カサブランカの女
約二十年前。
ドラマ『白亜の町に死す』の撮影はつつがなく進行し、クランクアップも間近に迫った頃。その日の撮影が終了し、スタッフや他の役者たちが撤収した後も、天道は一人、鷺沼家の町に留まり続けていた。
貸し与えられた小さな家の中、ケータリングの余りで夕食を済ませた天道は、その後は両膝を抱えてベッドに座り、何をするでもなく、ジッと動かずにいた。
一応、この家にも電気は通っており、灯りも点くのだが、天道は敢えて、暗がりを望んだ。窓から差し込む青白い月光が、彼の眼前に見える床やテーブルを照らし出す。
まるで、世界中が海底に沈んでしまったかのようだ──そんな取り留めのないことを考えながら、天道は待っていた。夜が更けるのを。
「……『人生は、砂の城を築くのに似ている』」
ふと、呟いてみる。
ドラマのラストシーン──天道の演じる主人公が、死に行く中で口にするセリフだった。まだ撮影していないシーンの中で、最も重要な部分と言える。
それなのに……天道は、未だに納得のいく演技を、掴みきれていない。
他のセリフはどれも、可能な限りホンを読み込み、咀嚼し、自分の言葉にできた感覚がある。しかしながら、どうにもこのセリフ、この言葉に関しては、思うようにいかなかった。どれだけ声に出して繰り返しても、嘘臭さがなくならない。
──綺麗事すぎる。捻くれ者のクソ親父にしては珍しく、真っ当な『御涙頂戴』だ。
初めてこの話数の脚本を読んだ感想が、それだった。今までのドロドロとした人間模様が嘘のように、やけに「晴れやかな死」が描かれて、ドラマは幕を閉じる。
父の書いた話には、他にも思うところが多々あったが……演者である天道が、そんな不満を抱くわけにはいかなかった。どのような形であれ、初の主演、それも鷺沼グループのバックアップを受けた、大仕事なのだ。必ずや、成功させなければ。
「…………」
天道は、文字どおり今後の役者人生を賭けるような心構えで、この仕事に臨んでいた。それなのに、やはり最後のセリフは自然と途切れ──もどかしさと苛立ちだけが、閉じた口の中に残る。
結局、大した予習にもならないまま、天道は海底のような部屋の中で、数時間を過ごした。
天道は、自らの腕にうずめていた顔を上げる。左手首に巻いた時計によれば、午前零時が近い。ちょうどいい頃合いか。
「……行くか」
自らに号令をかけるように呟き、天道は腰を上げ、ベッドから床に下りる。そのまま懐中電灯だけを携え、水底に沈んだ白亜の町へ、繰り出した。
天道の目的は、数名のスタッフが噂していた怪談話の真偽を、確かめること。マネージャーである橘や、他の共演者たち、そしてプロデューサーには、そのように伝えていた。
無論、天道とて、怪談話を本気で信じているわけではない。それどころか、その手の話には、元来関心がなかった。真実だろうと嘘だろうと──間違なく後者であり、かつて起きたという事件から想起された、デマだろう──、どうだっていい。
では何故、天道はこんな夜中に、無人の町を歩いているのか。実際の目的は、強いて言えば、「気を紛らわせる為」、ということになる。
要するに、逃避しているのだ。
役者としての未熟さを痛感し、自己嫌悪し、摩滅していく自身の現状から。
静まり返った白亜の町の中に、一人分の足音だけが、鳴り響く。
後は時折、木々の枝葉が風に揺れる音が、ザワザワと聞こえて来るばかり。普段暮らしている街とは程遠い、静寂と言って差し支えない静けさである。
しかし、だからこそ余計に、聞こえもしない声が、聞こえてしまった。
──子役からやってるって言っても、所詮は親の七光だしなぁ。
愚痴るように呟くのは、刑事の役を務める、ベテラン俳優だった。
──天才作家とスター女優の息子。そりゃ世間もギョーカイも、持て囃すってもんだ。
これに対し、赤い唇の端に煙草を咥えた女優──役どころは、天道演じる主人公の養母──が、厚化粧の顰めっ面で、頷いた。
──なんでも、鷺沼の奥様からも、たいそう気に入られてるんだってね。今回の仕事も、実のところ色目使って取って来たみたいだし。
──だとしたら、納得の配役だね。やっぱり特だよなぁ、顔がよくて若いってのは。男も女もさ。
白い建物に囲まれた狭い坂道を進み、天道は、丘へ上がる為の階段に至る。
──いいか、琴矢。俺ぁ本当は、美千代にお前を産ませたくなかったんだ。けど、あいつがどうしても子供が欲しいって言って、聞かなくてな。
酒臭い息が、夜風に乗って漂って来たように、感じられた。天道がまだほんの幼い頃から、父は酒に酔うと、度々その話を口にした。
──失敗だったなぁ。あの時美千代を説き伏せときゃあ、今でも身軽でいられたのに。ホント言うと、所帯を待つのも御免だったんだ。女房や子供に縛られてたんじゃ、好きなように生きて行けねえや。
階を踏み外さぬよう注意しつつ、急な石の階段を、上がって行く。丘の上まで来ると、歪な形に欠けた巨大な、月がよく見えた。
その月の真下──恐ろしいほど鮮烈な月光に晒されながら、二つの建物が、隣り合って佇立している。
一つは風車。
そしてもう一つの廃屋こそが、天道の目指していた場所である。
人が住まなくなって永年経過しているだけあって、廃屋は確かに「出そう」な雰囲気を醸していた。そもそも、何故未だに取り壊さずにいるのかが疑問だ。かつて殺人事件のあった、曰くつきの建物だというのに……。まさか、怪談話の舞台としてわざと保存しているわけではあるまい。
──いい役者さんになってね。
亡くなる直前、病室に置かれたベッドの上から、母──天道美千代が寄越した言葉を、思い出す。美千代の愛用していた、ヴォル・ド・ニュイの芳香と共に。
気を紛らわせるどころか、次から次へと余計な考えが、頭に浮かぶ。やはり、こんな薄気味の悪い町に一人きりで留まったのは、失敗だったのだ。
今更ながらの後悔を噛み締めつつ、天道は、リビングらしき空間の窓を、覗き込む。
肝試しをしたいので、廃屋の鍵を貸してください──とは、さすがに言えなかった。その為、外から廃屋内の様子を、観察するしかない。
初めは懐中電灯で照らそうとしたが、光が窓ガラスに反射してしまい、うまくいかなかった。仕方がないので、シャツの袖口で窓ガラスを拭き、改めて中を覗き込む。
懸命に目を凝らしてみたが、特に変わったこともなく。月明かりに照らし出されたわずかな家具類──テーブルやソファーなど──が、物哀しく感じられた程度だった。
面白くもない。別段何かが起こると期待していたわけではないが、思っていた以上に拍子抜けである。
「……何やってんだろ」
思わず、一人ごちる。
自分自身の無計画さと不器用さ──現実逃避すら満足にできないらしい──に、呆れて。
すでに興が醒めてしまった感があるが、このまま引き返したのでは、あまりにも味気ない。何より、余計に嫌なことばかり考えてしまいそうで、憂鬱だった。
ひとまず、他の部屋も覗いてみよう。そう思い、天道が窓を離れようとした──その時。
視界の端に、青白い光が動くのを捉えた。
初めは自身の懐中電灯の光が反射したのかと思ったが、違った。先ほどの光芒は、確かに廃屋の中で発生したものだ。
天道は、慌てて体の向きを戻し、手が埃で汚れるのにも構わず、窓ガラスに張りつく。
見間違いではないことは、すぐにわかった。月光よりも白みがかった細い光の筋が、ふらふらと揺れながら、次第に照らし出す範囲を広げ、近づいて来る。
──屋内に、誰かがいる。そう確信した天道は、反射的に窓から離れ、なるべく物音を立てず、かつ足早に、正面口へと移動した。
天道はドアの前に立ち、恐る恐るノブを握る。
果たせるかな、鍵はかけられておらず、廃屋のドアは、少しの抵抗もなく開いた。
戸口から、暗い廊下を覗き込む。まだ相手の姿は見えないが、フローリングを踏み締める軋んだ音が、すぐ右手側に見える扉の向こうから、微かに聞こえた。
正体を突き止めなくては。意を決した天道は、靴を履いたまま、家の中に上がる。
当然、身の危険がある可能性を、考えなかったわけではない。かと言って、見過ごすこともできなかった。あまりありそうもない話だが、よからぬことを企む輩が忍び込んでいるとすれば、明日以降の撮影に、支障を来たす恐れがある。
天道は足音を忍ばせながら、何者かの潜むリビングへと、近づいた。扉に嵌め込まれた磨りガラス越しに、先ほど目にしたのと同様の白い光が、チラチラと揺らめいて見える。
「…………」
ドアノブに手をかけた天道は、息を深く吸い込み──そして、吐き出した。緊張感が高まると共に、鼓動が早くなるのを感じる。
──行こう。
胸の内で呟き、天道は、ついにそのドアを押し開いた。
その時目の当たりにした光景を、天道は今尚、鮮明に記憶していた。
青褪めた月光によって満たされた部屋の中、彼女は窓辺に佇み──天道が、ドアを開けるのとほとんど同時に、振り返った。
彫像めいた白い顔には、瞬時に驚愕の色が広がり、見開かれた大きな瞳がガラス玉のように、天道の姿を映し出す。喪装を思わせる黒いワンピースを纏い、赤茶色の髪──月の光に晒されて、絹糸のように煌めいて見えた──を、生白い首筋に垂らした女は、シチュエーションも相まって、この世のものざる存在のように、感じられた。
その若い女の右手には、細身の懐中電灯。
そして、もう一方の腕に、花束を抱えていた。
咲き誇る、カサブランカの大輪を。
純白の花弁を先端が捲れ上がるほどに開いた花の集合体は、月明かりに沈むこの家に、酷く似つかわしい。
数巡の間、天道とその女──当時二十だった天道よりも、わずかに歳上というだけなので、少女とも言える──は、互いに見つめ合ったまま、声を出さずにいた。
先に話しかけて来たのは、向こうだった。
「……知ってる。キミ、俳優やろ」
予想していたよりもハスキーな声で言い、カサブランカの女は、謎な笑みを浮かべた。
予想外の言葉と表情の変化に、天道は少なからず動揺する。が、あくまでも、それを顔に出すことはなかった。
「この時間なら、誰もおらん思ってんけど……まだ残ってたんや。ジブン、何してたん?」
「……そっちこそ、何をしてたんだ? こんな時間に、こんなところへ忍び込んで。──というか、鍵は? 普段は施錠されてるって聞いたんだけど。どうやって入った?」
天道は、わざと高圧的な態度を取ったつもりだった。しかし、彼女は少しも動じない。
「あたし、昔ここに住んでてん。で、その頃に使てた鍵で開けたわけ」
「じゃあ、あんたはここで殺された夫婦の子供ってこと?」
まさか、そんなはずはないだろう。そう思いながら尋ねると、豈図らんや、少女は「そ」と、最短の返事で首肯する。
「せやからこうして」
彼女は、腕に抱えていた花弁の塊りを、部屋の中央にあるテーブル目がけ、ぞんざいに放り投げる。
「故人を偲ぶ為の花を、捧げに来てん。孝行娘やろ?」
天道は花束を見下ろし、思わず眉を顰める。どこまでが本当のことで、どこからが冗談なのか。掴みどころのない言動に、困惑させられて。
「とにかく、もう遅い時間やし? お子様はさっさと帰りや」
「子供じゃないよ。俺は」
「天道琴矢クンやろ? この町で撮影しとる、さっぶいドラマの、主演俳優」
ただ胡乱なだけでなく、いけ好かない女だ。彼女に対する天道のファーストインプレッションは、あまりいいものではなかった。
「何者なんだよ、そっちは」
反射的に相手の姿を睨みつけながら、尋ねる。
対する女は、揶揄うような笑みを湛えたまま、余裕綽々といった風に、形のいい唇を動かし、
「クラハシリンカ。気軽にリンカさんって呼んでや」
約二十年前の夜。
天道は、クラハシリンカと名乗る女と出逢った。
「白い家」の中で。
※
「クラハシリンカ? 鬼村聖子ではなく?」
意外そうに片眉を釣り上げ、緋村が尋ねて寄越す。先ほど椅子を勧めた時には腰を下ろさなかったクセに、天道が語り始めて間もなく、緋村は勝手に椅子を引き寄せて座り、偉そうに長い脚を組んで、話を聴いていた。
「……ああ。スナックで働いている時も、その名前を使っていたよ。本人が言うには、『生まれ変わりたかった』らしい。父親と同じ姓を名乗るのが嫌だとも言っていた。君の想像したとおり、実の母親の境遇を知っていたからこそ、鬼村を憎んでいたんだろうね。『自分の過去を清算したい』とも言ってたっけ」
「もしかして、彼女が多額の借金を拵えた、本当の理由は」
「人生をやり直す為の資金だったらしい。たぶん、自分のことを知る人間のいない場所で暮らすつもりで、金を用意したんじゃないかな」
「そういえば、僕らが自己紹介をした時、倉橋さんの名前を聞いた橘さんは、たいそう驚いていましたね。あのリアクションは何によるものか、ずっと気になっていたのですが……合点がいきましたよ。かつて自身の殺めた女性と同じ名前を、その娘が受け継いだと知って、動揺したわけだ」
「……そんなところだろうね。まったく、美佳ちゃんはすぐ顔に出ちゃうから。こっちはずっと、気が気じゃなかったよ」
愚痴るように言ってから、天道は体を仰け反らせ、真上を見上げた。視界に映るのは、あの家と同じ白い天井──
「……リンカから電話があったのは、俺が陣野と揉めた、数ヶ月後だった。『たまたま東京に来ているから、会えないか』って、突然。……初めは会わないつもりだったよ。気まずいし、何より仕事をなくして、腐ってたから」
「しかし、結局は聖子さん──いや、リンカさんと、再会したわけですね?」
「ああ。あいつ、顔に青痣を拵えてて……どうしたんだって聞いたら、『陣野に殴られた』って。で、『腹が立ったから殴り返して、そのまま逃げて来た』んだってさ。電話では『たまたま』なんて言ってたけど、初めから俺を頼るつもりで、わざわざ東京まで遠征して来たんだろうね。……それからなんだかんだ、半年も一緒に暮らした、今にして思うと、子供のママゴトみたいなもんだ。現実逃避とも言うか」
しかし、それは確かに、幸福な時間だった。
「あいつが俺の前から消えたのは、妊娠が発覚してすぐだ。『絶対に迷惑はかけない』『赤ん坊は自分一人で育てるから、あなたは気にせず芸能界に復帰できるよう、頑張ってください』──そんな書き置きを残して、リンカはいなくなった」
──いい役者さんになってね。
リンカの書き置きは、偶然にも、天道の母が遺したのと同じ言葉で、締め括られていた。
「それで、ケジメをつけたつもりだったんだろう。まったく、思い違いも甚だしい。俺からしてみれば、あいつやあいつとの子供が生きてるってだけで、迷惑でしかないのにさ。──ま、だからああなったんだけど」
半ば自嘲するように、天道は顔を歪めた。リンカが消え、娘との関係を断ち切っても尚、「いい役者」にはなれなかった、と。
「で? 他に何かご質問は?」
「……天国洞からこの町へ向かう正確な道順は、リンカさんから教えてもらったのですね?」
「そう。初めて会った夜、あいつと一緒に洞窟の中を歩いてね。なんでか知らないけど、夜食を奢ることになって……」
白い廃屋の中で出逢った女は、不遜なだけでなく、厚かましかった。
──あたし、小腹空いて来たわ。なんか奢ってや。コンビニとかでええからさ。あんた、ゲーノージンやねんから、稼いどんのやろ?
少し前まで「お子様はさっさと帰れ」と言っていたクセに。二人して廃屋を出た後、玄関の扉に鍵をかけたリンカは、そうのたまった。
芸能人だからといって、必ずしも懐が潤っているとは限らない。特に、当時の天道は、役者の仕事だけでは食って行けず、幾つかアルバイトをかけ持ちしていたほどである。
しかし、結局天道は、この謎の女にタカられることになる。
金はあまりないし、リンカの態度も気に入らないが──それ以上に、一人でいるのが嫌だった。
あるいは、リンカの纏う懐かしい香りに、気がついてしまった為か。
天道は、リンカに案内されながら、天国洞を通り抜ける。
洞窟の外には、高級車が一台、停車していた。驚く天道に対して、リンカは面白くもなさそうに、
──旦那の車。貸してもろてるの。旦那言うても、籍は入れてへんけど。
なら、さっさとその旦那の元へ帰って、夜食でも何でも強請ればいいではないか。天道がそう言うと、「これ以上借りを作りたくない」と、意味のわからない返事が寄越される。
リンカの借金や、その肩代わりを内縁の夫──陣野がしていたことなど、この時の天道に、わかるはずもなかった。
とにかく、天道はリンカの運転する高級車に乗り、最寄りのコンビニまで行って、軽食と缶コーヒーを奢ってやった。
──結局のところ、なんで一人でおったん? 肝試しがしたかっただけ、とは思えへんけど。
サンドウィッチを平らげ、食後の一服を吸いながら、リンカが尋ねて来る。煙草の煙と臭いを、疎ましく思いながら……天道は、返事に迷った。
──なんか、悩んでるんやろ? あ、もしかして、例のドラマのこと?
リンカはしつこく、そして鋭くもあった。
──あんなところで会うたんも、何かの縁かも知れんし? お姉さんに言うてみ。奢ってくれたお礼に、相談に乗ったるわ。
そうは言っても……まさか、演技の相談をするのか? 初めて会ったばかりの、それも、こんな得体の知れない女に?
酷く気が進まない。……が、しかし、一人で抱え込んで来た結果、追い詰められていることもまた、事実。
迷いに迷い、悩みに悩んだ末──天道は、話してみることにした。
無論、いいアドヴァイスをもらえるなどと、期待していたわけではない。ただ、胸に支えていたモノを、吐き出したかった。
──ふうん? つまり、役作りって奴? 別に、セリフなんか理解できんくても、台本どおりに喋ればええのに。
予想したとおり、いや、それ以上にロクな返事ではなかった。
──なら、実際に作ってみたら? 砂の城。なんやったら、今から連れて行こか?
行くって、どこへ?
天道の問いに、
──せやから、海。
リンカは、悪戯っぽく歯を見せて、そう答えた。
「──天道さん? 聞いていますか?」
訝るような緋村の声で、我に返る。どうやら、天道の意識はまたしても、過去に乗っ取られていたらしい。
「……ああ、ごめん。何の話だっけ?」
「風車の扉ですよ。──風車の扉からは、三黄彦さんの指紋のみが、検出されたそうです。警察の事情聴取に対しても、三黄彦さんは、『インスピレーションを得る為に洞窟へ入った』と、答えました。これはおそらく、瑠璃子さんの指示で行われた、偽装工作だったのでしょう。つまり、天道さんが風車を出入りした痕跡を隠す為、三黄彦さんが、一芝居打ったのです」
指紋を拭い去る、あるいは手袋を着用するなどして、そもそも指紋が残らないよう細工することは、容易である。しかし、それだけでは、「誰かが最近扉を開けた形跡」まで、消し去ることはできない。
加えて「ごく最近、扉が開閉されたことは自明であるのに、誰の指紋も検出されなかった」となれば、少なからず警察は疑うだろう。そうならないよう、天道らが犯行を終えた後で、三黄彦に扉やノブなどを触らせて、「指紋の上書き」を行った。──緋村は、そのように推測しているらしい。
「さあ? そこまでは俺も知らないよ。……まあでも、あの婆さんの考えそうなことだ。三黄彦も、あの頃は特に金回りがよくなかったみたいだし。割りのいい小遣い稼ぎって感覚だったんじゃない?」
「『カーチャンの言うとおりにしただけ』か……」
緋村は、独り言のように呟く。
「では、もう一つ。リンカさんを殺害した後、廃屋を施錠するのに使った鍵は、元々は彼女のものだった。つまり、事前に瑠璃子さんから受け取っていたのではなく、リンカさんから奪い取った鍵を、犯行後、瑠璃子さんに渡した。間違いありませんね?」
「……他に考えられる? あの家の鍵は、十七年前の時点で二本しかなかったのに」
緋村は再び、黙り込む。首肯する代わりなのか、あるいは天道の言葉を、疑っているのか……。
「それより、あの娘には、もう話したの? 俺のこと」
「いえ。何も伝えていませんし、僕の口から話すつもりもありません。部外者ですから。あなたとの関係を打ち明けるか否かは、彼女のご家族や、あなた自身に委ねます」
「だから、俺のところにも一人で来たわけか。──そういえば、お友達は連れて来なかったんだね」
「若庭のことでしょうか? 彼なら、一時間ほど前から姿を見ていません。廃屋に忘れ物を取りに行ったきり、どこかへ消えてしまったので」
あまりにも平坦な口調で、意外なことを言い出すものだから、天道は少なからず面食らう。
「本当に? いいの? 探さなくて」
「探しましたが見つかりません。天道さんは、ご存知ないのですね?」
油断ならない眼光を仄めかせながら、緋村はまっすぐに、天道のことを見据える。いい加減な受け答えをしようものならば、喉元に喰らいついて来そうなほど、鋭利な眼差し。天道は、思わず気圧されてしまったものの、すぐに本当のことを伝えた。
「当然だろ。信じてもらえないかもだけど、君らや美佳ちゃんと別れた後は、ずっと一人でいたよ」
「……そうですか。となると、やはり関与しているのは……」
まるで、何者かが若庭を誘拐したか、どこかへ閉じ込めているような口振りだ。何か根拠でもあるのか。天道が尋ねようと、口を動かしかけた時──
弱々しくドアをノックする音が、やけに大きく響いた。
二人がそちらを振り向くと同時に、蚊の鳴くようなか細い声が、青いドア越しに寄越される。
「あ、あの、倉橋です。こちらに、緋村さんは来ていませんか?」
よりにもよって、天道が今、一番会いたくない人物だった。
しかし、ある種好都合とも言える。緋村の長広舌につき合うのも、リンカとの過去を思い返すのも、そろそろ疲れて来たところだ。
「……ああ、いるよ。入って来ていいから、さっさと連れ帰ってくれる?」
間もなく、戸口から現れた少女は、怖しいほど母親の面影を感じさせた。しかし、不安げなその目つきは、リンカにはなかったもので……。
どちらかと言えば、それはあの頃の天道自身と、重なるように思えた。
「お、お邪魔します。……すみません、何かお話し中でしたか?」
「若庭のことを尋ねていただけさ。天道さんも、見ていないらしい」
答えてから、緋村は天道を一瞥した。「これで問題ないな?」とでも言うように。
「課題を見てやるって言ったのに、待たせて悪かったな。──天道さんも、お休みのところ押しかけてしまい、すみません。大変参考になりました」
事務的に述べ、緋村は腰を浮かせた。それからすぐさま踵を返し、教え子を目顔で促して、立ち去ろうとする。
天道はベッドに腰かけたまま、二人を見送る代わりに、俯いた。
そして。
「──鈍山だ」
緋村が足を止め、振り返るのがわかった。しかし、天道は自らの足元を、見下ろし続ける。
「……今、何と仰いましたか?」
「……鈍山って男だ。あの日、俺をここまで連れて来たのも、俺の犯行を手伝ったのも」
さしもの緋村も、予想だにしない言葉だったのだろう。相手の真意を推し量るように、天道の姿を凝視する。
二人の様子から、ただならぬ雰囲気を、感じ取ったのか。凛果はいっそう不安げ、あるいは怪訝そうに、彼らの様子を見守っていた。
「では……橘さんではない、ということですか? この町での、共犯者は」
「……ああ」
※
天道さんの家を出て後のこと。
私と緋村さんは、しばし無言のまま、町の中を歩いていた。天道さんには、本当に若庭さんのことを尋ねただけなのか。先ほど二人が交わした、意味深長なやり取りは、何であったのか……。問い質したいことは、幾らでもあった。
それなのに、私は何一つとして、尋ねられずにいた。なんとなく、訊いてはいけないことのように感じて。
また、緋村さんは思考を巡らせるのに忙しいらしく、邪魔をしてしまうのが忍びない、という気持ちもあった。
「……どうしてわかったんだ? 俺が、天道さんのところにいるって」
緋村さんの方から先に、こちらを見向きもしないまま、尋ねて来た。
「えっと、初めは大人しく待っていようと思ったんですけど……どうしても、緋村さんの様子が気になってしまって。それで、後を追いかけたんです。初めは、橘さんに用事があるんかと思って、そちらに向かったんですけど、来てへんって言われて……せやったら、天道さんの方なんかなって」
私は、正直に答えた。
ただし、ドア越しに言葉を交わした橘さんの様子が、少し普通ではなかったことは伏せて。
あの時、橘さんは何故か、酷く狼狽えていたらしい。ドアを開けてくれさえしなかった。突然訪問したことで、驚かせてしまった──というよりかは、何かに怯えているようで、短いやり取りの中でもよくわかるほど、橘さんの声は、慄えていた。
思い返してみれば、一緒に礼拝堂を訪れた辺りから、少し顔色が優れないように見受けられたのだけど……いったい、橘さんは、何を怖れているのだろう?
「そうか……なかなか勘がいいな。探偵業に向いてそうだ」
皮肉や嫌味にしては、あまりキレがない。やはり、緋村さんは上の空なのか、尋ねるだけ尋ねて、私の返答には、さほど関心がなさそうだった。叱られなかっただけ、マシとも言えるか。
細い通りを下りきり、借りている家のすぐ近くまで来た──ところで、またしても、緋村さんのスマートフォンが、着信を告げた。
「誰からですか?」
先ほどバーの前で通話していた相手と、同じ人物に違いない。そう決めつけた私は、さり気なく尋ねてみる。
スマホの画面に目を落とした緋村さんは、
「探偵だ。未だに信じたくねえけど」
と、意味のわからない返事をし、通話に応じた。
あまり聞き耳を立てるのはよくないと、思いつつ……やはり気にはなるので、私はその場で、緋村さんの電話が終わるのを待つ。
「探偵」とやらの声は、かなり大きいようで、ハッキリとした内容まではわからなかったものの、通話を始めてすぐ、何事かを捲し立てていた。
そして、不思議だったのは、それを聞かされた緋村さんの、リアクションである。
私が「前世の記憶」を告白した時と同等か、それ以上の驚愕と困惑が、緋村さんの横顔から、見て取れた。見開かれた瞳は動揺の為に揺れており、ゾクゾクと総毛立つ感覚が、傍目にも伝わって来るようで……。
見ているだけのこちらまで、思わず胸がざわついてしまうほど、それは明瞭な異変だった。
──何かがあったのだ。おそらく、緋村さんでさえ予測していなかった、非常事態が。




