ネブカドネザル
同日──時遡り、午前十一時頃。
《えんとつそうじ》に新たな客が現れたのは、田花の注文したコーヒーが届いてから、約十分後のことだった。田花同様、「お好きな席にどうぞ」という決まり文句を受けたその客は、空席だらけの店内を見回し──すぐに、探偵の姿を発見する。不安げな彼の眼差しに対し、田花は薄ら笑いを浮かべ、気安く手招いた。
久住完吾は、やはり怯えた顔つきのまま、おどおどと会釈をして寄越す。
「すみませんねェ、突然こんな怪しげな店に呼び出してもうて。さ、どうぞ座ってください。コーヒーでも呑まれます? 奢りますよ」
「いえ、あの、水だけで結構です。──それより、お話というのは、やはり調査の件でしょうか? でしたら、大変申し訳ないんですが、私の意志は変わっていません。あの依頼は、キャンセルさせていただきます」
田花の対面に腰を下ろした久住は、相手の顔色を伺うように見上げつつ、ハッキリとした口調で告げた。田花は手に取ったメニュー表を元の場所へ戻し、代わりに、煙草の箱を掴む。
「まあ、全く無関係ってわけとちゃうんすけどね」煙草に火を点けた探偵は、紫煙と共に、こう続けた。「少し、確かめさせてもらいたいんですよ。俺たちに事件の再調査を依頼した、ホンマの理由を」
「それは……」
追及を拒むように、久住は顔を伏せる。
「前は、紫苑さんの無念を晴らしたい言うてはりましたけど、あれは嘘──というか、ついでやったんとちゃいますか?」
「……梶間さんから、お聞ききになったんですね。父のことを」
「ええ。それで、思ったわけです。久住さんがホンマに調べ直してもらいたいのは、五十年前の事件やのうて、三十年前の、鬼村夫妻惨殺事件の方ちゃうか、と」
「な、何故、そう思いはるんです?」
「別に、根拠はありませんけどね。紫苑さんの方はあくまでも導入というか……三十年前の事件の被害者が鬼村やったから、一緒に調べさそ思ったんでしょ? つまり、久住さんは、鬼村夫妻殺害の背後には、紫苑さんの事件が絡んどると、そう睨んではるわけや」
田花の勘は的中していたらしい。ほどなくして、久住は悄然と首肯する。
「どうやら、あなたは思っていた以上に、ちゃんとした探偵らしい。……そうです。私は、どうしても、知りたくなってもうた。父が何故、あんな惨たらしいことをせんくてはならんかったのか。その理由を、自分がまだ、生きとるうちに」
「今になって事件を調べ直したくなったんは……やっぱり、定年を迎えたことがキッカケやったんすか?」
「それもあります。ただ、一番大きかったんは、宗介様に、背中を押していただいたことでした。最後の仕事を終えた後、宗介様直々に、食事に誘ってくださったんです。そこで、父のことが話題になりまして……」
会食の為だけに貸し切られた老舗レストランの店内にて。宗介は久住に、こう告げたという。
──もしも、今でも三十年前の真相を知りたいと思うのなら、私は止めないよ。完吾くんは、もう私の家とは関係のない人だ。だから、我々には遠慮せず、好きなようにするといい。
「へえ? なんや、会長自身は真相を知っているような、口振りですね」
「え、ええ。私もそのことが気になって、尋ねました。そうしたら』
──今、ここで、全ての事情を説明するのは難しい。……ただ一つ、これだけは伝えておかなくてはなるまい。吾郎さんは、決して私利私欲や個人的な恨みの為に、鬼村夫妻を手にかけたわけではない。君のお父さんも、巻き込まれてしまったに過ぎないんだ。
「仮に、宗介様の仰ったことが事実やとして……側杖を食っただけの父が、二人も殺した上で、現場に火を放つやなんて、わけがわかりません。
あるいは、父はホンマは人殺しなんてしておらず、誰かの罪を被って自首したのであれば……その誰かに、罪を償ってもらわな、気が済まへん。ですから、私は、調べ直すことに決めたのです。鷺沼家に纏わる、二つの事件について」
「……久住さんの気持ちは、よぉーく理解できます。そこで、一つ提案なんですけどね。紫苑さんの方やのうて、三十年前の事件を調べ直してみませんか? 鷺沼グループの奴らに止められたんは、あくまでも紫苑さんの事件の方です。三十年前の事件まで調べるなとは、言われてへん。むしろ、久住さんにとっては、そっちが本命なんでしょ? せやったら」
「無理ですよ」久住は、ハンチングを乗せた頭を振った。「この間、田花さんと通話したすぐ後で、佐伯という人から、連絡がありました。『鷺沼グループ及び、鷺沼家に関わる事件のことは、お父上の犯行も含め、全て忘れるように』と、釘を刺されましたから」
──佐伯っつうと……あのキツネ顔のおっさんか。洒落臭い真似を。
田花は忌々しく思った。が、しかし、全く想定外のことではない。
そもそも、田花はハナから、久住の許可を得ようなどとは、考えていなかった。
「……わかりました。ほんなら、ええっすわ。どの道、もう決まったことなんで」
「は? 決まったって──まさか」
「調査は続けさせてもらいます。誰に何と言われようと、あんたが望むまいと、もはや関係あらへん。ホンマはそれだけ言っとこ思って、呼び出したんすわ。……つうわけで、お爺ちゃん、もう帰ってええで」
むしろ、さっさと帰れと言いたげに、田花は右手で払う仕草をしてみせた。それから、すでに相手への興味を失ったしまった彼は、新しい煙草に火を点け、気怠げに紫煙を吐き出す。
あまりにも一方的な言葉、そして横暴な態度に、久住はしばし唖然とした様子で、目の前にいる男の姿を見つめていた。が、ほどなく、こちらはこちらで、溜め息を吐き、
「そういうことでしたら、どうぞお好きなようにしてください。私は午後から人と会う予定がありますので、これで。失礼させてもらいます」
怒りとも呆れとも取れる感情を、声に滲ませながら、久住は腰を浮かせる。無論、田花は一切の反応も示すことはなく、顔を傾け、誰もいない場所に目線を投じていた。
久住は去り際、一度だけ横柄な探偵に目をくれ、苦い顔で会釈をした。そして、店の出入り口へ向かって歩き出した──その矢先。
久住は突如、動きを止めてしまった。まるで、何者かの呪いを受け、体を石にされてしまったかのように。
シカトを決め込むつもりでいた田花も、さすがにこの異変を看過できず。老人の方へ顔を向け、不機嫌な声を発する。
「久住さん? 何してはるんすか? そんなとこで立ち止まって。他に客がいてへんからええものを、邪魔っすよ、邪魔」
田花の愚弄は、どうやら耳に届いていないらしい。
久住はそれこそ田花のことを黙殺するように、真正面にある壁を、凝視し続けた。
──何を見とんねん、あの爺さん。
田花は、久住の背中越しに、その視線の先を辿る。
久住が食い入るように見つめているのは、店内に無数に飾られたウィリアム・ブレイクの作品の、一つ。獣のように、裸身のまま四つん這いになった老人の姿を、描いたものだった。
「あ──あ、あれは……何の絵、ですか?」
その不気味な──基本的に不気味なタッチで知られるブレイク作品の中でも、一際強く、観る者に不穏さを感じさせるであろう──老人の絵を指差し、久住は、戦慄く声で尋ねた。
答えたのは、カウンターの向こうで洗い物をしていた店主だ。
「ああ、『ネブカドネザル』ですね。タイトルのとおり、新バビロニア王国のネブカドネザル二世を描いた作品です。──旧約聖書の一つ、ダニエル書によれば、ネブカドザネル二世は傲慢さのあまり、神の怒りに触れてしまい、七年もの間、牛のように草を食べて暮らす羽目になったそうです。あの絵に描かれているのは、まさにその、王様どころか人ですらなくなってしまった姿、ですね」
店主の解説を聞き、田花は得心がいった。確かにあの表情は、人間をやめてしまっている、と。
地べた──田花には、洞窟の中の水辺のように見えた──に四つん這いになり、鑑賞者の方を向いた元バビロニア国王の顔からは、知性といったものは全く感じられず、髪の毛と一体となって髭は、地面に引き摺って尚余るほど、伸びきっていた。
何より、田花が不気味に思ったのは、その二つの眼だ。黒く淀んだ黒目は、それぞれ顔の外側に向けられており、あれでは焦点など、定めようがない。
また、中途半端に開いた口から人の言葉が発せられるとは思えず、獣じみた唸り声か、さもなくば今にも涎を垂らしそうな気配すらあった。
ダニエル書において、ネブカドネザル二世は、天の定めた期限である七年目に、無事正気を取り戻す。その後、彼は神を賛美し礼拝することで、再び王位を確立し、それまで以上の栄誉に包まれたと、記述されていた。
しかし、ブレイクの描いた『ネブカドネザル』からは、そのような救済の兆しは、一切見受けられない。このまま完全な獣へと堕して行くことは、避けられぬように思われた。
「で? あの絵が、どうかしたんすか?」
再び尋ねると、久住は生唾を呑み込み、やはり震える声音で、意外な答えを寄越す。
「……み、見たことがあるんです。あれと、同じような光景を」
「はァ?」言っている意味が、よくわからなかった。
しかし、どうも久住の様子は尋常ではなく、ネブカドネザルの絵からやっと視線を外した後は、しきりにジャケットの袖口で、額の汗を拭っていた。
「……どういうことか、聴かせてくれますか? 水、まだ残ってますし、もう一度座って、落ち着いてから話してください」
久住は素直に従い、再び田花の対面に腰を下ろす。
それから、彼はコップの中の水を一気に呑み干し、氷をゴリゴリと噛み砕きながら、ハンチングを外して、おしぼりで顔中を拭い清めた。
そこまでして、やっとひと心地ついたらしい久住は、それでも尚、血色の失せた顔で、語り出す。
「あ、あれは、三十年前……父が、あの事件を起こす、ちょうど一週間前のことでした。その日は平日やったんですが、仕事が休みで、私はなんとなく奈良の方へ、ドライブに出とったんです。しばらくの間は、特に目的地も決めず、適当に車を走らせとりました。そうしとるうちに、私はある村に、差しかかって……そこは、鷺沼家の所有する『町』の、すぐ近くでした」
──鷺沼家の町っつうも、緋村チャンたちが今いてる、白亜の町か。
「私はその『町』に行ったことがなくて、どんな場所か気になったんですが……さすがに勝手に中に入るのも憚られたんで、外から少し町並みを拝んで、帰ることに決めました。それで、農道を上って行ったんですが、その途中で、『この先、天国洞』と書かれた看板が、目に入ったんです。
この天国洞というのは、かなりの広さのある鍾乳洞でして。迷い込むと危険やいう理由で、今は立ち入り禁止になっとるそうです。その当時も、まあ、立ち入り禁止ではあったんですが……特に入り口が封鎖されとるわけやのうて、ロープが一本張ってあるくらいで、簡単に入ることができました」
久住青年の好奇心の対象は、鷺沼家の町から、鍾乳洞へと移った。目的地を変更した久住は、車をバックさせ、天国洞へと向かう脇道に、進入する。
「時間は、だいたい昼過ぎくらい──いや、確か十三時を回ったくらいやったかな。どこかの店で昼食を摂ってから、大して経ってへんかったと、思います。車を降りた私は、ライターの火を頼りに──当時はまだ、煙草を吸っとったんですよ──、洞窟の中を探索することにしました。……その時の私は、働き盛りだったこともあってか、少々無鉄砲なところがありまして。迷子になる心配などせず、ライター片手に奥へ奥へと、進んで行きました。
そうするうちに、少し開けた空間に出ました。開けたいうても、六畳間ほどの広さやったと思います。ただ、その前に通って来た道が狭かったんで、ずいぶん広々とした場所に見えました」
その空間の中央には、湧水によって造られたと思しき、小規模な地底湖があったらしい。頭上から細々と差し込む陽光が、その水面や畔を、幻想的に照らし出していた……。
「そこだけ、天井の一部が崩れとったようで、ほんの少しだけ、明るかったんです。せやから、私はすぐに、気がつきました。──あの、化け物がいてることに」
青黒い水面を湛える地底湖の、対岸──その奥の、辛うじて陽の光に晒された場所に、ソレはいた。
「いえ、そいつは確かに、人間やったんですが……下着一枚しか身に纏ってへん上に、地べたに四つん這いになっとったんです。ちょうど、さっきの絵のような具合に」
「……それだけ聞くと、なんやアホみたいな絵面ですね」
「た、確かにそうかも知れません。けど、想像してみてください。薄暗い洞窟ん中で、イキナリそんな、パンツ一丁の人間と出くわすところを。気味が悪い、なんてもんやあらへん。当時の私は怖いもんなしやったと言いましたけど、さすがにあの瞬間は、血の気が引きました。
それで、思わず後退った拍子に、砂利か何かを踏んで、音を立ててしまいましてね。向こうも私に気いついたんでしょう。そいつが、突然首を捻って、私の方を振り向いたんです」
久住が目にしたのは、それこそ『ネブカドネザル』を思わせるような、老人の顔だった。
焦点の定まらない、虚ろな二つの黒眼と、伸びるがままに伸びた髪と髭。たった一瞬目にしただけで、その老人の意識が、この世ならざる別の場所にあることが、理解できた。
「次の瞬間、私は半狂乱になって、その場から逃げ出しました。あの老人が、四つん這いのまま、猛スピードで追いかけて来るところを、想像してもうて……。振り返りもせずに、私は無我夢中で、狭い洞窟ん中を走り続けました。道に迷うことなく、無事に天国洞を抜け出せたんは、ある意味奇跡やったと思います」
結局、老人が追いかけて来ることはなく、久住は車に戻り、一目散に帰路へと就いた。
「その日は恐怖のあまり、中々寝つくことができんくて……今にして思えば、あの出来事がキッカケで、少し、臆病な性格になったような気さえします」
「つまり、久住さんにとってトラウマってわけですか。せやから、あの『ネブカドネザル』を見て、思わず凍りついてもうた、と」
「え、ええ。私は、それから数日の間、あの老人のことが頭から離れませんでした。そして、とうとう耐えきれず、父に相談したんです」
「ほほう。で、お父さんは何て?」
「電話で話したので、どんな表情をしとったかまではわかりません。ただ、初めは酷く動揺していたようでした。それから、私が天国洞へ立ち入ったことについて、憤慨しましてね。あの時見たものに関しては、絶対に他言せんよう、キツく、言いつけられました」
父の言いつけを厳守した久住は、たった今田花に打ち明けるまで、この話を誰にも──例の事件の後、聴取に来た刑事にさえ──、語ることなく、三十年もの間、胸に秘めて来た。
久住自身、あまり思い出したくない体験だった、というのもあるのだろう。が、それ以上に、その時の父──吾郎はただならぬ様子だった為、不用意に言い触らすことは、憚られたらしい。
語り終えた久住は、コップの中にわずかに残っていた水滴で、唇を湿らせる。田花は新しい煙草に火を点けつつ、思いついたことを口にした。
「久住さんが出会した、その気色悪い爺さんって……もしかして、鬼村医師やったんとちゃいます?」
久住は目を剥いた。
「そ、それは……た、確かに、言われてみれば、鬼村先生に似とった、気もします。ただ、あまりにも人相が違ったというか、ケダモノじみて見えたので……。そもそも、私は若い頃の鬼村先生しか知りませんし、絶対にそうやったと、自信を持って言えません」
「けど、可能性としては高いでしょう。その天国洞ってのは、鬼村夫妻が当時暮らしとった、鷺沼家の町とも近いみたいやし。それに、久住さんがその爺さんを見たんは、お父さんが事件を起こした日の、ちょうど一週間前やったんすよね? せやったら、その鬼村医師の奇行が、何らかの形で事件と関わっとる可能性も、考えられる」
久住は、否定も肯定もしなかった。わずかに考え込んだのち、「……わかりません」とだけ、呟く。
とにかく、若き日の久住は、天国洞の中で怖ろしい体験をし、それ以来、鷺沼家の町のある付近には、近寄らずにいるそうだ。
幻視者ブレイクの描いた作品のお陰で、新たな情報を得ることができた。しかしながら、このピースはいったいどこに嵌るのか。田花にも、見当がつかなかった。
──やっぱり、また緋村チャンを頼ることになりそやなァ。
田花は、自分が安楽椅子探偵の助手的なポジションに収まりつつあることを自覚していた。が、それはそれで楽しめそうなので、よしとすることにした。




