ようやく、この言葉を、言うことができる
九重の空のひろがりは虚無だ!
地の上の形もすべて虚無だ!
たのしもうよ、生滅の宿にいる身だ、
ああ、一瞬のこの命とて虚無だ!
つき添い人の為に設えられたベンチに腰を下ろした松谷は、落ち着かない心地で、リノリウム張りの白い床を見下ろしていた。それからふと顔を上げ、首を捻り、右手側の壁を見上げる。
手術室の扉の上では、使用中を示すランプが、赤く点灯していた。
「…………」
田花の思いつきで始めた尾行が、まさかこんな結果になるだなんて。松谷はおろか、言い出しっぺである田花ですら、予想していなかっただろう。
──天国洞の中で二人を待ち受けていたのは、ネブカドネザルと化した鬼村などではなく、意識を失った青年だった。
若庭という名のその学生は、主に頭部を負傷しており、幸い息はしていたものの、重篤な状態には変わりない。
松谷と田花は、ただちに彼を洞窟の外へと運び出し──迷わずに出て来ることができたのは、奇跡としか思えないが、ある種田花の野生的な勘に救われたか──、大急ぎで、最寄りの総合病院へと搬送した。そして、こうして緊急手術が終わるのを、ヤキモキしながら待っているわけだ。
「…………」
再び、松谷が足元へ顔を向けた時、緋村に連絡する為離れていた同僚が、戻って来る。松谷は、思わず腰を浮かせながら、尋ねた。
「どないやった? 緋村くんは何て」
田花にしては珍しく、悄然とした声色で、
「さすがのあいつも、えらい狼狽えとったわ。それと、『頼みたいことがあるからこっちに来てほしい』そうやで。あいつのいてる町に」
「例の、鷺沼家の町か……。緋村くんは、何を考えとるんや?」
「さあな。ただ…… こいつの持ち主に、心当たりがあるようやった」
田花は、手にしていたものを掲げてみせる。
それは、泥と血痕らしき汚れの付着した、野球帽。二人が発見した時、若庭の傍らには、この帽子と、やはり血で染まった彫像が、転がっていた。
女神を模ったらしいその彫像は、鈍器として用いるのに最適なサイズであり……若庭を襲った凶器と見て、まず間違いないだろう。
「てことは、その町に滞在しとる人間の帽子なんか? もしかしたら、そいつが彼を昏倒させた?」
「かも知れん。ま、ここで話し合うてても埒が明かんし? ちょっくら行ってくるわ」
「待った」さっそく踵を返しかけた田花を、引き止める。「お前は残れ。緋村くんのところには、俺が向かう」
「なんやねん。急にやる気出して」
「彼、お前の後輩なんやろ? なら、手術が終わるまで、ここにいてやるべきや」
「そら、そうかも知れんが……」
「それに、お前に社用車を運転さすんは、いろいろと怖いしな」
こちらも半分ほどは本音だ。
「警察へは、病院のスタッフが通報してくれたらしい。じきに話を聴きに来るそうやから、お前はそっちの対応を頼む」
それから松谷は、逡巡しているらしい田花の肩を軽く叩き、歩き出す。
「……気いつけろよ、松谷」
いつになく真剣なその声に、応える代わりに。
松谷は、歩調を早めた。
例の町で、いったい何が待ち受けているのか。少しも想像がつかないが……とにかく、何か重大な場面に立ち会おうとしているのではないか。そんな予感を、胸に抱きながら。
病院の建物を出た松谷は、社用車を発進させる。緋村の待つ「白亜の町」とやらを、目指して。
※
同日──十九時頃。
星空の静けさに影響されてか、礼拝堂の中は、静謐な沈黙に満ちていた。そこに集った人間は、誰もが口を閉ざし……思い思いの場所で、「その時」が来るのを待つ。
それは、紛う方なき最後の審判。彼らは「無の手筥」にしまわれるのを待つばかりとなった、人形である。
白亜の町を舞台に繰り広げられた、この馬鹿げた演目は、今まさに、終幕を迎えようとしていた。
「……来ないつもりなのか。彼らは」
嗄れた低い声が、静寂を破る。他の三人は、それぞれ同時に、その身を慄わせた。
「まさか……」
「…………」
「……呼んで来ますよ」
業を煮やしたように言い、男は椅子から立ち上がる。そして、他の人形たちの視線に見送られながら、出入り口へ向かった。
男が礼拝堂の扉を、開けた時──すぐ目の前に、天道琴矢が立っていた。白亜の彫像を思わせる美青年は、やはり軽薄な笑みを、端正な顔に貼りつけている。
「あれ? もしかして、俺のこと迎えに行こうとしてました? すみませんね、遅くなって」
「いや、そういうわけじゃ……」
「あ、そうだ。もう一つ、謝んなきゃいけないことがあるんすけど」半身になった天道は、自らの背後を顎で示し、「ここに来る途中で、見つかっちゃって」
天道の後ろには、緋村が立っていた。緋村は恐ろしいほど無感動な顔つきのまま、形ばかりの会釈を、男に寄越す。
まさか、天道だけでなく、この青年までもが、ここに現れるとは。予定されていたシナリオ、その逃れられぬ幕切れに、不穏な影が差す──そんな、微かな予兆。
「みなさん、こちらにいらしたんですね。探しましたよ」
それを後押しするかの如き、緋村の低い声。
男は答える代わりに唾を呑み、それから天道に向けて、
「あ、あの、橘さんは……?」
「ホントはちゃんと連れて来るつもりだったんですけどね。なんか、家にいなかったんですよ。こんな時間に、どこへ行っちゃったんだか」
惚けるように、天道は肩を竦める。
「そんな」と小声で言いさして、彼は唇を結んだ。その目線は、自然と自らの足元を彷徨い、男が再び顔を上げるよりも先に、緋村の怖しい声が降って来た。
「お邪魔してもよろしいですか? みなさんと、お話ししたいことがあります」
拒むことは許されないであろう、硬い響き。男は気圧されるように、半歩、後退った──直後。
「……構いませんよ。どうぞ、お二人とも、こちらへお越しください」
男の代わりに答えたのは、宗介だった。いつの間にそこに立っていたのか、宗介は緋村にも劣らぬほど感情の読めぬ顔で、振り返る男と天道のことを通り越し、戸口の先を見つめる。
そこに立つ、緋村の姿を。
「し、しかし、あれを見られるわけには」
「仕方あるまい。……それに、どうやら緋村さんは、すでに我々の企みを、見抜いておられるようだ」
宗介の予想は、的中していたらしい。緋村は肯定の意を表すかのように、ウッスラと、不敵な笑みを浮かべてみせる。
「全てではありません。ですから、直接答え合わせをさせていただきたい」
「……ぜひとも。どの道私たちは、逃げるつもりはございません」
それから、宗介は目顔で、戸口を塞いでいた男を促す。彼は尚も、口を開きかけたが……結局抵抗することはなく、項垂れるように頷き返し、体を退けた。
緋村たちが礼拝堂の中に入ると、先ほどの男が、すぐさま扉を閉めた。朱色のカーペットを挟んで並べられた木の椅子の上には、離れた場所に二人の人物が、腰下ろしている。──そのうちの一人が首を捻り、来訪者たちの方を、振り返った。
しかしながら、緋村の視線は、その二人のどちらにも止まらず。まっさきに、礼拝堂の奥へと向けられる。
祭壇に飾られた『サン・ピエトロのピエタ』。その手前の空間には、昨日の夕食の席でも使われていた丸テーブルが、一脚だけ、ぽつねんと置かれていた。
その上には、五人分のグラスと、赤ワインのボトルに、栓抜きが一つ。今にも砕け散りそうな侘しさを纏うその美酒は、まだ栓を抜かれていない。
「…………」
緋村が見つめていたのは、しかし、有名なピエタ像のレプリカでも、呑まれる時を待つワインでもなかった。
丸テーブルの傍らに、唯一用意されたパイプ椅子──その背もたれに、体を縛りつけられ、首を垂れたまま動かない男。
緋村は、その姿だけを、凝視していた。
当然のこと、天道も同じものが気になったらしい。困惑した様子で眉を顰め、「なんだよ、あれ」と呟く。
その問いに答えをもたらしたのは、宗介でも、他の関係者でもなく、
「あの人が──久住完吾さんですね?」
礼拝堂の壁や天井に、緋村の硬い声が反響した。
──そう。そこに囚われているのは、確かに久住老人だった。久住は力なく垂れた両腕ごと、何重にも巻かれたガムテープによって、華奢な体を固定されている。一見して、息があるか否は、判然としない。
「まだ、何もしていませんよ」先手を打つように、宗介が言った。「少し、薬で眠ってもらっているだけです」
「いやいや。何もしてないってことはないでしょ。立派な監禁じゃん。……まさか、天下の鷺沼グループの総帥が、こんな犯罪に手を染めるなんて。平成の終わりに、とんでもないスキャンダルだ」
天道の挑発にも、宗介は眉一つ動かさず、
「誰にだって、人様にはお見せできない裏の顔が、あるものです。それに天道さんは、我々と同じ穴の狢だと、認識しておりますが?」
「……人殺しって言いたいの? なら、やっぱり全てわかった上で、こんな茶番につき合わせたのか。嫌になるね。美佳ちゃんまで巻き込みやがって」
「お二人とも、了承してくださったではないですか。……凛果さんの為に」
天道は口を噤み、石のような宗介の顔を、睨み返す。
そこで、タイミングを見計らっていたらしい緋村が、再び口を開いた。
「この町に来て、最初に鷺沼家のお屋敷を、訪ねた時……僕は、微かな違和感を抱きました」
そう前置きをして、緋村は歩き出す。まるで、舞台の主役を、取って代わるかの如く。悠然と、カーペットを踏み締めて。
「そして今日、幾つかの施設を巡るうちに、その違和感は、間違いではないと、確信した。この町は、想像していた以上に、奇妙な場所なのだと。……あるべきものが、どこにも見当たらないのです。さながら、本来の色を漂白されてしまった、エルギン・マーブルのように」
緋村は、最前列の椅子の真横に差しかかる。そこに腰かけていた人物は、緋村から逃れるように、両手で顔を覆い、俯いた。
「鷺沼家のお屋敷にも、映画館やバー、そしてこの礼拝堂にも──この町のどこにも、みなさんの写真や肖像画といった品が、一切飾られていない。一応、お屋敷のリビングには、豪造氏と瑠璃子さんの肖像画がありました。が、他のご家族──我々を迎えたくださったみなさんに関しては、そういったものを、一つも見かけませんでした。……まるで、初めから意図して飾らないようにしているか、あるいは──あるいは、我々が訪ねる前に、残らず処分してしまったか。そのいずれかとしか、思えません」
だからこそ、緋村はエルギン・マーブルを引き合いに出したのだろう。鷺沼家の家族を写した写真を、失われた古代ギリシャの極彩色に、なぞらえて。
「前者であれば、『そういうこともあるかも知らない』と、納得するしかありません。ここはあくまでも、保養地ですし。……しかし、もし後者だとしたら、どうしてそんなことをする必要があったのか。家族の写真を客人に見られて、何の不都合がある?──考え得る中で、最も合理的な理由は、一つ」
白い丸テーブルの手前まで来たところで、緋村は足を止め、体を翻す。
その場に集った関係者たち──この舞台の登場人物たちの姿を、一人一人順番に見回しながら。緋村は叩きつけるような声色で、言い放った。
「みなさんは、本当は鷺沼家の人間ではない。そうですね?」
彼ら──宗介と天道を除いた三名──の、息を呑む音が、ハッキリと聞こえて来た。
※
「……さすがに、気づかれてしまいましたか」まっさきに声を発したのは、やはり宗介だった。「しかし、私自身は間違いなく、鷺沼宗介本人なのですが」
「もちろん、わかっています。この町に集った鷺沼家の一族の中で、宗介会長だけは、本物でした。つまり、残る四人──今この場には、三人しかいませんが──は、偽物ということです」
否定する声も、肯定の答えもなかった。ただ、宗介は緋村の視線を、真っ向から受け止める。
感情の消えた、無機的な瞳で。
「ついでに言えば、鷺沼家の名を騙っていた四人の正体も、すでに見当がついています。そして、この町で何が起きたのか……みなさんが、これから何を行おうとしているのかも」
「……まるで、推理小説の探偵役みたいですね。あなたに例の資料をお見せしたのは、間違いではなかったらしい」
「会長は、聖子さんの死の真相を、最初から全てご存知だったのですね? 凛果さんの本当の父親が、陣野篤実ではなく、天道さんであることも含めて。
だからこそ、天道さんと橘さんは、みなさんの芝居につき合う羽目になった。十七年前の罪──あるいは凛果さんとの関係──を、黙秘すること。それを条件に、偽物であるみなさんと口裏を合わせるよう、持ちかけたんだ。少なくとも、十七年前この町に滞在していた橘さんは、本物と面識がありますからね。天道さんだって、他のご家族の顔くらい、知っていてもおかしくはない」
「お二人とも、快く引き受けてくださいましたよ。私の読みどおりに、ね」
天道が、ハッキリと舌打ちをする。どうやら本心では、「快く引き受けた」わけではないらしい。
「急遽由井夫妻を雇った理由も、みなさんが偽物であることを、隠す為。『普段から調理を依頼している料理人と都合がつかなくなった』といった話を、耳に挟みました。が、実際は、宗介会長の方からそちらにキャンセルの連絡を入れた上で、由井夫妻を、雇い直したのでしょう。地元の人間であり、鷺沼家に恩義を感じている由井さんであれば、急な依頼も承諾するだろう、と踏んで」
「……ご推察のとおりです。ここまでは、何もかも」
「──天道さん」
不意に呼びかけられた俳優は、いかにも虫のいどころの悪そうな声で、
「なにさ」
「あなたと橘さんも、この人たちの正体を、ご存知ですね?」
「……ああ。昨日、『蒼一社長』から教えてもらったよ。……けど、驚いたね。まさか、あいつに兄弟がいたなんて」
「で、あれば……やはり、僕の考えは、間違っていないらしい」
緋村は満足げに口角の端を吊り上げ、それから偽物たち──「鷺沼家」を演じていた役者たちへ、カメラをフォーカスするように、順に視線を投げかける。
「『橙子』さん、『紅二』さん、『蒼一社長』、そして、今は姿の見えない『三黄彦』さん。あなたたちは、全員──神薇薔人教団の関係者だと、推察します」
その声に抗う者は、一人として現れなかった。宗介の口にした「逃げるつもりはない」という言葉は、事実だったのだ。
演技を終えた人形たちは、神の審判が下されるより先に、青年による糾弾を、受け入れた。
「……よくもまあ、そんなことまでわかりましたね。というより、どうしてあなたが、神薇教のことを、知ってはるんやろう?」
この町では「橙子」役を演じていた老女が、頬に手を当てながら、不思議そうに尋ねる。
「美杉探偵事務所の田花さんから、聞かされました。田花さんは、僕や若庭と同じ大学の卒業生で、あまり嬉しくはありませんが、それなりに親交があるんです。ほら、やたら胡散臭い見てくれの探偵が、訪ねて来たでしょう? 高部真澄さん」
真澄は、得心したように破顔した。
「ああ、あのモジャモジャ頭のお兄さんね。確かに来ましたよ。紫苑お嬢様の事件を再調査する言うて。そういえば、昨日もなんや電話があって、アルバムの写真は誰が撮ったとか、カメラのことを訊かれてんけど……」
「僕が頼んで、高部さんに確認してもらいました。あの時は、まさか同じ町に滞在しているとは、思っていなかったので」
「そう。なら、やっぱり紫苑お嬢様の事件も、知ってはるのね」
「ええ。それに、五十年前の事件の真相や、紫苑さんが本当は延命されていたこと──その後、密かに鬼村医師の子供を産んでいたことも、すでにわかっています」
言ってから、緋村は他の人物へ、視線を移す。
「紅二」の名を騙っていた痩身の男は、どこか張り詰めていたものが切れたかのように、息を吐き出した。
「……じゃあ、うちにあの二人が来たんも、君の差し金やったわけか。まさか、天国洞まで追って来るとは、思わんかったが」
「あなたは、高部さんが引き取って育てたというお子さんの、一人ですね? 確か、『かずと』と『しゅんた』という名前が、柱に刻まれたいたとか」
「俺は和人や。で、弟が俊太──あいつは『三黄彦』のフリをしとった」
「そうでしたか。では、和人さん。数時間前、あなたは神薇教の本部──あなたにとってのご実家──に呼び出した久住さんを連れ、天国洞を通って、この町に戻って来た。実際に久住さんと連絡を取ったのは、高部さんであり、《バー ディオニューソス》で受けた電話も、高部さんからのもの。待ち合わせの時間に遅れて、久住さんに怪しまれたり、逃げられたりしたら困ると、あなたは我々をバーに残し、慌てて出発した。天国洞の入り口のある、風車を目指して」
「だいたいそんなところや。予定どおり、久住さんと落ち合えたまでは、よかったんやが……あのタイミングで探偵共が来よったんは、誤算やった。もしも、久住さんが車ん中で大人しくしてくれんかったら、危うく計画が、パーになるところやったわ」
「……久住さんには、こう伝えたのではありませんか?『紫苑さんの遺体が眠る場所まで案内するから、黙ってついて来てほしい』と」
「ご名答。ついでに、『お父さんが鬼村夫妻を惨殺した動機も教えたる』言うたら、簡単に従ってくれた。もちろん、蒼一社長の許可をいただいたテイにして、な。……ま、内心疑ってはいたんやろうけど……あの人からすれば、他に頼る当てもないわけやし? まさか、拉致されるとは思わんかったやろうから、ひとまず同行して、真偽を確かめるつもりやったんやろな」
和人は、一切悪びれることなく答える。「紅二」を演じていた時とは全く異なる、粗野な口調で。
「紫苑さんのご遺体は、どちらに? まさか、本当にこの町のどこかに」
「そこや」
和人は、尖った顎をしゃくってみせる。
振り返った緋村の視線の先にあるのは、眠らされた久住と、テーブルの背後に見える祭壇。
「あのピエタ像の真下に、眠ってはるらしい。三十年前の事件の後、一旦別の場所に移してから、結局この町で供養することにしたそうや。──ですよね、会長さん」
宗介は首肯した。
「……それも、橙子さんの要望でした。あの人のオカルト趣味には、私もずいぶんと閉口させられましたよ。ただ、瑠璃子が許可を出したもので……。おそらく、その時にはもう、瑠璃子は紫苑さんへの興味を、なくしていたのでしょう。瑠璃子からしてみれば、十二分に仕返しをした後でしたから」
「瑠璃子さんの『仕返し』とは、『植物状態となった紫苑さんに、鬼村医師の子供を産ませること』ですね? そして、その結果この世に生を受けたのが、聖子さんだった。……しかし、本当は聖子さんだけではなかったのではありませんか? 鬼村医師と、紫苑さんの子供は」
「……そうです。どうも、鬼村先生は特殊な性的嗜好をお待ちだったようで……。ヘベフィリア、というのでしたか。思春期前期の子供に対する、性愛性。鬼村先生が手に入れたいと望んだのは、あくまでも、『あの頃の紫苑さん』でした。
ですから先生は、紫苑さんの容態が安定してすぐ、ご自身のオゾマシイ欲求を、満たしたのです。……果たせるかな、その欲望は無事、結実してしまった」
宗介は、横目で和人の姿を見やる。対する和人自身は、呆れたように、骨張った肩を竦めた。
「まるで、産まれて来てほしくなかったような言い方ですね。──はっ、俺らかて、好きであんな狂人の子供として、産まれたわけちゃうのに」
「では、やはり和人さんたちは」
「ああ……俺も俊太も、鬼村と紫苑の血を引いとる。さっきその兄ちゃんが言うたとおり、俺らは聖子さんの、兄貴ってわけや」
真実が──隠されていた役者たちの素顔が、次々と明かされていく。しかし、緋村にとってはいずれも想定内の事柄であるらしく、その表情に、喫驚が浮かぶことはない。
「お二人は幼い頃、神薇薔人による支援を受けていたそうですね。そして、どうやら凛果さんや聖子さんも、同様らしい。
一方、由井さんの旦那さんは、同じく鷺沼家の支援を受けていながら、神薇薔人とは関係がない様子でした。つまり、鷺沼家がこの名義を使うのは、『五十年前の事件をキッカケに生を受けた子供』に対してのみ。そう考えていたのですが、またしても勘が当たったようです」
「ふっ。そもそも『神薇』っちゅう妙ちきりんな名前も、まんまカミラ村──鷺沼家と因縁深いあの村──から、来とるそうや。確か、この名義を考案したんは、あんたの親父さんなんやってなぁ。天道さん」
和人の言葉に、天道はわざとらしく苦笑する。「父子共々、鷺沼の瑠璃子には気に入られていたみたいです。大変ありがたいことに、ね」と、俳優は皮肉を吐いた。
「……神薇薔人教団は──表向きは、という注釈がつくのかも知れませんが──、恩義ある鷺沼家を、崇拝する集団だと伺いました。それなのに、どうして皆さんは、信仰対象である一族の人間に、成りすましていたのか。その辺りの事情についても、すでに見当がついています。──が、それを確認するより先に、一つだけ。この場で、言わせてください」
緋村は、今度はすぐ目の前──最前列の席へ、視線を投げかける。
そこに座る、未だ仮面を剥がされずにいる人物へと。
「高部さんと和人さん、そして弟の俊太さんは、全員神薇薔人教団の人間だった。……しかし、『蒼一社長』の役を演じていたあなただけは、違うはずだ」
緋村の眼差しの先で、彼は俯いた姿勢のままユックリと、顔から両手を離した。
「……ようやく、この言葉を、言うことができる」
安堵するように、緋村が呟いた時。
男はやっと、面を上げる。
フレームが歪み、レンズにはヒビさえ入った、度のキツそうな眼鏡──それを無理矢理鼻梁に乗せたその男は、光を拒むような虚な瞳で、青年を見上げた。
対する緋村は、それまでと比べ、幾分か穏やかな声音で、こう続けた。
「お久しぶりです──レンジャー博士」
日系アメリカ人の人類学者、カーネル・レンジャーは、次の瞬間口許を歪め、諦観の滲む微笑を湛えた。




