落日の兆し
以前訪れた時とは違い、この日はシルバーのミニバンが一台、庭の真ん中に停車していた。
センチュリーが敷地に進入すると同時に、そのミニバンの持ち主らしき中年男が、運転席の真横から振り返る。訝るような視線が、松谷たちへと注がれた。
男は上下共黒いジャージに身を包んでおり、あまり上品な風体には見えない。鈍山ほどでないにしろ、素行の悪さを感じさせるオヤジだ。
おそらく、この男も神薇教の関係者なのだろうが……いったい、何者なのか。
松谷は田花と共に社用車を降り、会釈しつつ、彼に近づいて行く。
よく見ると、男は野良作業でもして来たのか、袖口や裾の辺りを土で汚しており、両手には同じく土のついた軍手まで嵌めていた。
「すみません、高部真澄さんはご在宅でしょうか?」
「……おらんけど」
男は素っ気なく答えた。顔に青痣を拵えた若い男二人が訪ねて来たのだから、警戒して当然である。
が、どうやらそれ以前に、急ぐ用事でもあるらしい。
松谷がいつ帰って来るか尋ねると、
「今日は帰って来えへん。すまんな。また出直してくれや」
早々に、会話を切り上げられてしまう。のみならず、男は手で払い退けるようなジェスチャーまでしてみせた。そこまで邪険に扱うことはないではないかと、松谷は少々腹が立った。
「ちょっと待ってください。あなたもこの家の人なんすよね」
無遠慮な田花の声に、男は酷く煩わしげな声で、「……そうやけど」
「つまり、真澄さんの養子ってわけですか。昔、神薇薔人の援助を受けたっつう」
「だから何やねん。帰れ言うとるやろ。おっちゃん今急いどんねん」
「何か用事があるみたいっすね。どこへ行きはるんです?」
「答える義理あらへん。さっさと失せろや餓鬼が」
田花のニヤけ面を、神薇教の男は、気色ばんだ様子で睨み返す。このまま取っ組み合いか、そうでなくとも口論に発展し兼ねない雰囲気を感じ取り、松谷は気を揉んだ。
しかし、ほどなくして、田花の方が退いた為、ことなきを得た。
「すみません、引き止めてもうて。また後日伺いますんで、真澄さんに伝えておいてください」
「……覚えとったらな」
答えるや否や、男は素早くドアを開け、運転席に乗り込むとほとんど同時に、閉じてしまった。まるで、車内を見せまいとするかのような早急さであり、取りつく島もない。
仕方なく、松谷たちも社用車に戻り、そのままバックで敷地の外に出る。
後ろ向きに左折し、車を停止させると、間もなく、先ほどのミニバンが、生垣の切れ目から顔を覗かせた。こちらは向かって左に進路を取り、家の前の道を、反対方向へ突き進んで行く。
「当てが外れてもうたわけやが、どないすんねん。これから」
遠ざかって行くミニバンの後ろ姿を見送りつつ、松谷は、助手席に問う。すると、
「決まっとるやろ。跡を追うで」
「はぁ? お前、この間は『尾行なんて犯罪者のすることや』とか、言うてたやないか」
「何寝惚けたことぬかしとんねん。尾行は探偵の基礎やろうが。──それよか、はよ車出さんかい! もたもたしとったら、見失ってまうわ!」
いろいろと言いたいことはあったが……ここで小競り合いを演じても、何も始まらない。
松谷は横柄な後輩の指示に従い、社用車を発進させた。
道中、煙草を咥え、助手席にふんぞり返った田花が、こんなことを言って寄越す。
「仏壇、覚えとるか? 高部ん家の仏間に、高そうな仏壇が置かれとったやろ」
「そういえば、あったな。確か、鷺沼瑠璃子からの贈り物やったか」
「それや。少し考えとったんやけどな、もしかしたらあの仏壇、紫苑を弔う為のもんとちゃうか?」
「紫苑を弔う? どういう意味や」
「つまり、鬼村夫妻が殺された事件の後、紫苑の亡き骸は、神薇教に運び込まれたのかも知れん、ってことや。あるいは、どっか別のところで処分された後で、高部にだけその事実を伝えたか……。何にしても、変やと思わんか? 大した理由もなしに、突然高価な仏壇を、贈りつけて来るやなんて」
「まあ、確かに。変ってか、意味不明やな」
「せやろ? それに、位牌のこともある。あの仏壇に飾られとった位牌には、故人の名前も戒名も、何も刻まれてへんかった。少なくともあの仏壇が、大っぴらに名前を出せへん人間を弔っとるんは、確かやろう」
──ホンマに、そうなんか? 尾行対象の乗ったミニバンと、一定の間隔を保つよう注意しながら、松谷は考える。
「もしホンマに、お前の考えどおりやとしたら……高部さんも、知ってはるわけか? 五十年前の事件の真相や、紫苑が秘密裏に、生かされとったことを」
「そうなるな。ま、あり得ん話とちゃうやろ。全てを知っていながら、俺らにはすっ惚けてみせたんや。──高部は、かつての不倫相手である宗介のことを、今でも悪く思ってへん様子やった。そんな宗介を庇う為に、何も知らん目撃者を、装ったのかも知れん」
確かに、あり得なくはない。
「それも、鷺沼家が指示したことやった?」
「わからん。ただ、少なくとも蒼一と神薇教は、繋がってへんと思う。あの日、佐伯と鈍山が再調査を中止させに来たんは、俺らが梶間の家を訪ねとる時やった。もし仮に、そこの二つが繋がっとるなら、俺らが神薇教の本部におる間に来ることも、可能やったはずや。あるいは、そもそも高部に事情聴取を拒むよう、言いつけておくとかな」
「なるほど……」
やはり、宗介と蒼一は、全く別の考えを持っており、神薇教は前者を支持している。もしくは、こちらも別で動いていると見るべきか。
「とにかく、神薇教にはまだ何か、裏があるはずや。紫苑の境遇や、鷺沼家の秘密をホンマに知っとるなら、あんな悪どい連中を、信仰の対象にはせんやろう。いったい、高部やその養子たちは、どこまで深く、鷺沼家の秘密に関わっとるんか……そろそろ教えてくれへんか? なあ?」
田花は、フロントガラスのずっと先に見える白い車体へ、問いかけるように言った。
神薇教の男は、探偵たちを何処へと誘うのか。その答えが明かされたのは、それから一時間以上も後のことだった。
美杉探偵社所有のセンチュリーは、大阪から奈良へと至り、さらに放物線を描くように南下を続けた。車窓を流れる景色は、いつの間にか田舎のものへと変わっており、やがて路線バスの終着点すらも通過してしまう。
さすがにこれだけ鄙びた場所へ来ると、車通りも少なく、いつ尾行に気づかれてもおかしくはない。田花は納得しないのだろうが、そろそろ見切りをつけるべきか。
松谷がそんな風に考え始めた頃、道の左手に、『この先、天国洞』と書かれた大きな木製の看板が、現れた。
「まさか」と松谷が思った矢先、ミニバンはその看板の根本で左折し、雑木林の中を伸びる細い脇道へ、進路を変えたではないか。
どうやら、神薇教の男は、本当に天国洞を目指しているらしい。
「あのオッサン、洞窟なんかに何の用が──って、おい、何で通り過ぎんねん!」
「このまま車で跡をつけたら、目立つやろ。道幅も余裕なさそうやし、向こうがUターンして来たらどないすんねん。こっからは、徒歩で追うで」
看板の前を通過し、しばらく進んだ先の路肩に、センチュリーは停車した。二人はスマートフォンで、脇道の先が行き止まりであることを調べた上で、車を降り、徒歩での追跡に移行する。
洞窟の入り口へも至る道は、すぐに未舗装のものとなり、やがて雑木林の中の開けた場所へ、突き当たった。
松谷たちはひとまず、手近に生えていた杉の木の陰から、前方の様子を窺う。白いミニバンの停車する場所の先には、山の斜面を削り取ったような崖が聳え立ち、その崖面と、雑草の繁茂する地面との境目に、仄暗い洞窟の入り口が見えた。
一応「立ち入り禁止」の札のついたロープが張られていたものの、扉やフェンスで塞がれているわけではない。中へ侵入することは、容易いだろう。
そして実際、そのロープの越しに、先ほどの男らしき後ろ姿が確認できた。薄汚れた黒いジャージの背中は、瞬く間に闇に呑まれ、見えなくなる。
「なあ。今、あのオッサンの他に、もう一人誰かおらんかったか?」
「え? 俺には見えんかったけど……もしかしたら、そいつも神薇教の人間かもな。確か、高部さん家の仏間の柱には、二人分の名前が刻まれとったはずや。子供が背比べしたみたいに」
柱に刻まれていた名前は、「かずと」と「しゅんた」。少なくとも、例の黒ジャージの男が、そのどちらかに該当することは、間違いないだろう。
「パイセン、そんなことよう覚えとったな。──で? ここまで来たからには、もちろん、行けるとこまで行くんやろ?」
「ああ。ただ、追いついたらまずい。二、三分くらい待ってから突入するで」
現場に張り込む刑事にでもなった気分で、松谷は答える。初めは田花に振り回されて、次に美杉のアシストを受けた結果、こんなところまで来てしまったが……今では松谷自身、少なからずこの調査を、楽しんでいた。
約三分後、探偵たちは動き出す。
洞窟に入る間際、田花がニヤリと笑い、こんなことを言って寄越す。
「どないする? 洞窟の奥で、鬼村が待ち構えとったら」
「まるでRPGのボスみたいやな。ま、そん時はお前を犠牲にして、逃げさせてもらうわ」
「ヒヒヒ、アホが。意地でも道連れにしたる」
くだらない軽口を交わし──お陰で松谷は、幾分か緊張が和らいだ──、彼らはそれぞれスマートフォンのライトを点けると、ロープを潜り、最終ダンジョンのような洞窟内へ、足を踏み入れた。
天国洞の中は、外界と比べかなり気温が低く、進み始めて少しも経たぬうちに、肌寒く感じるほどだった。天井からは、鋭く伸びた見事な鍾乳石が、無数に生えているのだろう。しかし、ライトを頭上に向けるわけにもいかず、何万年もかけて自然が造り上げた奇景を堪能することは、叶わなかった。
何より、足元を気にかけながら歩く必要があり、尚且つ先を行くあの男に尾行を気取られないよう、注意しなくてはならない。
幸い、少し時間を置いてから中に入ったお陰か、尾行対象とは、それなりに距離を取ることができているらしい。
と、同時に、相手の足音が聞こえて来ないことが、松谷を焦らせた。これでは、ほとんど対象を見失っているようなものではないか。
加えて洞窟内は蟻の巣のように複雑な構造をしているらしく、何度も支道を発見しては、その度に勘を頼りにしなくてはならなかった。それも、よりにもよって、田花の勘を。
「こっちやな」
ほんの数秒足を止めただけで、声を潜めて呟いた田花は、ほとんど迷うことなく進路を決める。あまり不用意に歩き回っては、洞窟の規模によっては遭難する恐れもあるのではないか。不安になった松谷が、「なんでわかんねん」と小声で尋ねると、
「犯罪の臭いがするからや」
尾行に気づかれるリスクを冒してまで問い質したことを、後悔した。
最早、あの男の目的を突き止めるどころではない。自分たちがどこへ向かっているのか、下っているのか上っているのかさえ、松谷にはわからなくなっていた。
とにかく、無事に太陽の下へ帰りつくことができますように。松谷がそう祈り始めた頃──
二人の前に現れたのは、それまで通って来た道とは違う、広い部屋のような空間だった。
部分的に崩れた天井から、木々の枝葉によって切り取られた陽光が、微かに差し込んでいる。どうやら、そこは約三十年前、久住が例のネブカドネザルを目撃した場所らしい。
その当時は、空間の中央に、地底湖のようなものがあったそうだが……今は落ち葉や枯れ枝が積もるばかりで、湧き水を湛えた湖面は、見る影もない。
──そら、こんなところで半裸の爺さんと出会したら、トラウマにもなるわ。
呆気に取られた松谷が、そんな素朴な感想を抱いたのと、ほとんど同時に、
「……何や、あれ」
半歩先に佇立する田花が、不思議そうに呟く。
いったい何を見ているのか。松谷は同僚の視線を、必死に辿った。
田花が凝視していたのは、かつて地底湖があったであろう場所の対岸──陽射しの当たる場所と、闇に呑まれた部分の、ちょうど境目付近であった。まさしく、かつてネブカドネザルがいた場所と同じような、「光と闇の境目」である。
松谷は田花を真似て、目を凝らす。すると、白茶けた地面の上に、暗がりからはみ出すような具合で、何かが転がっていることに、気がついた。
その「何か」の正体は──靴だ。黒地に白いラインの入った、平凡極まりないデザインのスニーカーが、靴底をこちらに向けている。
何故、あんなところにスニーカーが、落ちているのか。不届者が、捨てて行ったのか……? 松谷の抱いた疑問は、数秒後には、驚愕と恐怖によって、粉砕された。
それが単なるスニーカーではなく、靴を履いた人間の脚であることに、気がついて。
※
緋村さんが書斎のドアをノックし、部屋の中へと呼びかける。
「緋村です。こちらに社長がいらっしゃると伺ったのですが、入っても構いませんか?」
「……どうぞ」
蒼一社長の声が返って来た。どこか億劫そうな、冷たい声音。
「失礼します」
ドアを開けた緋村さんに続き、私も室内へ入る。
社長はアンティークデスクではなく、安楽椅子の方に、腰かけていた。どうやら、休憩中だったらしい。
また、部屋の奥に見える窓は、やはりベージュ色のカーテンで、隠されたまま……確か、あの窓だけ雨戸が壊れていて、開かないのだと、会長が仰っていたか。
「何の用かな?」
足を組み、安楽椅子に身を預けた社長は、瞑目したまま、問う。大した用事でないのであれば、すぐにでもお引き取り願いたい──そう言いたげだった。
緋村さんは何故、唐突に社長との謁見を望んだのか。その理由は、私にもわからない。ただ、「探偵」とやらとの通話を終えた直後、緋村さんは「屋敷に行く」とだけ言って、足早に歩き出してしまったのだ。
私も何かあったのかと尋ねてみたのだけれど、返事は寄越されず……。仕方なく、緋村さんの後を追いかけた結果、こうして蒼一社長の元へ、一緒にお邪魔していた。
「報告したいことがあります。──若庭が見つかりました」
「えっ?」思わず声を上げてしまった。当然、蒼一社長にとっても意外なことだったらしく、彼は瞼を開き、充血した瞳で緋村さんを見上げる。
「……本当かね」
「ええ。若庭は、やはり天国洞の中にいました。少し怪我をしているらしく、今は病院で、治療を受けているそうです」
「…………」
蒼一社長は眉皺を刻み、目を細める。まるで、緋村さんの言葉を疑うかのように。
いずれにしても、若庭さんが無事で何よりだ。怪我をしているのは心配だけど、緋村さんの口振りからして、おそらく軽傷のようだし。
私は安堵した──安堵したはずなのに、何故か、妙に気分が落ち着かない。緋村さんのことを信用していないわけではないのだけど……何か、含みがあるような言い方に思えて……。
「……そうか。それはよかった。私も、若庭くんを心配していたんだ」
取り繕うような笑み──私にはそう見えた。
「お騒がせしてしまい、申し訳ありません。……ところで、もう一つ、お伝えしたいことが」
「何かな?」
「若庭が、赤い野球帽を拾ったそうなんです。確か、メジャーリーグのハンターズというチームの帽子だと、言っていました。……誰の帽子か、お心当たりありませんか?」
その言葉を耳にした途端、蒼一社長の顔に、今度こそ驚愕の色が広がった。それは透明な水に墨を垂らすように明白な反応であり、驚くという以上に動揺──ともすれば、恐怖すらも伺えた。
でも、いったいどうして?
「……ゆ、友人が……以前、忘れていったんだ」
「そうでしたか。その友人というのは──カーネル・レンジャー博士ですね?」
再び、絶句。
社長は開いた口の閉じ方を忘れたとばかりに、愕然とした表情で、緋村さんの姿を見つめ返す。
数秒間のフリーズを経て、ようやくその唇が──戦慄きながら──動いた。
「ど、どうして、その名前を……」
「一度だけ、お会いしたことがあるんです。十年前、両親と共に訪れた、本物の白亜の町で。その時も、レンジャー博士はハンターズの野球帽を、被っておられました」
瞠若する蒼一社長の姿を、緋村さんは薄く笑みを浮かべながら、見下ろしていた。まさか、先ほど風車の前でやり込められた仕返し、というわけではないのだろうけど。
とにかく、緋村さんの紡ぐ言葉が、社長を追い詰めているらしいことは、確かだ。
「レンジャー博士は、迷子になって困り果てていた僕に、声をかけてくださいました。覚えていらっしゃいませんか? あの時、僕は蒼一社長とも、出会っているのですが」
「ま、まさか、君は……」
「社長のことを僕に紹介し、博士はこう仰いました。『僕の親友のように、聡明で勇気ある人間になりなさい』と」
緋村さんの放った言葉が金色の弾丸となり、螺旋状に回転して空気を裂きながら、社長の額に撃ち込まれる──そんな様を、私は目の当たりにした、ように思えた。
少し大仰な比喩表現かも知らないけれど……でも、もしかしたら、それほど劇的な瞬間に、私は立ち会っているのではないか。
「十年も前のことなので、正直僕も記憶が薄れていました。しかし、あの時贈られたこの言葉だけは、今までずっと、忘れずに生きて来たつもりです」
「き、君は……あ、あの、時の」
続くセリフは何であったか。結局私には、わからずじまいだった。
蒼一社長が生唾を呑み、それから再び血色の失せた唇を、開きかけた時──
「すみませーん、由井ですけどぉ。入ってもよろしいですか?」
旦那さんの方の由井さんの声が、背後にある扉越しに、聞こえて来た。
「お伝えしたいことは以上です。我々はこれで。──行こう」
踵を返した緋村さんは、私のことを促しつつ、足早にドアへと向かう。蒼一社長は咄嗟に呼び止めようとしたらしい。が、結局すぐに、中途半端な位置に上げた手を下ろし、顔を覆って項垂れてしまった。
私はひとまず会釈だけしておいて、緋村さんを追いかける。
彼がドアを開けると、書斎の外には、由井さんたちが、ご夫婦揃って佇んでいた。気になったのは、二人が二人とも、荷物で膨らんだ鞄を背負ったり、手に提げたりしていたことだ。
「もしかして、お帰りになるんですか?」
緋村さんが尋ねると、由井夫妻は揃って頷く。
「ええ。お夕食の準備までしたら帰るよう、言いつかっておりまして。社長は、まだいらっしゃいますか?」と、奥さんの方が尋ねて来る。
私と緋村さんは、答える代わりに体を退けた。
それから「お世話になりました」とお礼の言葉を二人に伝え、入り変わるように書斎を出る。
「あら? 体調が優れないんですか? 顔色、あまりよろしくありませんけど……」
「い、いや……大したことでは……」
ドアの向こうから聞こえて来る社長と夫妻のやり取りを背に、私は緋村さんの後に続いて、一階を目指す。
途中、踊り場にある窓から外を見てみると、白亜の町の建物が、ほんのりと黄色がかっていることに気がついた。
日が、傾き始めている。
落日の兆しは、これから少しずつ町の空へ広がり、鮮烈な夕映の後には、黒天鵞絨のような夜の帳が下りる。普段はごく当たり前に受け入れている事象のはずなのに、まるで何かの終焉──壮大な舞台の終わりを表しているようで……。
足を止めた私は、高揚感とも胸騒ぎとも取れぬ感覚を抱えたまま、しばし、窓の外を眺めた。
※
白亜の町の、とある場所にて。
彼は未だ、夜の帳の如き闇に、捕えられていた。
彼は友人に裏切られ、道具として使われる為だけに、ここに閉じ込められた。その命は空腹と失意によって衰弱し、今や声を発する気力さえ、残されていない。
──死んでしまう。このままでは……こんな、ところで。
彼は絶望し、激怒し、自らの無力を嘆き、助けが来ることを祈り──死を覚悟した。
しかし。
──嫌だ。まだ、諦めるわけにはいかない! 僕は、どうしても生きていたい!
闇。
その中で。
彼は動き出す。
生きる為に。生きて、この場所から脱出する為に。
彼は、残されたわずかな力を振り絞り──微かな希望を掴み取るべく、人知れず、行動を開始した。




