これであいこにしといたる
同日──十三時頃。
行きつけの洋食店《ぱのらま亭》にて、昼食を済ませた松谷は、肩を落としながら、雑居ビルの階段を上っていた。
あの日、思いがけず鈍山と再会し、田花と決別して以来……松谷は、どうにも気分が晴れずにいた。田花と喧嘩別れのようになってしまったことが、心残りになっている──わけではない。元よりさして良好な関係だったわけではないし、むしろ、常々反りが合わないと感じていたほどだ。
あれから、田花は本当に一人きりで、鷺沼家の事件を調べているらしい。よほど熱中しているのか、事務所にもほとんど顔を見せず、何故か松谷までもが、沢渡から苦言を呈される羽目になった。
──迷惑な話や。俺はあいつとも、あの事件とも、もう関係あらへんのに。
──田花かて、このままフェードアウトしてくれた方が、せいせいするわ。
そんな風にさえ、思っていた。
そのはずなのに。
松谷は未だ、例の事件のことが頭から離れず、大して仕事も手につかぬまま、とうとうゴールデンウィークを迎えてしまった。言うなれば、謎の持つ魔力といったシロモノに、当てられてしまったのか。
この日も本来であれば、休日のはずだったのだが……突如として美杉に呼び出された為、出社するついでに、《ぱのらま亭》で昼食を摂ることにしたのだ。
呼び出しの理由には、心当たりがあった。以前の調査で田花がやらかした件の始末書を、未だに提出せずにいることだろう。改めて、松谷は田花のことを忌々しく思った。あの男が入社して以来、何かの歯車が狂ってしまったのだ。
とは言え、始末者に関して言えば、松谷自身の職務怠慢に他ならない。美杉には誠心誠意詫びて、今日こそは始末書をやっつけてしまおう。そう考えながら、松谷は、探偵事務所のドアを開けた。
「なんやお前、わざわざスーツ着て来たんか。すまんなぁ、休みの日やのに」
所長の美杉信太郎は、自身のデスクではなく、応接用のソファーに腰下ろしていた。太い親指と人差し指で、火の点いた葉巻を摘みながら、空いている方の手を、軽く上げてみせる。
この美杉という男は、狸親父や恵比寿といった形容がよく似合うほど、福々しい顔立ちと、だらしない腹の持ち主だった。これでも近頃はダイエットに取り組んでいるそうだが、松谷が入所した頃と比べると、ますます横に成長したように思われる。
年齢は、松谷の両親とそう変わらないくらい。まだ還暦は超えていないはずだが、美杉はすでに、好々爺然とした雰囲気を纏っていた。これでかつては、凄腕の探偵として、界隈で名が通っていた──曰く、『難波のエルキュール・ポアロ』と呼ばれていたとかいないとか──というのだから、人間見かけによらぬものである。
もっとも、ダイエットの件と同様、ほとんど本人の言葉でしか聞いたことがない為、この評判はあまり当てにならないだろうというのが、松谷の見解だった。
「すんません! 今日中には作成し終えますんで」
「ん? 何の話や」
「え?」腰を曲げた姿勢のまま、松谷は顔だけを上げ、「何のって、始末書ですけど……」
「ああ、あれか。スッカリ忘れとったわ。あかんでー、社会人やねんから、ちゃんと期限を守らな」
嘘みたいに軽い口調で窘められる。どうやら、松谷の予想は外れていたらしい。
であれば、美杉は何の用があって、わざわざ休日にもかかわらず、松谷を呼び出したのか。
「いやぁ、今日来てもろたんは、別件やねん。ま、取り敢えず座ってや。なんやったら、お前も一服するか? 沢渡のオバハンには内緒やで?」
「いえ、あの、煙草はええんですけど……」
わけもわからぬまま、松谷は美杉の向かい側──普段は客が座る方のソファーに、腰下ろした。
「そうか? ほんなら、さっそく本題に入るけどな──田花の奴が一人で調べとるあれ、鷺沼家絡みの案件なんやってな。しかも、元々はお前と一緒に引き受けたって聞いたんやが、ホンマか?」
贅肉に埋もれた細い目が、松谷をまっすぐに見据える。隠していた傷口を探り当てられたような気分で、松谷は首肯した。
「え、ええ……田花から聞きはったんですか?」
「ああ。なんや、お前のこと、腰抜けやとか言うとったわ」
松谷は、憤る気にもならなかった。あんなアホンダラの言葉など、いちいち間に受けていられるか。
「あの、所長はあいつを止めんかったんですか? 五十年前に起きた事件の再調査なんて、俺らの領分ちゃいますよ。小説やドラマの中だけでしょう、そういうんは。
それに、もしかしたら、田花は黙っとったかも知れませんけど……鷺沼家、もとい鷺沼グループは、事件のことを掘り起こされたないみたいです。調査を中止するよう、釘を刺されました」
「いや、それも聞いとるで。むしろ、だからこそ、お前らに伝えとこ思ってな」
いったい何を? 松谷がそう尋ねるよりも先に、美杉のたらこ唇が動く。
「実はな──俺も昔、引き受けたことがあんねん。鷺沼家の関わる依頼を。もちろん、正式な仕事やから、詳しい内容は話せんが……とにかく、俺も少なからず、因縁があるわけや。鷺沼家と」
美杉は、どこか得意げな笑みを浮かべた。全く予想だにしなかった言葉に、松谷はどのような反応をすべきかわからず、中途半端に口を開いたまま、上司の姿を見つめ返す。
「驚いたか? へへ、お前らに伝えたかったんは、それだけや。来たばっかで申し訳ないが、もう帰ってええで」
「ま──待ってください! ホンマなんですか? その話」
「こんなことで嘘なんか吐かんわ。探偵業は、誠実さがモットーやで?」
「ど、どんな依頼やったんです? 可能な範囲で構いませんから、教えてください!」
「……お前、例の依頼から手え引いたんやろ? そんなこと知ったところで、もう無関係なんとちゃうか?」
「それは……」
「……ふっ。すまんすまん、少し嫌な言い方やったな。──俺が引き受けたんは、人探しの依頼や。もう、かれこれ十四、五年くらい前になる。手がかりがほとんどないもんやから、かなり苦労したわ。まあ、それでもちゃあんと、成功させたがな。無事に尋ね人を探し出して、クライアントと引き合わせたわけや」
鷺沼家の関わる、人探しの依頼。いったい、美杉は誰に頼まれて、誰の居場所を突き止めたのか。
松谷はどうにか聴き出そうとしたが、誠実さがモットーと言うだけあって、美杉は口が堅かった。
「すまんが、これ以上は話せへん。それよりお前、もし時間があるんやったら、田花にもこのこと、教えたってくれんか」
「俺が、ですか?」
「頼むわ。昨日、あいつと話した時に、言いそびれてもうてな」
松谷は迷っていた。迷う必要などない──断ればいいだけだと、理解していながら。
そんな心境を見透かしたかのように、美杉はプカプカと紫煙を吐きながら、ただでさえ細い目を細める。
「探偵業は、誠実さがモットーなんて、さっきは言うたけどな。結局のところ、この仕事で一番大事なんは、根気や。人様の人生に首突っ込まなあかん以上、簡単な依頼なんてあらへん。たとえうまいこと依頼をこなせたとしても、それでクライアントが幸せになるとも限らんしな。……それでも、一度引き受けたからには、納得いくまで調べ回るんが、俺たち探偵や」
「けど、あの件は久住さん──お客さんの方から、依頼を取り下げるって」
「そもそも、その久住って爺さんが解決してほしかったんは、ホンマに五十年前の事件なんか? 実際の目的は、別にあるような気もするけどな」
思ってもみない指摘だった。──いや、違う。松谷自身、久住の父、吾郎が起こした事件のことを聞かされた時から、何かしら思い当たる節はあった。
「ま、無理にとは言わん。まともな調査とちゃうことくらい、俺もわかっとる。……ただ、もしもお前がまだ、引っかかっとんのやったら、調査を続けるべきや。──田花は今日、久住さんと会うて、真意を確かめる言うとった。場所は確か、《えんとつそうじ》とかいうサ店や。今もまだ、その店におるやろう」
そこまで聞いて、松谷はようやく、合点がいった。美杉はわざと、鷺沼家絡みの依頼について、田花に伝えずにいたのだ。松谷が合流する口実になるように。
そのことを理解すると同時に──松谷の中で、決心がついた。
「……俺、行って来ます!」
「そうか。なら、急いだってくれ。田花の奴、もう二時間近く粘っとるはずや。調査に協力したるから、俺が行くまで待っとれって、伝えてあるからな」
つまり、嘘を言って、田花に待ち惚けを食らわせている、と。少しも誠実ちゃうやんけ──そう呆れつつも、腰を浮かせた松谷は、深々と一礼した。
そして、すぐさま踵を返し、出口へと向かう。決心が揺らいでしまわぬうちに、あの憎たらしい後輩の元へ、向かわなくては。
「ちょい待ち」ドアノブに手をかけたところで、呼び止められる。
振り返ると、美杉は社用車の鍵を掲げていた。
「せっかくやし、車使てええで」
美杉が投げて寄越した鍵をキャッチし、松谷は改めて礼を言ってから、事務所を飛び出した。
※
それから約四十分後には、松谷は社用車を下り、《喫茶&バー えんとつそうじ》に入店していた。
店内には、本当に田花の姿があった。
田花は店の一番奥にある四人がけを陣取っており、よほど長いこと美杉を待っていたのだろう。テーブルの上に置かれた灰皿には、煙草の吸殻が積み上がっていた。
他の客は、カウンター席に座った常連らしき親父が、一人。松谷は店主の挨拶には答えず、まっすぐに、モジャモジャ頭の後輩の元へ、近づいて行った。
「……やっぱり、あの狸親父に、一杯食わされたようやな。なんでお前が来んねん」
「お前、久住さんと会うてたんやってな。久住さんはどんな様子で、あの人と何を話したのか、教えてくれ」
「こっちの質問に答えろや、パイセン。だいたい、もうお前には関係あらへんやろ。鈍山とかいう闇金が怖くて、逃げ出してんから」
「あの人のことは……正直言って、まだ克服できてへん。けどな、やっぱりお前一人には任せられんわ。あの依頼は、俺も一緒に引き受けた仕事や。俺はもう、逃げ出したりせん。腹を括ったから、ここへ来た」
「……今更遅いねん。──すんませーん、お会計お願いしまーす」
田花は立ち上がり、わざとらしい声色で、店主に伝える。そのままレジへ向かいかける田花の進路を、松谷は塞いだ。
「……どけや」
「…………」
松谷は無言のまま、田花の顔をまっすぐに見据える。サングラス越しに寄越される冷徹な視線を、真っ向から受け止めるように。
それから松谷は、以前にも似たようなシチュエーションがあったことを、思い出した。あれは……そう。久住の依頼を、田花が勝手に引き受けようとした時のことだ。
あの時、松谷は田花の暴力に屈するしかなかった。だが、今は違う。
松谷は、田花の左頬目がけ──渾身の右ストレートを打ち込んだ。
この先制攻撃は、田花も予想外のものだったらしい。田花はまともに拳を食らい、その拍子に顔から吹き飛んだサングラスが、カチャリとやけに小気味よい音を立てて、床に着地した。
二人の様子を傍観していた店主と、カウンター席の常連客が、同時にあんぐりと口を開ける。が、この際周囲の目など、松谷には関係がなかった。
「お前、前に俺のこと殴ったやろ。これであいこにしといたる」
「……ヒ、ヒヒヒ……何があいこや。あん時は──グーちゃうかったやろうがァ!」
咆哮を上げると共に、今度は田花が拳を突き出し、松谷の鼻っ面を、強かに殴りつけた。
「……やっぱり、久住さんがホンマに調べ直してほしかったんは、親父さんが起こした事件の方、やったんやな?」
天井を仰ぎ、鼻の穴に千切った紙ナプキンを捩じ込みながら、松谷は尋ねた。鼻血の味が口の中にまで広がって来る。顔中青痣だらけで、鼻が少しばかり右に傾いてしまったように感じた。
いい歳した大人同士の子供じみた殴り合いは、結局十分と経たずに、終結を迎えた。二人ともそれなりに溜飲が下がったというのもあるし、何より不毛なことだと、気がついたのだ。
それからは、どちらともなく椅子に腰を下ろし、先ほどの剣呑さが嘘に思えるほどシームレスに、捜査会議へと、移行していた。
「せやで」腫れ上がった唇の端に煙草を咥えつつ、田花が頷く。こちらは鼻が曲がっていないぶん、松谷よりかは、ダメージが少ないように見える。
「それと、親父さんが事件を起こすちょうど一週間前に、現場付近にある洞窟ん中で、気色悪いもんを見たらしい」
田花曰く、久住はブレイクの『ネブカドネザル』を想起させるような体験をしていた、とのこと。そして、久住が洞窟の中で出会った半裸の老人は、鬼村だったのではないかと、田花は考えているらしい。
「ホンマに鬼村やったとして、なんでパンツ一丁でそんなところにおんねん。意味不明やな」
「まったくや。──そっちはどないやった? うちのボスから、何か聞かされたんやろ?」
松谷は、先ほど事務所で聞かされた話を、田花に伝えた。当然ながら意外だったらしく、田花は「へえ?」という声を、煙と共に吐き出した。
「鷺沼家と関係ある、人探しの依頼か。いったい、誰を探したんやろな」
「もしかしたら、俺らの調査とは関係ないことかも知れんけどな。それはそうと、他にわかったことはないか? 一人で調べとったんやろ? あれから」
「ああ。一人寂しく、駆けずり回っとったわ」
「悪かったって。──で? 成果は得られたんやろな」
「そりゃもう、豊漁やで。ひとまず、軽めの奴から行くか」
次に田花が語ったのは、意外にも、鈍山に関する情報だった。
「あの後、俺も鈍山のことを調べてみてんけどな。そしたら、気になるエピソードが出てきたわ。あのヤクザもん、鷺沼グループに拾われる前は、陣野って名前の実業家と、仲良うしとったらしい。お前のホスト時代の客みたいに、返済できんほど借金を膨らませた女なんかを、陣野に紹介しとったそうや。要するに、借金の肩代わりに、体を売らせとったわけやな」
「風俗なんかやのうて、金を持った個人に売りつけとったんか?」
「そうらしい。立派な人身売買や。胸糞悪い連中やで。──鈍山と陣野は、下衆同士長いことズブズブの関係やってんけど、ある時、二人まとめて事故に遭ってもうた。今から八年くらい前のことや。陣野の所有しとったクルーザーが転覆して、海に放り出されてもうたらしい。
で、陣野はそのまま溺死。鈍山はあのとおり、しぶとく生き延びた。あいつの頬にある古傷も、そん時に負ったもんなんやと。──鈍山が、本格的に鷺沼グループの人間になったんは、その数ヶ月後や」
「偶然──やとしたら、あまりにもタイミングがよすぎるな。まさか、その事故は……鈍山さんが仕組んだことやった?」
田花は首肯する代わりとばかりに、ニヤリと笑った。
「俺はそう睨んどる。なんやったら、事故に見せかけて陣野を殺害するよう指示したんは、鷺沼家の連中かもな」
「けど、どうしてそんなことをさせなあかんかった? 陣野に何か、恨みでもあったとか?」
「あるいは、何らかの口封じか。つまり、陣野は鷺沼家の抱える秘密に関わっとったせいで、消されたわけや。それやったら、鈍山が永いこと好き勝手やれてるんも、納得できる。鷺沼グループっちゅう強力な後ろ盾があるからこそ、今まで目溢しされて来たんやろう」
「なら、あの娘──昔、俺を贔屓にしてくれとった客の件も」
「お咎めなし、やろうな。パイセンが知らんかっただけで、お前がホストしとった時代──いや、それよりずうっと前から、鈍山は鷺沼家と、繋がっとったんやろう」
あくまでも想像の域を出ない話だが、ありそうな線だと、松谷は感じた。
「そういえば、結局密室殺人の方はどうなってん。そもそも、お前は密室の謎に興味を惹かれたから、勝手に依頼を引き受けたんやろ? 少しくらい、見当はついたんか?」
「見当どころか、もう解けてもうたわ」
「ホンマか⁉︎」
少しも信じられなかった。五十年もの間手つかずのままである密室の謎が、田花なぞに解けるはずがない。
「簡単な話や。紫苑を射殺した虻田には、実は共犯者がおって──」
田花は得意になって語り始めた。彼が解き明かしたという、密室殺人の真相を。
曰く、密室を作り出したのは共犯者の鬼村であり、彼は宗介らと同じタイミングで屋敷に戻ったかのように、見せかけていたこと。虻田が現場に留まり『猫踏んじゃった』の演奏を行った理由は、現場内の物音を掻き消す為だったこと。そして、鬼村がわざわざベランダに出る扉の鍵をかけたのは、外で待機していた仲間に合図を送ったことを、悟られぬ為。──鬼村のみならず、宗介と久住、そしてカミラ村の青年たちまでもが、共犯関係にあったという。
ひととおり推理を聴いた松谷の感想は──やはり、「信じられない」だった。
「む、無茶苦茶やないか。そんな大勢の人間が──それも、宗介や久住さんの父親までもが──、犯行に関与しとったなんて。お前は、紫苑を逆恨みした瑠璃子が黒幕やったと、考えとるみたいやけど……幾ら宗介が、瑠璃子の尻に敷かれとったとして、そこまで大それた指示に従うとは、思えんわ」
「……ま、確かにな。正直な話、俺もまだ半信半疑やねん」
「は? お前が解いたんちゃうんか?」
「いんや」田花は少しも躊躇うことなく、首を横に振った。「ホンマは俺やのうて、俺の後輩が推理してん。緋村っていうんやけどな。これがまたアホみたいに、事件や面倒ごとに巻き込まれる男でなァ。その度に、なんのかんのと言いつつ、真相を解き明かしとんねん。オモロい奴やろ?」
「お、お前……まさか、依頼の内容を話したんか? その後輩に……?」
またしても、田花は全く躊躇することなく首を振る。今度は縦に。松谷は、呆れるあまり、咄嗟に言葉が出なかった。
「……あり得へん。全く無関係の人間に、そんなベラベラと仕事の話をするなんて」
「それが、あながち無関係とも言えんみたいやねん。そいつ、ちょうど今、鷺沼家の所有する町におってな。なんでも、家庭教師をしとる娘が、鷺沼家や鬼村の、関係者らしい」
今度は何を言い出すのか。松谷は色々な意味で、頭痛がするのを感じた。そもそも、顔中の至るところが、痛いのだが。
松谷が、早くも田花との和解を後悔し始めた時──注文していたブレンドコーヒーを、店主が運んで来た。
「お待たせ致しました。……あの、その状態で飲めそうですか? 無理にご注文くださらなくとも、大丈夫ですよ?」
「そういうわけにはいきませんよ。長居させてもろてますし。さっきも、ご迷惑をおかけしましたから」
とはいえ、叶うことなら、万全の状態でいただきたかった。マグカップからは温かな湯気が立ち昇っているにも拘らず、コーヒーの香りが、少しも感じられない。鼻の穴に突っ込んでいた紙ナプキンを取り出して尚そうなのだから、どうやら鼻血が固まって、鼻腔を塞いでしまっているようだ。
「もう少しで、通報しているところでしたよ。仲直りできたみたいで、何よりです」
柔和な表情で答える店主の目は、笑っていなかった。
松谷は、申し訳なさと気恥ずかしさを紛らわす為、空笑いをする。その拍子に、また殴られた所が疼いた。
店主はそのままカウンターの方へ戻って行く──かと思いきや、テーブルの上に置かれたあるものを見て、動きを止めた。それは、田花のスマートフォンであり、その画面には、高部の元で撮影した紫苑の写真──微笑する赤い目の少女──が、表示されている。
紫苑の写真を凝視した店主は、どういうわけか、不思議そうに首を捻った。
「あの、どうかされたんですか?」
松谷が尋ねると、店主は女性のような仕草で頬に手を当て、「妙ですねぇ」と呟く。松谷からしてみれば、その反応の方が奇妙だった。
「何が『妙』、なんですか?」
「いえね、似ているんですよ。そこに写っている女の子の顔立ちが、私の知り合いに」
予想だにしない方角から、意味不明な情報が転がり込んで来た。まさか、この繁盛とは縁遠いであろう喫茶店の店主までもが、鷺沼家の関係者なんてことは、ないだろうが……。
困惑するしかない松谷を他所に、田花は驚きつつも興奮した様子で、店主に尋ねる。
「もしかして、その知り合いってのは、クラハシリンカさんのことですか?」
「え、ええ、そうです。凛果さんによく似ています。髪の色だとか、違う所ももちろんありますけど、目許なんか、ソックリですよ」
「お、おい、誰やそれ」
仄かな疎外感に苛立ちつつ、松谷はニヤけ面の同僚に問う。
「さっき話した緋村って奴の、教え子や。……ヒヒ、やっぱりあいつ、持ってんなァ」




