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白亜の町に死す ドラマツルギー  作者: 若庭葉
第五章:白亜の町に死す
37/42

悪魔の貌

 ブルートパーズ、ターコイズ、サファイア、アクアマリン、タンザナイト、ラピスラズリ、アパタイト、アイオライト──世界中のありとあらゆる青い宝石を集め、溶かしたような、美しい海の傍ら。浜辺の輪郭に添って、椅子とテーブルが何組も設置されたその場所で、彼らは出逢った。

 これが観光のハイシーズンであれば、多くの旅行客で賑わっていたであろう、絶景スポット。リトル・ヴェニスと呼ばれる古い家々の並ぶ町並みを、海の右手側に拝むことのできる場所であったが──その時は、観光シーズンからは少し外れていた為、彼らの他に、人の姿はない。

 喧騒とは無縁。風の凪いだように、時は静かに流れて行く。

 ──こんにちは。君は、もしかして日本人かな?

 一人で海を眺めていた少年の背中へ、レンジャーは、椅子の上から声をかけた。

 突然降って来た流暢な日本語に、驚いたのだろう。少年は、一瞬体を震わせたかと思うと、ユックリと、レンジャーの方を振り返る。

 あどけない顔立ちに、少々不釣り合いな鋭い目が、人類学者へ向けられた。生白い肌をした、歳の割に大人びた雰囲気の少年である。

 また、Tシャツの襟元から伸びる白い首には、ストラップに結んだデジタルカメラを、ぶら下げていた。どうやらレンジャーの見立てどおり、彼は、日本からの観光客らしい。

 ──あなたも。

 ──ん? 何かな?

 レンジャーは、赤い野球帽のつばを持ち上げ、眼鏡をかけた無精髭だらけの顔を、少年に見せる。

 ──あなたも、日本人なんですね?

 不安と期待、それから仄かな警戒心をない交ぜにした表情で、少年は尋ね返した。

 ──いいや? 僕はアメリカ人さ。……国籍の上では、ね。

 それが、カーネル・レンジャー博士と、緋村奈生の邂逅だった。

 そして。

 彼らはそれから約十年後、今度は模造品(イミテーション)の白亜の町で、再会を果たす。


「……あの素晴らしい旅行のことは、これまでずっと、忘れずにいたよ。もちろん、君と出逢ったことも」

 ジェルで無理矢理固めた髪に触れつつ、気恥ずかしさを紛らわせるように、レンジャーは言った。蒼一から拝借した服に身を包みながら、蒼一仕込みの日本語で。

「……でも、やっぱり十年も経つと、記憶が色褪せてしまうらしい。何より、あの時の子供が、こんな立派な青年に成長しているなんて。ここ何日か、本当に色んなことがあったけど……君との再会が、ある意味一番のサプライズだよ」

「僕も、赤い野球帽の存在を聞かされるまで、あなたの正体には気づきませんでした。眼鏡をかけていないことや、髭を綺麗に剃っていたこともそうですが……やはり、あの帽子のイメージが強かったのでしょう。とにかく、十年前にお会いした時とは、全く違う格好をされていたものですから」

「僕のキャップを若庭くんが拾った時は、さすがに焦った。ただでさえ、ヘマをしないかと、気が気じゃなかったからね。昨日からずっと、学生演劇でもしている気分だったよ」

「大変だったでしょう。()()()()()()使()()()()()()()()ご様子でしたし。昨日から、やけに目が充血していたり、瞬きをする回数が多いなと、度々気になっていました」

「そんなところまで見られていたのか。確かに、この目はコンタクトのせいでもあるけど……それ以前に、一昨日から寝不足でね。昨日もロクに寝つくことができなかった。今日のことばかり、考えてしまって……」

 レンジャーは、丸テーブルの上を見やる。そこで出番が来るのを待ち続ける、ワインボトルとグラスを。

「……いや、それより、謝るのが先か。君たちを騙していただけではなく、若庭くんに大怪我を負わせてしまった。本当に、許されないことをしたよ」

「あれは、宗介会長の犯行なのでしょう? 先ほども言いましたが、シャツの袖口に、返り血が付着していましたから。──宗介会長が若庭を殴り倒した後、お二人は、彼を天国洞まで運び入れた。そして、地上に戻ってから、風車の扉に施錠して閉じ込めたのです。……鍵を紛失してしまったというのも、数年来開かずの扉になっているというのも、やはり出鱈目だったわけだ」

 レンジャーは、項垂れるようにして首肯した。

「カズトが風車から洞窟へ下りて行ったのを、見送った後、ウッカリ扉を閉め忘れてね。そこへ若庭くんがやって来て、風車の中に入ってしまったんだ」

「レンジャー博士と宗介会長は、和人さんを見送る為だけに、丘に上ったのですか?」

「……いや。僕が、廃屋を見たいとお願いしたんだよ。あの()が、リンカが死んだ場所を、一度でも見ておきたかった。今更だけど、リンカに祈りを捧げようと思って……。それなのに、僕は君の友達を、あんな目に遭わせてしまった」

「あなたが気に病む必要はありません。あれは、『蒼一社長』の正体を隠すべく、会長が独断で行ったこと。レンジャー博士にとっても予想外の、アドリブだったはずです。

 むしろ、博士は強引に天国洞へ向かおうとした僕を、止めてくださった。あまり無茶なことをすると、今度は倉橋さんにも被害が及ぶ可能性があると──脅し文句に見せかけて──、忠告してくださったのでしょう?」

「そのつもり、だったよ。リンカの娘といえど、危ないと思ったからね。……けれど、そもそもの原因を作ったのは、僕なんだ。全て、僕が悪い。僕がみんなを巻き込んで、こんな大掛かりなことまでさせて、その上……!」

 レンジャーは再び、血の気の引いた顔を、両手で覆う。

「巻き込まれたやなんて、思ってませんよ」まっさきにそう言ったのは、真澄だった。「これは、私自身も、望んだことやねんから」

「お袋の言うとおりや」と、和人。「俺もとっくに、覚悟はできとる。絶対に、あんたを一人にはさせん」

 高部母子が、寄り添うように言葉をかけて尚、人類学者は小刻みに、体を慄わせた。まるで、神罰に怯えるような恩人の姿を、緋村は、いつになく哀しげな眼差しで、見据える。

「……直接、聞かせていただけますか? この町で、何が起きたのか」

「…….ああ」

 呻くように応え、レンジャーは語り出す。

 白亜の町に訪れた地獄の一夜──そこへ至るまでの経緯と、その顛末を。


 ※


 時遡り──二〇一九年、四月二十六日。


 その長い眠りの中で。レンジャーが夢を見たのは、覚醒の間際、ほんの数巡の間だった。

 それは、レンジャーの記憶──色褪せた幼き日々を出鱈目に切り出し、脈絡なく繋ぎ合わせた、ダイジェスト映像。

 その当時、レンジャーは祖父と二人で暮らしていた。祖父の住まいがあったのは、カリフォルニア州は北部、カスケード山脈に属する高峰、マウント・シャスタの麓であり、豊かな自然とインディアンの神秘が現在まで残る、田舎町である。

 広大な森林と、ミネラルを豊富に含んだ清水(せいすい)、澄んだ湖面を湛える湖、乾燥した岩場や牧草地、そして、インディアンたちの霊峰──さながら大自然の見本市のような環境で育ったレンジャーが、人類の、ひいては地球の歴史に関心を抱くことは、ある種必定だったと言えよう。

 ──夢の中の思い出は、アトランダムに姿を変える。

 その時、レンジャーは、杉林のただ中に建つコテージを、外から眺めていた。そこは都会で暮らす誰かの別荘だったか、あるいは観光客向けのベッド・アンド・ブレックファーストだったか……。今ではもう定かではないが、とにかくレンジャーが記憶しているのは、薄水色の瀟洒な建物から聞こえる、物悲しげなピアノの音色。

 まだ十歳にもならない子供だったレンジャーは、時折り散策の途中で、このコテージの前に立ち寄り、休憩かたがた、ピアノの演奏に耳を傾けることがあった。

 演奏しているのは、彼よりも幾らか歳上の少女。彼とは違い、白い肌と亜麻色の縮れた髪を持つ、西洋人形じみた女の子である。

 ピアノの演奏自体は、特段達者とは言えなかったように思う。しかし、レンジャーにとっては、そんなことは二の次三の次であり、ただ窓越しに見えるその少女の横顔を、眺めていられるだけで、十分だった。

 もしかしたら、それが彼の、初恋だったのかも知れない。

 しかし、レンジャー少年が、その想いに気がつくより先に。この細やかな楽しみは、奪い去られてしまう。

 ある日、少女の父親だかコテージのオーナーだか知らない男に、覗き見がバレてしまい、烈火の如き剣幕で追い払われて以来、レンジャーは、この建物に近づけなくなってしまった。

 男が激昂したのは、単に他所の子供が、自分の家や娘の姿を、盗み見ていた為か。あるいは、レンジャーの見た目や、人種によるものか。

 真意は定かではないし、どちらの理由も正しいのかも知れないが……いずれにしても、幼き日のレンジャーは、後者だと疑っていた。

「どうして僕は、みんなと違うの? 白人とも、黒人とも、インディアンとも違う……」

 レンジャーは何度か、祖父に尋ねることがあった。

 普段はマクラウド・リバーの水の色のように、おおらかで、大抵のことは気にしないような祖父であったが……こういう時だけは、決まって憐れむような、悲しげな表情を浮かべた。

 それからいつも、レンジャーにこう言い聞かせるのだ。

「カーネル、お前はアンデルセンの童話に出て来る、アヒルの子だ。今は、自分の姿を醜く思うことがあるかも知れないが……いずれ必ず、立派な白鳥に育つ。そうなったら、こんな田舎なんて飛び立って、広い世界へ羽ばたいて行くのさ」

 そう言って、祖父がレンジャーの頭を撫でたり、体を抱き寄せるまでが、二人の間での「お約束」だった。

 しかし、一度だけ。

 そのセリフの続きを、祖父が口にしたことがあった。

「……いや、違うか。白鳥というより、お前は──」

 鮮烈な夕映えに染まるマウント・シャスタを背に、キャップの陰に隠れた祖父の顔を見上げたところで。

 人類学者は、夢から覚めた。


 ──脳をラップで包まれたような不快な感覚を、まず、知覚した。続いて、鈍い痛み──初めは曖昧に感じられたその痛みは、やがて後頭部(あたま)に杭でも打ち込まれたかのように、激烈なものへと変容した。

 レンジャーは、思わず呻き声を漏らす。

 この痛みは何によるものか。いったい何故、自分は今まで眠っていたのか。──それらを理解するよりも先に、レンジャーの耳に届いたのは、またしても、ピアノの音色。

 まさか、名前すら忘れてしまったあの女の子が弾いているのだろうか? いや、そんなはずがない。

 レンジャーは、重い瞼をユックリと持ち上げる。

 白昼夢のようにボヤけた視界の先に、背広を着た後ろ姿が映った。

「……ソー、イ、チ……?」

 自分でも気づかぬうちに、レンジャーは呟いていた。その声は酷く弱々しく、ピアノの音色に掻き消されてしまっても不思議ではなかったが、それでも、男の耳には届いたらしい。

『なき女王のためのパヴァーヌ』を演奏していた男は、不意に手を止めた。そして、待ち草臥れたとばかりに、レンジャーの方を振り返る。

 椅子に座り、ピアノを弾いていたのは、確かに鷺沼蒼一だった。しかし、眼鏡をかけていない為だろうか。その人相は、レンジャーのよく知る旧友のものとは、全く違って見えた。

 人ですらない、悪魔(サタン)(かお)に。

「……目が覚めたか。一日以上も眠っていたな。もしや、このまま死んでしまうんじゃないかと、肝を冷やしたよ」

 その言葉をキッカケに、レンジャーは思い出す。あの男の運んで来たアイスコーヒー。それを呑みながら、日本の新元号に関するスピーチを聞かされているうちに、抗い難い睡魔に襲われたことを。

「……僕を、薬で、眠らせたのか……?」

 パイプ椅子に座らされたまま、レンジャーは尋ねる。彼の体は、両腕ごとガムテープで巻かれ、背もたれに固定されていた。

「手荒な真似をして、すまなかった。しかし、元はと言えば、君が悪いんだ。頼みを聞き入れないばかりか、私に嘘を吐いただろう?」

「うそ?──僕は嘘なんて」

「リンカ・クラハシ。君が懇意にしていた女性は、そう名乗っていたはずだ」

 カーネルは、言葉を呑み込むしかなかった。

「黙る、ということは、認める気になったんだな?」

「……ごめん。謝るよ。僕は確かに、リンカのことを、少なからず知っている。……けど、君だって、出鱈目を言ったじゃないか。リンカがここへ来るだなんて、あり得ない。リンカは……十七年も前に、死んだんだ。他でもない、この町で」

 後頭部の痛みに抗いながら、レンジャーは、どうにか反駁する。

 これを受けた蒼一の反応は、レンジャーにとって、予想だにしないものだった。

 一瞬虚を衝かれたかのような顔をした──かと思うと、旧友は突如、怪物じみた笑みを浮かべたのだ。

「く……ふふふ──アハハハハ! そうか、そうか! お前は知らないのか!」

 堪えきれぬとばかりに吹き出した蒼一は、両耳のつけ根まで裂けるほど巨大な口を開け、ケタタマシイ笑い声を上げた。

 何がそんなに可笑しいのか。蒼一の姿をした化け物は、目の端に涙を浮かべながら、自らの膝を何度も手で叩き、それでも満足できなかったのか、わざらしく音を鳴らして、両足でカーペットを踏みつける。

 レンジャーは、あっけに取られる他なかった。何より、その馬鹿みたいな笑い声のせいで、後頭部の痛みがますます酷くなり、言葉を発する余裕が、次第になくなって来る。

「ああ、おかしい……。カーネル、いいことを教えてやろう。あの下品な女の使っていた偽名(なまえ)はなぁ、娘に受け継がれた。つまり、父が招いたのは、その娘の方というわけだ」

「な、に……?」

()()()、この町に来てしまうのさ。二代目リンカ・クラハシが。まったく、父の得手勝手のせいで、面倒なことになった。……無論、そちらに関しても、すでに手を打っているがね」

 ──リンカの娘をどうするつもりだ!

 レンジャーはそう叫びたかったのだが、痛みで舌が回らず、獣のように吼えることすら叶わない。

「しかし、問題は連中──神薇教だ。パーティーの時にも言ったが、奴らに口を閉ざすよう誓わせない限り、我が一族に、安寧は訪れない。その為に……連中の仲間であるお前を、利用させてもらおう」

「ぼ、くを……ひとじちに、する気か……!」

 怪物の表情が、またしても変化する。狂気じみた笑みから、いかにも公明正大な好人物といった、鷹揚な微笑へ。

 やおら立ち上がった蒼一は、身動きの取れないレンジャーの眼前で屈み、鼻と鼻とを突き合わせるかのように、その顔を覗き込んだ。

「人聞きの悪いことを言わないでくれ。交渉がスムーズに進行するよう、協力してもらうだけだ。もちろん、ことが済んだ暁には、無事解放する。いいだろう? 私と君の仲じゃないか」

「ど、どうして……ここまで、しなきゃ、ならない、んだ。もっと他に、へいわな、方法が」

「言ったはずだ。一族と、日本を守る為だと。それに、()()()神薇教の男たちも、本来は産まれて来てはいけない人間──オゾマシイ犯罪の産物だ。そんな奴らに、天下の鷺沼家が脅かされるなど、あってはならない。そうは思わないかね?」

「きみが……キャシーをころした、というのは、ほんとう、なの、か?」

「まさか。私が直接、誰かを手にかけるわけないだろう? あくまでも、始末するよう指令(オーダー)しただけ。犯人は、別にいるよ」

 顔にかかる蒼一の吐息が、腐肉の発する死臭のように感じられた。この男は、いったいこれまでどれだけの命を、その口で喰らって来たのか。

 レンジャーは、今更のように愕然とした。

 彼が兄弟のように慕い、崇敬の念すらも抱いていた友人。聡明で勇気あるソーイチ・サギヌマの姿は、もはや見る影もない。

 遅かったのだ。正しい道に連れ戻すどころか、蒼一はすでに、人の道を歩むことさえ、やめていた。

「何を泣いているんだ? また、肌の色のことで虐められたのか? 犬小屋(ケンネル)()異邦人(ストレンジャー)

 理由など、あまりにも多すぎる。

 それ故に、ないも等しい。

 涙は止めどなく溢れ──様々な感情が閾値へと達したレンジャーは、子供のように泣きじゃくる。頭の痛みと、猛烈な吐き気に苛まれながら。

「……せっかくだ、お前にいいことを教えてやろう。キャシーを殺したのは、()()()()()()()()()()()。ただし、その男も、すでにこの世にはいない。別の手駒に処分させたからね。……用の済んだ人形は、すぐに片づけなくては」

 悪役然とした蒼一の言葉など、とうにレンジャーの耳には、届いていなかった。レンジャーは、もはや半狂乱になって泣き喚き──自分でも気づかぬうちに、再び、意識を失った。


 ※


 次にレンジャーが目覚めたのは、それから何時間も後のことだった。

「──チャン! ()()()()()!」

 幾億光年も彼方から呼びかけるような声が、レンジャーの鼓膜を揺らした。いや、揺れているのは耳の中だけではなく、体全体だ。

 レンジャーが、それを知覚するよりも先に、右頬へ伝わる強い振動が、彼の意識を、ようやく目覚めさせた。

 頬を打たれたレンジャーが、涙き腫らした瞼を開いた時。目の前には、心配げに彼のことを覗き込む、男の顔があった。

「……ソーイチ、か……」

「ちゃう! 俺や! 和人や! しっかりせえ、カーチャン!」

 高部和人は、再び怒鳴りつけるように言い、レンジャーの肩を強く揺さぶる。

 そこまでされて尚、レンジャーは、状況を呑み込むことができず──パチパチと、瞬きをしていた。

 それからはたと我に返り、今一度、その痩せた男の顔を見つめる。

「カ、ズト……? どうしてここに」

「カーチャンを助けに来たんや。みんなと一緒にな」

 その言葉のとおり、和人の他にも二人、レンジャーのよく知る人物の姿が、そこにあった。

 和人の養母である高部真澄と、弟の俊太。神薇薔人教団の面々である。

「よかった! ちゃんと喋れるようやね。宗介さんから連絡があった時は、もうホンマに心配で心配で、卒倒しそうやってんから」涙ぐみながら、真澄が早口で言う。「頭、怪我しとるやないの! すぐ病院で診てもらわな」

「わかっとるわ。今、解放したるからな。──と、そうや。これ、大事な帽子なんやろ?」

 そう言って、和人はハンターズの野球帽を、レンジャーの膝の上に置いた。レンジャーが、育ての親である祖父を真似して買い求めた品だ。

「ど、どこ」どこでこの帽子を見つけたのかと尋ねたつもりだったが、無事に伝わった。

「天国洞の中や。俺らはあの洞窟を通って、この町に入り込んだ。ついでに眼鏡と、こんなもんまで落ちとったで」

 和人は、ウエストバッグのベルトに差し込んでいたものを、見せつける。

 それは、乾いた血がベッタリとこびりついた、へーラー像だった。

「カーチャン、こいつでぶん殴られたんやろ? 証拠になる思て、拾って来てん。

 それと、天国洞を抜けた後は、俺がバルコニーによじ登って、書斎の窓から、屋敷に忍び込んだわけや。音を立てんよう、マイナスドライバー使(つこ)て、ガラスを割ってな」

 つまり、日本の空き巣がよく使う手口である「三角割り」の要領で、窓ガラスを割り、サムターンキーを開けて、侵入したらしい。その後、和人は足音を忍ばせて、一階へと下り、中から勝手口を開け、待機していた二人を招き入れた、と語った。

地下室(このへや)の鍵も、書斎の金庫ん中から失敬した。宗介さんから、暗証番号を教えてもろたんや」

 宗介のサポートがあったとは言え、相当な冒険をしたものである。というより、立派な犯罪に他ならないが……和人はむしろ、誇らしげな様子だった。

「そ、そんなことより、急いだ方がええんちゃうか? 忍び込んだんがバレたら、どんな目に遭うか……」

 背後のドアの方を気にしながら、俊太が急かす。太ましい体躯に似合わず小心者の俊太は、とても落ち着いてなどいられないのだろう。

「そう思うんやったら、お前も手伝わんかい!」

 兄に叱られた弟は、怯えつつも、レンジャーを解放する作業に加わる。彼らが苦労してガムテープを引き千切る間、レンジャーはどこか他人事のように、虚空を眺めていた。

 五分ほどかけて、高部兄弟は、ようやくその仕事を完了する。「立てるか?」という和人の言葉に、レンジャーは、腰を浮かせることで応えた。

 そして、掴んだ赤いキャップを、頭の傷が疼くのにも構わず、深く被る。まだ意識がボンヤリとしているし、長時間椅子に縛りつけられていたせいで、脚がふらついたが……休んでいる暇は、なかった。


 地下室を出た四人は、一階へ上がる階段を上り──切る前に立ち止まり、近くに人の気配はないか、耳をそば立てる。幸い、誰かの足音や話し声が聞こえることはなく、廊下は怖いほど、静まり返っていた。

 が、当然のこと、油断はできない。幾ら十二分に広い屋敷といえど、同じ建物の中にいる人間に気取られぬよう脱出するのは、至難の業だ。そもそも、高部一家が人知れず、地下室まで辿り着けたこと自体、奇跡と言えた。

 そして、奇跡はそう何度も起こらないものである。このミッションをクリアするには、慎重かつ迅速に、行動する必要があった。

 痩せた顔を廊下に突き出し、無人を確かめた和人の目配せで、一行は、隠密行動を開始する。

 初めは、勝手口からの脱出を目指していたのだが……当てが外れた。廊下の突き当たりに、目当ての扉が見えたと思った矢先、突如として、左手の壁にある扉が、開かれる。

 四人は慌てて急ブレーキをかけた──直後、木製の扉から、三黄彦が現れた。

 三黄彦は相当でき上がっているらしく、ほとんど蹌踉めくようにしながら、背中を使い、出て来た扉を閉めた。

 侵入者たちの方など、見向きもせずに。

 お陰で作戦失敗とはならなかったが、問題は、彼が勝手口の方へ向かったことだ。

 三黄彦は素裸足のまま──ギリシャ風の邸宅故、いわゆる「たたき」と呼ばれるようなスペースがない代わりに、勝手口の手前には、外へ出る時に履く用のサンダルが、二組置かれている──、千鳥足で、扉へ近づいて行く。

 いったい、何をするつもりなのか。四人が息を殺して見守っていると、扉を開けた三黄彦は、そのまま膝に手を突いて、げえげえと吐き始めたではないか。

 同じフロアにあるはずの手洗いまで、我慢することはできなかったのか。あるいは泥酔しているせいで、判断能力が鈍っているのか。いずれにしても、四人は困ったことになった。

 三黄彦はすぐにどきそうもないし、いつまでもここに留まっているわけにもいかない。ひとまず、三黄彦が吐き終える前に、引き返さなくては。

 四人は足音を忍ばせながら、慎重に後退る。傍目からすれば、昔のコメディ映画のワンシーンのように、滑稽な絵面として映っただろう。が、本人たちは至って真面目、それこそ命懸けである。

 廊下の角を曲がり、先ほど上って来た階段のところまで戻って来た一行は、仕方なく、目標を正面玄関に切り替えた。

 無言のまま、廊下を反対方向へ進み、玄関まであと一息──といったところまで来て、最後の難関が、彼らを待ち受けていた。

 あの青いドアから外へ出るには、リビングの前を、横切る必要がある。しかしながら、具合の悪いことに、この屋敷のリビングには、()()()()。蒲鉾を縦に引き伸ばしたような形に壁がくり抜かれているのみで、リビングに人がいた場合、そちらから丸見えとなってしまうのだ。

 無論、素早く通り抜ければ、気づかれずに済む──実際、地下室の鍵を入手した後で、和人はリビングの前を横切り、勝手口へと向かうことに、成功している──可能性も、あるにはある。

 が、憔悴したレンジャーと、高齢の真澄を連れているのだから、やはり容易なことではない。

 やはり先陣を切っていた和人が、壁に張りつきながら、恐る恐るリビングの中を覗き込む。

 室内にいたのは、蒼一ただ一人。彼は和人に見られていることなど少しも気がつかぬ様子で、カーテンを引いた出窓と向かい合い、背中を見せていた。

 蒼一は、誰かと通話しているらしい。相槌を打ったり、短く指示を出す声が、断片的に聞こえて来る。

 今が、絶好機やも知れない。蒼一の通話が終わる前に、あの青いドアまで、辿り着くことができれば……。

 迷っている時間すら惜しい。再び和人の合図で、四人は動き出す。

「──ああ、そうだ。うまくいかなければ、消しなさい」

 冷酷なその声を耳にして、レンジャーは足を止めた。それに気づいたらしい和人たちが振り返り、玄関の方から、レンジャーを手招く。

 しかし、床に着いたレンジャーの足が持ち上がることはなく……彼はあろうことか、リビングの目の前で、停止し続けた。

 蒼一は、変わらず窓の方を向いたまま、

「紅二は、例の娘の身体(からだ)に関心があるようだが……私はあんな色情魔とは違う。と言って、手心を加えるつもりもない。あの娘も、その父親も、神薇教のゴミどもも、歯向かうのであれば、みな始末しなさい。君の得意分野なのだろう? 鈍山くん」

 溜まりかねた様子で、和人はレンジャーの元へ向かった。そして、声に出さずに「早よう」と口を動かしながら、人類学者の二の腕を、掴みにかかる。

 レンジャーは、反射的にその手を払い除け──和人が驚いた隙を衝いて、ウエストバッグのベルトから、へーラー像を引き抜いた。それは、普段のレンジャーにはなかなか見られない俊敏さであったが……当の本人は、そんなことにさえ気づかない。

 自らの血を纏った女神の像を、手に。レンジャーは、少しも躊躇うことなく、リビングの中へ入って行く。

 すかさず和人が、制止しようと後を追い、高部と俊太も、それに続きかけた。

 しかし、彼らが追いつくよりも先に。

 歩調を早めたレンジャーは、標的の背後へ至った。

「ごめんよ、ソーイチ」

 名前を呼ばれた男が、驚愕の表情と共に振り返る。

「僕には、君を救えない」

 レンジャーの口がその言葉を発した直後、振り下ろされたへーラー像の台座部分が、蒼一の脳天に打ち込まれた。

 ──ゴン。

 鈍い音が、響く。

 不意打ちを食らった蒼一は、通話途中だったスマートフォンを放り出し、大きく体を蹌踉めかせた。

 蒼一が片膝をついたところへ、もう一撃。早くも真紅色に染まり始めた頭を、レンジャーは、渾身の力で殴打する。

 あまりの出来事に、咄嗟の行動が取れなかったのだろう。和人がレンジャーの両脇に腕を回し、蒼一から彼を引き剥がしたのは、すでに三度目の暴力が、成された後だった。

「何しとんのやカーチャン! 死んでまうやないか!」

 和人が怒声を張り上げるも、レンジャーには届いていないらしい。顔やキャップの()()を返り血に染めた人類学者は、「ソーイチ! ソーイチ!」と、カーペットの上に頽れ動かなくなった男の名を連呼し、体を捻って、和人の腕から逃れようとする。

 気が触れてしまったのだ。

 無論のこと、これだけの騒ぎを起こして、家人に察知されぬはずもなく。

 まっさきにリビングに現れたのは、次男の紅二だった。厨房の扉を開き、戸口から惨状を目の当たりにした紅二は、「な、何やってるんだあんたら!」と、上擦った声で叫ぶ。

 和人がそちらに気を取られた──その隙を狙ったのかは、定かではないが、レンジャーはそこで、和人の顔に、肘打ちを食らわせた。和人の手から力が緩み、解き放たれたレンジャーは、次なる獲物目がけ、雄叫びを上げて走り出す。

 これを見た紅二は、途端に情けない悲鳴を上げ、両脚をもつれさせながら、回れ右をした。

 先ほどの不意打ちで鼻の中を切ったらしい和人は、流れ出る血を右手で抑えつつ、紅二を追うレンジャーを、追いかける。

 真澄もその後に続き──俊太だけは、恐怖の為に、足が竦んで動けないらしい。

「助けて!」

 紅二は、誰にともなく乞う。

 ちょっとしたレストランが持つような、広い厨房に入るやいなや、急カーヴした紅二は、調理台やシンクの上の食器類を、派手に撒き散らしつつ、廊下に出るドアに突進した。

 多分にまごつきながら、紅二はどうにかノブを捻り、もどかしげに扉を引いた──ところへ、へーラー像の一撃。

「ぐうっ」と短く声を発した紅二は、そのままフローリングの上へ、ほとんど横っ飛びに倒れ込んでしまった。

 鬼ごっこの鬼役となったレンジャーは、投げ出した四肢を痙攣させる紅二の上に跨り、まさしく無我夢中で、凶器を振るい続ける。

 和人は、今にも気を失いかねない養母(はは)の体を、左腕で支えながら……もはや、レンジャーの凶行を、見ていることしかできない。

 ひゅう──突如、口笛を吹く音がした。

 振り上げた右腕を、頭上で停止させたレンジャーは、その音の出どころへ、顔──大部分が返り血に染まった、悪魔の貌──を、向ける。

 廊下の角に、三黄彦が立っていた。

 三黄彦は、悲鳴を上げるでもなく、逃げるのでもなく……何か珍しい催しでも見物するかのような顔つきで、グラスに注いだ酒を、ひと舐めする。

 そして、トロンとした目をレンジャーに向けたまま、クツクツと引き笑いをし、

「なかなかええ眺めやないか。こんな痛快な()を見るんは、生まれて初めてや。お陰で、インスピレーションが湧いて来よったで」

 などと一人で喋る間に、レンジャーは三黄彦の眼前へと歩み寄り、妄想に耽る三流監督の額を、情け容赦なくかち割った。


 鷺沼三兄弟が始末されたところで、耳を突き刺すような金切り声が、屋敷内に響く。

 殺すべき者が、まだ残っている。そのことに思い至ったレンジャーは、あっけなく死んだ三黄彦の元を離れ、廊下を駆け抜けた。

 変わらずリビングの前に立ち尽くしていた俊太──その体の向こうに、橙子の姿があった。どうやら橙子は、それまでは二階にいたようで、騒ぎを聞きつけ階下に来たところで、不審人物──俊太と出食わし、悲鳴を上げた、ということらしい。

 口許を両手で覆い、凍りついていた橙子は、その瞳だけを動かして、廊下の先から迫り来る最も怖しい存在を、視認した。

 直後、橙子は蹴飛ばされた石ころのように、身を翻す。

 しかし、よほど慌てていたのだろう。数歩も進まぬうちに躓き、無様に転倒してしまった。

「Catch that hag!」

 レンジャーに命じられた俊太は、ギョッとした様子で振り返り、それから玄関の方を見た。

 ババア(hag)は犬掻きのように手足を動かして、体を起こし、青いドアへ縋りつく。

「Catch! Catch! Catch!」

 (たけ)る声が、俊太を急かす。

 半ば錯乱状態となった俊太は──あろうことか、()()()()()()()

 必死で逃げおおせようと足掻く、橙子の服を。

「嫌! いや! イヤ! 助けて! 紫苑、助けっ」

 後頭部を殴りつけられた橙子は、その衝撃によって、玄関の青いドアへ、顔面を飛び込ませた。

 ──やがて、こと切れた彼女が、くの字に体を折りながら、床に沈んだ時。ドアには汚らしい血の筋と、デスマスク代わりの凹んだ傷跡が、残されていた。

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