愛しています
同日──再び時遡り、十九時五分頃。
鷺沼三黄彦──に成りすましていた男、高部俊太は、やはり「映画館」に居残っていた。
室内はシャンデリアの灯りに照らされ、壁にかけられた巨大なスクリーンには、相変わらず、何の映像も流れていない。午後、緋村たちが訪ねて来た時から、ほとんど何も変わっていなかった。
唯一の変化と言えば、俊太がカーペットの上を、這い蹲っていることか。
──死んでたまるか。なんで、俺まで死ななあかんのや!
客人たちと兄が去ってから、俊太は何時間も、一人きりでいた。そうしているうちに、彼の中で膨れ上がったのは、死への恐怖と忌避感。
それは生への渇望へと転じ、果ては自らの置かれた境遇に対する強い怒りにまで、発展した。
──俺は、何も悪いことはしてへん。あいつが怒鳴って来るもんやから、思わずあの婆さんの服を掴んでもうた。それだけやないか。
俊太は今まで、ハイヤームの詩の如く、美酒に酔うことで、迫り来る終わりから、目を背けて来た。……が、やはり、限度というものがある。
──死んでたまるか! 生き延びるんや! 他のみんなが、お袋がどうしたいかなんて、関係あらへん! 逃げて、逃げて──その後のことは、逃げおおせてから考えろ!
そんな決意の言葉を、繰り返し頭の中で唱えながら。
俊太は、何かに取り憑かれたかのように、カーペットの上に散らばった赤い錠剤を拾い集め、次々と口に放り込む。
ゴリゴリと歯で砕き、呑み下す度に、世界と自身との境界が融解するような、不思議な感覚に包まれる。まるで、宇宙と一体化するように……自身を縛りつけるこの世の摂理から、解き放たれて行くように……。
──無の手筥になんか、しまわれるもんか。俺は、人形とちゃう。天そのもの……人形使いそのものや!
俊太は、口の中に残った薬物の破片を、ウイスキーで流し込む。途端に喉から腹の底までが、焼けるように熱くなった。
しかし、それは心地よい熱だった。
しばしの間、えも言えぬ快感に身悶える。絶頂を超えた絶頂、射精をも凌駕する恍惚の極地──銀河との情交に果てた俊太は、宇宙の真理を解し、これまで人類の成し得なかった、精神の完成を迎える。
まさしく全知全能。今の俊太に、怖れるものなどなかった。
完全無欠の存在と化した俊太は、ウイスキーの空き瓶を手に、サンダル履きで、外に飛び出して行く。
「映画館」の前に横たわる砂利道は、町の外にある駐車場へ、繋がっていた。俊太はその道を進み、山道に出て、山を下る算段だった。
が、しかし。表に出た途端、ある物音が耳に入り、俊太はふらつく足を、辛うじて停止させる。
──ゴン、ゴン。
その音は、「映画館」に併設されたガレージの中から、聞こえて来た。
俊太は猪首を捻り、薬物とアルコールで朱色に染まった顔を、そちらへ向ける。閉じたシャッターの先で、再びあの音がした。
──ゴン、ゴン、ゴン。
何か硬いもの同士を叩きつけるような、鈍い音。俊太はその音に、聞き覚えがあった。
──ゴン、ゴン、ゴン。
そうだ。つい数日前に、俊太は似たような音を耳にしている。
俊太の脳裡に浮かんだのは、血に塗れたへーラーの彫像。そして、その鈍器を振るい、鷺沼家の人間を次々と屠ってしまった、悪魔の姿だった。
──あいつ、また誰かを殺しとんのか?
間違いない。
俊太は確信した。再び狂気に陥ったレンジャーが、ガレージの中で、新たな獲物を仕留めようとしているのだ。
「……ええ加減にせえよ、悪党が」
沸き起こる義憤に従い、俊太は行き先をガレージに変える。ウィスキーの瓶を握る手に、自然と力が籠った。
悪人は、成敗しなくてはならない。天そのものであり、正義の化身であるこの俺様が、神罰を下してやらねば。
そんな使命感を抱きながら、俊太はガレージのシャッターを、力任せに押し上げる。
ガレージの中はわずかに埃っぽく、と言って、永い間使われていないような感じはなかった。物置も兼ねているらしく、撮影に使われるカメラや三脚、マイクといった機材や、はたまた全く無関係そうな品々──キャンプ用品やら、何の用途があるのかわからないマネキンやら──が、左右の壁に寄せる形で、しまわれている。
しかし、俊太の目に止まったのは、そうした雑多な品ではなく……スペースの大部分を陣取る、一台の中型トラック。
──ゴン、ゴン、ゴン。
先ほど耳にしたのと同じ物音に連動し、トラックの車体が、ガタガタと揺れていた。
その荷台には、幌が取りつけられており、どうやらレンジャーはその中で、凶行に及んでいるらしい。
トラックを睨みつけた俊太は、千鳥足で、荷台の後方へ回り込む。幌の背面は、カーテン式になっていた。
レンジャーが飛び出して来ても迎撃できるよう、俊太は空き瓶を、胸の高さに構えた。そして、一思いに、幌のカーテンを開け放つ。
次の瞬間、現れたのは、レンジャーではなく──鉄製の巨大な箱だった。
一見して、食品か何かを運ぶコンテナのようである。それと、特徴的なのは、片開きの扉の上部に、網を張った細長い覗き窓のようなものが、あること。
また、その時には、先ほどの音はもう聞えておらず、トラックも揺れていなかった。
しかし、やはり気配がする。箱の中に何者かがいることは、間違いない。
それはレンジャーか、はたまた別の誰かか……。
俊太は、その何者かの正体を確かめるべく、荷台に乗り込み、紅潮した顔を、扉に近づけた。
そして、網の張られた窓の向こう側を、覗き込んだ──刹那。
一際強い衝撃と共に、限界を迎えたらしい鍵がひしゃげ、俊太の体を押し退けながら、扉が勢いよく開かれた。
鼻っ柱を強打した俊太は、痛みを知覚するより先に、荷台から転げ落ちる。と、ほとんど同時に、今度はガレージの壁に頭と背中を打ちつけ、英雄気分だった俊太は、あっけなく昏倒してしまった。
床の上に転がるウイスキーの瓶。
そして。
全くの無力となった俊太へ──闇の中に捕らわれていた者が、容赦なく襲いかかった。
※
「……我が子? いったい、何を言っているんだ?」
誰よりも先に、レンジャーが、困惑の表情を浮かべた。
宗介は唇を結んだまま、緋村のことを見つめ、真澄は反対に、見たくないものから目を背けるように、俯く。
「宗介会長。本当に、レンジャー博士と心中なさるおつもりなら……その前に、教えてあげるべきではありませんか?──レンジャー博士の本当の父親は、あなただと」
緋村の顔には、お得意の皮肉な笑みが、蘇っていた。名指しされた宗介は、この太々しい青年に対する憎悪を、石像めいた顔中に、広げる。
「……う、うそだ……宗介会長が、僕の父親だなんて」レンジャーは、首を振って否定する。「そんなこと、あり得ない」
「レンジャー博士と宗介会長は、目許がよく似ています。そして、蒼一社長とも。蒼一社長と顔立ちが似ていたからこそ、博士は彼のフリをする気になったのでは?」
「確かに、そうだけど……でも、やっぱり」
「博士も、鬼村医師の子供──紫苑さんが産んだ第一子であると、伝えられていたのですね?」
「あ、ああ。だからこそ、僕も神薇薔人の支援を、受けることができた。……それに、昔祖父に言われたことがある。『お前は鷺の子だ』って。祖父は、肌の色が違う僕のことを、『醜いアヒルの子』に喩えた後で、そう言い直したんだ」
「お祖父さんは、知っていたのでしょう。あなたの産みの親が誰なのか。もっと言えば、渡米して来たあなたの母親が、安全に出産できるよう、サポートもしていた。──そうですね? 高部さん」
名前を呼ばれ、真澄は小さな体を震わせた。彼女は怖々といった風に面を上げ──それから、固く瞼を閉ざし、息を吐く。
「……私は、あくまでも和人と俊太の母です。カーネルさんのことは……産んだだけや」
真澄は受け入れるように、あるいは投げ出すかのように、そう言った。
ここにもまだ、残っていたのだ。隠された血の繋がりが。
「真澄さん……」
掠れた声で呟く宗介に、
「緋村さんの言うとおりですよ、宗介さん。あなたとの約束を破るつもりはあらへんけど……ここまで来たら、教えてあげてもええはずです」
元家政婦は、静かに応じる。
その姿を、レンジャーは拳銃のグリップを握ったまま、茫然と眺めていた。
「宗介会長と高部さんが、この町で死ぬことを望んだ理由。それは、紫苑さんへの贖罪も兼ねていたようですが……本当は、レンジャー博士を想ってのことでもあった。レンジャー博士の犯した罪は、あまりに大きすぎる。贖うことも、揉み消すことも困難。ならばこそ、産みの親として、せめて一緒に死んであげよう。お二人は、そんな結論に至ったのですね?」
「……どないかしてあげられへんか、宗介さんと話し合うたんやけどね。結局、それ意外の選択肢は、考えられんかった。蒼一さんたちや、残されたご家族──奥さんやお子さん──への、罪滅ぼしって意味でも……一緒に、死ぬくらいしか……」
懺悔するような、真澄の言葉。それを聞いた緋村は、今度は宗介へ向き直り、
「レンジャー博士も蒼一社長も、今年で四十九歳──つまり、五十年前の事件が起きた翌年に、生まれている。……紫苑さんが襲撃された当時、高部さんはすでに、レンジャー博士を授かっていたのでしょう。だからこそ、その父親である宗介会長は、瑠璃子夫人の企図した犯罪に、加担する羽目になった。不倫相手だった高部さんと、そのお腹の中にいた子供を、守る為に」
「……あの時期は、本当に辛いことばかりでした。真澄さんとの関係や、彼女が私の子を身籠ったことまで、瑠璃子に知られてしまい……。私があの時、瑠璃子に従っていなかったら、真澄さんもレンジャーくんも、とうに殺されていたでしょう。それくらい、瑠璃子には、造作もないことです」
宗介は何故、当時まだ十三になったばかりの義妹を、抹殺する──ように見せかけて、植物状態で延命する──計画に、加担したのか。その謎に対する解が、ようやく与えられた。
愛した女性と、子供を守る為。非道な犯罪に関与する理由としては、まずまず納得のいくものだろう。
その正当性は、別にしても。
「高部さんの言葉を借りるなら、紫苑さんを犠牲にして、二人を守ったわけだ。そして、事件の後、高部さんはアメリカへと渡り、宗介会長との子供を出産した。これも、瑠璃子夫人の魔の手から、逃れる為……どこかで聞いたような話です」
聖子──いや、リンカと同じである。リンカもまた、陣野から逃げながら、アメリカでシオン──凛果を産んでいる。
「…………」
天道は、椅子の背もたれに腕をかけ、両脚を床に投げ出した体勢で、礼拝堂の天井を見上げていた。
再び、緋村の声が響く。
「聖子さんに渡米を勧め、それに必要な準備を手伝ったのは、高部さんたちですね? 天道さんの元から消えた聖子さんは、神薇教のみなさんを頼った。聖子さんは、あなたたちに、こんな相談をしたのでしょう。『恋人に迷惑をかけぬよう、人知れず、彼の子供を産みたい』と。
聖子さんの遺品には、読み古された『ルバイヤート』がありました。あれは、おそらく『三黄彦』さん──いや、俊太さんに勧められるかして、購入したものだったのでしょう」
実際に『ルバイヤート』を愛読書としていたのは三黄彦ではなく俊太であり、遺留品として発見されたあの文庫本は、神薇教との繋がりを、示唆していたのだ。
「……私から、宗介さんにも事情をお伝えして、カーネルさんの住まいの近くで暮らせるよう、手配してもらいました。それと、カーネルさんにも。聖子さんを支えてあげてほしいと、連絡して……。『聖子さんはあなたの妹や』って、嘘を吐いたんです」
「高部さんのお宅には、瑠璃子夫人から贈られた仏壇が、あるのだとか。その仏壇に飾られているのは、鬼子母神の掛け軸であり、位牌には、誰の戒名も俗名もない。……あの仏壇は、レンジャー博士を──あなたと宗介会長の子供を、弔う為のものだったのでは?」
「……ええ。私が、まだ赤ん坊やった和人を引き取った、少し後です。奥様が、あのお仏壇を送りつけて来てよって……。私も初めは、意味がわかりませんでした。けれど、鬼子母神様のことを知ったら、理解できた」
「鬼子母神は、五百人、あるいは千人の子供を持つ母。と、同時に、かつては人間の子を攫って食う、怖しい存在でもありました。その所業を見兼ねた釈迦は、彼女が最も愛していた子供を、隠してしまう。鬼子母神は、七日間も世界中を探し回りましたが、その子供を見つけることはできず。最後は釈迦に諭されて、人の子を攫うのをやめ、三宝に帰依することと引き換えに、子供を取り戻しました」
「『多くの子供のうち、一人を失っただけで、それほど嘆き悲しむのだ。一人きりの子を失った親の悲しみがそれ以上であることが、お前にもわかっただろう』。お釈迦様は、そんな風に仰った。以来、鬼子母神様は子安の神様になったんやとか。……あの女性らしい、一流の嫌味やわ。宗介さんとの子供を隠しておくしかなく、その代わりのように、他所様の子供を育てる私を、鬼子母神に喩えたおつもりやったんでしょう」
「海外に残して行くしかなかった我が子の仏壇を、送りつけられた。そのような仕打ちを受けていながら、あなたは神薇薔人教団なる団体を立ち上げ、鷺沼家を、信仰して来たという。とても、矛盾していると思います」
「……意趣返し、のつもりやったんです。奥様からいただいた仏壇を拝み倒して、無邪気に有り難がる。そうすることで、『あなたの嫌味なんて、私には全く効いてません』という、ポーズを取りたかった。最初はそれだけやったんですけどね。それが、次第にエスカレートしてもうて……。結局、幾ら強がったところで、怒りは治らんかった。せやから、私は……引き取った子供たちへ、語り継ぐことにしたんです」
鷺沼家の素晴らしさ。長い歴史の中で積み上げて来た、輝かしい功績──その裏で、どれほどの悪行を、働いて来たか。
今まで何人の命を奪い、何体の屍を拵えて来たか。
真澄は自身の知る限り、鷺沼家の暗部について、子供たちへと伝えて来たのだ。
まるで、それが神薇薔人教団における、「聖典」であるかのように……。
「それくらいにしておきましょう、真澄さん」年老いた声で、宗介が言う。「あなたの苦しみは、私にもよくわかる……。しかし、今は一刻も早く、この茶番劇に、幕を引かなくては」
時間がない、と改めて付言し、宗介は再び拳銃を握る腕を、持ち上げた。
その銃口が向けられた先は、緋村でも、天道でもなく──
「……こんな終わらせ方になってしまい、申し訳ない。なるべく、苦しまないよう努めるよ」
「ええんですよ。私は最期まで、あなたに従うと、決めたんですから」
緋村は、すぐさま駆け出した──直後、宗介の体の向きが変わり、かと思う間もなく、四度目の銃声が轟く。
放たれた弾丸は、緋村の左肩を抉り、最終的には、祭壇の角に着弾した。緋村は呻き声を上げ、顔を歪ませて蹌踉めいた。が、倒れる寸前で踏ん張ると、果敢にも、再び前進を試みる。
が、しかし。
ただでさえ距離があるのだ。血を流し、焼けるような激痛に耐えながらでは、到底間に合うはずがない。
「……愛しています、宗介さん。彼岸に行った後も、ずっと」
「……ありがとう」
──五度目の銃声。
満足げな微笑を湛え、椅子の上に倒れ込む真澄の姿を、レンジャーは、なす術なく見ていた。
緋村の足が、止まる。左腕をダラリと垂らし、悔しげに唇を噛み締め、項垂れるその頭に──まだ熱を帯びた銃口が、照準を定めた。
「先ほど、私の計画を、無意味だと仰いましたね?……しかし、本当に『意味のないこと』をしているのは、あなたの方でしょう。あなたが出しゃばらずとも、罪人は裁かれ、全ての真実が、白日の下に晒される」
油断なく銃口を突きつけながら。宗介は、左手をジャケットの内側へ入れる。今度は拳銃ではなく、一封の白い封筒が、取り出された。
「このとおり、シッカリ遺書を認めて参りました。ここには、私たちがこんな茶番を演じることになった経緯が、全て記されています。……無論、過去の事件の真相──天道さんと橘さんが結託して、聖子さんを殺害したことも、含めて。とどのつまり、あなたのしたことは、徒労でしかないわけです。本当に、ご苦労様でした」
冷酷に言い放ち、宗介は遺書とやらを、再びジャケットにしまった。
それから、今度は自身の背後に向け、
「……さあ、レンジャーくん。次は、君が勇気を出す番だ。橘さんを追いなさい」
静かに命じる声。
振り返る気配のないその背中を、彼の隠し子は、茫然と見つめていた。
「ぼ、僕とソーイチは……本当に、きょうだいだったのですか?」
「急ぐんだ。私との約束を、忘れたわけではないだろう?」
「ぼく、は……じぶんのきょうだいを、ころし、た……?」
「早く! 従わないのであれば、今すぐに彼を殺して、私が向かう!」
怒声を上げ、宗介は引き金に指をかける。
緋村は逃げるどころか、顔を上げようとすらしない。
二人の姿を目の当たりにしたレンジャーは、次に、握り締めた凶器を見下ろし──踵を返した。
「……あの時のことを、思い出してください。『聡明で勇気ある人間になりなさい』。あなたは僕に、そう言ったんだ!」
緋村の言葉──いや、過去に発した自らの言葉から、逃げるように。
レンジャーは、カーペットの上を駆け抜ける。
「お願いです……レンジャー、博士……」
扉の手前で、人類学者は足を止めた。しかし、それもほんの一瞬のことであり、緋村の恩人は、一度は躊躇う素振りを見せたものの、結局は、ノブに手をかける。
レンジャーが、扉を開いた──と、ほとんど同時に。
戸口から現れた一頭のライオンが、その巨体が影と化すほどの速さでレンジャーに飛びかかり、彼の首を、噛みちぎってしまった。




