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白亜の町に死す ドラマツルギー  作者: 若庭葉
第三章:白い家の惨劇
26/42

無の手筥

 十七年前、三黄彦さんが警察に語った証言をまとめると、次のようになった。

 まず、橙子さん同様資金援助を頼まれ、断ったとのこと。また、聖子さんが廃屋に留まっていた理由に関しては、一切聞かされていないという。

 ──そりゃあ、気にはなりましたけどね。でも、俺には関係あらへんし。特に迷惑を被らんかったら、何でもええかなって。

 ──それに、変な話やけど、金に困っている者同士、シンパシーを感じたってのもあります。俺もこのところ、懐が寂しくてね。そんなわけですから、せめてもの情けで、ランタンとマッチを貸してやったんすわ。ライターのオイルが切れてもうたそうで。

 また、聖子さんとのやり取りとは別に、警察はある痕跡を発見しており、そちらに関しても、聴取を行なっていた。

 その「ある痕跡」とは、()()だ。どういうわけか、廃屋の隣りに建つ()()()()()()()()()から、三黄彦さんの指紋()()が、検出されたのである。

 無論、現場内に残されていたわけではないので、事件とは関係のない可能性も高い。が、それでも警察としては、関心を寄せずにはいられなかっただろう。

 少なくとも、事件の前後、三黄彦さんが風車に入り、そこから天国洞へ下りていたことは、間違いないのだ。

 ──そうですね。確かに、俺は天国洞へ入りましたよ。ちょうど、鬼村さんが屋敷に来た後です。

 ──親父一人で帰って来たんで、あの人はどないしたんか聞いたら、まだ廃屋に居残ってるって言うもんですからね。ちょっと、様子を見に行ってみたんですよ。もちろん、親父には窘められましたけど。

 ──で、いざ廃屋まで行ってみたら、家ん中には誰もいてへんようで……なんや帰ってもうたんか思って、そのまま引き返すのもつまらんかったので、天国洞へ行くことにしたんです。

 ──なんでと言われても、特に理由はありません。強いて言えば、好きやからかな。あの鍾乳洞の空気というか、雰囲気が。

 ──やっぱり、自然の生み出す闇ん中におると、神経が張り詰めるでしょ? 夜中の山道なんかもそうですけど。それでこう、全身がゾクゾクして来て、インスピレーションが湧いて来るんすわ。伝わるかわからんけど、意識が膨張して、宇宙と溶け合うような……。

 三黄彦さんは、およそ一時間弱ほど、闇の中に佇み、宇宙と自我の境界を溶かしていたのだとか。この我流トリップによって、彼がどのような着想を得たのかは不明だが……ひとまず、風車の扉に指紋を残すことになった経緯は、わかった。

 無論、「三黄彦さんの証言が事実であるのなら」という、注釈つきだが。

 ──俺が鬼村さんと()うたんは、その後です。風車から外に出たところで、バッタリと。そこから先のことは、前に話したとおりです。

 特に聖子さんとの繋がりを感じさせる発言はなかった。が、やはり気になるのは『ルバイヤート』だ。

 三黄彦さんの昔からの愛読書だという詩集を、聖子さんが携えていたのは、本当に単なる偶然なのだろうか? もしも、そうでないのなら……二人にはやはり、何らかの「繋がり」があったと見るべきだ。

 ──俺たち全員、“無の手筥”にしまわれる運命やねんから。

 そういえば、あの言葉の意味を、尋ねそびれてしまった。俺たち──すなわち、鷺沼家の人間が、「無の手筥にしまわれる」とは、いったいどういう状態を指すのだろう?

 疑問は尽きず、思考を巡らせるうちに、次の目的地が見えて来た。


「ここが僕のバーです。まあ、ほんの趣味でやっている店というか、身内だけで酒を楽しむ為のスペースですが」

 《バー ディオニューソス》は、広場を取り囲む建物の一角に、店を構えていた。突き出した屋根の庇にかけられた木の看板には、ギリシャ語ではなく英語で店名が刻まれており、同じく木製のドアを見ると、葡萄を模った意匠が、彫られている。

 内装もオーガニックな雰囲気で、ナザール・ボンジュ──メデューサの瞳を模した魔除けのアイテム──や、店名にもなっているディオニューソスを描いた絵画、青空を背に聳えるパルテノン神殿のジグソーパズルなど、実に「それらしい」アイテムが、そこかしこに飾られていた。

 また、酒類の品揃えも豊富らしく、バーカウンターの向こうに見える棚には、様々な色形の瓶がズラリと並んでいた。どうやら先ほどの言葉は単なる謙遜に過ぎず、かなりの拘りを持って、この店を造ったようだ。

「せっかくですし、一杯呑まれますか?」

 カウンター越しに、紅二さんが尋ねて来る。無論、僕も緋村も遠慮した。

 さすがにこれは冗談だったらしく、紅二さんは、グラスに注いだオレンジジュースを振舞ってくれた。この日もよく晴れていて、喉は乾いていたのだが……どうしても、デートレイプドラッグという嫌な単語が、頭をよぎってしまう。

 加えて、先ほど三黄彦さんに渡そうとしていた、謎の錠剤のことも。あれはやはり、何らかの違法薬物だったのではないか? そして、紅二さんが、服がダボつくほど痩せているのも、薬物の影響によるものなのでは……?

 考えれば考えるほど、怪しげに思えてしまう──が、結論から言えば、要らぬ心配であった。緋村も倉橋さんも、礼を言って口をつけ、そして平然としていた。当たり前か。こんなところで堂々と薬を盛るというのも、おかしな話だし。

「で、どうですか? 課題の方は。我が家の町は、参考になりそうですか」

「ええ。お陰様で、だいぶ構想が固まって来ました」

「ならよかった。──ところで、緋村さんは本物の白亜の町を訪れたことがあると、昨日言っていましたね。どんな感じでしたか、本物は。ここもかなりうまく再現されているようですけど……やっぱり、違う部分も多いでしょう?」

「まあ、海に浮かぶ島ではなく、山の上ですからね。人が住んでいるわけでもありませんし、雰囲気は全くの別物だと思います。僕も、十年ほど前に一度訪れたきりなので、かなり記憶が薄れてしまっていますが」

「十年前というと、家族旅行で?」

 緋村は頷く。十歳かそこいらの歳に家族旅行でギリシャの観光地を訪れたわけか。もしかしなくても、緋村の実家は案外金持ちだったりするのだろうか?

「思い出話なんかあれば、聴いてみたいですね。──お二人も、興味あるでしょう?」

 今度は僕と倉橋さんが、同時に頷いた。

 緋村と知り合ってそろそろ二年が経つが、なんだかんだ彼の過去話を聴く機会というのは、貴重だった。知識を披瀝する時はやたら饒舌になるクセに、自分自身の話は、あまりしたがらないのだ。

「特に、人に話して面白いようなエピソードはありませんよ。(すこぶ)る景色が美しくて、目に映るもの全てが新鮮だったことは、よく覚えています」

「緋村さんが訪れたのは、ミコノス島なんでしたっけ? 昨日、屋敷のブーゲンビリアを見て、『本物のミコノス・タウンにもよく植えられている』と、そう言っていましたよね?」

 緋村は再び首肯する。

「けれど、ミコノス島は、ヌーディストビーチやゲイのカップルなんかが有名だと、聞いたことがあるんですが。子供を連れての家族旅行には、少々不向きじゃありませんか?」

「僕らが訪れたのは、三月──ちょうどローシーズンでした。ですから、ヌーディストどころか、他の観光客はあまりいませんでしたよ。お店もほとんど開いていませんでしたし。まあその分、純粋に景色を楽しむことができましたが」

「そうでしたか。いや、おかしなことを訊いてしまったかな」

 まったくだ。疑問に思うのもわかるが、倉橋さんのいる前で「その手の話」をするのは、むしろこちらが気まずくなる。

「とにかく、本当に綺麗な町並みでしたよ。写真を撮るのに夢中になるあまり、迷子になってしまったほどです」

「ご両親と、はぐれてしまったんですか?」

「ええ。二人とも、いつの間にかいなくなっていて」

 おそらく、「いつの間にかいなくなっていた」のは、緋村の方なのだろう。好奇心旺盛で肝の据わった子供だったであろうことは、想像に難くない。

「さぞかし心細かったでしょうね。異国の土地で家族とはぐれるなんて、大人でも不安になりますよ」

「幸い、日本語の通じる人と巡り会えたので、さほど寂しい思いをせずに済みました。両親を探すのもその人に協力してもらって……お陰で、無事に再会できたわけです。以来、その人とは一度も会っていませんが、いつか恩返しをしたいと思っています。まあ、すでに十年も経ってしまったので、叶いそうもありませんが」

 緋村にしては殊勝なことを言うものだ。いや、やたらと口が悪いだけで、案外人情深いところのあることは、僕も知っていた。

 果たして、十年越しの恩返しという緋村の望みは、叶うのか否か。それはわからないが、いずれにせよ、緋村はこれ以上、思い出話を続ける気はないらしい。

「実は、紅二さんに伺いたいことが、あるのですが」

 そこから先は、これまでと同じだった。緋村は例により、十七年前のあの日、聖子さんとの間にあったことを尋ねる。

 紅二さんはやはり意外そうな顔を見せたが、それもほんのわずかな間だけだった。そして、こちらが予想していたとおりの返答がなされる。

 すなわち、橙子さんや三黄彦さん同様、資金の援助を頼まれ、それを断った、と。

「借金の他に、話したことは?」

「特になかったと、思います。──あの、そんなことを訊いて、どうするつもりですか? まさか、あの人の死について、調べ直しているわけじゃありませんよね?」

「ただの興味本位ですよ。ところで、橙子さんと三黄彦さんも、聖子さんと話す機会があったそうですね。みなさんはどういう順番で聖子さんと会ったか、ご存知ありませんか?」

 紅二さんは渋面を深め、首筋を掻いた。必死に記憶を辿っているようにも見えるし、涼しい顔を浮かべる緋村に、苛立っているようにも見える。

「……覚えていません。いや、わかりようがないと言うべきか。そんなこと、今まで気にしたこともなかった」

「聖子さんは、何か荷物を持っていましたか?」

「リュックを背負っていたはずです。たぶん」

「聖子さんとは、このバーの準備をされている時に、お会いになったんでしたね? その際、聖子さんにお酒やつまみを振舞ったりは」

「しませんでしたよ。薄情に思われるかも知れませんが、初めて会った人です。もてなす義理もないでしょう。……まあ、あんなことになると知っていたら、もう少し優しくしあげたとは、思いますが」

「その割に、同じく初対面の我々には、ずいぶん親切にしてくださいますね」

「それは……正式に、父が招いた客ですから」

「では、橘さんは? 十七年前、このバーにお招きになりましたか?」

「ええ。でも、一、二杯呑んだらすぐに帰られたと思います。あの人は、半分仕事で来ていたようなもんですからね。落ち着かんかったんでしょう。そんなご様子でしたよ」

「その時、橘さんは聖子さんに関して、何か言っていませんでしたか? あるいは、みなさんの方から、聖子さんのことを話題に上げたりは?」

 どちらもなかった、と紅二さんは答えた。その頃には、みな聖子さんのことなど忘れ、歓談に興じていたらしい。

 やはり、紅二さんの受け答えも、他の人同様、十七年前の証言を、なぞる内容に過ぎない。

 ただし、一つ違いがあるとすれば、聖子さんの死に対する感想が、抜け落ちていることだ。

 ──なんというか、もったいないことだと思いました。まだまだ若かったでしょうし、あれだけの美人ですからね。借金だって、時間をかければ、返せたかも知れない。

 ──ホント、惜しいことをしたものです。

 特段、おかしなことを言っているわけではない。が、しかし、それでも気になってしまうのは、紅二さんが、聖子さんの美貌について、強調しているせいか。

 若くして亡くなった美人に対する、下心というか、助平心が、透けて見えるようで……。

「少し話は逸れますが、昨日のバーベキューの席で、三黄彦さんがこんなことを仰っていたと思います。『俺たち全員、無の手筥にしまわれる運命なんだから』と。あれは、どういう意味だったのでしょう? みなさんのリアクションを見るに、ただ『ルバイヤート』の一節を引用しただけ、とは思えないのですが」

 発言した本人に尋ねられなかった疑問を、緋村が口にする。

「さ、さあ? 僕にもよくわかりませんね。まあでも、酔っ払いの発言ですし。意味なんて、ないんじゃないかな。気にするだけ、無駄だと思いますよ。あいつ自身、もう覚えてないだろうし」

「……もしかして、先ほど三黄彦さんが取り乱した理由や、『万事予定どおり』という言葉とも、繋がっているのでは?」

 紅二さんは、絶句した。

 適切な返答を見つけられなかったのか、血色の悪い唇をわずかに動かしたものの、声にはならず、生唾を呑むのがわかった。どうやら、緋村の指摘は的外れなものではなかった──どころか、核心を突いているらしい。

 問題は、結局のところそれらの言動が、何を指し示しているのか、だ。

 紅二さんはそのまま目を伏せ、緋村も口を噤んだまま、相手の姿を観察する。僕と倉橋さんは、ただ二人の様子を見守っていることしかできず、BGMのない店内に、奇妙な沈黙が訪れた。

 ──その静寂を打ち破ったのは、無機質な振動音。

「ちょっと、すみません」

 紅二さんは、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出すと、僕らに背を向けて、通話に応じた。

「……了解。すぐに向かうよ」

 短いやり取りを終えた彼は、電話を切り、再びこちらに向き直る。何やら、急用が入ったらしい。

「少し出かけなくてはならなくなりました。申し訳ないんですが、話の続きはまた今度にさせてください。──えっと、今晩も泊まっていきますよね?」

 そういえば、いつまでこの町に滞在するか、まだ決めていなかった。

「みなさんさえよろしければ、お世話になりたいと思います」

 倉橋さんが、まっさきに答える。まさか、聖子さんの死の真相を突き止めるまで、テコでも動かないつもりじゃあるまいな。

「あと一晩だけにしよう。遅くとも、明日の午前中には帰る。いいな?」

 反論を許さないような口調で、緋村が言う。倉橋さんが、それで本当に納得できたかどうかは、僕にはわからなかった。

「非常に厚かましい限りですが、構いませんか?」

「我々は大歓迎ですよ。時間の許す限りは、ね」

 かくして、滞在期間を延長することが決まった。改めて礼を述べると、

「いえいえ。むしろ、お引止めしてしまって申し訳ないくらいです。……本当に」

 最後の一言だけ、声のトーンが沈んだように聞こえた。

「──と、そろそろ行かないと。店はこのままで大丈夫ですので、みなさんは好きなタイミングで出てくださいね」

「施錠しなくていいんですか?」

「こんな立地じゃ泥棒に入られることもありませんから。大して値の張る物も置いていませんし。もちろん、みなさんのことを信頼している、というのもあります」

 本当に、どうしてここまで親切にしてくれるのだろうか。何か隠れた思惑があるようで、『注文の多い料理店』めいた不気味さすら覚える。

「では、僕はこれで。課題、頑張ってくださいね」

 紅二さんは本当に店を開けたまま、出かけてしまった。不用心だとは思うが、店主がいいと言うのだから、まあいいか。


 それからしばらく──十分ほどだろうか。特に調査とは関係のない雑談が続いた。

「さっき言ってた『幽霊が出る』ってのは、どういう意味なんだ?」

 緋村が倉橋さんに尋ねた。そういえば、昨晩天道さんと出会った時、緋村は一人離れたところで、煙草を吸っていたのだったか。

「昨日の夜、天道さんから聞かされたんです。『夜になると、三十年前に殺された女の人の幽霊が出る』って」

「ふうん、あの人がそんなことをねぇ」

 緋村は興味をそそられたらしく、口許に右手を持って行く。対して、倉橋さんは眉根を寄せて、少しだけむくれていた。彼女にしてみれば、自分の祖母かも知れない女性の霊が出ると言われたのだ。あまりいい気分ではなかっただろう。

 会話が途切れてしまった。仕方がないので、この辺りで一度、聴取して来た内容を書き留めることにする。

 僕はボディバッグからメモ帳を引っ張り出した──ところで、あることに気がつく。

「……あれ? おかしいな」

「何がだ?」

 口許を隠していた手を放し、緋村が尋ねて寄越す。

「あ、いや、大したことじゃないんだけど……ボールペンが見当たらなくて。メモ帳と一緒にしまったはずなんだけどな」

 バッグの中を漁ってみたが、やはり見当たらない。いったいどこへやってしまったのか。最後にペンを使ったのは、確か──

「あっ、あの時か。さっき廃屋でしりょ」

 資料を読んでいた時、と口走りそうになって、慌てて言葉を呑み込む。幸い、倉橋さんは「しりょ?」と不思議そうに小首を傾げただけで、僕と緋村の隠し事までは、思い至らなかった──はずだ。

 何にしても、なくしたタイミングは見当がついた。廃屋で紅二さんに声をかけられた際、慌てていたあまりしまい忘れたか、床に落としたことに、気がつかなかったのだろう。

「し──思慮が足りなくて、廃屋に置いて来たんだな、うん。取りに行って来るから、鍵、貸してくれよ」

「……一人で平気か?」

 意外な言葉が寄越された。当たり前だ。子供じゃあるまいし。

「平気に決まってるだろ。まだ明るいし、天道さん曰く、怪談話もデマみたいだし。まあ、元から信じてないけど」

「なら、構わねえが……」

 いったい何を心配しているのやら。おかしな奴だと思いつつ、僕は緋村から廃屋の鍵を受け取る。

「じゃ、行って来るよ」

「ああ。気をつけてな」

 短いやり取りを交わし、僕は《バー ディオニューソス》を出発した。


 あまり待たせるのも悪いし、さっさと用事を済ませて帰らねば。僕は迷路のように入り組んだ白亜の町を進み、急な石の階段を登って、廃屋のある丘の上に至る。軽く息を整えてから、まっすぐに目的の建物へ向かい──かけたところで、足が止まる。

 視界の端に映った風車の扉が、薄く開いていることに、気がついたのだ。

 誰かが風車の中にいるらしい。しかし、いったい誰が、何をしているのだろう?

 どうしても好奇心が抑えられず、僕は進路を変更し、先に風車へ寄って行くことにする。すぐにペンを取って帰るつもりだったが、まあ、多少の寄り道くらい許されるだろう。

 二段だけの短い階段を上がり、僕は戸口に立った。扉を施錠するのに使われていた南京錠が、掛け金を開いた状態で、壁側の金具に引っかけられている。

 何と声をかけるべきか考えてみたが、適切な言葉は浮かばず。僕は「失礼しまーす」といい加減なことを言いながら、扉を開けて、中を覗き込んだ。

「──あれ?」

 豈図らんや、そこには誰の姿もなかった。

 それどころか、ロクにものがない。本当に外観だけで、風車としての機能は有していないらしい。

 天井から豆電球がぶら下がっていることから、一応電気は通っているのだろう。今は灯りは点いておらず、外から差し込む陽射しだけが、無機質な剥き出しのコンクリートの床と壁を、照らしていた。

 そして、その四角形の光の中に、僕は予想外のものを見た。

 それは、さながら蓋を取っ払ったマンホールのような具合で──実際、円形の蓋が、その「穴」の傍らに置かれていた──、地下へ続く階段の入り口が、仄暗い口を開き、待ち構えているのだ。

 ──あの向こうは、天国洞か……。

 鍾乳洞の中を探索してみたいという欲求が、再び湧き上がって来た──とまでは言わないが、またしても、好奇心が刺激された。僕はまるで、何者かの呼び声に導かれるように、自然と風車の中へ、足を踏み入れる。

 生温い風が、地下から吹き込んで来るように感じた。それから、よくわからないが、幽かな「臭い」も。これが、鍾乳洞の香りなのだろうか?

 僕は立ち止まり、闇に呑まれて行く階段を見下ろす──と、同時に、今度は別のものが、視界の端に映り込む。

 思わず右手の方へ視線を動かすと、地下への入り口から、二、三メートルほど離れた壁際に、何か赤い物体が転がっていた。あれは──()()()か。

 誰かが落として行ったのだろうか? 気になった僕は、壁際に向かい、その赤い帽子を拾い上げる。

 前立てに刺繍されたイニシャルは、「H」。あまりスポーツには明るくないが、確かメジャーリーグのハンターズという球団の帽子が、こんなデザインだったような……。

 その野球帽は、全体的に薄汚れており──そもそも年季の入った品で、所々に糸のほつれた箇所や、小さな傷が見受けられた──、ほんのりと湿ったような手触りがあった。

 どつやら、誰かがここに落として行ってから、ある程度時間が経過しているようだ。そんな風に考えつつ、帽子を裏返す。

 その瞬間、僕は思わず息を呑んだ。

 帽子の内側に、()()()としか思えないような、赤褐色のシミが付着していたからだ。

 本当にそれが血痕だとすれば、それなりの量の出血があったはずで、よくよく見てみれば、シミは帽子の表面や()()にまで、点々と飛び散っていた。いったい、この野球帽の持ち主に、何があったのか──

「そこで何をしている?」

 それは至って静かな声音だったが、帽子に気を取られていた僕の不意を衝くには、十分すぎるものだった。

 思わず飛び上がりそうになるのを堪え、心臓が早鐘を打つ痛みを感じながら、僕は背後を振り返る。

 戸口から、蒼一社長がこちらを見据えていた。逆光を背に佇立する社長の姿は、不思議なことに、たった今初めて出会った人物のように、僕には見えた。

「……それは」社長の視線が、僕の顔から、手に持っているものへと移るのが、わかった。

「──あ、えっと、そこに落ちていたんです。だ、誰のものか、心当たりはありませんか?」

 自分でも情けなく思うほど怯えた声で言い、僕は社長に、赤い野球帽を見せる。

 蒼一社長は、ほんの一瞬だけ瞠若したらしかった。が、すぐにその感情は引っ込んでしまう。

 かと思うと、一転して穏やかな微笑が現れたものだから、かえって怖ろしかった。

「ああ、私の友人の帽子だ。以前、この町に遊びに来た時に、忘れて行ったんだろう。今度会ったら、返しておくよ」

「こんなところに、ですか? それに、何か血の跡のような汚れが、ついているんですが……」

「彼は学者なのもあって、好奇心旺盛でね。天国洞へ探索に出かけようとしたところで、階段を踏み外してしまったらしい。頭から血が出ていたが、幸い軽い怪我で済んだようだ。今も元気にしているよ」

 本当だろうか? いや、積極的に疑う理由もないのだが……なんだか、「含み」のある言葉のように、聞こえてしまう。

「ところで、見たところ一人のようだが……君はここで、何をしていたんだ?」

 僕はひとまず、事情を説明した。廃屋に忘れ物を取りに来たのだ、と。

「……そうだったのか。忘れ物は、もう見つかったのかな?」

「あ、いえ。これからです。あの家に向かう途中で、風車の扉が開いているのに気づいて、思わず中に入ってしまいました」

「なるほど。しかし、鍵はどうするつもりなんだ? 当然ながら、平時は施錠されているのだが」

「廃屋の鍵でしたら、先ほど宗介会長が、貸してくださって」

「ほう、父が。……しかし、それは妙だな。ちょうど今、()()()()()()()()()()()()()んだよ。もう一つの鍵は、とうの昔に紛失してしまったのだが……君が借りたという鍵は、いったいどこから出て来たんだろうね」

 ──しまった! そう思った時には遅かった。こちらを見つめる蒼一社長は、表情こそ変わっていないものの、その眼差しや瞳の色は、ひどく冷淡で油断のないものに、変わっていた。

 必死に誤魔化す術を模索するも、咄嗟のことで妙案など浮かぶはずもなく。返事(こたえ)に窮した僕は、ただ逃れるように目を逸らし、「いや、あのぉ」と、意味のない声を発するだけが、関の山だった。

「どうしたのかな? 私の質問に、答えられない事情でもあるのかい?」

 まるで、自分の遥か頭上から降って来るような言葉だった。僕は誰かの帽子を握り締めたまま、すっかり縮み上がっていたのだが──

 その時、意外な人物が、助太刀してくれた。

「……若庭さんたちにお貸しした鍵は、瑠璃子の遺品から出て来たものだ」

 威厳溢れる嗄れ声を聞き、僕はハッとなって顔を上げる。戸口では、蒼一社長が肩越しに、声の主を振り返るところだった。

 直後、その体の向こうに現れたのは、彼の父──宗介会長である。

「……母さんの? そんな話、聞いていない」

「伝える必要がないと判断した。実際、お前も今の今まで、廃屋の鍵など、気にしていなかったじゃないか」

「……つくづく勝手な人だ。だいたい、我々家族には隠しておきながら、部外者に貸し出すだなんて」

「何の問題がある? 見られて困るようなものなど、あの家には何も残っていないだろうに」

 蒼一社長は口を噤む。こちらからは、その表情までは見えないが……忌々しげに顔をしかめている姿が、容易に思い浮かんだ。

「……わかった。あなたの好きにするがいい。どうせ私が何を言っても、無駄なのだろう」

 捨て台詞とも取れる言葉を残し、蒼一社長はその場から離れ、見えなくなった。息子の姿を見送った宗介会長は、皺だらけの石のような面持ちのまま、風車の中に入って来る。

 後ろ手を組んで。

「……倅が無礼を働きましたね。怖がらせてしまい、申し訳ございません」

「い、いえ、会長に謝っていただくことでは……あの、こちらこそ、鍵のことを喋ってしまい、すみませんでした」

「いいんですよ。遅かれ早かれ、家の者にはバレていたでしょうから。──おや?」

 会長の顔に、突如として喫驚の表情が浮かぶ。

「なんですか? それは」

 その視線は僕を通り越した先に向けられているようだった。

「えっ?」思わず声を上げ、僕は振り返る。

 そこには──なにもない。ただ、薄汚れたコンクリートの壁が広がるばかりで、特筆すべきものは、何一つ見当たらなかった。

 いつたい、宗介会長は、何を見て驚いたのだろう? 僕は困惑しつつ、再び彼の方へ顔を向けた。


 次の瞬間、僕の視界に映り込んだのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()姿()()()()


 僕は──悲鳴を上げるどころか、何が起きているのかを理解する間もなく、悪鬼めいた老人の顔を見たと思った次の瞬間には、強い衝撃の為にもんどり打って、滅茶苦茶に体を捻りながら、床に倒れ込んでいた。

 無論、そんな自分の姿を思い浮かべる余裕すらない。

 大脳が小脳や(きょう)と言った部位から切り離され、頭蓋の内側を跳ね回るような、体験した覚えのない感覚に、翻弄される。視界はチカチカと明滅し、じきに血が目を入り、瞼を開けていられなくなった。

 数巡遅れて、右側頭部を震源にした鈍い痛みを知覚する。僕は必死にその場から逃げ出そうと、コンクリートの上でもがいた。

 そこへ、容赦のない追撃──会長は僕の背中に馬乗りになり、二発、三発と、何度も何度も執拗に、鈍器で殴りつけて来た。無論、こちらも必死の抵抗を試みはしたが、最初の一撃をまともに喰らってしまったのが、よくなかったらしい。どれだけ身を捩り、両手両脚を振り回そうと、華奢な老人一人退けることすら、叶わなかった。

「※※※※※※※※!」

「黙りなさい!」

 二つの異なる怒号を、耳にした──ような気がした。

 その刹那。

 僕の意識はあっけなく途切れ、永遠に思えるほど深い闇の底へ、沈み込む。

「舞台」からの、退場。

 この僕──若庭葉は、他の登場人物より一足先に、「無の手筥」へとしまわれた。

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