私は、きっと、誰かの──
法官よ、マギイの酒にこれほど酔っても
おれの心はなおたしかだよ、君よりも。
君は人の血、おれは葡萄の血汐を吸う、
吸血の罪はどちらか、裁けよ。
私は時々、不思議に感じることがある。
学校のクラスメイトや先生たちも、昔からよくしてくれる近所のお婆ちゃんも、挨拶さえ交わしたことのない道行く人たちも……お父さんや、お祖父ちゃんでさえも──
みんながみんな、何の疑いも持たずに、自分が「自分の人生」の主人公であるかのように、生きていること。それが、私には、少し理解し難いのだ。
私のような人間の方がおかしい、ということは、もちろんわかっている。だって、本当にみんな当然のように、そうしているのだから。
けれど、私は違う。
私は、十七年も生きて来て尚、未だに自分が、人生という舞台の主演だなんて、思えた試しがない。それどころか、私は単なる脇役で、いつか舞台袖から本物の主人公が現れ、それっきり私の出番はなくなってしまうのではないか──そんな幼い妄想をして、本気で怯えることさえあった。
──病気のせいや。
私はまだ物心のつく前、大きな病気にかかり、当時は何歳まで生きられるのかさえ、わからない状態だったらしい。幸い、病気自体は小学校に入る頃には問題なくなったのだけど、それからも体調を崩しがちで、何度も入退院を繰り返して来た。
そうした人生の「ブランク」が多いからこそ、余計に卑屈なことを考えてしまうのだろう。
──あるいは。
あるいは、あの記憶のせいなのか……。
もしも、「あれ」が夢や思い違いでないのなら。
私は、きっと、誰かの──
※
《バー ディオニューソス》に一人残された私は、しばらく店内に飾られたギリシャ風の品々を眺めながら、手持ち無沙汰を誤魔化していた。が、結局それもすぐに限界を迎え、カウンター席に戻って、氷水と混ざったオレンジジュースを啜る。グラスを置き、頬杖を突いた私は、多少の恨めしさを込めつつ、右手に見える縦長の窓の向こうへ、視線を投じた。
バーの前では、こちらに背を向けた緋村さんが、煙草を吸いながら、誰かと電話で話していた。若庭さんが出て行ってすぐ、緋村さんまでもが、通話に応じる為、外へ出てしまったのだ。
店の中にいるので当然声は届かないが、何やら長々と話し込んでいるらしい。立て続けに何本も煙草を吸いながら──煙草を吸う人って、みんなあんな体に悪そうな吸い方するん?──、もう三十分以上もああしている。
気がつけば、私は少し、むくれっ面になっていた。子供っぽいと言われそうだが、疎外感を覚えて。
しかし、緋村さんたちが私に何かを伏せていることは、確実だろう。いつの間にか、宗介会長から廃屋の鍵を預かっていたみたいだし。
──いったい何を隠してはるんですか? 緋村センセ。
黒いジャケットを羽織った背中に、問いかける。すると、こちらの念が通じたわけでもないだろうに、緋村さんはようやく通話を終えたらしく、スマホと携帯灰皿をしまった。
間もなく、緋村さんは戻って来た──どことなく、満足げに見える表情で。
「悪いな、待たせちまって」前にも聞いた覚えのある言葉だ。あれは、そう、動物園でのことだったか。
「そういえば、若庭、なかなか戻って来ねえな」
「確かに、ちょっと遅いですね」
廃屋に置き忘れてしまったボールペンを取って来るだけにしては、やけに時間がかかりすぎている。
緋村さんは一転、訝しげな顔つきへと変わり、首筋を掻いた。
「……仕方ねえ、様子を見に行くか。悪いが、少しここで」
「あ、私も一緒に行きます」
またしても待ち惚けを食らうのはご免だ。若庭さんが何故遅れているのかも気になるし、何よりこの薄気味悪い町の中で、完全に一人きりにされるのが、怖かった。
緋村さんは意外そうに片眉を吊り上げたが、それでも聞き入れてくれた。
「平気か?」
「は、はい。──ありがとうございます」
丘の斜面に造られた階段をどうにか上りきり、私は息を整えながら、緋村さんに答える。初めて授業を受けた時は、終始むすりとしていたこともあって、冷淡な人だと思っていたけれど……実際の緋村さんは、意外と優しいというか、紳士的な人だった。それだけ私が気を遣わせてしまっている、とも言えるが。
私たちは廃屋の前に立ち、緋村さんがドアノブを捻る──が、鍵がかかっていたらしい。
「いねえのかな」緋村さんは眉皺を刻み込み、怪訝そうに呟く。
それから、家の中に呼びかけてみたが、若庭さんの返答はなく、廃屋はヒッソリと静まり返っていた。廃屋なのだから、本来であればそれが当たり前のことだけど──中には誰もいないようだ。
「別のところに移動したんでしょうか?」
「……かもな」
しかし、それならば若庭さんは、どこへ行ってしまったのだろう?
「電話してみる」とだけ言って、緋村さんはスマートフォンを取り出す。──若庭さんは、通話に応じてくれなかった。呼び出し音は鳴っていたが、繋がらなかったそうだ。
緋村さんがメッセージを送信したのち、私たちは念の為、廃屋の周辺を見て回ることにした。
建物のすぐ後ろは崖になっている為、もし転落てしまったのであれば、大変だ。私はおっかなびっくり崖下を覗き込んでみたが、目に見える限り、誰かが倒れているようなことはなかった。足を滑らせたのであれば、必ずそれらしい痕跡が残るはずで、そういったものが見受けられない以上、やはり、滑落してしまった心配はなさそうだ。
もしかしたら、帰る途中で寄り道しているだけで、私たちは入れ違いになったのかも知れない。少なくとも、この近くにいないことだけは、確かだろう。
私たちは、一度町の方へ引き返すことにした──のだが、階段の方へ向かいかけた時、不意に、緋村さんが足を止める。
その視線の先には、風車があった。
まさか、あの中に若庭さんがいると、考えているのか。
私が問うよりも先に、緋村さんはずんずんと歩き出してしまう。私は慌ててその後に続き、風車へと近づいた。
風車の壁には、確かに中へ入る為の扉が設えてある。が、しかし、こちらもシッカリと施錠されていた。
緋村さんはさも不服そうに、閉じた掛け金にぶら下がる南京錠を、睨みつけた。それから、扉のノブに手を伸ばしかけ、すぐさまかぶりを振る。
「……引き返すか。どうせ、その辺をうろついてるだけだろう。落としたものを取って来ることもできねえなんて、犬の方がまだ利口だな」
容赦のない苦言を口にしながらも、緋村さんの顔には、幽かな焦慮が見て取れた。辛辣な言葉とは裏腹に、本心では、若庭さんの身を案じているらしい。
これまでも度々感じていたことだけど、なんだかんだ言って、二人は仲がいい。親友と呼べるような友達のいない私は、少なからず、羨ましく感じた。
それから私たちは、しばらく町の中を歩き回ってみたのだが……若庭さんを見つけることは、できなかった。もちろん、分かれ道が多く、入り組んだ造りである為、気づかないうちにすれ違ってしまった可能性はある。
というわけで、小休憩がてら、一度紅二さんのバーへ戻ることになった。
私たちは町の入り口側の通りから、バーの目の前にある広場に出る。すると、ちょうど反対側──先ほどいた丘のある側──からやって来たらしい、宗介会長と蒼一社長の父子に、出会った。
「若庭のこと、見かけていませんか?」
緋村さんが真っ先に尋ねた。二人は揃って首を振る。
「いいえ。はぐれてしまわれたのですか?」と、会長が訊き返した。
「ええ。忘れ物を取りに行くと言って出て行ったきり、戻って来ないんです。廃屋の近くや、町の中を探してみたのですが、見当たらなくて」
「廃屋といえば、先ほどこれを拾ったのですが」
宗介会長が上着のポケットから取り出したのは、廃屋の鍵だった。
「どこで拾われたのですか?」
「あの通りの途中です」宗介会長は、広場に繋がる細い通りの一つを、振り返る。「てっきり緋村さんが落とされたのかと思ったのですが、もしかして……」
「若庭に預けていました。彼が忘れ物をしたのは、あの廃屋だったので」
それなのに、鍵は通りに落ちていたらしい。
果たして、若庭さんは廃屋へ辿り着く前に、鍵を落としたのか、それとも用事を済ませ、戻る途中だったのか……。
「念の為、廃屋の中を見て来ます。もう一度、鍵を貸していただけますか?」
「それは構いません。ただ……」
会長は目配せでもするように、隣りに目線を送る。
これを受けた蒼一社長は、すぐさま頷き返し、
「私が一緒に行って来るよ。父さんは、先に屋敷へ戻っていてくれ。疲れただろ?」
「……すまないが、そうさせてもらうよ」
宗介会長から鍵を受け取った緋村さんは、しかし礼を述べるでもなく、口を噤んだまま、ジッとどこかを見つめていた。
そして、唐突に、
「どこかお怪我をさているのですか?」
意味不明な問いを、おそらくは会長に向けて、放つ。
「い、いいえ……どうして、そう思われたのですか?」
「すみません、勘違いだったようです。ただ、袖口に血のようなシミがついていたものですから」
指摘された会長はハッとした様子で、右の袖口に目を向ける。実際にシミがあったのかどうか、私のいる場所からはわからなかった。ただ、宗介会長も蒼一社長も、少なからず動揺しているように見えたので、全くの見間違いというわけでもなさそうだ。
「……おそらく、以前手の甲を擦りむいた時に、ついたのでしょう。恥ずかしいので、部屋で着替えて参ります」
宗介会長は私と緋村さんに会釈を寄越し、すぐにお屋敷へ向けて、歩き出してしまった。
またしても急な階段を登り、丘の上に立つ。緋村さんが鍵を開け、私たちは再び廃屋に──私の母が死んだ家の中に、足を踏み入れた。
廊下からリビングに入ってすぐ、緋村さんは何かを見つけたらしく、テーブルの傍らに屈み込む。
ほどなくして立ち上がった緋村さんの手には、黒いノック式のボールペンが握られていた。ボールペン自体はごくありふれた品だが、若葉マークを模した小さなシールが貼られているのが特徴的だ。おそらく、苗字とかけた洒落なのだろうけど、意外とお茶目なことをする。
「そのペンは?」蒼一社長が問いかける。
「若庭の落し物です。彼は、このペンを取りに行くと言っていました」
それなのに、ボールペンだけがここに置きっ放ということは……どうやら若庭さんは、この家には入っていないらしい。
「…………」
少しの間、無言で若葉マークのボールペンを見つめたのち、緋村さんは、それを上着のポケットにしまった。
それから、一階部分の他の部屋も見てみたのだが、全て空振りに終わる。また、二階へ上る階段には埃が積もっており、ところどころに蜘蛛の巣が張っていた為、上の階に誰かが立ち入った可能性は、考えられない。
結局見つけられたのは、ボールペン一本のみ。若庭さんとは会えないまま、私たちはすぐに廃屋を出た。
「風車の扉ですが、普段から施錠しているんですよね?」
外に出た直後、緋村さんが、風車を顎で指しながら尋ねる。
「ああ。昔は鍵なんてついていなかったんだがね。聖子さんが亡くなった後で、南京錠を取りつけたんだ。心許なくはあるが、一応防犯対策として」
「なるほど。……確か、風車の床下には、洞窟に繋がる階段があるのだとか。会長から、そう伺っています」
風車のある場所には、元々は離れが建っており、その頃から、洞窟に下りる為の入口が、設置されているのだったか。だからこそ、三十年前の事件の時、私の祖父──かも知れない人は、凶手から逃れるべく、離れに逃げ込んだ。会長は、そう仰っていた。
「あの南京錠の鍵も、やはり屋敷で保管されているのですか?」
「……いや。以前はそうしていたんだが、数年ほど前に紛失してしまった。だから、今は開かずの扉になっているよ。まあ、中には何かもないし、特に困ることもないから、そのまま放置しているわけだ」
その言葉を信じるのであれば、こちらも若庭さんの件とは無関係のようだ。
そんな風に考えた矢先、
「数年前、ですか。それにしては──とても真新しいものに見えますね。南京錠も、掛け金も。ほとんど汚れていませんし……まるで、ごく最近取りつけたようだ」
「……私が嘘を吐いている、と言いたいのか?」
「そんなつもりはありません。ですが、もう一つ、気になることがあります」
「気になること?」
「ええ。先ほど風車の扉を確認した時に、気づいたんですがね。やけに綺麗だったんですよ。扉のノブが。鍵が紛失していることを抜きにしても、頻繁に人の出入りするような場所とは思えません。それなのに、砂埃がほとんど付着していなかったということは……最近になって、誰かがノブに触れたのかと。もちろん、僕が確かめるより前に」
私はあまり気にかけていなかったので、記憶にないが……緋村さんが言うのであれば、そうだったのだろう。そして、確かにこれは、少なからず奇妙な点だ。
それこそ、あんな場所に手を触れる理由がわからない。
蒼一社長も同じように考えたのか、一瞬、顔を強張らせるのがわかった。
「……君の見間違いという可能性は? あるいは、由井夫妻のどちらかが、掃除してくれたのかも知れない」
「しかし、厨房以外は掃除しないよう、言いつけていたのではありませんか? 確か、アイスティーを運んで来た後で、奥さんの方の由井さんが、そんな風に言っていたと、記憶しています」
例により、私は覚えていなかった。が、わざわざこんな場所に建つ風車の、それもドアノブのみを掃除するだなんて、確かに不自然だ。
「もしよろしければ──あの南京錠、壊しても構いませんか? どうしても、風車の中を見てみたいのですが」
何気ない口調で、緋村さんは、とんでもないことを言い出した。まさか、先ほどの社長の話を聞いていなかったわけではあるまいに。
蒼一社長も喫驚した様子だった──が、すぐに驚愕の表情は消え、代わりに仄かな憤慨の色が、その顔に滲み出す。
「そのようなこと、許可するはずがないだろう。この町は、私の母の為に、祖父が造らせたものだ。我々一族にとっても、かけがえのない保養地となっている。たかが鍵一つ、と思うかも知れないが……君のような部外者に、好き勝手させるわけにはいかないのだよ」
「そう仰る割に、煙草に関しては、ずいぶんとご寛大なのですね。『この町の中ではどこでも自由に吸ってもらって構わない』と、許可してくださったではありませんか」
「それとこれとは、話が別だ。だいたい、君はどういうわけか、天国洞の中に若庭くんがいると決めつけているようだが……そんなことは、絶対にあり得ない。今も説明したとおり、数年前に鍵をなくして以来、風車の扉は開かないんだ。……それとも、まさかこの私が彼を洞窟に閉じ込めて、そのことを隠しているとでも?」
「……率直に言って、そう考えるのが、最も妥当に思えます」
「心外だな。私がそんな野蛮な行いをする人間に、見えるというのか」
「いいえ。ですが、公正明大とも思えません。少なくとも、聖子さんの件に関しては、みなさんで口裏を合わせて、大して言葉を交わしていないことにしてました」
「その程度の嘘で、誘拐犯にされてしまっては敵わないよ。あれはあくまでも、余計な疑いを持たれない為に、そうしただけで」
「先ほど、蒼一社長と宗介会長は、この丘の方からやって来ましたね? お二人とも、本当は少し前まで、天国洞に下りていたのでは? 意識を奪うなりして対抗できなくした若庭を、運び込む為に。
そして、無事に運搬作業を終え、風車から出て来ようとしたところで、若庭を探しに来た我々と、鉢合わせそうになった。お二人は、一旦風車の中に留まり、我々が去るのを待ってから、少し時間を置いて町に戻ったわけです。
あるいは、宗介会長も一緒だったからこそ、あの急な階段を下りるのに時間がかかった、とも考えられます。無論、道中廃屋の鍵を拾ったというのも嘘。本当は、若庭から奪い取ったのでは?」
平板な口調でいて、反論を挟み込む余地を与えないかのように、緋村さんは捲し立てる。確かに、筋は通っている。通ってはいるのだけど……。
全く証拠もないのに、そこまで言いきってしまうのは、やはり早計だろう。何より、宗介会長や蒼一社長のような社会的地位のある人間が、人攫いの真似事をするだなんて、容易には受け入れ難い。
当然ながら、蒼一社長はたいそう気分を害してしまったらしい。今や忌々しい存在に向ける眼差しを、隠そうともしなかった。
「話にならんな。小説に登場する名探偵にでもなったつもりか知らないが、そういう妄想は、頭の中に留めておくべきだ。特に、今みたいな、限度を超えた妄想の場合は。私だけでなく、父のことまで犯罪者扱いするなど、無礼にもほどがある」
「宗介会長の袖口に付着していた血痕は、そこまで古いものには見えませんでした。にも拘らず、会長の手に、傷痕は一切見当たらない。もしあれが、会長ご自身の血ではなく、返り血なのだとしたら……急ぐ必要がある」
言うが早いか、緋村さんは軽やかに身を翻し、そのまま風車を目指して歩き出してしまう。
「待ちなさい!」
叫び声を上げた蒼一社長は、早足で進むその背中を、慌てて追いかけた。数拍遅れて、私もそれに続く。
社長は緋村さんに追いつくと、遠慮なく彼の肩を掴み、力任せに振り向かせた。──急ブレーキをかける形でありながら、緋村さんは一切蹌踉めくことなくターンすると、仁王立ちで、相手の顔を見下ろす。
その時の緋村さんの表情は、今まで見たことがないくらい、怖しいものだった。それほど明確な激憤の焔が、青褪めた顔や、眦を尖らせた瞳に、揺らめいていた。
「……邪魔、しないでいただけますか?」
緋村さんは静かに、しかしよく響く低い声で、言う。その声音、その表情に、社長も一瞬怯んだ様子だった。
彼らは暫時、私の目の前で睨み合う。
先に視線を外したのは、蒼一社長の方だった。
「……仕方ない。どうしてもと言うのなら、鍵でも何でも壊して、洞窟に下りるといい。……ただし、その時点で、今回の滞在は終わりにしてもらう。即刻我々の元から去ることが、条件だ」
「そうですか。では、お暇させていただきます」言下に答えた緋村さんは、こちらへ目線を寄越し、「倉橋さん。そういうわけだから、申し訳ないが、旅行はこれで」
怒りによって青褪めた顔のまま、片頬だけで笑う緋村さんの声を、遮って。
「何か、勘違いしているようだな。帰るのは、君一人だ。倉橋さんには、今夜も泊まって行ってもらおう。彼女は、父が正式に招いた客人だからね。君がいようといまいと、我々はもてなすよ」
嘲笑的な表情を浮かべ、蒼一社長はそう告げた。その横顔は、大半失礼ながら、とても悪人らしいものに見えた。
「……随分と、勝手なことを仰いますね」再び、緋村さんの顔と声色に、敵愾心が滲む。
「勝手なのは、君の方だろう。それに、倉橋さんだって、町に残ることを望むはずだ。──知りたいのだろう? 母親のことを。その為にわざわざやって来たんだ。こんな中途半端なところで帰るわけにはいかない。違うかな? 倉橋さん」
まるで、私の望みを見透かすかのように、社長が語りかけて来る。
名指しされた私は──迷ってしまった。
確かに、緋村さんの推察が的中しているのであれば、一刻を争う状況かも知れない。そうでなくても若庭さんのことは心配だし、洞窟を見に行けば、何か発見がある、可能性もある。
しかし……母の死の真相は、まだ少しも解き明かせていないのだ。私は十七年前の真実が知りたい。そして、何より──
──何より、まだホンマの目的を、達成できてへん。
「あ、あの、私……」
一度迷ってしまった私は、まともな言葉を返すこともできず、まごまごと意味のないことを口にする。私は服の裾を掴みながら、二人の視線から逃れるように、顔を伏せた。
何か、言わなくては。緋村さんに、加勢しなくては。頭の中ではそうすべきだとわかっていたはずなのに。幼稚で狡猾くて弱い私は、顔を上げることすら、できなくなってしまった。
──やがて、
「……わかりました」憮然とした緋村さんの声が、聞こえて来た。「鍵を壊すのは諦めることにします。無礼を働いてしまい、申し訳ありません」
私が顔を上げると、緋村さんは社長に対し、頭を下げていた。酷く事務的な、謝辞と共に。
「いや、いいんだ。友達を心配する気持ちは、私にも、よくわかる。ただ、君は少なからず、頭に血が上っているようだ」
「反省致します。──しかし、何もせずに彼が戻って来るのを待つ、というのも落ち着きません。せめて、警察に通報して、周囲を捜索してもらいたいのですが」
「……申し訳ないが、今すぐには許可できないよ。警察沙汰になれば、それこそ痛くもない腹を探られることになる。何より、まだ若庭くんに何かあったと、決まったわけではないんだ。ここは一度、冷静になるべきではないかね? 君が一人で突っ走ったところで……最も迷惑を被るのは、彼女だと思うがね」
二人の瞳が、再び私に向けられる。なんだか、体よく脅しの道具にされたようで、あまりいい気はしなかった。
しかし、緋村さんがいつもの冷静さを欠いてしまっているのも、事実。今はひとまず、社長に従うのが賢明か。
「……では、ある程度時間が経過すれば、通報しても構わないのですね?」
「もちろんだとも。我々に後ろ暗いところなど、何もないのだから。きっと警察だって、鷺沼家の無実を、証明するだけだろう。これまでどおり、ね」
鷺沼家の威光は、国家権力でさえ屈服させる。──まさか、そこまで傲慢な考えを、本気で持っているわけではないのだろうけど……。
少なくとも、私や緋村さんのような一個人を捻り潰すくらいのことは、容易いのではないか。鷺沼家にとっては。




