作家は、悪にならなくちゃいけない
礼拝堂を出た僕たちは、次に三黄彦さんの待つ「映画館」へと、向かう予定となっていた。しかし、その前に、僕にはどうしても、確かめておきたいことがあった。
「橘さん。本当はあなたも、聖子さんと会っていたんですよね?」
思い切って、ストレートに尋ねてみる。橘さんは、一瞬だけ驚いたように目を瞠ったが、すぐに警戒心を浮かべた顔で、こちらを見返した。
「……もしかして、宗介会長から?」
「そうです。先ほど緋村が橙子さんにしたのと、同じ質問をさせてください。その時、どのようなやり取りがあったのか、聖子さんの様子はどうだったか。教えていただけますか?」
例により、警察への証言は、資料を読んで知っていた。が、それでも、直接話を聴いてみたかった。
「……どうして、そんなことを知りたがるんでしょう? 橙子さんの時にも思いましたけど、まるで事情聴取をしているみたい。やっぱり、みなさんはあの女性──鬼村聖子さんの、関係者なんですね」
本当は、倉橋さんと聖子さんの関係も全て知っていながら、惚けているのではないか? そう言いたくなるのを堪える。
僕は否定も肯定もしなかった。勝手に答えてしまうのもまずいだろうと考えて。しかし、倉橋さんの判断は、違ったらしい。
「鬼村聖子は、私の母です。私も昨日、初めて知りましたけど」
「……そう、ですか」
「お願いします、橘さん。十七年前のことを、私たちに教えてください。少しでも、母のことを知りたいんです」
鳶色の澄んだ瞳が訴えかけるように、橘さんの姿を見つめる。芸能マネージャーの表情に、再び動揺の色が現れた。かと思うと、橘さんは耐えきれないとばかりに、顔を伏せてしまう。
逡巡か、それとも完全に黙秘するという意思表示か。僕はどうにかして、返事を促すことはできないかと、懸命に言葉を探った……が、結果として、それは必要のない努力だった。
「……大したお話はできませんよ。鬼村さんとは、ロクに口も効いていませんし。ただ、シャワーとお手洗いをお貸ししただけです」
そう。橘さんは警察に対しても、そのように証言している。
そして、犯人を除いた場合、聖子さんと最後に会った人間は、橘さんだった。
「それは、何時頃のことですか?」
既知のことを、緋村が尋ねる。
「午後、蒼一社長との面談が終わった後と、二十時頃。それから二十二時頃の、三回です。最後にお見えになった時に、シャワーもお貸ししました」
こちらも資料に記載されていた証言と、合致していた。
「その時、母は何か言っていませんでしたか?」
「……昔、この町で暮らしていた、という話は聞きました。ですが借金のことや、鷺沼家のみなさんとの関係については、何も。廃屋で一晩過ごすつもりだと仰っていたので、どうしてそんなことをするのか尋ねたんですけど、答えをはぐらかされてしまいました」
それから橘さんは、やはり警察に伝えたのと同様の言葉を続けた。「自ら命を絶つほど追い詰められている、という様子はありませんでした。ただ、私にはそう見えたというだけで、何もかも諦め切っていたのかも知れません」と。
橘さんの姿を、例により口許を隠しながら観察していた緋村が、ここで口を挟む。
「念の為、確認させてください。橘さんと聖子さんは、それまでは面識がなかった、ということでよろしいですね?」
「はい。あの日が初対面です」
「では、どうして鷺沼家のお屋敷ではなく、橘さんのところで、シャワーや手洗いを借りることにしたのでしょう?」
「それは……たぶん、あの廃屋から一番近い位置にあったからじゃないかしら。ちょうど、今回貸してもらっている家と同じだったので。あとは、やっぱり同性ですし」
「……なるほど。言われてみれば、大して不思議なことではありませんね」
「あの……まさかとは思いますけど、私のことを疑っているんですか? 本当は、鬼村さんの死は自殺ではなく他殺で、私が彼女を殺めたと? だとしたら、的外れな考えですし、率直に言って不愉快です」
どうやら、僕と緋村に対しては、未だに警戒心を緩めていないらしい。緋村は穏やかな声色で、それを否定する。
「まさか。そう聞こえたのでしたら、謝ります。ただ、気になったことは、尋ねずにはいられない性分でして」
「……いえ。私も少し、感情的になってしまって……。でも、嘘は言っていません。昔警察に話したことも含め、全て事実です」
「嘘を吐く必要などありませんからね。そもそも、聞く限りでは、自殺としか思えない状況です」
同意を示しつつも、緋村は質問を続けた。
「ところで、もう一つだけ教えていただきたいことがあります。──最後にシャワーを借りに来た時、聖子さんは、化粧をされていましたか?」
何故そんなことを知りたがるのか。そう言いたげに、橘さんは緋村の顔を見つめ返した。正直、これに関しては、僕にも質問の意図がわからなかったし、倉橋さんにしても同様だろう。
「……ええ。確かにお化粧をされていましたよ。それが何か?」
「では、シャワーを浴びた後はどうでしたか? 聖子さんはすっぴんのまま、廃屋に帰ったのでしょうか?」
「……いいえ。私の家で髪を乾かした後、お化粧し直してから、帰って行ったはずです」
「やはり、そうでしたか。ありがとうございます。それであれば、納得できます」
「はあ」と、困惑したような声が出る。橘さんは警戒を通り越し、奇異な物体でも見るような眼差しを、緋村に向けた。
「別に、それこそ大した話ではないんですがね。聖子さんの遺体はキチンと化粧をしていたと聞かされたものですから、気になったんです。聖子さんはランタンを借りていたそうですが、その灯りだけを頼りに、暗い廃屋の中で化粧直しができるものだろうか、と。ですから、橘さんのところで化粧をし直していたと聞いて、合点がいったわけです」
本当に、なんということのない話だった──が、どこに手がかりが隠れているかわからない以上、微細な点にも注意を払うべきか。
「お役に立てたようでなによりです。けれど、できればもう、この話しはやめにしてください。亡くなった人のことを、後になってあれこれと言うのは、失礼だと思います」
「橘さんは、何に怯えているんですか?」
堪えきれず、とうとう口にしてしまった。
あまりにも辛辣な自分の声を耳にした瞬間、僕は失敗したと思った。下手に相手を刺激して、得などあるはずがない。
名指しされた橘さんも、倉橋さんも、そして緋村までもが驚いたような顔をして、こちらを見ていた。すぐさま弁明すべきか非礼を詫びるべきかと、考えを巡らせたが……いずれの言葉も思い浮かばぬうちに、橘さんが眦を決した。
「別に、私は、怯えてなんて、いません。どうしてそんな失礼なことを、あなたに言われなくてはならないの? いったい何の権限があって、そんな」
「す、すみません。ただ、礼拝堂にいる時、少し顔色が優れないように見えたので」
「そう。でしたらお気遣いは無用です。元からこういう顔色ですから」
静かな圧力というのか、橘さんは声を荒げてなどいないのに、ハッキリとした憤慨が伝わって来た。情けない僕はもう一度「すみません」と言い、低頭平身して謝罪する。
「だいたい、私は本当に、あの人とは無関係なんです。宗介会長も仰っていませんでしたか? あの日、私はお仕事の打ち合わせも兼ねて、鷺沼家のみなさんから招待していただいたんです。そんな時に人を殺すだなんて、あり得ない」
「そのお仕事というのは、やはり天道さんの?」
もはや威勢の欠片もなくなった僕のことなど、全くの無視で、緋村が尋ねる。
「ええ、そうですよ。『白亜の町に死す』の縁で、またオファーをいただいたんです」
「ということは、その時のお仕事も、ドラマ出演だったのですか?」
「本当に、妙なことばかり気になさるんですね」
怒りのピークが過ぎ去ったのか、橘さんは呆れた様子だった。
「そちらに関しては『ノー』です。十七年前にいただいたのは、舞台のお仕事でした」
「そうでしたか。ちなみに、どんな舞台だったのでしょう? オリジナルなのか、古典劇なのか……」
「それは──」
答えかけた彼女の声と、被せるように。
全く別の場所から、全く別の声が、降って来た。
「『道化師』だよ。ルッジェーロ・レオンカヴァッロのオペラ、『道化師』をオマージュした、サイコホラー風味のサスペンスさ」
まるで、その言葉自体が、何らかの劇の台詞かのようだ。
僕たちは一斉に、声の聞えた方を振り返る。すると、ほとんど同時に、白い建物の壁の向こうから、ギリシャ彫刻地味た美貌の天道さんが、姿を現した。
「琴矢くん……聞いていたの?」
「まあね。珍しく美佳ちゃんがキレてるから、面白くなっちゃって」
茶化すような口調で答えながら、天道さんはこちらに歩み寄って来た。足を止めた彼は、一瞬だけ緋村へと視線を流してから、
「このおばちゃんは、俺が連れて行くから。後は若い子たちだけで、休暇を楽しみなよ。──行こう、美佳ちゃん」
「そ、そうね……」
芸能マネージャーは、困惑とも安堵とも取れぬ表情で、頷いた。そして、すぐさまこの場から立ち去ろうとする二人を、緋村が引き止める。
「天道さんが演じられたとなると、やはり色男役者の役でしょうか? 男前ですし、とても似合いそうだ」
「そりゃどうも。……けど、残念ながらハズレだよ。俺が演ったのは、座長だ」
「へえ、それは少々意外な配役ですね。そういえば、天道さんは十七年前、この町には招待されなかったのですか?」
「今度は俺にインタビューか?──招ばれはしたけど断った。結構急な連絡だったし、美佳ちゃんさえいれば十分かなって。正直、あんまり好きじゃないんだよね。この町も、鷺沼家も」
「何故でしょう? 鷺沼家の皆さんは、とても親切ですし、ここも綺麗なところなのに」
少しも感情の伴わない声で、緋村が言った。まあ、確かに鷺沼家の人たちは、たいそう僕らをもてなしてくれている。過去の事件や裏の顔さえ知らなければ、善良そのものだ。
「別に、大した理由はないけど……悪趣味じゃん? こんな山の上に、ギリシャ風の町を造るなんてさ。風情がないと思わない?」
「まあ、仰りたいことは理解できます」
「あれだってそうだ」
天道さんは、橙子さんの礼拝堂を顎で示した。中ではまだ、橙子さんが祈りを捧げているのだろう。
「亡くなった妹さんの為だかなんだか知らないけどさ。あんなハリボテみたいなもんで鎮まる御霊なんて、ありゃしないよ。あの婆さん、昨日は『死んだ家族に感謝しろ』なんて言っていたけど……本当は怖がってるんじゃないかな。こんな町で、暢気にバカンスしてたら、妹が化けて出るって。──くだらない。お祈りなんかしなくても、とっくに成仏してるだろ。死んだら、それで終わりなんだから」
どうやら天道さんは、霊魂の存在に対して、かなり否定的な意見を持っているようだ。あるいは、昨晩夕食の席で、橙子さんから説教を食らったことを、根に持っているのか。
「……でも、昨日はこの町に幽霊が出るって、言っていましたよね?」
矛盾しているではないか、と言いたげな顔つきで、倉橋さんが尋ねる。
「ああ、あれ。俺だってあんな話、信じちゃいないよ。ただ、君らをビビらせてやろうと思ってね」
気の抜けるような返答である。倉橋さんはまだ納得できていない様子だったが、これ以上答えるつもりはないとばかりに、天道さんは顔を背けてしまった。
かと思うと、どういうわけか、俳優の視線はこちらに向けられる。
「そういえば、君ら、課題でこの町を見学してるんだっけ? 建築系の学科なの?」
天道さんが、僕や緋村の課題に興味を示すとは。少々意外に思いながら、僕は否定した。僕は文芸学科で、緋村は芸術企画学科という、具体的に何を学んでいるのかよくわからない学科に在籍している。
「ふうん……文芸ってことは、自分で小説を書いたりもするわけだ。なら、君も悪になるの?」
「悪?」
意味がわからなかった。どうして小説を書く人間=「悪になる」という図式が成り立つのか。
しかし、天道さんはそれがさも当然のことかのように、「そうさ」と頷き、
「『作家は、悪にならなくちゃいけない』んだろ? うちのクソ親父が、よく言っていたよ」
最後に、そんな格言じみたなセリフを残し。
天道さんは橘さんを連れて、今度こそ去って行った。
──作家は悪にならなくちゃいけない、か。その言葉の意味は、今のところピンと来ないが……『白亜の町に死す』の脚本を手がけた天道さんの父君にとって、何か重要な作家論──あるいは、作劇法なのだろう。
※
三黄彦さんの所有する「映画館」──正確には、家族で共有している施設だそうだが、専ら利用する機会が多いのは、やはり映画監督をしている三黄彦さんのようだ──は、鷺沼家の別邸を一回りほど小さくしたような外観をしていた。
大きな違いと言えば、屋根の上から、ブーゲンビリアが垂れ下がっていないこと。そして、全ての窓ガラスが、内側に張られた暗幕で、覆われていることか。
位置的には、先ほど訪ねた礼拝堂の更に奥──廃屋を北に見立てると、だいたい最西端に来るような場所──にあり、周囲に他の建物はなく、すぐ背後には、雑木林が広がっていた。少々物侘しい景観だ。
また、建物の前には、砂利道が横切っており、どうやら町の外にある駐車場と、繋がっているらしい。ちょうど「映画館」の隣りには、ガレージらしき建物も、併設されていた。
ちなみに、その時は、ガレージのシャッターが閉じきっており、中に車が停まっているかどうかまでは、わからなかった。
僕らはドアの前に立ち、緋村が代表してノック──しようと手を伸ばしかけた途端、ドアが開く。
「わっ⁉︎──ビックリしたぁ! そういえば、みなさん町の中を見学をするって、言うてはりましたね」
戸口に立っていたのは、由井夫人だった。驚かせてしまったのは申し訳なく思うが、それはこちらからしてみても同じことである。まさか、「映画館」からこのふくよかな夫人が、現れるとは。
「三黄彦さんのことを、訪ねていたんですか?」
中途半端に伸ばしていた右手を引っ込めつつ、緋村が尋ねる。
「ええ。あの人、朝も昼も、ご飯を召し上がらなかったでしょう? せやから、後でお腹が空いた時に食べられるようにと思って、お昼の余りを差し入れに来たんです。まだ具合がよろしくなさそうやったんで、冷蔵庫に入れて来ましたけど」
そういえば、朝食の時も昼食の時も、三黄彦さんは酷くグロッキーな様子で、ほとんど食事に手をつけていなかった。昨日の陽気さが嘘のように口数が減り、時折り呻き声を上げるのみで、まともな会話もほとんどなかったことを、思い出す。
「三黄彦さんは、我々のことを何か言ってませんでしたか?」
少々唐突に思える緋村の問いに、福々しい彼女は、キョトンとした表情を浮かべる。
「いいえ。みなさんの話どころか、挨拶すらされてませんよ」
「二日酔いですかね。昨日はかなり呑んでおられましたし」
「それと、日頃の不摂生が祟ったんやと思います。さっき冷蔵庫を開けたら、お店でも開く気なんかってくらい、鶏肉の塊がギッシリ詰まっとってね。こんなにお肉ばかり食べて、お酒をがぶ呑みしとったら、そら痩せるわけあらへんなって。呆れちゃいましたよ。……ま、体型に関しては、私も人のこと言えませんけど」
確かに、三黄彦さんは、ズボンの留め具やアロハシャツのボタンが留められないほど、太りすぎていた。やはり暴飲暴食のせいだとは思うが、それにしても、辛辣な物言いである。
おそらく、昨晩の三黄彦さんの態度を、少なからず恨んでいるのだろう。
「由井さんたちは、地元の人なんですよね? 昔、この町で人が亡くなったことがあったと思うんですけど、覚えていませんか?」
少しでも情報を得られないかと期待して尋ねたのだが、僕の質問は空振りに終わった。由井夫妻は五、六年ほど前に、麓の村へ越して来たらしく、聖子さんの死も、鬼村夫妻の惨殺事件も、噂として聞き及んだ程度なのだとか。
仕方がないので、緋村とバトンタッチする。
「お二人は、宗介会長直々に指名されて、お手伝いとして雇用されたそうですね。会長とは、どういったご関係なのでしょう?」
「私自身は、何にも関係あらへんのよ。直接お目にかかったのも、今朝が初めてやし。ただ、うちのお父さんが、大昔に助けていただいたことがあるみたいでね。あの人、幼い頃は身寄りがいてへんくて、高校に入るまで、養護施設で育ったんですよ。
それで、その施設の経営を、一時期鷺沼グループが支援しとったそうなの。設備の拡充やら、進学資金の援助やら。お父さんが言うには、『今の自分があるのは、あの時鷺沼グループが助けてくれたお陰』やそうで、えらい感謝してましたよ」
そんな過去があったからこそ、今回の仕事の依頼を受けた際は、大張り切りだったと言う。
また、鷺沼家の保養地とほど近い場所に越して来たのは、全くの偶然であり、そのことを知って以来、旦那さんは毎朝のように、この町のある山の方角を、拝んでいるそうだ。
それにしても、聞き覚えのある話のように感じた。幼い頃、鷺沼グループによって支援された経験があり、今もその時の恩義を忘れずにいる。昨日、田花さんから電話で聞かされた話にも、似たような経歴を持つ団体が、登場したではないか。
「もしかして、由井さんの旦那さんも、神薇薔人教団の一員なんですか?」
我ながら、馬鹿正直な訊き方をしたものだと、口にしてから後悔する。もし本当にそうだとして、何故お前がその存在を知っているのだと問われたら、返事に窮するしかない。
結果として、それは無用の心配であった。由井婦人は先ほどの再現とばかりに、キョトンとした顔を、今度は僕に向ける。
「何ですか、それ。豚バラ肉なら好きですけどねぇ」
どうやら、鷺沼グループの支援を受けた者は、みんながみんな神薇薔人教団のメンバーになる、というわけではないらしい。
あるいは、旦那さんの施設の時は、神薇薔人という名義が使用されなかったのか。
屋敷に戻って行った由井夫人を見送り、僕たちは改めて、「映画館」に足を踏み入れる。
玄関は照明が灯されておらず、午前中に訪れた廃屋よりも、よほど暗かった。廊下の左右の壁には、有名な映画作品のポスター──ロバート・デ・ニーロ主演の『タクシードライバー』、ヒッチコックの『サイコ』、トマス・ハリス原作の『羊たちの沈黙』、後は『シャイニング』に『ミザリー』など、パッと見ただけでも趣味の偏りを感じられる──が、雑然と貼られていた。暗さもあって、映画館というより、ライヴハウスの入り口を想起させる。
また、玄関にはサンダルと革靴が一足ずつ、脱いで置かれていた。前者は三黄彦さんの履いていたものだと気づいたが、もう一方は、誰の靴なのか。
僕たちも靴を脱ぎ、スリッパへと履き替える。短い廊下の突き当たりにもドアがあり、今度はそちらをノックした。すると──
「どうぞ、入って来てください」
聞こえて来たのは、紅二さんの声だった。どうやら玄関に置いてあったあの革靴は、彼のものだったらしい。
言われるがまま、僕たちは、ドアを開け中に入る。
「映画館」のメインスペースは、豪奢なシャンデリアの灯りがあることで、廊下と違い明るかった。おそらく、真上から見たら、Lの字を上下逆さまにしたような形になっているのだろう。向かって右手の壁に、薄型の巨大なスクリーンがかけられており、その反対側には、「客席」があった。
そちらは趣味部屋と仕事場を兼ねた空間らしく、左右の壁は、映画のブルーレイやDVDの他、資料と思しき書籍類、映画キャラクターのフィギュア、ジオラマなどの詰まった書架で、埋められている。
また、ソファーに囲まれた丸テーブルが計三卓設置されているのだが、それらの上には、書架に収まりきらなかったらしいアイテムが、雑然と積まれていた。
書籍類やノートパソコンにハンドカメラ、そして、プリントアウトされた印刷用紙の束──どうやら、映画か何かの脚本らしい。
紅二さんたちの元へ近寄るついでに目を向けてみると、『拷問偏執狂5〜ネメアーの獅子篇〜』というタイトルが、表紙に印字されていた。「ネメアーの獅子」とは、ギリシャ神話においてヘラクレスに斃される、ネメアーの谷に住まう人喰いライオンのことだろう。どうも、三黄彦さんの代表作である拷問偏執狂シリーズの、最新作のようだが……ネメアーの獅子がいったいどのような拷問へ繋がるのか、僕には少し、想像がつかなかった。
「あー、着いたばかりで申し訳ないのですが」言いながら、紅二さんは、僕らにもソファーが見えるように、体を退ける。「見てのとおり、弟はまだ体調が優れないようでして……。ここの見学はまた今度にして、ひとまず、僕のバーに移動してもらえますか?」
確かに、ソファーに腰下ろした三黄彦さんは、よほど具合が悪いらしく、大きな両手で顔を覆い、項垂れていた。由井夫人の言っていたとおり、まだ二日酔いが抜け切らないのだろう。
僕らに異論はなかった。無理に話を聞き出すのも心苦しいし、一応過去の証言は、捜査資料によって把握できている。
そんなわけで、僕は早々に引き上げるつもりでいたのだが、
「一つだけ、この場で三黄彦さんにお尋ねしたいことがあります」
緋村の言葉は届いていないのか、名指しされた三黄彦さんは、唸るような低い声を漏らし続ける。弟の代わりに、紅二さんが「な、なんでしょう?」と、強張った顔で訊き返した。
緋村は、ソファーに座り込む男から、少しも視線を動かさぬまま──例の発言について、問いかけた。
「昨日、宗介会長がお見えになると聞いた際、三黄彦さんは、こんな風に仰いましたね。『だったら万事予定どおりってわけか』と。──あれは、どういう意味だったのでしょう? いったい何が、『予定どおり』なのですか?」
緋村が言い放った途端、紅二さんは愕然とした風に目を瞠る。一方、三黄彦さんはというと、熊のような丸い背中を、ピクリと震わせた。
と、同時に。
三黄彦さんは、ゆるゆると顔を上げる。
緋村のことを見上げた三黄彦さんは、酷く憔悴した様子で、紙のような顔色をしていた。ウイスキーやワインで酔っ払っていた時とは、まるっきり別人のように見えるほど。
「……う、あ、ううあ……」
意味をなさぬ声が、口髭の下にある唇から、漏れ出した。三黄彦さんの顔は、見る間に歪んで行き……かと思うと、その呻き声は、気の触れたような絶叫へと変わってしまうではないか。
「う──うあああああああ!」
叫び声を上げながら、三黄彦さんは、髪の毛を毟り取らんばかりに、自身の頭を掴み、ソファーの上で身悶えた。あまりの変貌というか、それこそ発狂としか言いようのない振る舞いに、僕はただただ恐怖を覚える。
緋村の放った質問が、狂気の引き金となったことは、明白だ。……しかし、いったい、何故?
「三黄彦! 落ち着いて!」
紅二さんが慌てて弟の肩を掴み、叱りつけるように呼びかける。
それでも、三黄彦さんの癇癪は治らず、うわ言のように、意味のわからない言葉を叫び続けた。
「な、なんで! なんで俺まで! 俺は何も悪ない! 悪ないやろ! 俺は、ただ──カーチャンの言うとおりにしただけやないか!」
「落ち着けって! ほら、これやるから。な?」
そう言って、紅二さんはズボンのポケットから何かを取り出し、三黄彦さんの顔の前に、差し出した。
それは、赤い色の錠剤らしきものがギッシリと詰められたビニール袋で、三黄彦さんは、ピタリと喚くのをやめ、しばし凝然と、兄の掌を見つめる。
が、しかし、
「や──ヤクなんていらんわ!」
再び怒号を上げた三黄彦さんは、差し出された兄の手を、力任せに払い除けてしまった。
袋はほとんど横っ飛びに吹き飛び、吐き出された錠剤の雨が、真っ赤なドロップのように、カーペットに降り注ぎ、散乱する。
紅二さんは、ぶたれた手を反対の手で庇いながら、おそらくは反射的に、弟の姿を睨みつけた。それから、怒りの滲む低い声色で、「てめえ……」とだけ呟くのだった。
その時、紅二さんが見せた横顔は、そのまま任侠映画に出演できそうなほど威圧的な形相であり、物腰穏やかな鷺沼家の次男坊のイメージからは、遠くかけ離れたものだった。
凄まれた三黄彦さんは、一瞬だけ、叱られた犬のような目つきで、兄の姿を見上げる。が、すぐに顔を覆って俯き──かと思うと、啜り泣く声が聞こえ始めた。
「……悪かった」怒りはすでに、鎮まっているらしい。いたって穏やかな口調で、紅二さんは語りかける。「兄ちゃんが悪かったよ。ごめん。本当に、ごめんな……」
兄は弟の前にしゃがみ込み、泣きじゃくる背中を摩ってやった。もしや、この二人の本当の性格は、目に見える態度とは、真逆のものなのではないか……?
目まぐるしい状況の変化に困惑しながら、僕は、そんなことを考える。
やがて、三黄彦さんはしゃくり上げながら、
「ひ、一人に……少し、してくれ」
「……ああ。わかった。──すみません、みなさん。お恥ずかしいところをお見せしました。取り敢えず、バーに向かいましょうか」
立ち上がり、こちらを振り返った紅二さんは──これまでと変わらぬ、柔和な表情を浮かべていた。
僕たちは、今度こそ出て行くことになったのだが、その間際、意外にも倉橋さんが、誰もが気になったであろうことに触れる。
「あ、あの、『ヤク』と仰っていましたけど……」
「え?──ああ、『抗うつ薬』と言いたかったんでしょう。三黄彦は、こう見えて少々精神が不安定でして。医者から処方された薬を、普段から持ち歩いているんですよ」
「そう、なんですね……」
倉橋さんは、納得できたようなできないような、と言いたげだった。無理もない。
紅二さんは、例の錠剤が三黄彦さんのものだと言っていたが……その割に、薬が出て来た場所は、紅二さんのポケットだった。
──薬の正体が何であれ、実際は、紅二さんのものなのではないか?
「…………」
僕と同じ疑念を抱いたのか、緋村はいつもの口許を覆うポーズをし、興味深そうに、正反対な兄弟の姿を、観察していた。




