じゃあな、腰抜け
同日、同時刻。
この日も田花は、《喫茶&バー えんとつそうじ》を訪れていた。
田花が薄暗い店内に入ると、カウンター席に腰かけた常連客──いつ来ても見かけるオヤジで、緋村たち以外の常連と言えば、田花の知る限りこの男のみだ──と談笑していた店主は、話を切り上げる。それから、少々意外そうな顔を、田花に向けた。
「いらっしゃいませ。このところ、よくお見えになりますね」
「どうも。──マスターのコーヒーが、気に入ったんすよ」
嘘ではない。実際、この店のコーヒーは、値段の割には本格的で、繁盛していないのが不思議なくらいだ。
が、人がいないことは、かえって好都合でもある。喧騒に惑わされることなく、自分の思考に集中できる。
「お好きな席に」と、お決まりの文句を寄越されたので、田花はなんとなく、普段緋村が陣取っているのと同じ椅子に、腰を下ろした。それからブレンドコーヒーを注文すると、煙草を咥え、火を点ける。
立ち昇る紫煙に目を細めながら、田花は思い出す。約三週間前の、出来事を。
元家政婦である高部の元を訪れた後、《えんとつそうじ》にて昼食を済ませた田花と松谷は、今度は元刑事の住まいへと向かった。
出迎えてくれた梶間の娘に挨拶をし、例によって、田花が菓子折りを手渡した後、客間にて、本人と対面する。梶間元刑事は、八十近い高齢で、足腰を不自由にしている様子だった。が、話を聴く分には問題はなく、何より昔のことも、よく覚えていた。
二人は出された昆布茶を啜りながら、五十年前の鷺沼家の事件に関して聴き込みを行い──そして、その過程で、予想外の事実を知ってしまった。
「ほ、ホンマに、久住さんのお父さんが、人殺しを?」
松谷の問いに、梶間は瞑目しつつ頷いた。ほとんど髪が残っていない頭と、長い鼻の下、そしてふくよかな体つきから、どことなくウミガメを想起させる老人だ。
「悲しいことやけど、事実です。一応、その事件が起きた時には、完吾くんもいい大人やったので、生きるに苦労することはありませんでした。……が、しかし、相当辛い思いをしたんは、言うまでもありません」
「知りませんでした、そんなこと……。事件の後、久住さんのお父さんは、どうなったんですか?」
「すぐに逮捕されましたよ。自分で現場から通報したとかで……。そして、裁判で刑が確定するよりも先に、拘置所ん中で、自殺しよった」
これを聞いた松谷は、「そう、ですか」とだけ答え、口を噤んだ。それ以上、コメントのしようがなかったのだろう。田花にしてみても同じようなもので、口髭を指の先で摩りながら、しばし思考を巡らせていた。
二人が黙り込んでいる間も、ウミガメのような顔の梶間は、やはり目を瞑りながら、語り続ける。
「あれも酷い事件でねぇ。犯人の久住吾郎は、鬼村夫妻を刺し殺した後、離れに火ぃまで放ちよったんです。……幸い──と言ってええんかわからんけど──、当時小学五年生やった娘さんだけは、事件に巻き込まれずに済みました。平日の午後過ぎやったんで、まだ小学校におったんですわ。怖ろしい体験をせずに済んだ代わりに、親の死に目に立ち会えんかった、とも言えます。
もちろん、他県で起きた事件なので、私も詳しいことは知りません。ただ、当時鬼村さん一家が住んではったのは、鷺沼家の私有地──あの一族の別荘がある場所、でしたからねぇ。何かウラがあるんちゃうかと、あれこれ噂されとったんは、よく覚えています。……結局、犯人がすぐに死んでもうたせいで、未解決の部分をぎょうさん残したまま、捜査は打ち切りになりましたが」
──同じやないか。五十年前の、紫苑殺害と。
どちらの事件も、被害者は鷺沼家の関係者であり、鷺沼家の所有する土地で起きている。ここまでの符合を、単なる偶然で片づけていいものだろうか? 五十年前の事件も、三十年前に久住の父親が起こした事件も、本当は全て繋がっているのでは?
無論、根拠のある話ではない。が、田花にはどうにも、キナ臭く感じられた。
「……動機は何やったんでしょう? どうして久住さんのお父さんは、鬼村夫妻を殺さなあかんかったんです?」
田花の質問に、梶間は弛んだ頬の肉を揺らして、首を振った。「わからない」ということだろう。
──動機が不明って点も、同じか。
「ヒヒ、ますますオモロなって来たな」
思わずそう口にした。
ウミガメは驚いたように、久々に黒目がちな目を見開く。隣りの松谷からは、今にも引っ叩かれそうな勢いで、睨まれた。
しかし、田花は歯牙にもかけなかった。自分が楽しめるのであればそれでいいし、実際、田花はこの調査にのめり込んでいた。
彼らが現れるまでは。
梶間家に新たな客人が訪れたのは、そんなやり取りをしてから、数十分後のことだった。
粗方話を聴き終えた田花らが、そろそろ引き上げようと考え始めた時、慌ただしげな足音が聞こえて来た。かと思うと、突然二人の背後にあった襖が開かれる。
「あ、あの、お父さんたちに、お客さんなんやけど……」
田花たちが振り返ると、梶間の娘が当惑の表情と共に、そう言った。そしてすぐに、体を横に退ける。
彼女と場所を入れ替わるようにして、男が二人、戸口に現れた。銀縁眼鏡をかけたキツネ顔の痩せた男と、大柄で岩石のようにゴツゴツとした体つきの男という、全く正反対な風貌の二人組だ。どちらもスーツを着ているものの、キツネ顔の男はキッチリとネクタイを締めているのに対し、もう一人の方──左頬に大きな古傷のある男の方──は、ノーネクタイな上、太い首元には、金のネックレスをチラつかせていた。
彼らは梶間が了承するよりも先に、有無を言わせず、客間に入り込んで来る。
「何や、あんたらは」
梶間の問いに、キツネ顔の男は、名刺を取り出しながら応じた。
「私、鷺沼グループの法務部に勤めております、佐伯信洋と申します」
恭しい口調とは裏腹に、佐伯は突きつけるような手つきで、名刺を老人に差し出した。
「それと、こちらはアドヴァイザーの」
佐伯が同行者を紹介しようとした矢先、古傷の男は、意外なものを見たとばかりに、太い眉を吊り上げる。残忍そうな三白眼の先にいたのは、田花の横に座る、松谷だった。
「お前、松谷やないか。いやぁ、久しぶりやのぉ。元気にしとったか? ええ?」
強面を一気に綻ばせ、男は松谷へ、気さくに声をかけた。そこまではよかったのだが──明らかに堅気ではないであろう男の笑顔は、かえって薄気味悪い物であったが──、田花が意外だったのは、それに対する、松谷の反応である。
「鈍山、さん……」
旧知との再会を喜ぶ様子など一切見せず、松谷はただ愕然とした表情で、相手の姿を見上げていた。絶望感すらも漂わせる同僚の様子に、田花は言い知れぬ不吉さを覚える。
「お知り合いですか?」佐伯が尋ねると、鈍山はニタニタと嫌な笑みを浮かべたまま、「昔ちょっとな」。松谷と鈍山がどのような間柄なのかは不明だが、少なくとも良好な関係とは言い難いことだけは、田花にも察せられた。
「鷺沼グループの人が、何のご用ですか?」
受け取った名刺から顔を上げ、梶間は警戒心の滲む声色で尋ねた。
「突然お邪魔してしまったご無礼、お許しください。本日は梶間さんではなく、こちらにいらっしゃる美杉探偵事務所の方々にお願いしたことがあり、伺いました」
「へえ、俺らに? いったい何やろなァ。てか、こっちには名刺くれへんの?」
取り敢えず挑発から入り、相手の出方を窺うのは、田花の常套手段だった。しかし、佐伯はわずかに眉をひそめた程度で、大して感情を表にはしない。
「もちろん、初めからお渡しするつもりでしたよ」
言葉どおり、佐伯は田花たちにも、自身の名刺を配る。
「ほんなら、俺も」
「結構です。受け取る必要はないと言われていますので。それより、さっそく本題に入らせていただいても?」
「……どうぞ?」
どういう展開が待ち受けているか、田花には予想がついていた。
佐伯は何かの合図かのように、眼鏡のつるに触れると、平板な声で告げた。
「現在御社で行なっている調査に関しまして、即刻中止くださるよう、お願いしに参りました」
──やと思ったわ。
あまりにも予想どおりの言葉を受け、田花は興を削がれた気分だった。ただ、松谷は困惑しているらしく、
「ど、どうしてですか? 我々の仕事で、何か不都合が生じるとでも」
「生じるに決まっとるやろ。わからんか、松谷。お前らに痛くもない腹を探られるだけで、鷺沼さんらにとっては、大迷惑やねん」
諭すような口調で、鈍山が答える。よほど苦手な相手なのか、松谷はすぐに口籠もり、体を萎縮させるように俯いてしまった。
「もちろん、皆さんに支払われるはずだった依頼料は、こちらで負担させていただきます。また、依頼主である久住さんにも、先ほど了承を得て参りました」
「はァ? 聞いてへんで、そんなこと」
「信じられないようであれば、今ここで確認していただいて、構いません」
田花は思わず佐伯の顔を睨みつけたが、鉄仮面の如き無表情が、崩れることはなかった。
仕方なく、舌打ちをかました田花は、「そうさせてもらうわ」とだけ言って、スマートフォンを取り出す。
久住は、すぐに通話に応じた。
そして、佐伯の発言が嘘ではないことを、田花は告げられる。
『……申し訳ありません。昨日お願いしたばかりで、このようなことになってもうて。キッチリお代は払わせてもらいますので、私の依頼や話した内容は、全て忘れてください』
「……久住さんかそれでええって言うんやったら、構いませんがね。けど、ホンマは今でも、真相を知りたいんとちゃいます? 紫苑さんの無念を晴らしてあげたいって、そう言うてはったやないですか」
『それは……もう、諦めました。これ以上、恩義ある鷺沼家の皆さんに、ご迷惑をかけるわけにはいきません』
その後も田花は食い下がったが、久住を説得するには至らず……最終的に何度も謝罪の言葉を聞かされ、通話を終えることとなる。
「ご理解いただけましたか? 久住さんは、我々のお願いを聞き入れてくださいました。後は、あなた方が調査を中止してくだされば、それでこの話はおしまいです」
「そこまでして調査をやめさせたいってことは、やっぱり、何か隠しとるわけや。鷺沼グループ、いや、鷺沼家は。さっきは痛くもない腹とか言うてましたけど……ホンマはこの事件、思っきし急所やったりして」
「妙な勘繰りはおやめください。我々に後ろ暗いところは一切ございません。ただ、企業活動を行う上で支障を来すと考え、対策を打つことにした。それだけのことです」
「どうだか。ハッキリ言うて、おたくらの話は信用できませんわ。そもそも、さっき名乗った肩書きやら名刺やらが、本物かどうかもわからんし」
「あなたとでは、話が噛み合いませんね。──そちらの方はいかがですか? 確か、松谷さんと仰いましたか」
名指しされた松谷は、そこでようやく我に返ったとばかりに、ビクリと体を震わせた。
田花が振り向くと、松谷は恐る恐るといった風に、蒼褪めた顔を持ち上げる。
その様が、さも愉快だと言わんばかりに、鈍山は下卑た笑みを浮かべた。そして、ワザとらしい声色で語りかける。
「どうや、松谷。ここは俺の顔に免じて、大人しく引き下がってくれんか? 俺も社長から、ことを荒立てるな言われとんねん」
「ははあ、つまり、あんたらは社長様直々の命令でここに来たってわけや。けど、妙な話やなァ。確か、久住さんは宗介会長から許可を得て再調査の依頼をしに来た、言うてたのに。……もしかして、会長と社長とで、考え方が割れとんのか?」
田花が嘴を挟んだ途端、鈍山の顔つきと声色が、豹変する。
「黙っとれや餓鬼が。俺は今、こいつと話しとんねん」
変貌というより、そちらが本性なのだろう。ドスの効いたダミ声と共に、獰猛さを剥き出しにした眼光が、田花を眇めた。
「アドヴァイザーとか言うてたけど……おっさんどう見てもヤクザやん。こんなのに何のアドヴァイスができんねん。恐喝のノウハウでも教わるんか?」
「あぁ? 喧嘩売っとんのかお前」
いきり立つ鈍山を、佐伯が慌てた様子で諌める。
「鈍山さん、落ち着いて。──あなたも、あまり挑発するような発言は、おやめください。我々は、あくまでも穏便に、この件を解決したいのです」
「なら、こんな短気なおっさん連れて来んなや。梶間さんかて、突然家に来られて迷惑ですよねぇ?」
田花としては、このまま可能な限り佐伯たちをおちょくり、何かしらの情報を引き出す算段であった。あるいは、謎に挑む機会を取り上げられた腹癒せに、挑発に乗った鈍山と、やり合うのでも構わない。
いずれにしても、田花は大人しく調査を打ち切るつもりはなかったし、もはや久住が望んでいようがいまいが、そんなことは関係がなかった。田花自身が、まだこの事件に飽きていない以上、勝手に真実を探り続けるのみだ。
が、しかし。
「……わかりました。事件の調査は、これでやめることにします」
松谷は、違ったらしい。
「……何やねんそれ。お前、ホンマにええんか?」
「ええに決まっとるやろ。久住さんが、依頼を取り下げる言うてはる以上、調査を続けたって、誰の得にもならへん。……そもそも、お前が勝手に引き受けただけで、俺は元々、乗り気とちゃうかったんや」
松谷の返答を聞いた鈍山は、満足げな──あるいはせせら嗤うかのような──表情を浮かべた。
当然、田花は少しも納得していなかったが……しかし、何を言っても、松谷の決心が翻ることはなかった。
※
佐伯たちが去った後、田花と松谷も、元刑事の家を出た。庭先に停めていた社用車に乗り込むと、田花はシートベルトを締めるよりも先に、煙草を咥え、火を点ける。
「……鈍山とか言うおっさんと、何かあったんか?」
型落ちのセンチュリーが発車してすぐ、田花は運転席へと問いかける。ステアリングを握る松谷は、未だに血の気の戻らぬ顔を、フロントガラスの先へ向けていた。
「別に、何も。……俺自体は、な」
「てことは、お前の周りの人間と、一悶着あったわけや。まさか、あのヤクザもんに、女でも取られたか?」
無論、それは揶揄いの軽口に過ぎなかった。しかし、どういうわけか、松谷は皮肉のような笑みを見せる。
「それやったら、まだマシやった。あの人が俺から奪ったんは……客や」
「客ぅ? どういう意味やねん。そんな勿体振らんと、ハッキリ答えろや」
「ホンマ、遠慮のない奴やな。──もうこの際やから、話したる。俺な、これでも四年くらい前まで、ミナミでホストしててん。俺の客言うんは、ホスト時代、贔屓にしてくれとった娘のことや」
「……ほぉ、松谷パイセンがホストねぇ。イメージ湧かんわ」
田花の中で、松谷と夜の街はあまりにも結びつかないものだった。松谷は別に、謹厳実直そうな人物でもないし、田花よりかは、よほど若者らしい容姿をしていた。毎日スーツを着てはいるが、頭は茶髪だし、一般的な会社勤めが向いているようにも思えない。
しかし、それでも、ホストクラブで働いている姿というのは、今の松谷からは、想像もできなかった。少なくとも、田花の中では、松谷は至って平凡な青年──ハッキリ言って、何の面白味もない男だと認識していた。
「俺が鈍山さんと初めて会うたんは、店で働き出してすぐの頃やった。店長に紹介されてな。鈍山さんは、店の入っとるビルのオーナーやったらしい。そん時の鈍山さんは、いかにも高そうなスーツ着て、舎弟みたいなんを二、三人連れとった」
「やっぱりヤクザやんけ」
「ちゃうわ。あの人がしてはったのは、金貸しや。それも、審査不要で高額な金を貸しつけるタイプのな」
「……闇金か。似たようなもんやな」
センチュリーは緩やかに速度を落とし、一時停止の白線で動きを止めた。信号のない横断歩道を、律儀に手を上げる男の子を先頭に、親子三人が渡って行く。
閑静な住宅地の中に、田花たちはいた。
「で? その闇金の鈍山さんが、どないしたって?」
「俺が店に入って、半年くらい経った頃や。俺にも贔屓にしてくれる客の娘ができた。まあ、俺より十以上は歳上やったと思うけどな。見てのとおり、俺はそんな顔のええ方ちゃうし、話がうまいわけでもあらへん。店でも全然人気ちゃうかった。自分でも、向いてへんなって、常々思っとったわ。……そんな俺の何が気に入ったんか知らんが、その娘だけは、店に来る度に、俺を指名してくれた」
親子連れが、反対側の歩道に渡り、視界の外へ去って行った。しかし、松谷はアクセルペダルに乗せた足を、踏み込もうとしない。
「初めのうちは、俺も無邪気に喜んどった。多少は稼がせてもらえるようになったって。……けど、すぐに後ろめたくなってな。その娘が、無理して金を作っとることに、気づいたんや」
「まさか……鈍山から金を借りとったんか?」
「最終的には、そうやったらしい。マトモな会社はどこも融資してくれんくなって、それでもホスト遊びをやめられんかったその娘は、鈍山さんから金を借りてもうた」
「……どないなったんや? その客は」
いい結末が待ち受けているはずがない。そう理解していながら、田花は尋ねた。
「突然店に来んくなって、それっきりや。今はもうどこで何をしとんのか……金は返済できたんかどうかも、わからん」
「鈍山から訊き出そうとはせんかったんか? 薄情モンやな」
「訊けるかそんなこと。むしろ、俺はあの娘のことを忘れたかった。別に付き合うてたわけちゃうし、お客様言うても、所詮は他人や。どうなろうと、俺には関係あらへん。……そう言い聞かせて、元どおり働いとったある日のことや。鈍山さんが、また店に来た」
停車し続けるセンチュリーの真横を、自転車が通り過ぎて行く。運転手は訝しげな顔をしていた。後続車があればクラクションを鳴らされても仕方のない状態だが、幸い松谷の話が終わるまで、そういったことは起きなかった。
「俺は店の事務所に呼び出された。何の用なのかはわからんかったけど、あのお客さん絡みなんは、なんとなく察しがついた。鈍山さんは、煙草を吸いながら、『ええもん見せたるわ』って言って、スマホを差し出して来た。俺はただ、促されるまま、その画面を覗き込んだんや。──そこに写っとったのは、たぶん、あの娘やった」
「たぶん?」
「写真に写っとったその女性は、顔の至るところがパンバンに膨れとった。タコ殴りにされたんや。きっと、半殺しってのは、ああいう状態を言うんやろうな。……いや、そもそもホンマに生きとるんかさえ、怪しかった。それくらい、酷い有様で、俺は最初、それが人の顔なんかも、わからんかった」
田花は言葉が出なかった。想像していた以上に凄惨な結末に──あまりにも残虐無道な仕打ちに──、嫌悪や同情よりも、困惑が勝る。
そして、それを語る男の横顔も──鈍山に対する恐怖心さえも忘れてしまったかのように、今にも天気の話をし始めそうな松谷の表情が、田花を唖然とさせた。閾値を超えた感情に、表情の機能が停止してしまったかのようだ。
「凍りつくしかなかった俺に、鈍山さん、何て言うたと思う?」
答えられるわけもなく、田花はただ、息を呑んだ。
──どうしても金を返せへんっちゅうから、稼げる仕事を紹介したる、言うてんけどな。体を売るんは、どーしても嫌やって、ゴネよんねん。せやからしゃーなしに、体やのうて顔で支払ってもろたんや。ウケるやろ?
「……あの人はそう言って、笑ってはった」
それから鈍山は、煙草の煙を口から撒き散らしながら、まるで励ますかのような口調で、こうつけ足した。
──お前には悪いことしたなぁ。せっかくの太客を奪ってもうて。まあでも、お前も清々したやろ。もうあんなババアの相手せんで、済むんやから。
「……胸糞の悪い話やな」
田花は吐き捨てるよう言った。その拍子に、塊りとなった煙草の灰がもげ落ち、革ズボンの膝を汚す。
ひとしきり語り終えた松谷は、ようやくセンチュリーを発進させた。
「その後しばらくして、俺は店を辞めた。鈍山さんともそれっきり。今はもう、あの娘の名前すら、思い出されへん」
「……ま、鈍山がどういう人種なんかはわかったわ。パイセンがあのおっさんを怖がんのも、理解できた。──けど、事件のこととは関係あらへん。調査を打ち切る理由には、ならんやろ」
「鈍山さんは、いつの間にか鷺沼グループの人間になっとった。あんな人を、交渉役として寄越す企業や。マトモなわけあらへん。これ以上調査を続けとったら、どんな目に遭うか」
「お前、逃げるんか?」
「安易な挑発には乗らんで。浮気調査や人探しとはわけがちゃう。何より、久住さんが依頼を取り下げる言うてはるんや。俺らが調査を続けたところで、どうにもならんやろ」
「……そうか。ほんなら、好きにしろや。俺も勝手にさせてもらうわ」
それから、田花は大して吸っていない煙草を灰皿に捨て、車を停めさせた。
車外へと出て、ドアを閉める間際。田花は同僚の顔も見ずに、決別の言葉を送る。
「じゃあな、腰抜け」
返事は寄越されぬまま、社用車は走り去ってしまった。




