悪い、遅くなっちまった
地を固め天のめぐりをはじめたお前は
なんという痛恨を哀れな胸にあたえたのか?
紅玉の唇や蘭麝の黒髪をどれだけ
地の底の土の小筥に入れたのか?
二〇一九年、四月十二日。
大阪府大阪市内──とある動物園の敷地にて。
関係者用の駐車場に降り立った岩尾警部補は、所轄の刑事に案内され、園内へと足を踏み入れた。
平日の午後ということもあり、客足は疎らで、このところの経営状況の苦労が窺える。特に今は、展示動物を観覧する者よりも、事件の野次馬に興じる者の方が多いだろう。
「一人だけ先にお見えになるやなんて、珍しいですね」
何度か捜査で顔を合わせたことのある中年刑事が、労わるような口調で言う。岩尾はニコリともせずに、
「ちょうど別件で外にいたもので。先乗りして状況を把握して来いと、うちの大将に命じられました」
「三井警部直々のご指名でしたか。つまり、岩尾さんは切り込み隊長というわけや」
「そんなところです」
岩尾は、仕事の合間に行われる世間話というものを、あまり好まない。事件の報せを受けた時から、すでにスイッチは切り替わっている。
何より、元来話好きな男ではない。
「ところで、改めて概要を伺っても? ガイシャの身元は、すでに確認が取れているようですが」
「ええ。名前は市岡辰馬。所持していた免許証によると、来月で三十九になるはずでした。市岡は動物商を営んでいたそうで、この動物園にも、頻繁に出入りしとったようです」
「つまり、従業員とも顔見知りやったわけですね? ちなみに、コロシと断定した根拠は?」
「それが、まだ確証を持ててへんくて。目立った外傷も見当たりません。ですから、急病死という可能性もあります。……ただ、死体の第一発見者が、コロシなんちゃうかと、言うとるもんで」
まるで、所轄の判断ではなく、一般人の意見に従ったかのような、口振りだ。
「どういうことですか?」
岩尾は思わず、詰問するような口調になってしまった。
「それは……直接尋ねてみた方が、早いかと。その人には、まだ残ってもらっていますから」
「発見者は、医学的な知識のある人間なのでしょうか? だから、コロシの可能性を見抜いた?」
「さあ? どうでしょうね。少なくとも、本人は医学生やのうて、芸大生や言うてましたよ」
「芸大生?」
その言葉を聞いた岩尾は、何か、予兆めいた感覚を抱いた。
と、同時に、腑に落ちることが一つ。上司の三井が、わざわざ彼一人を先乗りさせた理由だ。
そして、間もなく。岩尾は、自身の予感が的中していたことを知る。規制線の中では、岩尾が思い浮かべたとおりの人物が、所轄の刑事らと、向かい合っていた。
その男もすぐに、岩尾に気がついたらしい。話を中断し、彼らの方へ、視線を寄越す──女好きのしそうな甘い顔立ちに対し、不釣り合いなほど鋭い二つの瞳が、岩尾の姿を捉えた。
「……また会いしましたね、緋村さん」
岩尾の方から、先に声をかけた。
その青年──緋村奈生と岩尾が会うのは、これで三度目だ。しかも、どういうわけかその全てが、事件の現場、ないし捜査中でのことだった。
緋村は、職務中の岩尾に比肩するほどの愛想の無さで、「ええ」とだけ答えた。毎度のことながら、酷く不機嫌そうな、しかめっ面をしている。生白い肌と、ヘアセットに一切関心がないらしい豊かな黒髪が、だらしなくもあり、浮世離れした印象を与えた。何かの求道者のようでもあるし、虐げられるうちに人を恨むようになった、野犬のようでもある。
無論、実際の人となりは、岩尾には窺い知れないし、さほど興味もなかった。
「お知り合いなんですか?」
「まあ、少しだけ。緋村さんは、三井警部のお気に入りなんですよ」
岩尾が答えると、緋村はやめてくれとばかりに、渋面を深める。しかし、事実なのだから仕方あるまい。
岩尾とは、対照的に……彼の上司は、緋村に一目置いているらしいのだ。
「お気に入り、ですか。どういう意味かわかりませんが……何にせよ、話を伺うにはちょうどええみたいですね。──緋村さん、何度も同じ話ばかりさせて申し訳ないんですが、もう一度、死体を見つけた時のことを、教えてもらえますか?」
刑事の要請に応じ、緋村は要領よく、死体発見に至った経緯を述べた。
「つまり、お友達と離れて喫煙場所を探しているうちに、たまたまここに来て、死体を発見した、と」
市岡が倒れていたのは、喫煙所に併設された手洗い場だった。ちょうど目の前にある爬虫類館と、背後の塀に挟まれるような位置にあり、メインの順路からも外れていることから、人目に触れ難い場所である。
緋村が発見した時、市岡は、手洗い場の方に頭を向け、うつ伏せに倒れていた。すぐに背中を揺すり、声をかけてみたが、反応はなし。息を確認しようと、男の顔を覗き込んだところ──すでに絶命していることが、一目で見て取れる状態だった。
その為、緋村は救急車を呼ぶことはせず、直ちに動物園のスタッフへと報告し、警察への通報を任せたそうだ。
「緋村さんは、他殺の可能性が高いと考えている、と伺いました。その根拠は、何なのでしょう?」
岩尾が問う。
緋村は、死体を発見した直後とは思えないほど、冷静な声色で、
「遺体の傍に、缶コーヒーが落ちていたからです」
意味不明な答えを寄越した。
「ということは……亡くなった男性は、直前まで缶コーヒーを飲んでおり、その中に毒物か何かが混入していたのではないか。緋村さんは、そう考えたわけですね?」
「違います。おそらく、そういったものが仕込まれていたとすれば、お菓子の方でしょう」
「お菓子も一緒に落ちていたのですか?」
所轄の刑事は、即座に首を振った。
「いいえ。ガイシャの所持品の他に残されとったのは、缶コーヒーだけでした」
で、あれば……どうして緋村は、菓子に毒物が仕込まれていたと、推察したのか。その答えは、聞いてみれば、至極単純なことだった。
「男性の傍らに落ちていた缶コーヒーは、園内の自販機でも、売られているものでした。しかし、自販機がある場所は、ここから離れています。缶コーヒーは飲みかけで、まだ冷えていそうな感じがしましたから、十中八九この園内で買い求めたはず。では、どうして彼は自販機の近くではなく、わざわざここに移動した上で、コーヒーを飲んだのか。──手を洗う為だと考えるのが、妥当でしょう」
「……なるほど。だから、亡くなる直前に、手掴みで何かを食べていた、と」
「ええ。もし煙草を吸いに来たのであれば、灰皿の近くで倒れていたはずですから。彼はコーヒーに合うような甘いお菓子を食べる為に、手を洗いに来たのではないかと、考えました。
にも拘らず、男性の周りには、食べかけのお菓子やその袋のようなものが、一切見当たらない。自分の考えが見当違いだったか、そうでないのなら、僕が遺体を発見するよりも先に、誰かがここへ来て、回収したことになります」
そんな真似をする必要があるのは、犯人──あるいは、直接の実行犯でなくとも、事件に深く関与した人物しかあり得ない。よって、緋村は市岡の死が他殺ではないかと、疑ったのだ。
推理と呼べるほど、大層なシロモノではない。そもそも、そんな推論を展開せずとも、他殺であれば、じきにその痕跡が、浮かび上がるはずだ。
「緋村さんの推測は、おそらく正しいかと。ガイシャの歯の隙間に、チョコ菓子らしき食べカスが、付着していました。それと、所持品の中にあったハンカチも、まだ少し濡れとったので」
所轄の刑事が補足する。第一発見者とはいえ、一般人の前でそこまでの情報を口にするのは、いかがなものか。これが同じ捜査一課の後輩なら、後でキツく叱っていただろう。
何にしても、やはり緋村の推理だか推察だかは、不要だったわけだ。
被害者が何かを食していたことや、その前に手を洗ったことくらい、死体を観察し、所持品を改めれば、簡単にわかってしまう。わざわざそれらしい御託を並べずとも──
岩尾はそこで、ふと疑念を抱く。
緋村は本当に、ただ推測しただけなのか?
「緋村さん。念の為、確認しますが……まさか、警察が来るよりも先に、死体に触れて調べた、なんてことは」
「していませんよ、そんな非常識なこと。ただの学生なんですから」
即答だった。
が、それ故に、怪しくもある。まるで、予め答えを用意していたかのようだ。
そもそも、先ほどの小理屈からして、単なる方便に、過ぎなかったのではないか。つまり、岩尾が疑ったとおり、緋村は警察より先んじて死体を調べ──歯についた食べカスや、濡れたハンカチといった痕跡を元に、現場から持ち去られた菓子の存在に、思い至ったのではないか。そして、それを誤魔化す為に、偽りの小理屈を、咄嗟に拵えたのだとしたら……。
──得体の知れん餓鬼や。
岩尾は緋村の顔を見据えたまま、声にせず呟く。自然と睨みつけるような格好になってしまったが──緋村は、微塵も動じなかった。
それどころか、まるで挑むかのように、岩尾の視線を、見つめ返すではないか。
つくづく生意気な小僧だ。岩尾は、上司の三井とは違い、この頭のキレる学生のことを、あまり快く思っていなかった。
牽制し合うかのように、視線を交える二人の様子を、取り残された中年刑事は、不思議そうに見比べる。
しかし、ほどなくして、刑事は職務を思い出したらしく、
「あ、えっとぉ……他に何か、気がついたことはありますか?」
「……特には。連れを待たせているので、そろそろ帰っても構いませんか?」
どこまでも黒い黒眼に、岩尾の鉄仮面を映したまま、緋村は尋ねる。
市岡なる動物商とは面識がないようだし、そう言われては、引き留める理由は思いつかない。
「時間を取らせてしまい、申し訳ない。ご協力、感謝します。──と、そうだ。前々から、緋村さんに言いたかったことがあるんですが」
「はい?」
せっかちにも、すでに体の向きを変え、歩き出そうとしていた緋村は、煩わしげに振り返る。
「まだ何か?」と書かれているその仏頂面を見据えながら、岩尾は至って真面目な口調で、こう告げた。
「そろそろ、お祓いにでも行った方がええんやないですか? 刑事の自分がこんなことを言うのも妙な話ですが……緋村さんが何度も事件に遭遇するのは、何か悪い物に憑かれているせいとしか、思えんくて」
意外だったのだろう。緋村は一瞬、虚を衝かれたような表情を浮かべた──が、すぐにまた、憮然とした顔つきに戻り、
「……検討しておきます」
無駄に渋い声で答え、素人探偵は、今度こそ歩き去る。
その後ろ姿を見送りながら、岩尾はあることに気がついた。
緋村の履くズボンの尻ポケットから、何か光沢のある黒い布のようなものが、はみ出ているのだ。
──あれは……手袋か。
どうやら、岩尾の疑念は的中していたらしい。そう確信すると共に、やはり、緋村は何かに取り憑かれているのだと感じた。
少なくとも、「ただの学生」が、捜査用の革手袋を持ち歩くだなんて……刑事の岩尾からしてみても、十分に異常なことだった。
※
その時、倉橋凛果は何をするわけでもなく、入退場口のすぐ眼前にある広場の端で、所在なく佇んでいた。
もうかれこれ一時間近く、こうしているだろうか。スマートフォンには、未だ待ち人からの連絡はなく、凛果は再び画面から顔を上げ、見飽きてしまった案内板に目を移す。
そこには、簡易的な園内マップと共に、各エリアの目玉となる展示動物が、写真つきで、ピックアップされていた。ゾウやキリン、ペンギンにクジャク、オランウータン、そして、寄り添って寝そべるライオンの親子──仲睦まじい母子の象徴のようなその姿に、凛果の鳶色の瞳は、自然と引き寄せられた。
「…………」
無意識のうちに、リュックサックの肩ベルトを握り締める。するとそこへ、ようやく凛果の待っていた人物が、早足で現れる。
「悪い、遅くなっちまった」
凛果は我に返り、肩ベルトから手を離して、声の主を振り返った。
右手を軽く上げた緋村は、心なしか平時よりも穏やかな顔つきをしているように感じられた。少なくとも、普段授業中に見せる仏頂面とは、比べ物にならないほど。
「あ、いえ、大丈夫です」凛果は慌てて微笑を拵える。「それより、何かあったんですか? パトカーが来ていたみたいですけど……」
「人が倒れていたから、通報してもらった。取り敢えず、場所を変えるか。ここじゃ、君も落ち着かないだろ」
「は、はい。……あの、本当に」
「心配ねえよ。どうせ、すぐに解決する」
何が「解決する」というのか。凛果にはよくわからなかったが、尋ねるよりも先に、緋村は歩き出してしまった。
いずれにせよ、凛果が今気にすべきことは、他にある。
動物園の中を巡っている間は、言い出せなかった本題。凛果は今日、この無愛想な青年に、ある重要な依頼をしに来たのだ。
──本番はこれからや。しっかりせんと。
凛果は軽く唇を噛み締め、自分自身に発破をかける。
近づいて来るサイレンの音とすれ違うように、二人は動物園を後にした。