まるで、死神に先回りされているかのように
廃屋にて、宗介会長から事件の話を伺った後。僕たちは三人だけで、白亜の町を歩いていた。宗介会長は、少し休憩してから、屋敷に戻るとのことだった。
これからどうするのか、緋村に尋ねると、「取り敢えず俺らも休もう」との返答が寄越される。おそらく、倉橋さんを気遣っての提案だろう。僕も様々な話を聞かされ、頭と心に疲労を感じていたので、内心ありがたくはあった。
昼食の際に、それとなく他の関係者たちへ、事情聴取のアポイントメントを取りつけることに決め、僕らは解散した──のだが。
借りている家に入り、ベッドに座り込んで、すぐのことだ。スマートフォンが、メッセージを受信する。
送り主は、つい今し方別れたばかりの、緋村だった。
『倉橋さんにバレないよう、廃屋に戻るぞ』
全く意味がわからなかった。
しかし、返信して尋ねるより、直接訊く方が早いだろう。もう少し落ち着いてから動き出したかったのだが、仕方ない。僕は声に出さず、休みたがる体に発破をかけ、下ろしたばかりの腰を上げた。
外へ出ると、緋村もちょうど出て来たところだった。緋村は倉橋さんの家の方を一瞥したのち、「行くぞ」とだけ言って、さっさと歩き出してしまう。
せっかち屋らしく足早に進むその後ろから、僕は当然の疑問を投げかけた。
「なんで、またあの家に戻るんだ? それも、倉橋さんに内緒でなんて」
「決まってるだろ。宗介会長に会いに行くんだ」
訊くべき事柄を思い出した、ということだろうか? しかし、それならばわざわざ「倉橋さんにバレないように」などいう文言を、付け足す理由がわからない。
結局、緋村は大して疑問には答えてくれず、僕は再び、急勾配の階段を上る羽目になった。
そして、曰くつきの廃屋へと舞い戻って来たわけだが……ここに来る途中、誰とも出くわすことはなかった。ということは、会長はまだ廃屋に留まっているのだろう。
そう予想し、家の中に入る。緋村と共にリビングへ向かうと、宗介会長は埃の積もったソファーにもたれていた。先ほどダイニングでも思ったことだが、高そうな服が汚れるのを厭わないのが、少々不思議だ。
会長は、僕らが戻って来たことには気づいていない様子で、首を折るように俯いたまま、身動ぎ一つしない。どうやら、居眠りをしているらしい。
──本当に?
僕は、瞬時に不吉な予感を覚え──それはすぐさま、ある種の既視感へと変わった。
これまで緋村と共に、幾つかの事件に遭遇して来た僕は、自分自身が死体の第一発見者となる機会が、何度かあった。だから、まさかまたあの怖ろしい瞬間を体験しなければならないのかと、肝を冷やしたのだ。
緋村も、僕と似たようなことを考えたのだろう。少々顔つきを強張らせ、会長の肩を揺すり、声をかけた。
「会長、大丈夫ですか?」
果たせるかな、彼は──
「……うん?──ああ、すみません。少し、うたた寝をしていました」
本当に、ただの居眠りだった。
僕は思わず胸を撫で下ろす。もう、死体を目にするのも、誰かの死に接するのも、勘弁願いたい。
「かなりお疲れのご様子ですね」
「……ええ。今朝は早かったものですから、どうにも眠たくなってしまって」
会長は左右の目許を擦ると、それから思い出したように、僕たちのことを見上げ、
「何か、ご用でしたか?」
「先ほど会長は、『今この場で話せることは何もない』と仰いました。あの言葉は、もしかしたら、『倉橋さんの前で話せることは残っていない』という意味だったのでないか、と」
意外な言葉だった。
十七年前の事件の再調査を提案したのは、会長自身ではないか。それなのに、倉橋さんに隠し事をしている、と、そう言いたいのか?
宗介会長は、一瞬だけ虚を衝かれたかのように目を瞠る。が、すぐに奇妙な微笑を浮かべ、
「……ご推察のとおりです。あのようなお手紙を差し出しておいて、矛盾した話ではありますが……私の一存だけで、倉橋さんに全てを明かすことは、できないのです」
「どういった事情がおおりなのか、教えていただけますか? 無論、他言は致しません」
「……わかりました」意外にも、宗介会長は承諾してくれた。「事件の再調査を行う上で、重要なことでもありますから。いずれ倉橋さんにも、明かさなくてはならない時が来るのでしょう」
いったい会長は何を知っており、そして何故、それを隠す必要があったのか。
「ただ、その話をする前に、お見せしなくてはならないものがございます」
そう言うと、会長は足元に置いていたリュックサックを持ち上げ、中からあるものを取り出した。僕は、書斎で「もう一つの鍵」を見せられた時のことを思い出す。
その時現れたのは茶封筒だったが──今回、会長が取り出したのは、黒色の分厚いファイルだった。
会長は身を乗り出し、重量感のあるそのファイルを、テーブルに置く。
「これは……」
「捜査資料です。十七年前の、事件の」
当然、僕は驚いた──が、同時に合点のいったこともある。宗介会長が、やけに警察の捜査内容について、詳しく知っていた理由だ。
「といっても、県警で保管されているものの、複製品でしょうがね。……この捜査資料もまた、瑠璃子の遺品から、出て来ました」
「奥様は、警察の内部とも通じていた、ということですか?」
「さあ、そこまでは……。ですが、あの女に、手に入らないものなど、なかったはずです。半世紀以上前から、鷺沼家の主として君臨していたのは、私でも義父でもなく、瑠璃子でした」
その声色には、どこか皮肉めいた響きが感じられた。
「いずれにしても、瑠璃子がこの資料を隠し持っていたことで、再調査をしやすくなった、とも言えます。現場の様子や、関係者の証言など……詳しいことは、これをご覧いただければ、わかるかと」
「見てしまっても、構わないのですね?」
会長は頷いた。
「そのつもりで、ここまで携えて参りました。……しかしながら、この資料には、私が倉橋さんに隠そうとした事実までもが、記載されています。ですので、彼女がいる前では、資料の存在を、お伝えできませんでした」
「いったい何なのでしょう? 会長が隠そうとされたこと、というのは」
倉橋さんに対して隠し通す必要があり、尚且つ十七年前の事件に関する事柄。──後になって思えば、これだけのヒントがあれば、予想できないことではなかった。
宗介会長は、やはり神妙な面持ちのまま、重々しく告げた。
「……先日、倅は聖子さんと、倉橋満さんのご関係を、内縁の夫婦と、説明したかと思います。倉橋さんにはそう伝えるよう、私が指示を致しました」
「それでは、聖子さんと満さんは、恋人同士ではなかった、ということですか?」
「……そうです。満さんの海外赴任中に二人が知り合ったというのも、嘘でした。聖子さんがアメリカに滞在されていたことは、事実ですが……。聖子さんと満さんは、本当は昔からの顔見知り──それどころか、兄妹だったのです」
再び、僕は驚愕し、それからようやく理解した。倉橋さんにだけは、おいそれと教えられないわけだ。
二人の本当の関係が内縁の夫婦ではなく、兄妹だというのなら……倉橋さんの実の父親は、満さんではない、ということになる。
「鬼村医師には、もう一人お子さんがいたのですね?」
そう思い尋ねてみたのだが、僕の予想は外れる。緋村のようにはいかないものだ。
「いえ。聖子さんと満さんに、血の繋がりはありません。二人が兄妹となったのは、鬼村夫妻が亡くなった後です。ご両親を同時に失った聖子さんを引き取ったのが、満さんのご実家でした。事件の直後、義父が直接出向き、里親を依頼したそうです」
「義父というと、前会長の鷺沼豪造氏ですね? しかし、どうして倉橋さんの家に? 元々夫婦どちらかの親戚だったのであれば、豪造氏が介入する必要も、ないように思いますが」
「鬼村ご夫妻と倉橋さんは、親戚ではありません。ただ、倉橋さんの奥様──すなわち、満さんのお母様で、凛果さんにとっての祖母様に当たる女性──は、我々や鬼村先生と、少なからず縁がありました。それで、養育費を支援するという条件の元、聖子さんを引き取るよう、お願いしたのです」
つまり、倉橋さんのお祖母さんが、鷺沼家の関係者であり、鬼村医師とも面識があった、と。またしても新たな事実が出て来たわけだが……余計に鷺沼家──そして、倉橋家を取り巻く人間関係が、複雑さを増したように感じた。
僕は置いていかれぬよう、懸命に会長の話に耳を傾ける。
「倉橋家のご夫妻は、あくまでも里親であり、養子縁組はなさらなかったようです。が、それでも聖子さんと満さんが、義理の兄妹であったことには変わりありません。そして、二人が再会したのは、出産を終えた聖子さんが、日本に帰国した後のことでした」
つまり、満さんは、聖子さんの血の繋がらない兄──倉橋さんにとって、伯父に当たる人物だったのだ。
だとすれば、倉橋さんの本当の父親は──
「凛果さんの本当の父親は、例の元交際相手、ということですか……?」
緋村が口にすると、宗介会長は「そのようです」
「無論、このことは満さん始め、凛果さんのお祖父さんとお祖母さんも、知っています。その上で、凛果さんのことを、表向きは満さんの娘として、育てて来たのです」
「凛果さんの存在は、元交際相手の男性も認知しているのでしょうか?」
「聖子さんの死をキッカケに、初めて知ったそうです。それまでは、出産どころか聖子さんが妊娠していたことさえ、把握していなかったのだとか。……ただ、凛果さんの存在を知っても尚、彼女を自分の娘として迎え入れるつもりは、ない様子でした。おそらく、聖子さんへの恨みもあったのでしょう。私が代わりに借金を返済した時も、『お陰様で、多少は溜飲が下がりました』と言っただけ……。凛果さんのことなど、少しも気にかけていないように、見受けられました」
あまりにも薄情な話に思えた。
確かに、その男性からすれば、聖子さんはいいように金を騙し取り、自分の前から消えた女、ということになるのだろう。しかし、それでも自分の子供であることには変わりないのだから、多少なりとも身を案じるべきではないか?
僕は──義憤にかられて、というと、酷く大袈裟ではあるが──、その男性の名前を、尋ねずにはいられなかった。
「陣野アツミ、という男です。温厚篤実の『篤実』でアツミと読みます」
皮肉な名前だ。もっとも、又聞きした内容だけで、不誠実な人物だと決めつけるのも、おかしな話だが。
「その陣野という人は、今はどうされているのでしょう? 可能であれば彼からも、聖子さんの話を聴くべきだと思うのですが」
緋村の問いに対し、宗介会長は風の凪いだような声で、
「死にましたよ。もう、この世にはおりません」
僕も、緋村も、言葉が出なかった。もはや、呆れるしかない。
まるで、死神に先回りされているかのように……。重要な事実を知っていそうな人間は、悉くすでに死んでおり、膨れ上がった謎だけが、残されている。
※
陣野篤実は、今から八年ほど前、海難事故で亡くなったらしい。なんでも、自家用のクルーザーが岩礁と接触し、転覆した拍子に、海原へ投げ出され、そのまま溺死したそうだ。
最後にそんな不幸な事故について語り、会長は今度こそ、屋敷へと戻って行った。
その間際、階段を下るのに手を貸すと申し出たのだが、断られる。
「荷物が軽くなりましたので、大丈夫です」
宗介会長は、どこか晴れやかな顔で言い、テーブルの上に残された分厚いファイルを一瞥した。それから、思い出したように、
「一応、この家の鍵もお渡ししておきましょう。滞在中はいつでも調査できるよう、そのままお持ちくださって、構いません」
緋村が会長から廃屋の鍵を──無論、瑠璃子の遺品から発見された方の鍵だ──受け取る。そして、改めて会長を送り出すと、僕らは再び、リビングのテーブルの傍らに立った。
「倉橋さんに、伝えなくていいのか? 一番の当事者は、彼女なのに」
「会長の話を聞いていなかったのか? ご家族の了承もなく、本当の父親が別にいることを教えるわけには、いかねえだろ」
「……それもそうか。もしかして、倉橋さんのお父さんや他の家族が、本当の母親のことを、ひた隠しにして来たのも」
「そういうことだろうな。聖子さんの話をする以上、家族の誰とも血が繋がっていない事実も、打ち明けなきゃならねえ。それならいっそ、母親のことは何も知らせずにいた方がいい。そう判断したとしても、不思議じゃない。……あるいは、倉橋さんが独り立ちできるようになってから、教えるつもりなのかもな」
ようやく一つ、謎が解けたのだ。
そして、倉橋さんにとって、またしても辛い事実が明かされた、とも言える。やはり緋村の言うように、部外者が、勝手に伝えるわけにはいくまい。
「それに、彼女が資料の存在を知ったら、自分も中身を見たいと言い出すはずだ。たとえ本人が望んだとしても、酷な体験には変わりない。遺体の写真も載ってるんだぜ?」
そこまで言われては、反駁する気にはなれなかった。多少の後ろめたさはあったものの、ここは納得することにし、僕は緋村の横から、資料のページを覗き込む。
初めの方に、事件の概略が記載されており、それによると、亡くなった女性の氏名は鬼村聖子で、年齢は満二十四歳──僕や緋村とそう変わらない年齢であることに、まず驚かされた。
死亡推定時刻は、二〇〇二年四月二十七日の二十三時から、翌二十八日の、午前二時までの間。死因は毒物を摂取したことによる心臓麻痺であり、多数の状況的証拠から、服毒自殺の可能性が最も高いと判断された、とのこと。当然だが、すでに宗介会長から聞かされた話と、合致している。
この「多数の状況的証拠」に関しては、別のページにて、詳しく触れられていた。
一つはやはり、多額の借金を抱えていたこと──そして、資金の援助を断られた直後であったこと。すなわち、自殺するに足る動機があると、警察は考えたのだ。
そしてもう一つ、捜査員らが着目したのは、聖子さんの遺体が化粧をしていたという点だった。女性が自殺する場合──高所からの飛び降りや、線路への飛び込みなどを除き──、化粧をしてから亡くなることが、殆どだという。男性と違い、死体として発見された際の自らの容姿を、気にかける傾向にあるのだ。
換言すれば、どんなに自殺としか思えない状況であっても、女性の遺体が化粧をしていなかったり、いい加減な服装をしていたりすれば、他殺の可能性が高い──と判断する刑事や、監察医もいるのだとか。
「『上記二点に加え、水筒のコップには、水滴がわずかに付着するのみで、中身を零した形跡も見られなかった。すなわち、亡くなった女性は自らの意思でコップに注いだ緑茶を呑み干したと推察できる』か。確かに、自殺と断定されるのも、無理からぬ状況だ」
咥え煙草に火を点けながら、緋村が呟く。
資料の中では、毒物の粉末が残された小瓶の存在にも、触れられていた。その小瓶には、聖子さんの指紋のみが残されたいたことも、警察の判断を後押ししたようだ。
それから、現場検証に臨んだ刑事らの報告文を纏めたものと、司法解剖を行った医師の所見等が続いた後、とうとう現場写真の項目に差しかかった。
「覚悟はいいな?」と、目顔で尋ねて来た緋村に、頷き返す。
緋村の手がページを捲ると、まっさきに、遺体の全身を捉えた写真が、現れる。
赤みがかったショートヘアーを振り乱した女性が、苦しげに自らの喉を掻き毟るポーズで、フローリングの上に横たわっていた。死装束となったのは、濃紺色の生地に、白い花柄をあしらったロングワンピースで、僅かに乱れた裾から、スニーカーを履いた二本の生白い脚が、交差するように飛び出していた。
また、その死に顔からは、凄絶な苦痛に身悶えながら絶命したことが窺え、紅を差した唇の周りには、わずかに嘔吐した痕跡が認められる。
──この女性が、鬼村聖子。
ようやく対面することのできた聖子さんは、確かに言われてみれば、倉橋さんとよく似た顔立ちをしていた。もっとも、先述したとおりの死に顔に加え、化粧をしている為、母子であることを知らなければ、そのような感想は抱かなかった、可能性もあるが。
遺体には、多少の擦過傷が散見されたものの、目立った外傷はなく、争った形跡も見受けられなかった、とのこと。また、写真と共に添付されている図によれば、聖子さんはキッチンの方に頭を向けて倒れており、その目線の先、三、四十センチほど離れた場所に、水筒のコップが転がっていたことがわかる。この辺りも、会長の証言どおりだ。
遺体の次は、遺留品の写真を載せた項目が数ページ続いており、今度はそちらに目を通して行く。
まず、聖子さんの持ち物に関しては、水筒と携帯灰皿に、財布と手帳、煙草の箱と百円ライター──ライターのオイルは切れており、だからこそマッチを借りたようだ──、ペンケースと化粧ポーチ、ポケットティッシュと口を結んだレジ袋──中身は菓子パンの袋と、ティッシュのゴミだった──、それからテーブルに残されていた香水と、カバーのされていない文庫本が一冊。
上記のうち、ペンケースの中には、ボールペンと印鑑が、化粧ポーチには、口紅やファンデーション、コンパクトなど、香水以外の化粧道具一式が、それぞれしまわれていた。
それと、手帳は主にメモ書きや英語の練習に用いられていたようで、すでに聞かされていたことではあるが、遺書らしき文章は、どこにも見当たらなかった。
「『ルバイヤート』か……」
携帯灰皿にマルボロの灰を落としつつ、緋村が呟く。聖子さんの持ち物の中にあった文庫本は、オマル・ハイヤームの詩集『ルバイヤート』だった。かなり読み古されたもののようだが、愛読書だったのだろうか?
「そういえば、昨日三黄彦さんも、『ルバイヤート』の話をしていたな。夕食の時に。しかも、『無の手筥にしまわれる』とか、不吉なことを言っていたっけ」
僕は、夕食中の一幕を思い出す。三黄彦さんがそのフレーズを口にした時の、鷺沼家の人々の反応が、特に印象に残っていた。
みな一様に食事の手を止め、何かに怯えるように、表情を強張らせた──ように見えた。
「あったな、そんなことも。それと、三黄彦さんといえばもう一つ、意味深な発言をしていた」
「意味深な発言?」
「昨日、会長とビデオ通話した時のことだ。会長がこの町に来るって話になった時、『万事予定どおり』だとか、言っていただろ?」
そういえば。
「三黄彦さんは、何か企んでいるのかな? あるいは、鷺沼家の恒例行事でもあるとか?」
「さあな。単純に、父親が旅行に参加できると知って、安堵しただけかも知れない。あるいは、懐を潤すべく、小遣いをせびるつもりだった、とかな。こっちから振っておいてなんだが、あんまり深読みしすぎんのも、よくねえか」
とはいえ、三黄彦さんの言動に注目したくなるのは、無理からぬことだろう。『ルバイヤート』という共通点を抜きにしても、三黄彦さんは確実に聖子さんと接触しており、尚且つそのことを、僕らに隠しているのだ。
そんなことを考えつつ、再び資料に目を落とす。
遺体発見時、テーブルの上に残されていた品は、すでに会長から教えていただいたとおり。聖子さんの水筒と、廃屋の鍵、三黄彦さんが貸し出したというランタンやマッチの箱、円筒形の携帯灰皿──先述のとおり、灰皿には煙草の吸い殻とマッチの燃え殻が、山のように積み上がっていた──、粉末状の毒物が入った小瓶と、その蓋であるコルク栓、そして、香水の瓶である。
香水の銘柄は、ヴォル・ド・ニュイ。サン=テグジェペリの小説のタイトルと同じ名前を持つ、金色の「夜間飛行」を、彼女は愛用していたらしい。遺体から仄かに香った匂いや、服に染み込んだ成分が、この香水と合致した、との記載もある。
一方、毒物入りの瓶の大きさは、六センチほどしかなく、コルク栓を合わせても、掌に収まるサイズだった。
そして、何度も言うように、この小瓶とコルク栓を含め、聖子さんの所持品からは、彼女の指紋ならびに掌紋のみが、検出されたそうだ。
当然ながら、警察は他の遺留品や廃屋内各所の指紋も採取していた。が、その全てをいちいち取り上げていては煩雑になってしまうので、僕は中でも重要そうな箇所のみを、メモに書き留めていく。
ランタンとマッチの箱──それぞれ聖子さんと三黄彦さんの指紋、ならびに掌紋。
リビングに供えられていた花束の包装紙──聖子さんと関係者以外の何者かの指紋が一つ。この第三者は花屋の店員である可能性が高い、とのこと。
テーブルの上に置かれていた廃屋の鍵──複数の人間の指紋や掌紋が付着していたが、どれが誰のものか特定するのは困難だったらしい。換言すれば、不自然に指紋が途切れていたり、拭き取られたりした形跡はなかったことになる。
やはり、犯人は、瑠璃子の隠し持っていたもう一つの鍵を使い、現場を施錠したのだ。
また、各扉のドアノブからは、ある一箇所を除いては、基本的に誰の指紋も検出されなかった。これは衛生面を考慮し、ハンカチやティッシュ越しに触れるようにしていた為だろう。そういえば、先ほど会長が玄関の鍵を開けてくれた時も、ハンカチで包むようにして、ドアノブを握っていたか。
つまり、犯人が自身の指紋を拭き取ったとしても、不自然な状態にはならなかった──本来残っているべき指紋まで拭き取ってしまう心配はなかった──、というわけだ。
唯一、聖子さんの指紋がハッキリと付着していたドアノブは、玄関のドア──それも、内側部分のみである。
加えて、そのドアノブの真上にある鍵のツマミからも、聖子さんの指紋が検出されていた。どうやら聖子さんが「自らの意思で、内側から玄関のドアに施錠した」ことは、間違いないらしい。
警察は、それは死の直前だった──すなわち、聖子さんは自殺だと判断したわけだが……実際には、犯人が尋ねて来る前に、何か事情があって施錠していたのかも知れない。
ちなみに、廃屋の二階に関しては、指紋も含め、最近になって人が出入りした形跡は、認められなかったそうだ。
そこまでメモに書き記したところで、二本目の煙草に火を点けた緋村が、不意にこんなことを言って寄越す。
「……あらかじめ飲み物に毒を仕込んでおけば、アリバイの有無は関係なくなる。お前、さっき書斎で話を聞いた時、そんな風に言っていたな?」
「確かに言ったけど、現実的じゃないよな、やっぱり。聖子さんがいつお茶を呑むかなんて、わからなかったわけだし。そもそも、水筒の中身から毒物が検出されなかった以上、そんな事実はなかったと考えるべきだろう」
「俺も同意見だ。犯人は、聖子さんが口をつける直前に、毒物を混入させた。それだけは、疑いようがない」
当たり前だ。状況から見て、他の方法なんて考えられない──そう答えようとした矢先、ふと、妙なことを思いつく。
「いや、待てよ? もしかしたら、犯人は聖子さんが毒物を摂取するタイミングを、予測できたのかも」
「どういう意味だ?」
「つまり、本当はお茶ではなく、全く別のものに毒物が仕込まれていたってことさ。水筒のお茶をいつ呑むかなんて、本人にしかわからない。けど、それが食べ物であれば、ある程度口にするタイミングを、コントロールできたかも知れない。──そういえば、所持品の中に菓子パンの袋があったよな? あれって、聖子さんが自分で買って来たんじゃなくて、本当は、犯人が渡したものだったんじゃないか?」
「……菓子パンの中に、毒物が仕込まれていたってことか? まるで、二週間前のあの事件みてえだな」
そう。僕はまさにあの事件──緋村が倉橋さんと共に訪れた動物園で遭遇した、毒殺事件を想起したのだ。
「あっちは、謂わば失敗例だな。犯人の予想に反し、被害者はすぐにお菓子を食べてしまった。けど、聖子さんを殺めた犯人は、成功したんだと思う」
「具体的に、どのようにして成功させたのか、教えてくれよ」
そんな挑発するような言い方をされずとも、すでに答えは用意してあった。
「犯人は、きっと聖子さんにこう伝えたんだ。『あなたをもてなしたことが他の人にバレると、自分の立場が危うくなるかも知れない。だから、このパンは廃屋に戻ってから、コッソリ召し上がってください』ってね」
「犯人と聖子さんは、この廃屋ではなく、別の場所で接触していたってことか?」
「まあ、根拠はないけどね。とにかく犯人は、時間を置いてからパンを食べるよう、聖子さんを言いくるめたんだろう」
「……なるほど。確かに、全く不可能ってことはないだろうな」
推理小説のワトソン役よろしく、頓珍漢な推理を披露しては、緋村に即否定されることが常であった為、こうもスンナリと賛同を得られるとは、思ってもみなかった。僕はあくまでもほんの少しだけ、得意になりかけた──のも束の間。咥え煙草の緋村が、意地の悪い笑みを浮かべる。
「お前の説が正しいか、さっそく確かめてみよう」
どうやって? と尋ねるよりも先に、緋村は捜査資料へと手を伸ばし、ペラペラとページを捲り始める。
そして、すぐに目当ての項目を見つけたらしい。
「……残念、ハズレだ。聖子さんの胃の内容物は、すでにほとんど消化されていたらしい。──これが何を意味するか、わかるだろ?」
「……菓子パンを食べてから亡くなるまで、かなり時間が経っていたってことか」
すなわち、パンの中に毒物は仕込まれていなかった、ということになる。あるいは、一緒に口にした食べ物が消化されてから、摂取した人間を何時間も経ってから、死に至らしめる猛毒が用いられた──などという可能性も、無論考え難い。
緋村は「だな」と満足げに頷き、
「亡くなる直前、聖子さんは本当に緑茶しか口にしていなかったんだ。正確には、緑茶と毒か」
そうらしい。結局僕はいつもどおりの役回りを演じたに過ぎなかったわけだ。
「犯行に用いられた毒物は、無味無臭で水溶性の高いものだった。だからこそ、聖子さんは緑茶に毒が混入していることに、気がつかなかったんだろう。そして、そんな都合のよすぎる毒物の入手経路は……『不明』か。犯人は、警察ですら特定できない方法で、毒物を用意したことなる。やはり、事件の裏には大きな力が働いていたと、考えざるを得ない」
それを聞いた僕は、この資料を取り出した際、宗介会長の発した言葉を、思い出す。
鷺沼家の真の主として君臨して来た瑠璃子。彼女の手に入らないものなど、存在しなかった。殺人に適した──無味無臭且つ即効性の高い──毒物を、警察に特定されない方法で取り寄せ、実行犯に与えることさえも……。瑠璃子が黒幕なのであれば、何ら難しいことでは、なかったのだろう。
その後も、僕と緋村は資料を読み進める。
現場写真の後には、事件当時この町に滞在していた人間の証言が、簡潔にまとめられていた。そしてその次に、聖子さんの関係者から聴取した内容が続く。
聴き取り調査の対象となったのは、主に倉橋家の人たちと、元交際相手である陣野。
そして。
聖子さんがアメリカに滞在している間、特に親しくしていたという女性──キャサリン・レンジャーだった。




