前世の記憶
その後、私たちは社長と共に、一度お屋敷へ戻った。やはりそこにも若庭さんはおらず、由井さん夫妻や橙子さんも、彼を見かけていないらしい。
「ひとまず、休憩していったらどうかしら? ちょうど、今からお茶を淹れてもらおうと思っていたの」
橙子さんに誘われたが、緋村さんが辞した為、私も遠慮する。とても落ち着いて、お茶をいただけるような気分ではない。
緋村さんにしてみても、あれほどの舌戦を繰り広げた後で、社長と同じ空間にいるのは、気不味かったのだろう。すぐにお屋敷を出た私たちは、家まで戻るより近いという理由で、再び《バー ディオニューソス》に向かった。
時刻は十五時半を過ぎており、若庭さんが姿を消してしまってから、すでに一時間以上が経過していた。
私と緋村さんは、それぞれ先ほど座っていたのと同じ椅子に、腰を下ろす。そのまま少しの間、互いに何も喋らずにいた。
「さっきは悪かったな」
やがて、緋村さんは端正な横顔をこちらに向けたまま、静かな声音で言った。
「町の中を連れ回した上に、目の前で社長と口論になっちまって。怖かったか?」
「い、いえ、平気です! 自分でついて行くと言ったんですし、若庭さんのことも、心配でしたから」
私は強がって答える。本当はパニックになりそうなほど怖かったし、余計に疲弊してもいた。ふくらはぎがジンジンと痛んで、座ったら座ったで、今度は眠くなって来る。
横目でこちらを見た緋村さんは、「そうか」とだけ言って、微笑を零した。先ほど見せた怒りの形相が嘘のように、穏やかだ。
どうやら、だいぶ気持ちが落ち着いて来たらしい。そう思い、安堵したのも束の間──
「ところで、俺に旅行のつき添いを頼もうと思った本当の理由は、何だ? ただ『助けてくれそう』ってだけで、こんな私的な依頼、するはずないよな? 何を考えているのか、そろそろ教えてくれよ」
安堵と眠気が、いっぺんに吹き飛んだ。緋村さんの声は、いつの間にか、冷たく硬い響きを帯びているではないか。
「何か、隠していることでもあるのか?」
「そ、それは……緋村さんも、同じですよね?」私はやっとの思いで、口にした。「私が知らない間に、会長からあの家の鍵を預かっていましたし……さっきだって、誰かと長いこと、電話してはりました」
「……電話の件は、君とは関係がない」
「せやったら、鍵は? 午前中、宗介会長に案内してもらった後、私に内緒で、コッソリ廃屋に戻ったんとちゃいますか? 若庭さんがペンを落としたのも、ホンマはその時やったんじゃ」
「鋭いな。──そうだ。君抜きで、どうしても宗介会長に確認しなきゃならねえことがあった。気を悪くしたのなら、謝るよ」
「……何を確認したんですか? 私の話をする前に、先にそっちを教えてください」
「聖子さんの遺体の様子だったり、当時のことを色々と。かなり生々しい話になるから、君がいる前で尋ねるのは、酷だと思った」
「そんなこと、私は」
「君は気にしなくても、会長が話し辛いだろ。仲間外れにしたことは悪かったが、俺なりに配慮した結果だ。わかってくれ」
そうなのだろう。
緋村さんは、私を気遣ってくれたのだ。そのことだけは、なんとなく伝わって来た──のだが、おそらく、今言った話が全てではないはずだ。緋村さんはまだ何か、私に隠し事をしている。
「次は君の番だな」
緋村さんは体ごとこちらに向き直り、「どうぞ?」と言う代わりに、目顔で促して来る。やはり、これ以上、教えてくれるつもりはないらしい。
消化不良と言うより他なかった。けれど、緋村さんだって何の意図もなく、答えをはぐらかしているわけではないのだろう。そう思いたい。
私は、初めてできた家庭教師を、信じることにした。それに、元はといえば、緋村さんを巻き込んだのは私の方だ。もう十分我儘を聞いてもらっているのだし、ここは私が折れるべきだろう。
「……わかりました。ただ、少し突飛というか、変な話なんですけど……」
「構わない。今はどんな些細なことでもいいから、情報が欲しい」
「そう、ですか。なら、話しますけど……緋村さんは、前世や転生って、あると思いますか?」
言ってから、怪しげな宗教の勧誘じみた言い回しになってしまったと、後悔した。そもそも、尋ねておいてなんだけど、緋村さんに、そういったスピリチュアルな話を信じているイメージなど、少しも湧かない。
案の定、緋村さんは虚を衝かれたように、ポカンとした表情を見せた。
「す、すみません。突然こんなこと言われても、意味わからないですよね。……私自身、あり得へんと思っていますし」
「確かに、俺も信じちゃいねえけど……それが、俺の質問と、どう関係あるんだ?」
緋村さんの眼差し──困惑しつつも、真意を探ろうとするような観察の視線──から、私は目を伏せて逃げた。
そして、膝の上に置いた両手を見つめながら、とうとう「あのこと」を打ち明ける。
「実は、私……前世の記憶があるかも知れないんです」
自分でも意味不明なことを言っていると思う。けれど、実際に前世のものとしか思えない記憶があるのだから、仕方がない。
私は、きっと、誰かの──生まれ変わりなのだ。
「緋村さんにつき添いをお願いしよ思ったのも、ホンマはその記憶について、相談したかったからで……緋村さん物知りやし、あれが何なのか、わかるんちゃうかって。もちろん、母のことも含めて話を聞いていただきたかった、というのも、ありますけど」
「どんな記憶か、教えてもらえるか?」
「……あまり、鮮明な記憶ちゃうんです。それがどこなのか、自分が誰とおったのかも、わかりません。ただ一つ、ボンヤリと覚えとるんは、誰かに、名前を呼ばれたことで……」
「名前?」
私は頷く。そして、やはり自分の白い手を見下ろしたまま、
「──シオン。その人は、私のことを、シオンという名前で呼んでいました」
言い終えてから、私は怖々と、緋村さんの顔を見上げる。
緋村さんは、わずかに唇を開いたまま、当惑の表情で、こちらを凝視していた。元から白い肌が、血の気を失い、余計に青白く見える。これがアニメなら、ゾワゾワと髪の毛が蠢くような演出がなされていたかも知れない。それくらい、緋村さんは喫驚した様子だった。
いや、単に驚いたというよりかは、引いているのだろう。おかしな奴だと思われたに違いない。たまたま「違う名前で呼ばれた覚えがある」というだけで、それが前世の記憶だと断じるのは、自分でも早計というか、異常に感じる。
それでも──それでも、私はこの不思議な記憶のせいで、長い間悩み、疑い続けて来たのだ。
他ならぬ、自分自身を。
「『母のことを知らなければ、自分の人生を歩めない気がする』……今回のつき添いをお願いした時、そう言うたかと思います。……私があんなことを口走ったんは、本当の母親を知らんかったから──だけやのうて、この記憶のせいでもあるんです。何というか、自分の命が、誰かの借り物みたいに思えてしまって……。そんなわけあらへんのに。おかしいですよね、私。高校生にもなって、こんな意味不明なことで悩んで……」
私は再び、俯く。
ずっと、誰かに相談しようと思っていたはずなのに、いざ実際に言葉にしてみると、酷く滑稽に感じられた。こんなくだらない悩みを打ち明けて、私は何と言ってほしかったのだろう? ただの家庭教師でしかないこの人に、いったい何を求めていたのか。
これではまるで、他人の関心を得たいが為に嘘を吐いているみたいだ。私はどこまで幼稚なのだろう──後悔はたちまち自己嫌悪へと変わり、そんな風に思うことさえもが、後ろめたく感じられた。
「……すみません。やっぱり、今の話は」
忘れてください──そう、続けるつもりだった。
しかし、私が言いきるよりも早く、
「……面白いじゃないか。そうか、君の前世は『シオン』だったのか」
意外な言葉に、私は思わず顔を上げる。
緋村さんは、ウッスラと不敵な笑みを浮かべていた。普段は昏く淀んでいる二つの瞳に、怜悧な光を宿して。
「恩に着るよ。君が打ち明けてくれたお陰で、ようやく真相の輪郭が掴めそうだ」
今度は、私が困惑する番だった。真相の輪郭? 緋村さんは、いったい何を言ってはるんやろう?
「あの、それはどういう」
「昨日、課題を見てほしいって言っていたよな? 見てやるから、今から君の家に行こう」
一方的に言い、緋村さんは腰を浮かせた。
それから数秒ほど遅れて、私も立ち上がる、緋村さんは、すでに扉へ向かって歩き出しており、私は慌てて、その背中を呼び止めた。
「緋村さんは、私の話、信じてくれはるんですか?」
「ああ。そんな嘘を吐く理由、ないからな」
「で、でも! 前世の記憶やなんて、やっぱりあり得へんし……」
「確かに。しかし、だからと言って、君が今話した内容を、否定することはできない。むしろ、そういう矛盾した事象こそが、えてして謎を解く鍵になる」
緋村さんはこちらに向き直る。重たそうな前髪の間から、二つの切れ長の瞳が、私を見据えていた。
「その記憶が前世のものでないのであれば、君はいつ、『シオン』という名で呼ばれたのか。言うまでもなく、それは今世でのことだ」
「……緋村さんは、答えがわかったということですか? せやったら」
「ダメだ。それを君に伝えるのは、俺の役目じゃない。もったいつけてばかりで申し訳ないが、今は我慢してくれ」
緋村さんでないとすると、いったい誰が、答えを教えてくれるというのか。例の記憶のことは、お父さんやお祖父ちゃんにさえ、秘密にして来たのに。
私は納得がいかず──しかし、どうすることもできず──、再び椅子に腰を落とし、俯いた。この場から動くつもりはないという、酷く子供じみた意思表示だ。
その時、緋村さんがどんな表情で私のことを見ていたのか、直視するのが怖しかったので、わからない。
ただ、ほどなくして聞こえて来たその声色は、これまでと比べ、かなり力の抜けたものだった。
「……パルテノン神殿は、世界で最も著名なドーア式建造物だが……元々は何の為に建てられたものか、答えられるか?」
「はい?」
あまりにも唐突なその言葉に、私は不貞腐れていたことも忘れ、顔を上げた。
緋村さんの視線は、私を通り越し、壁にかけられたパルテノン神殿のパズルへと、向けられているらしい。
「世界史の授業でやっているだろ? 課題を見る前に、少し復習だ。──答えは?」
「……あ、アテナを祀る為です。アテネの守護神であるアテナを祀る為に、建造されました」
「よろしい。もっと言えば、今日まで残っているパルテノン神殿は、ペルシア戦争勝利後に修築されたものだ。まあ、これくらいは覚えておいてもらわねえと困る。──ペリクレスの命によって修築されたパルテノン神殿だが、その後、アテネがペロポネソス戦争に敗れて以降、時代ごとに用途を変えることになる。例えばどんなものがあったか、覚えてるか?」
「えっと……キリスト教の聖堂?」
今度はあまり自信がなかった。が、及第点ではあったらしく、家庭教師は頷いた。
「そうだな。六世紀頃には、キリストの東方教会によって、マリア聖堂へと変えられた。──他には?」
「他は……」
「……難しいか? オスマン帝国時代には、モスクになったんだ。ここまで来ると、もうアテナとは関係がなくなって来るな。そして、十七世紀後半に起きた大トルコ戦争の際には、弾薬庫として用いられた挙句、ヴェネツィア軍によって爆撃されてしまう。オスマン帝国としては、敵軍も歴史ある遺跡を攻撃することはないだろうと、高を括っていたようだが……見事に予想が外れたわけだ。
かくして、神殿の内殿や、そこに飾られていた彫刻の多くが、破壊されてしまった。が、パルテノン神殿の悲劇は、まだ終わらない。オスマン帝国衰退後、ヨーロッパ諸国の介入によって、ギリシャ独立の機運が高まった。その背景にあったのが、ヨーロッパ人の『ギリシャ愛護主義』だ。要は、ヨーロッパ文化の起源を、古代ギリシャに求めようとしたんだな。
そして十八世紀には、イギリスの外交官が、当時のスルタンから許可を得て、大量の彫刻を、神殿から持ち出した。その外交官の名前から、“エルギン・マーブル”と名づけられたこれらの彫刻は、今でも大英博物館に展示されている。──ところで、このエルギン・マーブルには、ある秘密があった」
緋村さんの語り口は、次第に熱を帯びて行く。何なら普段の授業中よりも、よほど弁舌滑らかに思えた。
私もいつしかクヨクヨした気持ちを忘れ、彼の講義に聞き入っていた。
「なんと、神殿から持ち出す際、本来の色を綺麗サッパリ削り取っていたんだ。それも、彫刻だけじゃなく、周囲の遺跡ごとな。──何故、そんなことをしたと思う?」
「……本来の状態やと、都合が悪かったから?」
「ある意味正解だな。しかし、模範解答はこうだ。『真っ白い方が、白人文化の源流に相応しいから』。つまり、彫刻を持ち出した外交官は、大衆のニーズに応えようとしたわけだ。
お陰で、二十一世紀になってこの事実が発覚するまで、古代ギリシャといえば『白い大理石』というイメージが、ヨーロッパに限らず世界中で、定着してしまった。しかし、古代ギリシャの文化ってのは、そもそも古代エジプトやアジアの影響を受けて発展したものだ。だから、エルギン・マーブルやギリシャの遺跡群も、本来はもっと派手な極彩色をしていた、と推測されている」
予想だにしなかったほど、大きな秘密だった。よもや「その方が相応しい」というだけの理由で、他所の国の文化を、漂白してしまうなんて。
「……人種間や男女間の差別が、未だに根づいているのと、似たような話だ。誰かにとって都合のいい嘘だからこそ、多くの人間にそれを信じ込ませる。虚構を信じ共有する能力を得たことによって、人類──ホモ・サピエンスは、地球を支配するまでに繁栄した。しかし、元々は多くの仲間と団結する為に獲得したはずのその想像力は、時として、人を間違った方向へ導くことになる。
結局のところ、何が言いてえのかっつうとな。君が誰かの生まれ変わりなんて話は、古代ギリシャのシンボルカラーが純白だって言い張るのと、大差ないってことだ」
突然、私の話に帰って来た。
ものの見事に不意打ちを喰らった私は、瞬時にリアクションを取ることが、できない。
しかし、緋村さんはこちらの困惑など、歯牙にもかけず、
「不思議な記憶があろうとなかろうと、君は君だ。それだけは、絶対に揺らぐことのない事実。わざわざ不気味な虚構を作り出して、不安がる必要はない。誰が何と言おうと、君はとっくに、自分の人生を歩んでいるよ」
──それくらいわかっている。
そう言い返そうとして、気がついた。当たり前だ。私かて、ホンマはわかっていたことやないか、と。
「もちろん、思い悩むこと自体がおかしいとか、間違いだとは言わねえよ。誰だって、当人にしかわからないような不安や悩みを抱えて、生きているもんだ。むしろ、俺や君の年齢なら、存分に悩むべきだろう。何せ、俺たちはまだ、モラトリアムの中にいるんだから」
視界が、晴れた。
漂白された景色が、瞬時に彩りを取り戻し、目に映る世界が、より鮮明なものへと変容する──そんな感覚を、味わう。
「……緋村さんも、悩むことがあるんですか?」
「そりゃあるさ。大学を出た後のことも、まだ漠然としか考えてねえし? 煙草は値上がる一方だし、オマケに旅先で、友人が行方を眩ますし……悩ましいことだらけだよ」
答える緋村さんの顔には、初めて目にするような自然な笑みが、浮かんでいた。きっと、この人の本質は、こっちなのだろう。私が今まで、知らないでいただけで。
「ま、俺から言えるのはこんなところだ。悪かったな。いやに回りくどくなっちまって」
「いえ……ありがとうございます。励ましてもらえて、嬉しいです」
それから私たちは、伴ってバーの外に出た。カラッとした春の風が吹き抜け、私の髪や頬を、心地よく撫でてくれる。
緋村さんの臨時授業のお陰で、だいぶ気持ちが楽になった。やはり、この人に相談して正しかったのだ。
そんなことを考えながら、緋村さんの隣りに並び、白亜の町を歩く。
「緋村さんって、ホンマは優しい人なんですね」
「今更気づいたのか? 心外だな。──それは冗談として。昔、自分が励ましてもらった時のことを、少し思い出したんだ。まあ、俺の場合は、ただの迷子だったけど」
「もしかして、さっき言うてはった話ですか? 本物の白亜の町を旅行した時、家族とはぐれたって」
「ああ。こんな場所にいるせいか、だんだん記憶が鮮明になって来たよ」
言いながら、緋村さんは目を細める。広場から伸びる細い通りの先に、異国の地での思い出を、幻視するかのように。
「やっぱり、奇妙な町だな。ここは……」
私の借りている家の前まで来たところで、緋村さんは、意外なことを言い出した。
「悪いが、先に一人で勉強していてくれないか。課題を見る前に、一服しておきたい」
煙草の値上がりを嘆いていた割に、禁煙するつもりはないようだ。私は少なからず、呆れてしまった。
「煙草の臭いが移ると申し訳ないし、その辺をぶらつきながら吸って来るよ。もしかしたら、若庭と会えるかも知れねえし。──たぶん、三十分くらいはかかるだろうが、それまで、家の中で待っていてくれ」
そう言うと、緋村さんは来たのとは逆の方向へ、さっさと歩き去ってしまう。
その時、チラリと見えた緋村さんの横顔には、幽かな緊張と、ギラギラとした闘志のようなものが、仄めかされていた。うまく言い表せないけれど、例えるなら、地平の先に獲物の群れを見定めた、狩人のような……。
とにかく、それは意外な表情だった。
もしかしたら──もしかしたら、緋村さんの本質は、あの穏やかな微笑みではなく、こちらなのではないか。
そんな疑念を抱きながら。
私は狩りに赴くかのようなその後ろ姿を、見送ることしかできなかった。




