狂っとる
例の田花の後輩──緋村という名の男とは、すぐに連絡がついた。田花は電話口で簡単に事情を伝えた後、スマートフォンをテーブルに置き、スピーカーモードへと切り替える。
ほどなくして聞こえて来た緋村の声は、意外にも低く、威厳すら感じられるものだった。
『間違いないんですね? 倉橋さんと紫苑さんの顔立ちが似ている、というのは』
「ああ。マスター曰くそうらしい。驚いたやろ? こんな展開、お前にも予想できんかったはずや」
相変わらず軽薄な笑みを浮かべ、田花が言う。
心底からこの状況を楽しんでいるらしい同僚のことを、松谷はだんだんと羨ましく感じて来た。松谷にしてみれば、驚くどころか、怖ろしい符合でしかない。
五十年前に射殺された少女と酷似した面立ちの人物が、突如として現れるだなんて……。まるで、半世紀もの年を経て、別の人間へと転生を果たしたかのようだ。
『……確かに驚きました。けどまあ、全くの想定外、というわけではありません』
「はァ? どういう意味やねん。負け惜しみとちゃうやろな?」
『違いますよ。そもそも、勝負してるわけじゃねえし。──俺が言いたいのは、二人の容姿が似ていたとしても、何ら不思議ではないってことです』
いったい何故そんな風に言えるのか。松谷は口を挟まずにはいられなかった。
「えらい冷静なんやな、後輩くんは。なんでそう思うんか、説明してくれるか?」
『そちらは、松谷さんですね? あなたも災難でしたね。田花さんのくだらない自己満足に、つき合わされて』
この辛辣な発言に対し、当然田花は不平を述べたが、それは二人して黙殺する。
『もちろん、初めからそのつもりです。あまりお時間を取らせるのも申し訳ないですし、結論から言いますが──二人の容姿が似ている理由は、血縁関係があるからです。それ以外に、考えられません』
「血縁関係? そ、それじゃあ、その倉橋って娘は……ホンマは、鷺沼家の血縁者ってことか?」
松谷はそう汲み取ったのだが、緋村の考えは少し──いや、大きく違っていた。
『正確に言えば、倉橋さんは、紫苑さんの孫なのだと思います』
「孫ォ⁉︎」今度は、田花が頓狂な声を発する。「いやいやいや、そらあり得へんわ。紫苑は五十年も前に殺されとるんやで? そんな人間に、孫なんていてるわけないやろ」
田花の言うとおりだ。松谷は言葉に出すことなく同意する。紫苑に孫がいるだなんて、あり得るはずがない。
そもそも、亡くなった当時、紫苑はまだ十三歳になったばかりであり、孫どころか子供さえ残せなかったのだ。
しかし、緋村は少しも動じず、どこか嘲笑うかのような口調で、こう続けた。
『簡単なことです。紫苑さんは死んでいなかったんですよ。少なくとも、五十年前の時点では』
「いやお前……昨日、俺が話したこと忘れたんか? 紫苑は、拳銃で頭を撃ち抜かれたんやで? 即死に決まっとるやないか。
しかも、目撃したんは久住だけとちゃう。現場には、高部もおった。二人もの人間が、射殺される瞬間を目の当たりにしとるわけや。それやのに、紫苑が生きとったなんて、あり得んやろ。──パイセンも、そう思うやんな?」
「ああ……」と、松谷は頷く。つい先ほどまで、不可思議な状況を楽しんでいたはずの田花は、早くも余裕を失っていた。その事実も含め、松谷は困惑し通しだった。
「もしかして、虻田が撃ったんは実弾ちゃうかったとか? あるいは、弾は出てへんくて、空砲に合わせて血が吹き出すような仕掛けが、紫苑の額に施されていた──いや、さすがにそれはないか」
松谷は自ら打ち消す。そのような派手な仕掛けが施されていたとして、久住らが気づかぬはずがない。
『そうですね。どちらも考えられません。久住さんは、紫苑さんの額に傷が穿たれているのを目にしたそうですし、それこそ二人もの人間の目を、欺けるはずがない』
「当たり前や。紫苑は実弾で頭を撃たれた。そこに関しては、間違いあらへん。それやのに、命を取り留めたなんて」
『あり得ない──とは言いきれないんですよ。脳幹さえ無事であれば、ね』
「のう、かん?」
『ええ。中脳、橋、延髄からなる自律神経の中枢です。あんたでも、聞いたことくらいはあるだろ?──脳幹は、心臓を動かしたり呼吸をしたりといった、生命活動の維持を司っている器官です。換言すれば、この部分が傷つかなければ、人間は生き続けることができる』
田花は、開きかけた口をすぐさま閉じた。
言葉を失ったのは、松谷も同様であり、辛うじて生唾を呑み込みながら、スマートフォンに浮かぶ「ヤニカスくそ野郎」という巫山戯た登録名を、凝視する。
『確か、紫苑さんが撃たれたのは、額の真ん中でしたね?』
「あ、ああ。久住はそう言うとったな」
『なら、やはり脳幹は無事だったのでしょう。頭は急所というイメージが強いですが、実際には脳幹を損傷しなければ、即座に死に至ることはありません。
脳幹は、大脳と脊髄の間に位置しています。ですから、確実に相手の息の根を止めたい場合、頭に対してまっすぐに銃弾を撃ち込むのではなく、斜めに撃つ必要があるんです。ほら、拳銃自殺したという虻田も、顎から斜め上に頭を撃ち抜いていたそうじゃないですか。あれなんか、まさしく脳幹を撃つやり方ですよ』
もっとも、虻田の死は自殺ではなく、実際には他殺──鷺沼家の関係者によって口封じをされた可能性が高いのだが。
緋村はそう結び、一度言葉を区切る。
彼と入れ替わるように言葉を発したのは、松谷自身だった。
「あ、虻田は、仕留め損なったってことか? それとも」
『殺し屋紛いのことをしていたという虻田が、このことを知らなかったとは考え難い。トドメを刺す余裕がなかったわけでもありませんし、おそらく、わざと額を撃ったのでしょう。脳幹を傷つけてしまわないように』
「じ、じゃあ……初めから、虻田は殺す気がなかった?」
『そうです。犯人たちの本当の目的は、紫苑さんの死を偽装することでした。だからこそ、わざわざ久住さんたちの目の前で、彼女に発砲してみせたんです』
射殺されたように見せかける為に、額を撃ち抜いた──それだけ聞くと、酷く矛盾したことのように思える。
殺したいのか生かしたいのか、よくわからない。
『その後、久住さんたちと入れ替わるようにして、現場に忍び込んだ鬼村医師は、すぐさま紫苑さんに応急手当てを施しました。止血をし、傷口を縫合し、もしかしたら輸血も行ったかも知れない──僕も素人なので、あまり断言はできませんがね。とにかく、鬼村医師は、その場で可能な限りの処置を、試みたのでしょう。そして、鬼村医師の手に紫苑さんの血が付着したのは、この時です』
田花──もとい緋村の推理では、鬼村は血のついた手袋を替えることを失念してしまい、窓とピアノの両方に、血痕を残してしまった。そして、窓に血がついた理由──すなわち、『犯人が窓を開けた理由』を拵えるべく、不要な密室を作り上げる羽目になったのだとか。
『それと、虻田が犯行後も現場に留まり、ピアノを弾いたのは、応急手当てによって生じる物音を、誤魔化す為でもあった。猛り狂うような『猫踏んじゃった』のメロディによって。
その仕事が済んだ後、鬼村医師は窓を開け、カメラのフラッシュを使い、外で待機していた仲間たちに、合図を送りました。死体──ではなく、生きた状態の紫苑さんを、スムーズに受け渡すことができるように』
紫苑は死んでおらず、まだ生きていた。だからこそ、早急に現場から運び出す必要があったのだ。
今度は応急手当てではなく、本格的な治療を行う為に。
『また、鬼村医師は、窓を開けっ放しにした上で、ベランダに出る扉に鍵を施錠することで、「犯人は窓から逃げた」かのように、見せかけました。そうやって、窓を開けた本当の理由──今言った方法で合図を送ったこと──から、警察の目を、逸らそうとしたわけです。
鬼村医師は、おそらくこう考えたのでしょう。「もしも、窓を開けて仲間に合図を送ったことがわかれば、犯人が紫苑さんを早急に運び出す必要があったことにも、警察は気づくかも知れない」「そうなれば、紫苑さんが本当はまだ生きていることも、露見しかねない」と。……実際に、すぐさまそこまでバレるとは思えませんが……それでも、やはり不安だったのかと。鬼村医師にとって、最も重要だったのは、紫苑さんの死を偽装すること。そして──生きたままの紫苑さんを、手に入れることだったのですから』
それならば、鬼村が扉に鍵をかけた理由も、一応は納得できる。不自然な密室状況になることよりも、紫苑が生きていると悟られないことを、優先したわけだ。
しかしながら、松谷が引っかかったのは、全く別の点だった。
そして、彼が抱いたのと全く同様の疑問を、田花が口にする。
「脳幹さえ無事なら人は生きていられるってのは、ええとして……頭を撃たれとる以上、命に関わる怪我には変わらへん。幾ら鬼村が名医やったとしても、そんな状態から、まともに快復させられるとは、思えんのやが」
『当然、難しいでしょうね。大脳が損傷してしまったことは、間違いありませんし。呼吸は可能でも、意識は戻らない──謂わゆる植物状態で延命するのが、せいぜいだったはずです。……が、それでも構わなかったんですよ。鬼村医師は』
「わけがわからんな。植物人間なんか拵えても、意味あらへんやろ。意識が戻らん以上、死んどるのと変わらんやなんけ」
田花は、酷く困惑した様子だった。
平時なら、田花の方が人を振り回す側であるのに……緋村と通話を始めてからというもの、スッカリ立場が変わってしまっている。松谷にはそのことが、少なからず興味深く感じられた。
──いったい何モンなんや。この緋村って男は。
『そんなことはありません。紫苑さんの息が続く限り、彼女には価値がある。──鬼村医師の目的は、紫苑さんの体そのものだったわけです。そして、彼は紫苑さんの肉体を手に入れる為だけに、瑠璃子の企てに手を貸した』
緋村の言わんとすることを推し量ろうとした途端、松谷は思い出した。このような話を聞くことになったキッカケが、何であったかを。
紫苑と倉橋凛果という少女は、血が繋がっている。それが事実だとするのなら──
「ま、まさか、鬼村は……」
全身の血流が停止するかのような感覚に陥りながら……松谷は、思い至ってしまったそのオゾマシイ考えを、戦慄く声で、どうにか口にした。
「し、紫苑に──植物状態になった紫苑に、自分の子供を産ませたんか⁉︎」
『……ええ。少なくとも、俺はそう考えています。そして、鬼村医師と紫苑さんとの間にできた子供が、鬼村聖子──倉橋凛果さんの、母親です』
──狂っとる。
それ以外の言葉が、浮かばなかった。
年端もいかぬ少女に瀕死の重傷を負わせ、植物状態にした上で──抵抗する力を、助けを求める声を、封じ込めた上で──、自らの子を孕ませるだなんて……。いったい、どれほどの狂気を持てば、かように非人道的な発想を得、実行に移すことが可能なのか。
途方もない話だ。松谷には、想像することさえ怖ろしかった。
この場合、真にトチ狂っているのは、鬼村というよりも、むしろ──
『確か、虻田は鷺沼瑠璃子のことを、「兎のような女」と、評していたんでしたね。おそらく、虻田も紫苑さんの「使い道」を、知っていたのでしょう。だからこそ、瑠璃子を兎に喩えた。──雌の兎には、子宮が二つあるんですよ』
「け、けど……紫苑は当時、まだ十三歳やったはずや。とても子供なんて」
反駁しかけた田花を遮るように。緋村は実に平板な声色で、冷静な見解を述べる。
『すでに初潮を迎えていたとしても、何ら不思議ではない年齢です。それに、聖子さんは十七年前の時点で、二十四歳。三十年前は、十一歳でした。紫苑さんが二十二歳の時に産んだと考えれば、別段おかしな話でもありません』
「てことは何か? 鬼村は紫苑を植物状態にした上で、適切な歳になるまで、生かし続けたっちゅうことか?」
『さあ? ただ待っていただけかどうかは、わかりませんがね。
しかし、気になるエピソードがあります。高部さんが言っていたと思いますが、鬼村医師は、一度紫苑さんの部屋から、追い出されていたそうじゃないですか。確か、彼を追い出したのはサイガという名前の家庭教師で、「二度と紫苑さんに近寄るな」と、声を荒げていたとか』
「ああ、あったなァそんな話。しかも、鬼村はサイガに、突き飛ばされたとったんやったか」
『もしかしたら、鬼村医師の下心を察知できるような出来事が、あったのかも。ま、どこまで行っても推測の類いでしかありませんが……しかし、彼が紫苑さんに執着していたと考えれば、筋は通ります。鬼村医師は、自らの欲望を満たす為に、瑠璃子の仕返しに乗ったわけです』
確かに、動機としては十分なものと言えよう。推測の域は出ないとはいえ、紫苑の美貌や大人びた雰囲気を鑑みれば、全くあり得ないこととは思えない。
が、それ以前の問題として、松谷にはもう一つ、得心のいかぬ点があった。
「そもそもの話やけど……意識のない状態で、出産なんてできるんか?」
『可能です。実際、似たような事件がありました。確か、アメリカでの話だったかな。意識不明のまま永らく入院していた女性が、突然赤ん坊を産んだそうです。赤ん坊の父親は──まあ、想像がつくとは思いますが──、その病院に勤めていた男性職員。要するに、その男は女性に意識がないのをいいことに、性的暴行を加えていたわけですね。で、あまり彼女のお腹が大きくならなかった為に、出産するまで、誰も妊娠に気がつなかった、と』
どうやら「実例」が存在するらしい。無論、それでも、容易に受け入れられる話ではないが。
「そういえば、両手両脚はどうなるんや? 今まで忘れとったけど、紫苑の両腕と両脚が、虻田の自宅から発見されとるはずや」
『子供を産むのに、腕も脚も必要ありません。鬼村医師は、紫苑さんが死んでいる証として、彼女の両の手脚を切断し、虻田の自宅であるアパートの部屋に、遺棄したのでしょう。紫苑さんの手脚が焼かれていたのは、言うまでもなく生活反応をなくす為です。生活反応が出れば、手脚が切断された時、紫苑さんがまだ生きていたことが、わかってしまいますから』
「えらく残酷な発想やな」
松谷は、緋村の推測に対する感想のつもりで、そう呟いた。
が、緋村には通じなかったらしい。
『全て鬼村医師が考えたことなのか、それとも瑠璃子の指示であったのかまでは、わかりませんがね。おそらく、虻田の殺害にも、鬼村医師が関与していたのだと思います』
※
『話を五十年前の事件に戻します。瀕死の状態で命を繋がれた紫苑さんは、鷺沼家の経営する病院へと、運ばれました。久住さんや高部さんと一緒に。久住さんのお父さんが運転する車で、二人が病院へ連れて行かれた時、車の荷台には、紫苑さんも乗せられていたのでしょう。そしてすぐに、彼女の手術が行われた。──あの事件があった日、鬼村医師は手術中のミスで、患者を一人死なせてしまったそうです。おそらく、このミスは偶発的に起きたのではなく、初めから予定されていたものだったのかと』
「つまり、鬼村はその患者を放っぽって、紫苑を延命させたってことか?」
田花の問いに対する答えは、イエス。緋村の考えでは、鬼村は元々予定されていた患者の手術を行うフリをして、紫苑の治療に専念した、ということらしい。
『その後、無事に一命を取り留めた紫苑さんは、晴れて鬼村医師の所有物となりました。鬼村夫妻が、聖子さんと共に暮らしていたという家のすぐ隣りには、かつて離れがあったそうです。おそらくはこの離れに、紫苑さんを匿っていたのでしょう』
「てことは、久住の父親が、犯行後離れに火を放ったんは、その痕跡を隠滅する為やったわけか。つまり、紫苑がそこで暮らしとった──正確には、生かされとった痕跡を」
『おそらく。例により根拠は乏しいですが、久住さんのお父さん──久住吾郎さんは、雇い主だった宗介会長に対し、強い忠誠心を抱いていたそうです。事件当時は、すでに鷺沼家での仕事を辞めていたそうですが……それでも、かつて仕えていた相手を脅かすような真似は、したくなかったのでしょう。紫苑さんの存在──彼女が五十年前の事件の後も生存していたことは、鷺沼家にとって、最大の秘密と言えます』
もっと言えば、久住吾郎が鬼村夫妻を惨殺した動機も、事件に関する口封じだった可能性が高い。緋村は、そう考えているらしい。
鬼村の妻──和恵も鬼村同様、鷺沼家の経営する病院に勤めており、鬼村の退職後すぐに、二人は結婚していた。その後、夫と共に「白亜の町」で暮らしていることから、和恵もまた、紫苑の事件に関与していた──少なくとも、紫苑が生きていることを知っていた──と見て、よさそうだ。
「紫苑はどないなってん。離れの焼け跡から死体が見つかってへんってことは、久住の父によって、運び出されたんやろうけど……」
『紫苑さんも、三十年前のそのタイミングで亡くなったのかと。鬼村夫妻と同時に殺害されたのか、それとも運び出された後でなのかは、判然としませんがね。ただ、吾郎さんは犯行後すぐに、自ら通報しているそうです。短時間で紫苑さんを遠くまで運ぶことは難しいでしょうし、鷺沼家の関係者に紫苑さんを引き渡した上で、通報したのかと』
鬼村が死亡した時点で、紫苑の体は用無しとなる。誰がその始末を請け負ったのかは不明だが、鷺沼家としても、それ以上、紫苑を生かしておく必要はない。
「けど、どうして久住さんのお父さんは、紫苑の事件から二十年も経った後で、鬼村たちの口を塞ご思ったんや? 裏切られるんが怖かったなら、もっと早く手を打つべきやろ」
松谷が疑問を口にすると、緋村は初めて言い淀んだ。
『……わかりません。鷺沼家からの指示だったのか、それとも吾郎さん自身が、口を封じる必要があると、判断したのか……。いずれにせよ、犯行に及ぶことになったキッカケが、何かあるはずです』
「キッカケか……」呟いた松谷は、ふと先ほど聞いたばかりの話を思い出す。「もしかして、さっき田花の言うてたことが、関係しとるんかな。ほら、久住さんが、天国洞の中で、鬼村らしき老人と出会したって奴や」
『鬼村医師と? 本当ですか?』
水を向けられた田花は、久住から聞いた怪談じみたエピソードを、緋村に聞かせる。鬼村夫妻が惨殺されたちょうど一週間前、久住は仄暗い洞窟の奥で、ネブカドネザルを思わせる半裸の老人と、邂逅していた。
緋村は『興味深いですね』と一言呟いたきり、黙り込む。思考を働かせるのに忙しいのか、しばしの間、煙草を吸っているらしい吐息の音だけが、スピーカーから聞こえていた。
「ついでにもうイッコ、緋村チャンにオモロいこと教えたるわ。これは、パイセンにもまだ話してへんかったことや。──あの鈍山ってオッサンについて調べとる時、気になる話を掘り出してんけどな。鈍山とつるんどった陣野って男が、一度傷害事件の、被害者になっとんねん」
『陣野というと、まさか陣野篤実のことですか?』
「なんや、緋村チャンも、陣野のこと知っとんのか」
『ええ、まあ。ニブヤマの方は、初めて聞く名前ですが』
「そいつは闇金じみたことしとるヤクザもんや。で、陣野は鈍山から女買うてたクズなんやが……その陣野に暴力を振るって、流血沙汰を起こした輩がおった。誰かわかるか?」
そんなもの、わかるはずがない。松谷は、緋村がそう答えるだろうと思った。
が、しかし、
『……もしかして、天道琴矢ですか?』
「ヒヒヒ、正解や。俺が昨日言うたこと、覚えとったようやな」
「ちょっと待て。天道って誰や?」今度は松谷の知らない名前が飛び出した。
「二十年くらい前に売れとった俳優や。聞いたことないか? 天道は、傷害事件を起こしたせいでテレビから姿を消したんやが……その被害者が、なんと陣野やったっちゅうわけや。
当時、陣野が贔屓にしとったスナックに、たまたま天道も呑みに来とったそうでな。相当酔ってたんか知らんが、天道の方から先に絡みに行ったらしい。当然、鈍山は陣野に加勢したそうやけど、すぐに警察が来たせいで、大した報復にはならんかった。──これはさすがに、緋村チャンも知らんかったやろ?」
『ええ。……けど、あんたが天道さんのことにまで詳しかった理由が、やっとわかったよ。そうか。陣野と天道さんに、そんな繋がりが……。他には、何かありませんか? 些細なことでも構わないので、二人の得た情報を、俺にも教えてください』
松谷は逡巡した。守秘義務の四文字が、頭に浮かんだ──のだが、今更そんなことを気にしても遅すぎる。
それに、この緋村という青年は、松谷だけでは考えもつかぬような発想の持ち主らしい。情報を共有すれば、調査を進展させられるかも知れない。
「今度はパイセンの番やな。今さっき俺に話したこと、緋村チャンにも教えたれ」
「……ああ」
田花に促されるまま、決心を固めた松谷は、語った。彼らの上司もまた、かつて──十四、五年前のことだと、美杉は言っていたか──鷺沼家絡みの依頼を、引き受けていたことを。
『これまた意外な繋がりですね。しかし、人探しの依頼ですか。もしも、俺の思い描いたとおりなら……』
「どないした。何か、思いついたんか?」
『確信は持てませんがね。──ところで、お二人は、これからどうするつもりですか? もし次の行動が決まっていないのであれば、訪ねてみてほしいところがあるのですが』
言われてから、今後の動きを全く考えていなかったことを、思い出す。
松谷は、目下未定だと答えた。
『それなら、今から倉橋さんの家に行ってみてください。あと、神薇薔人教団とやらの本部にも。何か情報を得られるとしたら、おそらくこの二ヶ所でしょう』
「わかった。ほんなら、またあとで結果を報告するわ。お前も、そっちで何かあったら連絡寄越すんやで」
最後に田花がそう言い、緋村との通話を終えた。小難しい話をいっぺんに聞かされたことで、松谷は神経の疲弊を感じたが、休憩している暇はない。
緩くなったコーヒーを一気に吞み干し、松谷は腰を上げる。
会計を済ませると共に、再び店主に詫びを述べ、二人は店の外へ出た。
時刻はだいたい十四時半。事態が大きく動き出そうとしている予感を抱きながら、松谷はドアを開け、運転席へと乗り込んだ。




