と言うんでしたっけ? 飼育スペースが確保できなかったり、資金面の問題で飼いきれず、余ってしまった動物。特に、ライオンは寿命も長く、餌代も相当かかる為、かなりの安価で取り引きされるのだとか。今回のような成獣の雄ライオンともなると、十万や二十万、場合によっては無料で譲渡される場合もあるそうです」

「知っています。私も調べましたから」

 件の動物園は、近年経営難が続いており、特に費用面の問題から、こうした余剰動物を出してしまうことが、増えていたという。

 基本的に、余った動物は、他の動物園に譲渡していたのだが……中にはあまり公にできない方法で、処分する場合もあった。

「動物園側は、鷺沼三黄彦に雄のライオンを一頭、売り渡したと認めています。三黄彦は映画監督であり、次回作の撮影に、ライオンを使うつもりだったらしい。どんな作品を構想しているのか、気になりますね」

 岩尾は少しも気にならない。そんなことは、どうだってよかった。

「猛獣を運搬するには、本来様々な手続きを踏まなくてはならない。しかし、彼らはそうした諸々の申請を省き、秘密裏に輸送を行いました。幌を被せたトラックの荷台に、ライオンの入った箱を積み込み、夜のうちに運び出した。まるで、夜逃げのようだ」

 他にも、渦中のライオンには動物用の()()()を仕込んだ餌を与え、運搬中は眠らせていたらしい。動物愛護主義者が聞きつけたら、烈火の如く怒り出しそうだ。

 それはそうと、三井は何故、共有済みの情報を、わざわざ(さら)うような真似をするのか。

「当面の餌として、業務用の鶏肉を卸している業者を紹介したと、園長が言っていました。随分とサーヴィスがいい。それもこれも、鷺沼家のネームバリューがそうさせたのでしょう」

 ライオンの売却は、毒殺犯の二人だけでなく、動物園の大半のスタッフが、関わっていた。聴取に応じた園長曰く、数年ほど前から、件のライオンを持て余し、処分に困っていたとのこと。

 何より、三黄彦が口にしたという、「自分は強固な後ろ盾によって守られている」「鷺沼家の名前さえ出せば、大抵の問題であれば揉み消せる」といった言葉に惑わされ、違法な売却に、踏み切ったらしい。

 この証言を引き出した場に居合わせた岩尾は、当然呆れたが──やはり顔には出さず、淡々と聴取を続けた。

「問題は、市岡がこの秘密の取引を、知っていたこと。そもそも、三黄彦と動物園を繋いだのは、市岡でした。……市岡殺しの動機は、謂わゆる痴情のもつれであり、コロシの方にまで三黄彦が関わっていた、という可能性は、低いでしょうがね」

「被疑者らが、あのタイミングで市岡を殺害したのは、他に始末する機会がなかったから。本来、市岡は殺された日の翌日に、海外へ、長期出張に向かう予定でした。この供述を信じるのであれば、やはりライオンの件とは、無関係かと……」

 いつもの如く無味乾燥な声音で、岩尾は答える。

 にも拘らず、上層部が鷺沼家との関わりを気にしているのは、やはり各方面に及ぼす影響を、考慮してのことか。

 三黄彦の名前が飛び出した当初、この一件に関してどこまで深追いすべきか、議論がなされた──という噂を、岩尾は耳にしていた。幾ら相手が名家の人間であり、その親が財界の重鎮であるとはいえ、警察が目溢しをするなどあろうはずがない。岩尾はそう断じていたのだが……捜査続行の許可が下されるまでには、数日間の空白があった。

 その事実がまた、岩尾は気に入らない。

「早いところ、お偉方を安心させてあげなくては」

 岩尾の心情を見透かしたかのように、三井が言う。ウインクでもオマケでついて来そうな笑みを浮かべながら──部下を見上げるその黒眼だけは、酷薄そのものだった。

 三井は刑事らしからぬ優男である。が、時折りこうした真逆の一面を、垣間見せるのだ。

 岩尾が三井を苦手としている第二の理由が、これだった。

 この警部は、どこか得体の知れないところがある。三井とは、それなりに長いつき合いとなったが……岩尾は未だに、彼の本質を掴み切れていない。

 お互いに、本心を隠す術に長けている、ということか。

「……了解しました。すぐにでも進めます」

「ええ、お願いしますよ。──と、そうだ。例の事件でガイシャを発見したのは、緋村くんでしたよね? しかも、岩さん相手に()()()()()()()()とか」

 どうやら、三井が本当にしたかったのは、緋村の話のようだ。

 内心では早いところ解放してほしかったが……無理に上司との会話を切り上げるわけにもいくまい。岩尾は抑揚のない声で、至極無難な返事を述べる。

「他殺である可能性を、まっさきに見出していました」

「そのようですね。やはり、彼は面白い。一般の、それも一学生の身でありながら、様々な事件に巻き込まれ、その度に真相を解き明かす。まるで、小説やドラマのようだ」

「……本人にしてみれば、別に楽しいことではないでしょう。この間会った時は、お祓いに行くことを勧めておきました」

「岩さんが? そんな冗談めいたことを言うなんて、珍しい。いや、まあ、本気で勧めたんでしょうけど。……いずれにせよ、このまま野放しにしておくには、少々もったいない才能だと思いませんか?」

 ──始まったよ。

 岩尾が三井を嫌っている、第三の理由。三井はどうも、緋村の能力を、相当買っているらしい。

 それだけであれば、岩尾とて好きにすればいいと思うのだが……問題は、本気であの無愛想な青年を、「こちら側」へ引き入れようと考えている、節のあることだ。

 素人の知恵を借りて事件を捜査するなど、それこそフィクションではないか。そんな妄想じみた考えを、自分の上司が抱いていると思うだけで、岩尾は肌が粟立つ。

「さあ? とても頭がキレることだけは、間違いないでしょうが……しかし、彼のやり方と我々のやり方は、違いすぎます」

「だからこそ、その二つを合わせたら、もっと効率よく犯罪者を検挙できるのではないか、と思うんです。岩さんには、賛同してもらえませんか」

 さして落胆している風でもなかった。想定内の返事だったのだろう。

「まあ、私も本気でそんなことが実現可能とは、考えていませんけどね。少なくとも、今はまだ」

「…………」

「──ああ、すみません。長々と話し込んでしまった。とにかく、今は鷺沼三黄彦の件を、進めましょう。それと、彼の買い求めたライオンの処遇も、考えておかなくては。どんな映画を撮るつもりか知りませんが、専門家でもない限り、世話なんてできるわけがない。飼い慣らせない猛獣は、他の動物園に引き取ってもらうか……さもなくば、殺処分かな」

 三井は最後まで、全く同じ笑みを貫いていた。その瞳の奥に、油断ならない冷酷さを宿して。

 ──自分なら、どんな猛獣でも飼い慣らせるって、言いたいんか?

 岩尾は、胸の内で問いかける。無論のこと、平常どおりの仏頂面を、保ったまま。


 ※


 静寂に満ちた礼拝堂の中。

 肉を咀嚼し嚥下する音だけが、しばしの間、無遠慮に響いていた。

 手品やびっくり箱のように──などという比喩表現では、生温いか──、突如として現れた闖入者。二メートル近い体長を誇る雄ライオンは、数日振りの食事を、夢中になって貪る。

 実際には、閉じ込められていた箱から脱出した直後に、俊太の体の大半を、腹に収めていたのだが……その程度では、空腹を癒すには足りなかったか。

 あるいは、自分を闇に捕らえていた人間たちへの、復讐心からか。

 ライオンは、レンジャーの体のうち、食すのに適した部位を、怖しい速度で平らげてしまう。

 彼の食事が進むにつれ、食糧として最も不適格な箇所──レンジャーの頭部が、辛うじて繋がっていた首から離れ、カーペットの上を転がり、停止した。天井を見上げるその顔には、驚愕の表情が、永遠に刻印されている。

「な、なんだ、これは……」

 宗介が呟いた。無論、それに答えられる者はいない。

 予想可能な範疇を超える出来事に、誰もがフリーズしていた。

 動くことができるのは、ただ一頭のみ。

 ようやく見られていることに気がついたのか──ライオンは唐突に、レンジャーの腹から顔を引き抜き、宗介の方を向く。

 野生を取り戻した獣は、鼻先や口の周りを、鮮血で濡らしていた。その黒い唇の端から、臓腑か何かの欠片が、垂れ落ちる。

 ガラス玉を埋め込んだような、澄みきった二つの瞳。それは、意思の疎通など到底不可能であることを、何よりも如実に、物語っていた。

「う──」

 宗介は、癇癪を起こしたかの如く、矢庭に叫び声を上げた。

 と、同時に、猛獣目がけ発砲する。

 しかし、恐怖の為に照準が狂ったのか。放たれた弾丸は、鬣の一部を吹き飛ばしたのみで、大したダメージを与えられぬまま、ライオンの付近にある椅子の背もたれを、粉砕した。

 宗介はすぐさま激鉄を起こし、引き金を引く。が、何度指を動かそうとも、拳銃は沈黙したまま──弾切れだった。人間風情を相手に、五発も使ってしまったせいで。

 宗介は慌てた様子で、空になったマガジンを取り出す。が、しかし、ただでさえ扱い慣れていないのだ。このような状況で、スムーズに弾の装填などできるはずもなく。

 彼が手こずっているうちに、ライオンは怖しい咆哮と共に、間合いを詰めた。

 次の瞬間、宗介は迫り来る猛獣の姿──大きく開かれた口に整列する牙と、剥き出しの状態となった鉤爪──を見上げ、その顔中に、絶望を広げた。

「ああ」と、彼が力なく声を漏らした直後。

 鷺沼宗介は、息子と同様、ライオンの餌食となってしまった。


 精一杯の抵抗も虚しく、宗介は体中を噛み千切られ、あるいは引き裂かれ──動かなくなった後は、されるがままとなる。俊太やレンジャーのような食糧ではなく……宗介の役目は、()()であった。

 ライオンは、糸の切れた人形のようになった宗介の首を咥え、乱暴に体を振り回したり、前脚を使ってその場に転がしたりと、好き勝手に弄ぶ。

 そんな惨たらしい光景を目の当たりにした緋村は──口許に、右手を当てがった。

 込み上げる胃液を抑え込む為、ではないのだろう。緋村は、必死に思考を働かせているのだ。この、絶望的としか言いようのない状況を、打開するべく。

 左肩を負傷し、腕一本が使い物にならない状態で、重傷を負った久住と天道を連れて逃げるなど、至難と言わざるを得ない。何か、方法はないか。血を失い、青褪めた顔に脂汗を浮かべながら、緋村の瞳は、忙しなく動く。

 様々な場所に飛んだその視線は、ほどなくして、ある物体へ吸い寄せられた。

 それは、レンジャーの残骸の傍に転がる、拳銃。

 あの銃には、弾丸が手つかずのまま残されている。あれを使えば、ライオンを無力化することが、できるやも知れない。

 問題は、距離と位置だ。件の拳銃が落ちているのは、戸口の付近である。そちらへ向かう為には、当然のこと、ライオン──この短時間のうちに、複数の人間を食い殺した怪物──の真横を、通り抜けなくてはならない。

 それこそ、不可能というものだろう。

 他に、策はないのか。

 再び、緋村の目玉が動いた──そして、すぐに、気がついたらしい。

 腹から血を流す天道が、壁に寄りかかりながら、立ち上がっていることに。

「…………」

「…………」

 二人は視線を交わす。互いの思考は、無事に伝わったのだろう。

 天道は、吐いた血で汚れた唇を歪め、苦笑してみせた。と、同時に、赤く染まった歯を食い縛り、撃たれた場所を庇いながら、歩き出す。

 扉の前に落ちた、拳銃だけを見据えて。

 それを見て取るやいなや、緋村は踵を返し、祭壇の前へと駆けて行く。

 テーブルで出番を待っていたワインボトルを掴むと、緋村は足早に、元いた場所へ引き返した。そして、一旦ボトルを足元に置き、呼吸を整えたのち──胸ポケットから取り出したライターを、ライオン目がけ、投げつけた。

 緩やかな弧を描いた百円ライターは、見事、猛獣の額に命中する。

 楽しい遊戯の時間を阻害されたライオンは、ボロ雑巾のようになった宗介を踏みつけたまま、顔を上げた。

 二つの澄んだ瞳が、緋村の姿を捉える。

 青年はワインボトルを再び握り締め、決然とした表情で、その眼差しを睨み返した。

 左腕は使えない。そうでなくとも、相手は体長二メートルに迫る猛獣。危険極まりない、無謀な賭けである。

 しかし、それでも──やるしかないのだ。天道が、拳銃に辿り着く時間を、稼がなくては。

 緋村は、赤ワインの瓶を、強く、握り直した。

 ──直後、ライオンが動く。

 彼はやはり、脅威的な速度で距離を詰め、宗介の時と同様、獲物に飛びかかる。

 その瞬間、その顔面に、狙いを定め──

 緋村は、手にしたワインボトルを振りかぶり、叩きつけた。

 緋村の雄叫びと獣の呻き声と、固いもの同士のぶつかる鈍い音が、交錯し、反響する。

 予想外の反撃に怯み、ライオンは着地するより先に苦しみもがいた──が。

 当然、それしきの攻撃で退けられるほど、甘くはない。

 突き出されたライオンの前脚が、青年の頬を掠め──爪によって白い皮膚が裂かれ、赤いの雫が数滴、宙を舞う。そのまま押し返される格好となった緋村は、あっけなく武器を手放し、体を捻りながら、床に倒れてしまった。

 体の前面を強打した緋村は、すぐさま片手で床を掻き、両足で蹴飛ばして、追撃を逃れようともがく。そこへ、額をカチ割られた獣が、報復の爪と牙を、突き立てんとする。

 緋村は体を横に転がし、これを避けようと試みるも、惜しくも間に合わなかった。元より血みどろだった左肩を踏みつけられ、緋村は絶叫する。

 そうしているうちにも、人の味を覚えた獣の口が、人を殺し慣れた鋭利な牙が、彼の首元へと迫る。

 緋村は、固く瞼を閉じ、顔を背けながら──

 上着のポケットに入れた右手を、素早く取り出し──


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 緋村の切り札は、友人が落として行った、ただのペンだった。

 鼻先からボールペンを生やしたライオンは、悲鳴を上げるように吼え、大きく体を仰け反らせる。

 それでも尚、彼は緋村を仕留めんと、前脚を突き出した──が、その爪は、空を切った。

 ライオンは、動くことのできない獲物を目の前にして、頭を振り回し、ボロボロの鬣を揺らして、激痛と格闘していた。

 その間隙を、逃すことなく──

 拳銃を構えた天道が、静かに、引き金を引く。

 かくして。

 七度目の銃声が、混沌と化した礼拝堂に、轟いた。


 ……その残響が消え去り、再び静寂が訪れたのち。

 緋村は、閉じていた瞼を、ユックリと開く。

 仰向けに倒れた緋村の隣りには、弾丸を腹に喰らい、完全に動かなくなった獣が一頭。体を横向きにして、(たお)れていた。

 終わったのだ。狂乱の時間は。

 緋村は再び目を閉じ、寝そべったまま、しばし息を整えた。それが済むと、片腕で支えるようにして、どうにか上体を起こし、深々と、溜め息を吐く。

「……さすがに、死ぬかと思った。──助かりましたよ、天道さん。まさか、あなたに命を救われる展開になるなんて」

 言いかけた緋村は、直後、言葉を失った。

 と、同時に、天道の手から、拳銃が落ちる。

 緋村の見つめる先で──俳優の体は背後へと傾き、地球の重力につき従って、沈んで行った。


 ※


 私は、走っていた。

 制止する大人たちの声を、振り切って。ハリボテのような白亜の町の中を、夢中になって駆ける。

 その間にも、先ほどと同じ破裂音が、何度か聞こえて来た。その音がした方を、私は目指す。

 全力で走ったのは、もしかしたら、生まれて初めてのことではないか。昔から、体育の授業は、グラウンドや体育館の隅で見学していることの方が、多かった。

 当然、すぐに息が上がったし、肺が痛み、吐き気がして、心臓の鼓動がアラートのように、胸の内側で鳴っていた。

 それでも、走る。

 どうしても、会いたいから。

 天道さんと、もう一度会って──確かめなくては。

 あなたは本当に、私の父なのですか、と。

 あなたは私の母を、愛していたのですか、と。

 確かめなくては。尋ねなくては。話をしなくては──

 その一心だけで、私はひ弱な両脚を動かし、壊れそうな体を叱咤して、走った。

 そうして、やっと。

 辿り着いた。

 銃声のような音が聞こえた場所──礼拝堂へ。


 開けっ放しにされていた扉の向こうには、予想だにしない光景が、広がっていた。

 人が、何人も倒れているのだ。

 いや、人かどうかも不明瞭な、もっとグロテスクな物体も転がっているし、さら言えば明確に人ではない生き物も、斃れていたのだけれど──私の視線は、すぐにあの人たちへ引き寄せられた為、悍ましい死体の山を目の当たりにして、精神を痛めつけられる暇もなかった。

「な、なんやこれ……何があったんや!」

 いつの間に追いつかれていたのか、松谷さんの唖然とした声が、近くから聞こえた。

 私は心臓の辺りを手で抑えながら、荒くなった息を、整える。体を濡らす汗も、痛いほど早くなっていた鼓動も、もはや気にならない。気にしている余裕さえない、というべきか。

 私はただ、目が離せなかった。

 お腹から血を流し、カーペットの上に倒れた、天道さんの姿から。

 そして、その傍らに膝をついて寄り添う、緋村さんの姿からも。

「琴矢くん……嘘」

 私と同じ場所を見ているらしい橘さんが、息を呑むのが、伝わって来た。

 赤いもので染まった天道さんの口が、動いているのが見える。彼は、何事かを、緋村さんに伝えているらしい。

 まだ、あの人は生きている。生きてはいるのだけれど。

 その命の灯火は、酷く弱々しく……こうしている間にも、掻き消えてしまいそうだった。

 だから、私は──血みどろの惨状にも構うことなく、礼拝堂に飛び込んだ。

 迷っている時間さえ惜しい。早くしなければ、間に合わなくなってしまう。


 ※


 潮騒が、喧しかった。

 誰もいない深更の砂浜に下りた天道は、夜空と溶け合うような水平線に、目を投じる。茫漠と広がる、晦冥の海。黒い唸りとなった波が、しきりに浜に打ち寄せ、砂を攫って行く。

 本当に、来てしまった。つい数時間ほど前まで、海のない県の山奥に、いたというのに。

 天道たちがやって来たのは、大阪府の南西──和歌山県との県境近くにある、海水浴場だった。生まれて初めて目にした海がここなのだと、リンカは語った。

 現在から、約二十年前の記憶。

 ──お城、作らんの?

 仄暗い海を眺め続ける天道に、リンカが尋ねて寄越す。

 天道は、何と答えたのだったか──あるいは、何も言わなかったのか。

 とにかく、その日は砂の城を作らずに、ただ真夜中の海を眺めて、帰ったのだ。

 ──いっそ、無視したらええやん。台本。

 靴のつま先で、意味のない模様を砂浜に描きながら、リンカは言った。天道は、やはりこいつに相談したのが間違いだったと、呆れ──しかし、笑ったのである。

 次の瞬間、一際大きな波が、飛沫を上げながら、リンカの体を呑み込んでしまった。

 天道の目の前で、悪戯な笑みを浮かべていた彼女の姿は、人間大の砂の塊と化し──

 波に攫われ、崩れながら、跡形もなく、海へ還ってしまった。


 ()()()()()()()()

 今まで「誰にも告げずにいたこと」を、一方的に伝え──天道は、再び天井を仰ぐ。視界はすでに霞み初め、照明の光が余計に白く、ボヤけて見えた。

 まさか、()()()()を打ち明ける相手が、緋村になろうとは。のみならず、こんな無愛想で生意気な青年に、看取られる羽目になるなんて……。

 誰の体温も、腹に穿たれた傷の痛みさえも、すでに感じられなくなっていた。

 死ぬのだ。もう、間もなく。

 自らの「終わり」を悟った天道は、思い出す。これまでに二度、人の死に立ち会って来たことを。

 一度目は、大女優だった母親。

 二度目は、殺してやりたいほど憎んでいた、父である。

 天道は、終ぞ父と和解することが、できなかった。それでも、彼が父の死に際につき添ったのは、何故であろうか。心の底から、恨んでいたはずなのに。

 やはり、二人が親子だったからなのか。

 ──死にたくない。まだまだ、書いていたい。

 最期に、天道の父──作家、赤星日出雄はそう呟き、息を引き取った。若い頃から続いた不摂生が祟り、様々な病気に罹った末の、往生であった。

 その時は、こいつは死ぬ間際でさえ、仕事のことで頭が一杯なのかと、呆れたが……。今の天道には、父の、赤星の気持ちが、わかる気がした。

 天道も、同じだ。死にたくない。俺はまだ、「いい役者」になれていない。そう思う間にも、天道の意識は少しずつ、虚無へと沈み落ちて行く。

 打ち寄せられる波に、砂の城が崩され、海原へと連れ去られるように。

 約束を、果たしたかった。母との、それから──

 霞みがかった天道の視界の中に、一人の少女の姿が、映り込む。

 泣き崩れそうになるのを、必死に堪えるような、苦しげな顔が。

 あの時と──十五年ほど前、病室のベッドで眠る彼女の元を訪れた時と、立場が逆転してしまった。あの時は、天道の方が彼女の姿を覗き込み、狼狽えていた。

 ──嫌になるくらい、あいつに似てる。

 娘の顔を見上げながら、天道は思う。リンカの残したシオンは、凛果として育ち、母の死んだこの町へ、やって来た。

 そして今……彼女は、熱を失って行く天道の手を取って、


「──さん」


 凛果の口が動くのを、天道は、確かに見た。

 その声は、潮騒に掻き消され、ハッキリとは聞こえかったが……しかし、凛果は確かに、天道のことを──

「……じ、ん、せい、は」

 天道は、最後のセリフを口にする。


 人生は、砂の城を築くのに似ている。浜辺の砂を掻き集め、手で固めて、やっと城の形になったと思った頃には……。

 いつの間にか潮が満ちていて、容赦なく崩されてしまう。

 けれど。

 僕の城が消え去った後に、別の誰かが、自分の城を造ってくれるなら──

 それはきっと、何よりも、幸福なことだろう。


 ──今なら、もっとうまく、演じられる。

 心残りなら幾らでもあった。しかし、それでも……。

 幕が下りたら、役者は舞台を去る。

 天道琴矢──白亜の町に死す。

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