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白亜の町に死す ドラマツルギー  作者: 若庭葉
第五章:白亜の町に死す
38/42

みな死ぬのだから

 惨劇は、たった半時間足らずのうちに演じられた。

 神薇教の面々に救い出されたレンジャーによる、狂乱。それは、多少無理にこじつけるのであれば、虚構を信じ共有する力を獲得したホモ・サピエンスが、他の旧人類たち──彼らは、直接血の繋がる者としか協力できなかった──との生存競争において、圧倒的優位性を発揮したように。

 人類が、永い地球の歴史において、類稀な速度で繁栄し、ついには地上の支配者を名乗るまでに至ったように。

 苛烈な「事件」と言えた。

「……どないする、これから」

 ソファーに体を預け、鼻を抑えて天井を仰いでいた和人が、誰にともなく問う。いや、それは問いかけですらなかったのかも知れない。答えられる者などいないことは、和人にだって、わかっていたはずである。

 四人は、リビングにいた。

 レンジャーは別のソファーに座り、顔を覆ったまま動かない。一方、俊太は壁際に蹲り、虐められた子供のように、嗚咽するばかりだった。

 出窓の前に放置された蒼一の顔には、ハンカチが被せられ──その持ち主である真澄は、亡骸の傍らにしゃがみ、手を合わせていた。

「……どないしたらええねん、俺たち」

 再び、和人が呟く。

 今度の声には、反応があった。

「ごめん……ごめんなさい。僕の、せいで……こんな、怖しいことになって……」

「……そうや」俊太が、涙と鼻水で濡れた顔を上げる。「カーチャンが悪いんや! 俺は、俺は何も悪ない! カーチャンの言うとおりにしただけや!」

「やめろ俊太。今更言うたかて、何も変わらん。……むしろ、カーチャンを止められんかった俺らにも、責任はある」

 兄の言葉に、弟は再び顔を伏せ、啜り泣きを始める。レンジャーの方も、涙声で「ごめん」と繰り返したきり。三人の男たちは、途方に暮れていた。

 すると、死者への祈りを捧げ終えたらしい真澄が、あるものを拾い上げ、立ち上がった。

 それは、持ち主の傍らに投げ出されていた、蒼一のスマートフォン。

「……なんや、まだ繋がっとるやないの」

 画面を見下ろして、真澄が言った。

 それを聞いた三人は、突然現実に引き戻されたかの如く、みな一斉に、真澄に注目する。

「もしもし? 聞こえはります? なら、宗介さんに代わっていただけますか? 近くにいてるんでしょう?」

 誰かが制止する間もなく、真澄は電話口にいる相手と、やり取りを始めてしまう。

「ええ、知っていますとも。軟禁されとるご様子でしたからね。どうせ、蒼一さんの差し金で、聖子さんの娘と会わせんようにするつもりやったんでしょう」

 そう。宗介は今、東京にある鷺沼家の邸宅で、軟禁状態になっている。

 だからこそ、監視がつく直前に連絡を受けた真澄たちが、レンジャー救出作戦を決行したのだ。

「私ですか? 私は高部……神薇教の、教祖のようなもんですわ」

 毅然として、真澄は言い放った。


 長い通話を終えた真澄は、空いていた椅子の一つに座り、宗介から(ことづ)かった内容を、男たちに伝えた。

「む、無茶や、そんなこと」まっさきに、和人が反駁する。「役者ちゃうねんで? 鷺沼家に成りすまして客人をもてなすなんて、無理に決まっとるやろ。それも、すぐ目の前で、四人も死んだ後やのに……」

「それが、宗介さんの望みやねん。ご家族の命を奪ってもうた──直接やったのはカーネルさんやけど、その機会を与えたんは、私らや。償いにすらならんくても、せめてあの人の要望には、応えて差し上げるべきとちゃうか」

「そらできることなら、そうしたいけど……」

「それに、あんたらかて会いたいやろ? 大きなった、聖子さんの子供に。たった一人の、姪っ子やねんから」

 和人は口を噤んだ。

 レンジャーも、俊太でさえも、迷っている様子だった。

「私は会ってみたい。一目でもええから会って、元気にしとるのを確かめたら……そしたら、()()()()()()()()()()()

 死──それもまた、宗介の望みなのだ。

「ほ、ホンマに死ぬつもりなんか、お袋。な、なんで、俺らやお袋まで」

 俊太は、恐怖と不平を露わにする。当然の反応であろう。しかし、彼の養母はその名前のとおり、澄みきった表情で、

「しゃあないやろ。こんな大それたことをしてもうた以上、どの道カーネルさんは、捕まってまう。そしたら死刑にされるか、そうやなくても、残りの人生ずっと、牢屋ん中や。カーネルさんの破滅は免れへん。それやったら、いっそのこと、みんなで一緒に死んでまう方がええ。……少なくとも、私はこの人のことを、一人にはさせられへん」

「け、けど、だからって……だからって、心中することないやろ!」

「俊太、怖がらんでええ。みんな一緒やったら、怖いことなんてないわ。──それに、亡くなった人のことを悪く言うんは気が引けるけど……あの人らにも非はある。蒼一さんや紅二さんは、犯罪に手を染めてはったし、橙子さんは、紫苑お嬢様があんな目に遭う原因を作った人や。殺されて当然、とまでは言わんけど……いずれ、同じような報復を受けとったと思う。──ほら、あんたらかて、誰よりもよう知っとるやないの。鷺沼家の一族が、どういう人間の集まりか。今までどれほどの悪さをして、それを闇に葬って来たか。私がずっと、()()()()()()()()

 心当たりがあったのだろう。俊太は「でも」と繰り返しはしたものの、鷺沼家を擁護するような言葉は、出て来ない。

「とにかく、カーネルさん一人に、罪を背負わすわけにはいかん。それが、宗介さんのお考えや。せやから……せやからあの人も、()()()()()()()()()()()()()言うてはった。なるべく苦しまずに死ねる毒物を、手配してくださるとも……。あの人と一緒に死ねるなんて、神薇薔人教団に相応しい最期やないか」

 真澄曰く、宗介は元々、鷺沼家の抱える闇──全ての罪を、白日の元に晒す計画を、立てていたという。その上で、残された家族に、鷺沼家及び鷺沼グループの「再生」を、託したい。

 そんな想いがあり、宗介は凛果を、この町に呼び寄せた。そして、彼女の母──聖子の死が、瑠璃子によって仕組まれた事件であることを、打ち明ける予定でいたのだ。

 しかし、この計画は、蒼一によって阻害され……のみならず、その蒼一自身も、他の家族諸共殺されてしまった。

 こうなっては、今更罪を告白したところで、手遅れというもの。企業としての「再生」はともかく、家族としてやり直すことは困難であるし、そもそもその意義さえ、見い出せない。

 ならばいっそのこと、罪人同士、レンジャーと共に生き絶えるのが、最善の選択ではないか。宗介は、そのような思考に至ったのだとか。

「……どうしても怖なったら、これを呑んでみたらええ」

 真澄はフリースジャケットのポケットから、ビニール袋を取り出し、テーブルに乗せた。その中には、赤色の錠剤らしきものが、大量に詰まっている。

「な、なんや、それは」と、和人。

「紅二さんの待ってはった薬や。さっき宗介さんに教えてもろて、失敬して来た。なんでも、呑むと気分がよくなるそうや」

 真澄は通話の途中で、リビングを出ており、宗介とのやり取りの大部分も、廊下で行われた。だからこそ、和人らの目に触れることなく、紅二の亡骸を漁ることができたのだ。

「……ドラッグやないか」

 言ってから、口の中に苦い味が広がったかのように、和人は顔を歪める。

「お、俺たち……この町で産まれたんやったな? 鬼村の家の離れで」

 ぽつりと──俊太が言った。

「こんなところで産まれて、こんなところで死ぬ!……俺らはいったい何の為に、今まで生きて来たんや!」

 真澄は、一度目を伏せる。

 そして、

「……私、今でも考えることがあんねん。五十年前のあの日、紫苑お嬢様の代わりに、私が死ぬべきやったんちゃうかって。そしたら、あの人が残りの人生を奪われることはなかった。私が身代わりになるまでいかんくても、どないかして、護って差し上げるべきやった」

「お袋は、何も悪ない。悪いんは全部、鷺沼家の連中で」

「私も()()()()()。あの日、紫苑お嬢様が襲撃されることを」

 男たちは、言葉を失った。

 彼らにとって、それは初めて聞かされる事実だった。

「まさか、奥様があそこまで惨たらしいことを企んではったとまでは、思わんかったけど……。けれど、同じことや。知っていながら、本気でお嬢様を逃そうとはせんかった。我が身可愛さに、お嬢様を犠牲にしたわけや。そうして、私は生き延びた。生き延びて……あんたらと、家族にまでなった」

「お袋……」和人が呟く。俊太は、再び涙を浮かべた。

「最初に和人を引き取って、次に俊太……あんたたちと過ごしてる間、私はホンマに幸せやった。それと、カーネルさんと出逢えたことも。もちろん、嬉しかった。離れ離れになった仲間と、巡り会えたようで。

 けど、だからこそ、思うねん。私の幸福も、あんたらの人生も、全部が全部、紫苑お嬢様っちゅう犠牲と引き換えに、手に入れたもんやって。……せやから、これはええ機会かも知れん。お嬢様の人生を返すことはできひんけど、せめてあの人のお(そば)で、死なせてもらいたい」

 ──いったい何の為に、今まで生きて来たのか。俊太のその問いに、真澄は結局、答えていない。

 しかしながら……その意思がどれほどに固く、揺らぐことのないものであるかは、十分に察せられた。

 紫苑の事件の当事者であるからこそ──和人や俊太と出逢い、家族として過ごす時間を愛おしんでいたからこそ──実に半世紀もの間、真澄は思い悩んで来たのだろう。

「お、俺は……まだ、死にたない。死ぬんは、怖い……。けれど、お袋が死んでまうんは、もっと怖いんや! まだまだ長生きしてもらいたいんや!──兄貴かて、同じやろ?」

 縋りつくような弟の視線を受け、和人は首肯した。

「……当然や。()()()()も含めて、宗介会長の提案は、容易には受け入れ難い。……ただ、お袋の言い分もわかる。神薇薔人教団なんて宗教じみた看板掲げとるが、俺がホンマに感謝しとるんは、鷺沼家でも、産みの親の紫苑さんでもない。今まで育ててくれた、お袋だけや。せやから、お袋が心からそう望むんやったら……俺はそれを、叶えてやりたい」

「……嘘や。な、なんで兄貴まで、そんなこと言い出すねん。どう考えたって、こんなっ、おかしいやないか!」

「それを言い出したら、俺たちが産まれて来て、今まで不自由なく生きて来られたんも、おかしな話とちゃうか?──何にしても、一番尊重すべきは、カーチャンの気持ちや」

 それまでずっと俯いていたレンジャーへ、和人は向き直る。自分の名前が出て、三人から視線を向けられて尚、レンジャーは、自らの両手を見つめることしか、できなかった。

 瞬く間に四人もの命を奪い、血で染まった、その手を。

「カーチャンは、どないしたい? 大人しく警察に自首するか、宗介会長の要望に従うか……あんた自身が、決断するべきや」

 レンジャーにも、わかってはいた。選択肢は一つしかない。罪を犯してしまった以上、司法の裁きを受けるべきだ。

 正義などという不明瞭で一方的な尺度とは無関係に。人間らしい社会性を保つ為に必要な仕組みが、法である以上、それに従わなくてはならない。

 わかってはいる。わかっては、いるのだが……。

 レンジャーは、皮膚に浸透し固着するかのように乾ききった返り血を、見つめていた。

「……僕は」

 レンジャーは伝えた。

 宗介の意向に従う、と。

 間違った決断であることは、百も承知である。しかし、同時に、こうも思った。

 選ぶ権利など、初めから──この世に生を受けたその時から、なかったのではないか、と。


 協議という名の押し問答の末。

 日付が変わり、二十七日を迎えた頃には、どうにか話は纏まった。纏まってしまったと言った方が、正しいだろう。

 無論、俊太だけは、最後まで難色を示していたが……養母の意思は、それ以上に強固なものであり、結局は、折れるしかなかったらしい。

 その後、彼らがまっさきに行ったのは、死体を運び出す作業である。これは当然、男たち三人がかりで行われた。が、それでも容易に済む仕事ではなく、完了するまでには、相当な時間と労力を要した。

 何せ、亡骸は四体もある上に、それを天国洞まで、棄てに行かなくてはならないのだ。

 しかも、町外れまで運ぶだけでなく、丘に設られた急な階段を、上らなくてはならない。

 交代や休憩を挟みながら、苦労して四人分の死体を、洞窟の中──地下を這う無数の支路の一つ──へと、遺棄し終えた頃には、スッカリ夜が明けていた。

「帽子、落としてんで」

 風車を出る間際、和人がレンジャーを呼び止める。言われてみれば、いつの間に脱げ落ちたのか、レンジャーは、赤いキャップを被っていなかった。

「……いいよ、拾わなくて。返り血で汚れてしまったし。──それより、この扉、鍵がついてないのか」

「ああ。お陰で簡単に侵入できたわ。不用心やと思うけど、まあ、山の上やしな。洞窟ん中も、迷路みたいに入り組んどるし、鍵なんて要らんと判断したんやろ」

「けど、リンカの娘や他のゲストが、万が一風車の中に入ってしまったら、困る。死体を見られるのもそうだけど、それこそ洞窟の中で迷子にでもなったら、大変だ」

 レンジャーの指摘に、和人はしばし扉を見つめながら、考え込んだ。

「それもそうやな……よし、後で諸々落ち着いたら、鍵を()うて来て取りつけるか。ホームセンターでも行けば、幾らでも置いてあるやろ」

 こうして風車の扉に、掛け金と南京錠が取りつけられたのだが……この鍵が、迷子防止の為ではなく、反対に、客人を閉じ込める為に使われるとは。当然この時点では、誰も予想していなかった。


 その後、男たちは、屋敷内の清掃を行っていた真澄と合流し、事件のあった形跡を隠蔽すべく、奮闘する。

 血痕は遍く拭い去り、壊れたものは、分別することなく、ゴミ袋に放り込む。

 また、鷺沼家の人間が写った写真の類いも、ゴミの袋と共に、纏めて地下室──レンジャーが囚われていた、あの音楽室──へ、しまっておくことにした。

 それと、玄関のドアにできた傷跡──橙子の残した細やかなデスマスク──であるが、これは礼拝堂から拝借して来たイコン画で、隠すことになった。

 このイコン画は、元々ピエタ象と、セットになっていた品である。何より玄関の扉など、絵画を飾る場所として、不自然極まりないが……他にいい手も思いつかなかったので、致し方あるまい。

 最後に、一番の難関が残っていた。屋敷へ忍び込む際に、和人が割った、書斎の窓ガラスだ。

 外からの視線に対しては、両開きの西洋風の雨戸を、閉じておくことで、誤魔化せるとして……問題は、中から見られた場合である。

 レンジャーたちは、しばし書斎の中で、額を寄せ合い思案した。が、疲労もあってか、妙案は浮かばず。ひとまず──ガムテープと段ボールで、割れたガラスを補強したのち──、客人のいる間は、厚手のカーテンを、常に閉じたままにしておくことに決めた。

 無論、誰かがカーテンを開けるだけで、即座に露見してしまうだろうが……そうなったらそうなったで、適当な理由を拵えて、乗り切るしかない。


 どうにか、粗方の隠蔽工作が済んだ。四人は休憩がてら、朝と昼を兼ねた食事を、摂ることにする。

 家主の死んだ家の厨房を借り、真澄が調理を担った。

「あんなことがあった後でも、ちゃんと腹が空くもんやな」

 真澄の拵えた握り飯を齧りながら、俊太がしみじみとした口調で、呟く。

「なあ、お客さんが来てからも、お袋が飯を作ったりするんか? 金持ちの旅行っぽくないやろ」

「安心し、和人。宗介さんが、お手伝いさんを雇ってくださるそうやから。ホンマは別の人に依頼する予定やったみたいやけど、そっちはほら、本物と顔見知りやから」

「そらあかんな。即バレや。──そういや、宗介会長は無事なんか? あの人、軟禁状態とかいう話やったが」

「なんとかなったみたい。さっき連絡があってな。私らの為に、色々と奔走してくださってるそうや。この町にお見えになるんは、明後日や言うてはった」

 食事を終えてからも、四人はしばらくの間、リビングで、今後の打ち合わせをしていた。

 宗介が雇うという家政婦だか使用人だかには、あまり屋敷内の清掃を、させないこと──地下室は施錠しておけばいいとして、書斎の窓のカーテンや、玄関扉に飾ったイコン画は、絶対に触れさせてはならない──。

 また、蒼一が呼び寄せてしまった天道と橘に対しても、口裏を合わせるように、持ちかけること。

「すまんけど、俺、標準語を使える自信あらへんわ。ただでさえ緊張しいやのに、こんな状況で、言葉のアクセントにまで気い遣われへん」

 さっそく弱音を吐く俊太であったが、この不安は、すぐさま解消された。

「ほんなら、やっぱりお前は『三黄彦』役で決まりやな。あいつ、鷺沼家ん中で、唯一大阪で暮らしとるんやろ? 実際、大阪弁使(つこ)てるみたいやったし」

 と、和人が提案する。

「私は『橙子』さんの役しかできひんとして」眠たそうに目元を擦りながら、真澄が言う。「カーネルさんも、『蒼一』さん以外あり得へんわな」

「で、消去法で俺が『紅二』ってわけか。なんや、結局年齢順やな」

 無事、配役が決まった。

 その後は、本物の言葉遣いや思想、仕草などを模倣(トレース)する作業──謂わば役作りの話になる。……が、さすがに昨晩から稼働し続けていたこともあり、そろそろ仮眠を取るべきだという意見が、誰からともなく提唱された。

 本番の予行演習も兼ねて、各々が成りすます人間の部屋で、眠ることになる。

 高部一家に就寝の挨拶をし、レンジャーは、蒼一の寝室に入った。まださほど使われていないであろう、ふかふかのベッドに横たわり、彼は瞼を閉じた──が、なかなか寝つくことができず。

 懊悩煩悶しているうちに、午後は過ぎて行った。


 大して眠れもしないまま、レンジャーは部屋を出た。そのまま一階の浴室へと向かい、シャワーを浴びる。

「──っ!」

 バスチェアに腰かけ、温かいお湯を頭から浴びた途端、レンジャーは激痛を感じ、声にならない声を上げた。色々なことが起きすぎて──他ならぬ、レンジャー自身が起こしたのだが──、今まで忘れていたが、後頭部の傷は、当然まだ塞ぎきっていない。

 固まりかけていた血が溶け、お湯と一緒に流れ落ち、排水溝に吸われて行く。レンジャーは、なるべく患部に触れぬよう注意しつつ、痛みに耐えながら、苦労して頭を洗った。


 その後、体を清めたレンジャーは、湯船に浸かることなく、浴室を出た。体をタオルで拭き、着替えに袖を倒す。蒼一の服である。

 二人は元から体格が近かった──レンジャーの方が少し華奢ではあったが、背丈はほとんど変わらない──為、特別不格好ということはない。といって、似合っているとも思えなかった。

 続いて、洗面台の前に立ったレンジャーは、シェービングクリームを口の周りに塗りたくり、髭を剃る。顔を洗い、数十年振りに露わとなった鼻の下や、顎に触れてみる。

 それが済むと、レンジャーは最後に、コンタクトをつける作業に臨んだ。初めての経験で勝手がわからず、また、恐怖感も少なからずあった為、思いの外時間を要してしまう。

 どうにかコンタクトレンズを装着したレンジャーは──何度も瞬きをし、異物感を紛らわせようとした──、改めて、三面鏡の真ん中の鏡面を、覗き込む。

「…………」

 そこに映った自身の顔を目にし……レンジャーは、奇妙な感覚に陥った。

 それは間違いなく、五十年近くも連れ添った、自分自身であるはずだ。にも拘らず、たった今初めて出逢った人間のように見え──かと思えば、()()()()()()()(.、)()()()()()()()()()()()()

「…………」

 しばし、鏡の向こうにいる男と見つめ合ったのち。レンジャーは今度こそ、仲間たちの元へ向かった。


 和人と真澄は、庭にいた。青い芝生の上に置かれた椅子に、真澄が腰かけ、その傍らに、レンジャー同様紅二の服を着た和人が、寄り添うように立っている。

「見違えたやないか、カーチャン。髭が生えてへん顔、初めてみたわ」

 まるで、数年振りに親戚の子供と再会したかのような口調で、和人が褒める。

 その手には、ハサミが握られていた。

「俺らと(ちご)て、服のサイズもピッタリやな。ほら、俺なんか、紅二よりだいぶ痩せとるもんやから、シャツもズボンもブッカブカやねん。うっとおしくて敵わんわ」

「けど、俊太よりはマシなんちゃう? あの子、どうやってもズボンの留め具が閉まらへんって、泣き言言うてたから」

「あいつは太りすぎやねん。あの脂肪、少しくらいもらってやりたいわ」

 平時と何ら変わらないであろう高部母子(おやこ)のやり取りに釣られ、レンジャーは、久しぶりに笑みを溢す。

 それから、改めて、たった今二人が行おうとしていることを思い出し、微笑を打ち消した。

「あの、本当に、切ってしまうんですか?」

「ええ。橙子さんに成りきるには、形から入ろ思ってね。それに、スッキリできそうやし」

 首にタオルを巻いた真澄が、穏やかな顔つきで答えた。そして、「頼むわ、和人」という言葉を合図に、彼女の白い髪が一房、切り落とされる。

 澄明な春の陽射しの下で行われる断髪式は、レンジャーの憧れていた親子の戯れのように映り……彼は、目を離すことができなかった。

 時折、ハサミの刃が日の光を反射し、目に眩しくとも。レンジャーはそこに佇み、その和やかな一時が過ぎるのを、見届けんとした。

 不意に、屋敷の中から、陽気な胴間声が聞こえて来る。俊太のものだ。

「あいつ、一人で呑み始めたんか」

「昔から、臆病な子やったからね。呑まなやってられんのやろ。好きにさせたらええ……」

 ──怖ろしくて当然だろう。レンジャーは思う。二日後には、みな死ぬのだから。


  われらは人形で人形使いは天さ。

  それは比喩(ひゆ)ではなく現実なんだ。

  この席で一くさり演技(わざ)をすませれば、

  一つずつ無の手筥(てばこ)に入れられるのさ。


 俊太は唄っているのではなく、『ルバイヤート』の一節を、暗誦しているらしい。

 それを聞いて、レンジャーが思い出したのは、リンカのことだった。

 リンカもよく、『ルバイヤート』を読んでいた。

 子供を産んですぐ、レンジャーたちの前から姿を消したリンカ。自由な人生を掴み損ねてしまった、可哀想なリンカ……。

 リンカが死んだこの町に、明日、彼女の娘がやって来る。


 ※


 地獄の一夜とその後について語り終えたレンジャーは、深く、息を吐き出した。まるで、肩に背負っていた重荷から、ようやく解放されたかのように。

 彼が語る間、緋村も天道も、質問を差し挟むことはしなかった。

 レンジャーの話に区切りがつき……緋村はようやく、口を開く。

「……幾つか、確信を持てたことがあります。『この町にいる間、どこで煙草を吸っても構わない』と許可してくださったのは、景観を気にする必要が、もうないから。本来この町に滞在していた四人は、すでに亡くなっている。そして……宗介会長を含むみなさんは、これから()()するつもりらしい。あそこに用意されているワインと一緒に、毒物を呑んで。──だからこそ、貸し与えた家の壁が、ヤニで汚れようと、この町が汚れようと、構わなかったわけだ」

 誰からも、返答は寄越されない。が、しかし、否定する声もない以上、肯定したのと同義である。

「三黄彦さん──に扮していた俊太さんの口にした、『万事予定どおり』という言葉も、『ルバイヤート』からの引用も、心中を指していたのですね。宗介会長が、予定どおり町にやって来ると聞き、俊太さんは、思わずそう呟いた。……やはり、本心では、死を望んでいなかったのでしょう。当然のことだと思いますし、部外者の僕としても、みなさんには死んでほしくありません」

 緋村は改めて、目の前にいるかつての恩人へと、向き直る。

「レンジャー博士。今ならまだ引き返せます。命を絶つのはやめて、自首してください」

「……できないよ。僕は、許されないことをした。四人も殺したんだ。それも、友人だと思っていた人や、その家族を……。ただ警察に捕まって、死刑になるだけじゃ、とても償いきれない」

「しかし、ここで死んでしまっては、余計に償いなどできません。それくらい、あなただってわかっているはずだ」

 レンジャーは口籠もり、緋村の視線から、目を逸らす。

「……よくわかんないなぁ」

 それまで、大人しく傍観者に徹していた天道が、困惑した様子で言った。

「今聞いた感じだと、直接四人を殺したのは、その人──レンジャーさんなんでしょ? それなのに、なんでみんなで死のうってことになるわけ? そこまでする必要なんてないし。──それか、どうしても集団自決したいんだったら、事件後すぐにやっとけばよかったんだ。わざわ死んだ人間に成りすましてまで、何日もこの町に留まるとか、正気じゃないって」

 非常に辛辣ではあるが、もっともな指摘でもある。

 これに答えたのは、和人だった。

「会長が、自殺に使う毒を調達してくださることになっとった。俺たちは、それを待っとったんや。……もちろん、死ぬ前に、あの()に一目会いたかったのもある。あんたと、聖子さんの子供にな」

「だから、なんで死ぬ必要があるんだよ。つうか、あんたは本当にそれでいいの? そんな巻き添えみたいな形で死んじゃってさ。本当はこの数日間で、決心が揺らいだんじゃない?」

「……そんなわけあるか。俺は決めたんや。お袋の願いを叶えてやろう……それから、()()()()()()()を、手伝ったろうってな」

「罪滅ぼしって……まさか、あんたら」

 言いかけた天道の言葉を、遮るように──あるいは先回りして、代弁するかのように──、再び緋村が、主導権を奪う。

「ただ心中するだけが、目的ではなかった。そうですね? 宗介会長」

「……そこまで見抜いておられましたか。やはり、単なる学生だと思って、みくびっていたらしい」

「宗介会長は、元々鷺沼家の秘密──五十年前の事件に端を発した様々な闇を明るみに出し、罪を償おうとしておられた。どういった心境の変化があったのかまではわかりませんが、その考えに至るキッカケとなったのは、そこで座らされている、久住さんですね?」

「ええ。どうも完吾くんは、お父さん──吾郎さんが鬼村夫妻を殺害した理由について、今でも真実を知りたがっていたらしい。完吾くんが定年を迎えた時、私は過去の事件を調べ直す許可を、彼に与えました。

 と、同時に、私自身、これ以上秘密を抱えて生きるのが、辛くなったのです。どうせ老い先短い身ではありますが、裏を返せば、かれこれ半世紀も、口を閉ざして来たのだ。もうそろそろ、解放されてもいいのではないか……。私は、そう考えました」

「つまり、出発点はそこだった。あなたは思い悩んでいた久住さんの背中を押し、さらに凛果さんへ宛てた手紙を、認めた」

 凛果もまた、亡き母親のことを、知りたがっていた。

 かくして、彼女の訪問が決まった──まではよかった。

「あなたの思惑を知った蒼一社長は、これをよしとはしなかった。社長はすぐに、調査を中止するよう、田花さんたち──美杉探偵事務所の二人に対し、圧力をかけました。

 と、同時に、鷺沼家の秘密を知る人間に、口を閉じさせるべく画策した。その一つが、レンジャー博士の拉致でした。すなわち、博士を人質に取り、その安全と引き換えにして、神薇教のみなさんが秘密を守るよう、強要するつもりだったのでしょう」

「……目的の為であれば、手段を選ばない。代表取締役という立場になる前から、倅はそういう人間でした。私よりも、瑠璃子によく似ていた……」

「しかし、蒼一社長は、それだけでは満足できなかったらしい。神薇教を抑え込むだけでは、不十分である。……そう考えた社長は、宗介会長が招待してしまった凛果さんを、逆に利用することに決めた」

 すなわち、凛果もまた、()()だったのだ。

「彼女がやって来るからこそ、社長は仕事の打ち合わせという名目で、天道さんと橘さんを、この町に呼び寄せたのです。凛果さんを人質に取ることで、神薇教だけでなく、二人に対しても、秘密を守らせる為に。……みなさんが、成りすましに協力するよう、天道さんたちへ持ちかけたのと同じ。いや、むしろみなさんの方が、蒼一社長を参考にしたのでしょう」

 鷺沼家の秘密と関わりのある者たちを、纏めて黙らせる。そうすることで一族を、企業(グループ)を、そして日本の経済を守る──そんな使命感にも似た心積りで、蒼一は、今回の滞在に臨んだ。

 しかしながら、蒼一の巡らせた謀略は、レンジャーの逆襲によって、水泡に帰してしまう。

「……当てが外れたわけだ」天道はニヒルな笑みと共に、首を振ってみせる。「いや、そもそも見当違いとしか言えないね。あの()がどうなろうと、俺にはもう関係ない。今回だって、天下の鷺沼グループ様から仕事をいただけるって聞いたから、美佳ちゃんについて来ただけさ」

「しかし、実際に天道さんたちは、この町を訪れることになった。……二人の来訪を知った宗介会長は、()()()()()だと、お考えになったのでは?」

 緋村の視線──その鋭い切先を向けられた宗介は、しかし少しも動じることなく、わずかに顎を引く。

 それを見た天道は、尚も芝居がかった仕草を崩さぬまま、

「……なるほどね。要するに、だ。あんたらのもう一つの目的は、俺と美佳ちゃんを始末すること。だからこそ、わざわざ鷺沼家のフリをしてまで、この町に留まっていたわけか」

「……本当は、お二人が揃ってから、決行するつもりだったのですがね。そこまで言い当てられてしまっては、仕方ない。──和人くん! 例のものを使いなさい!」

 突如、宗介は声色を尖らせる。その指示を聞いた和人は、驚いたような表情を浮かべつつ、腰の後ろに手を伸ばした。

 そして、再び体の前に現れたその右手には、()()が握られており──和人は仄暗いその銃口を、俳優に向けた。

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