サン・ピエトロのピエタ
警察が行った事情聴取は、あくまでも簡易的なものに留まっていた。おそらく、早々に自殺と断定された為だろう。
また、渡米先の隣人であり、友人でもあったキャサリン・レンジャーさんの証言は、聖子さんの死を嘆く旨のコメントがメインであり、現実を受け止められず動揺している様子が、翻訳された文面からも、伝わって来る。
聖子さんに対する印象は、「とてもアグレッシヴで理知的な女性」であり、「自ら命を絶つようなタイプではない」とのこと。何より、つい先日母親になったばかりの人間が、赤ん坊を残して旅立つなど、あり得ないことだ──と、国際電話で聴取を行った刑事に、訴えかけたそうだ。
また、聖子さんが借金を抱えていたことは少しも知らなかったらしい。「入院や出産の費用はちゃんと用意していたし、生活に不自由している様子はなかった」のだとか。
「貧乏なのではなく、質素な生活で満足しているようなタイプでした。彼女の家にはものがあまりなくて、テレビやパソコンなんかも持っていませんでした。娯楽は日本から持って来た本を読むくらいだったようで……特に、オマル・ハイヤームの詩集が、彼女のお気に入りでした」
遺留品の中にあった『ルバイヤート』は、渡米先での心細さを紛らわす、数少ない娯楽だったのだろう。
それと、二人が親睦を深めるようになったキッカケは、たまたま近所に暮らしていたことに加え、彼女──キャサリンさんの夫が、日本語を流暢に話すことができたという点が、大きく寄与したのだとか。通訳として適任の人物が身近にいた為、言語の壁に阻まれることなく、交流できたのだ。
そんな事情もあってか、レンジャー夫妻と聖子さんは、すぐに親しい隣人以上の間柄となり、彼女の出産に関しても、少なからず夫妻がサポートしたらしい。入院する病院の手配や、諸々の手続きに、ベビー用品の選び方など……。
だからこそ、キャサリンさんは、余計にやりきれぬ気持ちがあったのだろう。
「リンカのことは、可哀想に思います」
友人の忘れ形見を憫むようなその言葉も、本心からのものに違いない。
聖子さんの死を悼んでいたキャサリンさんとは対象的に、陣野篤実の証言は、至って淡白な内容だった。
そもそも何故、高額の借金を踏み倒されていながら、被害届を提出しなかったのか。刑事の問いに対し、陣野は、
「最初のうちは、騙し取られたという認識はなかった。好意につけ込まれたと気づいてからも、聖子が自ら金を返してくれることを願い、ギリギリまで様子を見たかった」
と答えている。
曰く、「聖子への未練を断ち切れておらず、借金という繋がりを残しておきたかった」とも。
しかし、そういう割に、聖子さんが妊娠していたことに関しては、まったく感知していなかったらしい。「ただただ困惑している。もし聖子と別れる前から知っていたのなら、正式に籍を入れていただろう」と、落胆とも憤慨とも取れる返答をしていた。
陣野は、「部下に頼んで、聖子の居場所を突き止めようとしたことがある」そうだが、結果はうまくいかず。聖子さんとの復縁は、半ば諦めていたらしい。
少し順番が前後するが、ここで倉橋家──特に聖子さんの義理の兄である、満さんの証言についても、付記しておこう。
満さんは、自身と聖子さんの関係について、「兄妹仲はよかったですよ。少なくとも、自分はそう思っています」と、語っていた。
反対に、「うちの両親とは、あまりうまくいっていませんでした。特に父とは、まともに会話したことすらなかったと思います。……まあ、父の方も、聖子との接し方がわからんくて、距離を縮められずにいたようですが」
倉橋夫婦と聖子さんの間には、溝があり、それは終ぞ埋まることはなかった。
「高校を卒業すると同時に、聖子は家を出て、一人暮らしを始めました。どこで何をしとるんかは、わかりませんでしたが……時たま僕にだけは、連絡を寄越して来てね。どうにか無事でやっとるらしいことだけは、確認できました」
兄妹が再会を果たしたのは、聖子さんが亡くなる二日前のことだった。
聖子さんは事前の連絡もなく、突然倉橋家に顔を見せたのだ。その腕に、一人の赤ん坊が抱いて。
「驚きましたよ。突然帰って来たかと思えば、子供が産まれとるんですから。しかも、どれだけ尋ねても、赤ん坊の父親のことは、話してくれませんでした」
当然、満さんのご両親──倉橋さんにとっての祖父母は、このことに激怒したらしい。が、それでも、産んでしまったものは仕方がない。父親の正体や、出産に至った経緯──今までどこでどう過ごしていたのか──も、時間が経てば自然と打ち明けてくれるだろう。倉橋家の人たちはそう考え、ひとまず聖子さんと彼女の赤ん坊を、迎え入れることに決めたそうだ。
が、しかし。
「翌朝、母が目を覚ました時には、聖子はもう家を出た後でした。一応、書き置きはありましたけど、行き先は書かれてへんかった。……まさか、昔住んどった町へ向かったとは、思いませんでしたよ」
聖子さんの残したという書き置きの写真も、すぐ近くに掲載されていた。おそらく、遺留品の中にあった手帳のページを千切ったのだろう。一度クシャクシャに丸めてから伸ばした跡があるのは、書き置きを発見した家族の誰かが、握り締めた為か。
書き置きには、女性らしい筆跡で、「明日には帰宅するので心配は無用」といった旨が、簡潔に認められていた。
「聖子は、携帯電話を持ってへんかったようで、連絡を取ることができませんでした。昔、僕にだけ近況を伝えてくれた時は、ちゃんと携帯を持っとったんですが……本当に、この数年のうちに、何があったのか……」
警察の調べによれば、聖子さんが携帯電話を解約したのは、死亡する一年半以上前──アメリカへ渡る数ヶ月前だったらしい。陣野から逃れる為にそうしたのだろうが、その後どこに隠れ、そして何故アメリカへ渡る決意をしたのかは、全くの謎である。
それは、倉橋家の人たちにとっても同様であり、多額の借金を抱えていたことも含め、聖子さんは真実を明かすことなく、家族の元を去った。産まれたばかりの娘だけを、残して。
ところで、生前の聖子さんをよく知っていた人間や、容疑者たちの他にもう一人、取り上げるべき証言者がいた。死体の第一発見者である、麗香夫人である。
麗香夫人──こと、旧姓柳麗香さんは、警察の事情聴取に対し、次のように答えていた。
「宿泊用の荷物をお部屋に置いた後、書斎に通していただきました。そこで、先日承認いただいた仕事の報告をしていた時です。社長が、あの廃屋の鍵が返却されていないことに、お気づきになったんです。もしかしたら、あの女性が持ち帰ってしまったか、あるいはまだ、廃屋に置きっ放しになっているかも知れない、とのことでした。それで、『よろしければ様子を見て参りましょうか?』と、申し出ました」
麗香夫人が一人で様子を見に向かった理由に関しては、「特に危険なことがあるとは思わなかったから」らしい。また、半ばプライベートで訪れたとはいえ、「部下としてポイントを稼ぎたかった」という、打算的な考えもあったようだ。
かくして、まだ若かった未来の社長夫人は、武器になるようなものは持たず、ハンドバッグのみを手に、廃屋へと出かけて行った。
「お屋敷を出たのが、確か九時頃でした。私はまっすぐにあの家へ向かって──その間、どなたとも顔を合わせることはありませんでした──、まず玄関のドアをノックしました。反応がなかったので、今度は声をかけてから、ノブを捻ってみたんです。そしたら」
玄関のドアには、鍵がかけられていた。
「もしかしたら、鍵を返してもらえていないだけで、もうあの女性は帰ってしまったのかと思いました。ただ、念の為、家の中を確認した方がいいと考えまして……。初めは、リビングの窓を覗いてみたんです」
そちらには、誰の姿も見当たらなかった。廃屋内は朝でも薄暗かったが、それだけは、間違えようがなかったという。
「今度はダイニングと言いますか、キッチン──なんですかね? とにかく、シンクの真上にある窓の方へ、回り込みました。そうしたら、窓越しに、ボンヤリと灯りが見えたんです。リビングの窓もそうだったんですけど、砂埃が酷かったので、初めは本当に、ボンヤリ、という感じでした」
麗香夫人が見た灯りというのは、言うまでもなくランタンの光である。
「私はもっとよく見てみようと思って、ハンカチで窓ガラスを拭いて、改めて中を覗き込みました。それで──」
しばし、ダイニングの中を彷徨った麗香夫人の視線は、最終的に、ある物体へと止まる。それは、侘しく光るランタンや、様々な品が乗せられたテーブルの傍ら──フローリングに横たわる、聖子さんの亡骸だった。
「それはもう、驚きましたよ。軽くパニックになりました。お顔がこちらを向いていましたから、すでにお亡くなりになっていることも、わかりましたし……。私は気が動転してしまって、とにかくこのことをみなさんに伝えなくてはならないと思い、ただちにお屋敷へ、引き返しました」
その道中、麗香夫人は、お手伝いとして雇われていた女性と鉢合わせたという。錯乱しながらも、どうにか非常事態が起きたことを彼女に伝え、二人で会長らの待つ屋敷へと、戻ったそうだ。
ちなみに、玄関のドアノブに、麗香夫人の指紋が付着しなかった──正確には、夫人どころか、誰の指紋も残されていなかった──のは、彼女もまた、ハンカチ越しに握っていたから。
加えて、麗香夫人のアリバイはやはり裏が取れており、疑いようのないほど堅固なものだった。これは陣野に関しても同様で、書斎で宗介会長から聞いたとおり、事件が起きたと見られる時間帯、陣野が警察の保護室にいたことは、間違いない。
それと、先ほど麗香夫人の証言に登場したお手伝いの女性は、聖子さんとは全く面識がなく、滞在中も顔を合わせる機会はなかったらしい。
「亡くなった女性が訪ねていらした時間帯、ちょうど私は、保育園まで子供を迎えに行っていておりました」
彼女は、仕事の相談を終えた麗香夫人と入れ違いで、鷺沼家の町に戻って来たという。
以降は屋敷内で家事をして過ごし、紅二さんのバーに呼ばれることもなく、二十二時頃には就寝したそうだ。貸し与えられたのも屋敷内の一室であった為、その日は子供の迎え以外には、ほとんど外に出る機会がなかったと、証言していた。
反対に、翌日は朝から町の散策に出かけていたそうだ。
「朝食の後片づけなんかが終わって、手隙の時間やったので、町の中を、散歩させてもろてました。昨日はずっと忙しくて、ユックリ景色を楽しむ余裕もありませんでしたから。それで、宗介社長の秘書さんとは、その時初めて会うたんですけどね。もうえらい慌てようで……『廃屋で人が倒れてる』ってこと以外、わけがわかりませんでしたよ」
屋敷に戻り、会長たちにこのことを報告した後は、警察が来るまで他の滞在者と共に待機していた、とのこと。
やはり、このお手伝いさんと聖子さんの接点は、皆無と言えた。事件当夜町に滞在していたといえど、容疑者の勘定には入らないだろう。
となると、犯人足り得る登場人物は、瑠璃子を除いた鷺沼家の五人と、橘さんの、計六名。この中の誰かが聖子さんを毒殺し、今尚、素知らぬ顔をしているのだ。
※
その後も黙々と資料を読み進め、僕は気になった点を、メモに取り続けた。
そして、ようやく最後の項目まで目を通し、ボールペンを置いた──その時。
幽かな物音が、玄関の方から聞こえて来たではないか。
──誰かが入って来た? 会長か? それとも倉橋さん?
答えは、そのどちらでもなかった。ほどなくして、廃屋の中に響いたのは、紅二さんの声。
「あのぉ、緋村さんと若庭さん、いらっしゃいますか?」
名前を呼ばれ、僕は思わず身構えた。昨日田花さんから聞かされた話が脳裏にチラついた──というのもあるが、何よりも問題なのは、テーブルの上に置かれた資料だ。当然ながら、資料はボディバッグに収まるようなサイズではなく、かといって、どこかに隠している余裕もない。
いったいどうやって誤魔化すべきか。悩む猶予すら与えられぬまま、紅二さんが、戸口から細面を覗かせた。僕は咄嗟にメモ帳をしまい、緋村が資料のファイルを閉じる。
「ああ、いたいた。昼食のご用意ができたので、呼びに来たのですが……お取り込み中でしたか?」
「いえ。わざわざすみません、すぐに向かいます」
「では、一緒に屋敷に帰りましょうか。──ところで、なんですか? そのファイルは」
さすがに目につかないはずないか。緋村はさりげなく、ファイルの表紙を手で隠しながら、至って自然な口調で、こう答えた。
「学科の課題で使用する資料です。一人では行き詰まっていたので、彼に相談していました」
「こんなところで、ですか?」
「ええ。実は、課題の内容というのが、架空の町を創作することでして。その町の歴史や風土、景観などを作り込まなくてはならないんです。それで、せっかくこんな美しい町を訪れたのですから、参考にさせていただこうかと。もちろん、会長の許可は得ています」
よくもまあこの一瞬で、かような嘘八百を思いつくものだ。しかも、ちょっと面白そうな課題だし。
「そんな課題があるんですか。あ、そういえば、お二人は芸大生でしたね。だったら割と普通のこと、なのかな……」
訝しげではあったものの、紅二さんは納得してくれたらしい。
廃屋を出る際、緋村は会長から託された鍵を使い、ドアを施錠する。相伴に預かる前に、一度家に立ち寄ってファイルを置いてから、屋敷へ向かう旨を伝えた。
僕たちは紅二さんと共に丘を下り、町の中へ至る。
「そういえば、先ほど宗介会長から伺ったのですが……この町には、ご家族の方の利用する施設が、幾つかあるそうですね。確か、紅二さんはバーをお持ちだとか」
白い建物に囲まれた通りを歩きながら、緋村が何気ない口調で、水を向けた。
「え、ええ。どれも、さほど本格的なものではありませんが」
「もしよろしければ、昼食の後にでも、中を見学させていただけませんか? 課題の参考になるのではないかと、興味を惹かれたもので」
十七年前の話を聞き出すのが目的なのだから、わざわざ「バー」を見学する必要はない。が、僕としても、この町の施設には興味があったので、ナイスな提案だと思った。
それに、他の人の耳がない場所の方が、事情聴取を行う上で都合がいい、とも言える。
「見学、ですか……」
紅二さんは逡巡している様子だった。もしかしたら、僕たちの目的に勘づいたのではないか──そう思い、俄かに緊張したのだが、杞憂に終わる。
「わかりました。後でご案内しますよ」
「ありがとうございます」
「あ、ただ、少し片づけをする時間をいただいけますか?」
無論、緋村は承諾した。厚かましい要望をしているのはこちらなのだから、幾らでも待たせてもらおう。
「それと、できれば他の場所──お屋敷の地下室や、三黄彦さんの映画館、それと橙子さんの礼拝堂も、訪ねてみたいのですが」
緋村は僕が思っていた以上に、遠慮がなかった──が、紅二さんは苦笑を浮かべるだけで、
「では、昼食の時に訊いてみましょうか」
無事、話が纏まった。
※
昼食を終えひと心地ついた後、僕たちはまず最初に、礼拝堂を訪ねることになった。その後は「映画館」、そして《バー ディオニューソス》順に、各施設を巡る予定だ。
また、屋敷の地下にある音楽室に関しては、「客人に見せられる状態ではない」という理由で、見学の許可を得られなかった。せっかくなら、宗介会長の話に挙がった場所を、制覇してみたい気持ちもあったが、こればっかりは仕方がない。あまり我儘を言って反感を買ってしまうのは得策ではないし、蒼一社長には、また機を見て話を聴けばいい。
橙子さんの所有する礼拝堂は、水色の屋根を持つ建物で、ギリシャ風の教会──特に、ミコノス島の港に建つ、セント・ニコラス教会をモチーフに建造されたらしい。絵本に登場するお城のような可愛らしい外観で、謂わゆる「写真映え」のしそうなスポットだ。
また、本物のセント・ニコラス教会に寄せているのは外観だけで、内装はオリジナル且つ簡易的なもの、とのこと。実際、礼拝堂の中はシンプルな作りになっており、細長い朱色のカーペットを挟む形で、木製の椅子が整然と並べられている他、十字架の掲げられた最奥の壁際には、祭壇が設置されていた。
そういえば、屋敷の玄関ドアに、何故か聖母子を描いたイコン画が、かけられていたが──どうせなら、あんな中途半端な場所でなく、この礼拝堂に飾ればいいのに。
祭壇の上にあるモニュメントを見ながら、僕は思う。それは、ミケランジェロによる有名なピエタ像のレプリカ──
「『サン・ピエトロのピエタ』ですね。懐かしい……」
キリストの亡骸を抱える聖母マリアの姿を見つめながら、橘さんが呟く。ドラマ『白亜の町に死す』では、この礼拝堂で撮影されたシーンもあり、橘さんも、何度か中に入ったことがあるのだとか。
それはそうと、橘さんまで同行を申し出て来たのは、少なからず予想外であった。まさか、再調査を妨害するつもりではないだろうなと、勘繰りたくなってしまう。
あるいはそこまでいかずとも、こちらの動向を窺う為に、ついて来たのだろうか? いずれにせよ、橘さんからも話を聴くつもりでいたので、そういった意味では、好都合か。
「いつも、この町に滞在している間は、毎日欠かさず祈りを捧げているんです。神様に対してではなく、昔亡くなった妹に。……とても優しくて、頭のいい娘でした。だから、きっと今でも私たち家族を、護ってくれていると思います。私はその感謝を伝える為に、この場所を造ってもらいました」
橘さんと同じように、祭壇へ目線を投じた橙子さんが、穏やかな声で語った。「護ってくれている」か。その言葉を少し図々しく感じてしまったのは、五十年前の事件の経緯を知っている為だろう。
せめて、感謝ではなく、安らかな眠りを祈るべきでなのでは?
「そんな神聖な空間に、部外者が立ち入ってしまい、申し訳ありません」実に無感動な声色で、緋村が言う。「──ところで、十七年前に聖子さんがこの町を訪れた際、彼女とどのようなやり取りをなさったのか、教えていただけますか?」
急旋回して本題に切り込むものだから、僕は驚いてしまった。当然他の人も同様であり、橘さんなどは「えっ?」と声を漏らして、緋村の横顔を凝視していた。
「……昨日もお伝えしたとおり、聖子さんと直接話したのは、蒼一さんと義兄さんだけで」
「そんなことはないはずです。橙子さんも、聖子さんと接触する機会があったと、先ほど会長から伺いました」
それだけではない。本当は橙子さんが警察に語った証言まで、把握している。
もっとも、資料の中では、聖子さんと交わした会話のごく一部に触れられていただけで、実際の雰囲気や、聖子さんの様子といったところまでは、伝わって来なかった。緋村はその辺りを見極めるべく、こうして直接尋ねているのだろう。
四人分の視線から逃れるように、橙子さんは顔を伏せ──そしてすぐに、ベリーショートの頭を軽く振った。
「……すみません。隠すつもりはなかった、と言ったら嘘になります。私たちにとってはあまり蒸し返されたくないことですし、それに……後ろめたい気持ちもあって」
「どういう意味でしょう? お聞かせ願えますか?」
静かな──しかし拒むことを許さないとばかりに堅固な声で、緋村が促す。
「……義兄さんと同じです。聖子さんから、『お金を援助してほしい』と頼まれてね。そして、断りました。正確な数字までは聞いていませんでしたが、私一人で用意するには大きすぎる金額でしたし……それに、たとえ鬼村先生のお子さんだとしても、初対面の人には変わりありません。そんな見ず知らずの人間に融資なんてしたら、他の家族に怒られてしまいます」
もっともな言い分、ではあった。聖子さんと交わしたやり取りが、本当にそれだけなら。
「その時、聖子さんはどのような様子だったか、覚えていらっしゃいますか?」
「ハッキリとは……ただ、困り果てていたとは思います。聖子さんとは、この礼拝堂の前で、偶然鉢合わせました。その時は、帰るに帰れなくて、町をぶらついていたようです」
「聖子さんが宗介会長と面会した後、ということですね?」
橙子さんは首肯する。聖子さんは宗介会長が廃屋を去った後、ずっとそこに留まり続けていたのではなかったのだ。
「けれど、本当にそれだけなのよ。聖子さんも、すぐに受け入れてくれた様子で……『不躾な要望でした。今のは忘れてください』とだけ言って、去って行きました。それ以降は、姿を見かけることもなかった」
十七年前、橙子さん自身が警察に語った内容と、概ね合致していた。
ただ一つ、違っていたのは、聖子さんが「すぐに納得して立ち去った」という点だ。
──別に、大した話はしていませんよ。ただ、考え方が合わない人だということは、すぐにわかりました。「お金を貸すことはできません」と断ったら、あの人、とても不満そうにされて……それだけならまだいいですけどね。私の礼拝堂を指差して、「あんなしょうもない物に費やす金があんねんから、少しくらい恵んでくれたって、バチは当たらんやろ!」って。いきなり怒鳴りつけられたんですから。
実際にどういったやり取りがなされたのかは、別として。橙子さんは、突然現れた鬼村医師の娘に対し、あまりいい印象を抱かなかったようだ。
──亡くなった人に対して、こんなことを言うのは申し訳ないですけど……ちょっと、粗暴な人に見えました。きっと、幼くしてご両親を失ってしまったのが、いけなかったんですね。心も体も、荒みきってしまったご様子でしたよ。
──そういった意味では、自殺だとしても少しも意外ではありません。ただ、可哀想だとは思います。だって、自ら死を選んだ人間は、神様の元に行けませんから。
死後の世界や守護霊といった存在を信じているらしい橙子さんと、ルバイヤートを愛読していた聖子さんとでは、反りが合わなくて当然だ。何せ、ハイヤームは唯物論者であり、無神論者であり、その主張は死後の世界というものを、真っ向から否定している。
「……そういうわけですから、聖子さんが自殺したと知った時には、少なからず責任を感じました。あの時私が断らなければ、結果は違ったんじゃないかと……ごめんなさい」
最後に倉橋さんへと向き直り、深々とこうべを垂れる。
「あの……気になさらないでください」
倉橋さんは、そう答えるのがやっと、という様子だった。相手の真意を測りかね、戸惑っているのかも知れない。
「他のご家族──紅二さんと三黄彦さんも、聖子さんと言葉を交わす機会があったそうですね」再び、緋村が鉄のような声を発する。「その時のことは、お二人から聞いていますか?」
「特には……二人がいつ聖子さんと会ったのかも、知りません」
「……そうですか。お答えくださり、ありがとうございます」
酷く業務的というか、酷薄な口調だった。
橙子さんは、それ以上の追及を拒むかのように踵を返し、僕たちに背を向けてしまう。
「そろそろ日課を終わらせてしまいたいのですけど……」
「ええ、どうぞ。我々は出て行きますので、思う存分、祈りを捧げてください」
皮肉屋らしい言葉を送り、緋村はスタスタと扉に向かって、歩き出してしまった。僕と倉橋さんも、すぐにその後へ続き──かけて、僕は足を止める。
一人だけ、立ったままでいる橘さんの様子が、気になったからだ。
橘さんは祭壇の方へ体を向けたまま、俯いていた。それだけではない。彼女はどういうわけか、唇を噛み締めているではないか。
──何かに憤っている? いや、怯えているのか?
思えば、バスを降りて最初に話した時も、僕らの名前を伝えた時も、橘さんは何かに怯えた様子だった。
また、橘さんも、鷺沼家の人間同様、聖子さんと接触する機会があり、尚且つそのことを隠している、節がある。ここまで怪しい要素が揃っていながら、橘さんが、聖子さんの死と全くの無関係、などということは、果たしてあり得るのだろうか?




