あの時期は、辛いことばかりで……
「これは、三黄彦と橙子さんに関しても言えることです。三黄彦は町の中を散策した後、シアタールームで映画を観ていたと言っていました。紅二のバーのように、映画を鑑賞する為の建物がございまして、家の者は『映画館』と呼んでおります。
また、橙子さんですが、リビングを出た後は、ずっと礼拝堂にいたそうです。この町に滞在している時の日課で、橙子さんは祈りを捧げていました。当然、一人で」
「礼拝堂まであるのですね」
興味深そうに緋村が言う。バーと映画館に、礼拝堂か。本物の観光地までとはいかずとも、想像以上に施設が充実している。
「橙子さんの要望で、造らせたものです。橙子さんは、別にクリスチャンというわけではありませんし、元々信心深いたちでもありませんでした。ですが、ある時を境に考え方が変わったらしく……亡くなった家族の魂を鎮める為の場所が欲しいと、瑠璃子に訴えかけたのです」
例の臨死体験とやらの影響なのだろう。その要望を、瑠璃子が受け入れたというのは、意外であるし、全く悪びれるつもりがない、とも取れる。
「では、現状そのタイミングでのアリバイが保証されている──可能性が高い──のは、蒼一社長と橘さんのみ、ということですね?」
しれっと会長のことを省いているが、会長自身は特に気にならなかったようだ。
「いえ、そうとも言いきれません。倅は、ずっと橘さんと一緒だったわけではなく、途中で打ち合わせを切り上げていたようです。なんでも、橘さんから、『事務所に電話で確認しなければならない用件ができたので、話の続きは明日以降にしてもらいたい』と、言われたそうで」
「その後、社長はどちらに?」
「屋敷に戻り、夕食の時間まで、地下室で過ごしていた、ということになっています」
「地下室があるのですね。何の為の空間なのでしょう?」
「音楽スタジオというと大袈裟ですが、防音室になっております。楽器は、グランドピアノが一台あるのみ。後はレコードやCDと、それらの再生機器が、設置されています」
まさか、五十年前の事件現場に置かれていたピアノと、同じ品なのか? もし本当にそうであれば、屋敷の地下には、曰くつきの品が眠っていることになる。
それはともかく、現時点では、誰も容疑者のリストから外せないことがわかった。
「夕食の後も、各々好きに過ごしていたので、アリバイを保証できる人間はおりません。私も紅二に誘われて《ディオニューソス》に寄った後は、一足先に屋敷へ戻り、眠ってしまったので……」
「その辺りのお話は、個別に伺った方がよさそうですね」
続いて、緋村は死体を発見した時の様子を、改めて尋ねる。前日にこの家に入った時と変わったことはなかったか。それ以外にも、何か気になった点があれば教えてほしい、と。
「窓から中を覗いただけなので、あの時はよくわかりませんでした。ただ、警察がここに踏み込んだ時、前日にはなかったものが、幾つかテーブルの上に、残されていようです」
聖子さんが使っていたテーブルの上には、聖子さんの水筒とこの家の鍵の他、煙草の吸い殻とマッチの燃え殻を積み上げた携帯灰皿──当然、煙草の箱とマッチの箱も、その近くに置かれていた──、アウトドア用のランタン、そして二つの小さな瓶が、残されていた。聖子さんが愛用していたらしい香水と、毒物の入った瓶だ。
「聖子さんは、煙草を吸っていたんですか?」
「ええ。どうやらヘヴィ・スモーカーだったようです。ちなみに、マッチとランタンは、どちらも三黄彦のもので、あの子が聖子さんに貸し出していました」
ということは、やはり昨日の三黄彦さんの発言は嘘──彼も、聖子さんと接触していた、ということか。
「先ほどから気になっていましたが、ずいぶんと詳しいことまで把握しておられますね。質問する立場としては、ありがたい限りです」
嫌味な言い回しだ。
「ええ、まあ……偶然知り得たことですがね」
「……そうですか。でしたら、こんなこともご存知なのでしょうか? 毒物を入れていた瓶から、聖子さんの指紋が検出されたか否か」
「知っています。──瓶には、確かに聖子さんの指紋が残されていました。そして、その他には誰の指紋も出て来なかった。警察が自殺だと断定するに至った、一番の要因でしょう」
警察が疑わなかったということは、瓶から検出された聖子さんの指紋には、不自然な点はなかったのだろう。一体犯人はどのようにして、聖子さんの指紋のみを、自然な状態で残したのか……。
「他には何かありますか? どんな些細なことでも構いませんので、ぜひお教えください」
緋村が問いかける。宗介会長は目を瞑り、眉皺を刻んで、懸命に記憶の襞を探っている様子だった。
が、少しもせぬうちに、首を横に振り、
「……今、この場でお話しできることは、何も」
落胆すべき答えのはずだ。
それなのに。
どういうわけか緋村は、興味深い現象を発見した学者、とでも喩えたくなるような眼差しで、会長の姿を見つめ返した。
※
その後、僕たちは隣りのリビングへと移動した。十七年前、聖子さんはこの部屋にも、立ち寄っていたそうだ。
こちらも最低限の調度品しか残されておらず、ダイニングにあったものより一回りほど小さいテーブルと、ソファー、サイドボードとテレビの乗っていないテレビ台が、置き去りにされているのみ。家族の写真でも残されていればと思ったが、そうした品は一切見当たらない。古代遺跡よりも、よほど殺風景な空間に思えた。
「聖子さんは、この家に着いてすぐ、そこのテーブルの上へ、携えて来た花束を、供えていかれました。この家で亡くなった、お母さんに捧げたのでしょう」
つまり、このリビングが、鬼村夫妻惨殺事件の現場なのか。そう思ったのだが、実際は半分しか当たっていなかった。
「『お母さんに』ということは、お父さん──鬼村医師は、別の部屋で亡くなったのですか?」
今度は見えない花束を幻視しながら、緋村が問う。
「鬼村先生は、家の中ではなく、離れで殺害されました。この家の隣には、今は風車が建っていますが、あの場所に、かつて離れがあったのです。しかし、三十年前の事件の際、犯人が火を放ったことで、焼失してしまいまして……。あの風車は、事件の後、瑠璃子の意向で建て替えられたものです」
犯人は、鬼村夫妻の在宅中にこの家へ押し入り、まずリビングで夫人を刺殺した。そして、犯人の隙をついて、命からがら逃げ出した鬼村医師は、真っ先に、離れへと向かったそうだ。
「鬼村医師は何故、離れに逃げ込んだのでしょう? 普通、電話で通報するか、それができなければ人のいる場所へ向かうと思いますが」
「離れの床には、洞窟に繋がる階段が設けられていました。ですから、おそらくそこから洞窟に入って、山を下ろうとお考えになったのでしょう」
洞窟というと──天国洞か。僕は農道を上って来る時、ハイエースの車中から見た看板を、思い出す。
「洞窟へ下りる階段は、現在も残っているのでしょうか?」
「ええ。あまり利用する機会もありませんが、残してはいます」
であれば、鍾乳洞探索という細やかな夢が叶うかも知れない。無論、十七年前の事件の捜査が最優先ではあるが……時間があれば、中に入ってみたいものだ。
そんな暢気なことを考えつつ、僕はメモを取り続ける。
宗介会長が屋敷に見えてからすでに一時間が経過していた。過去の事件について重大な証言を多く得ることができたが、そろそろ情報を整理する時間が欲しくなって来る。
しかし、緋村はまだ尋ね足りないらしい。
「質問してばかりで恐縮ですが、あと少しだけおつき合いください。──鬼村医師の奥様というのは、どのような方だったのでしょう? 宗介会長も、面識がお有りなのですか?」
「ええ。鬼村先生の奥方は、和恵さんといって、元々は我が家の経営する病院に、勤めておられました。そして、鬼村先生が退職されてすぐ、和恵さんも病院を辞め、ご結婚なさったと記憶しています」
「寿退社、ということですか」
「和恵さんの場合は、そう言えるのかも知れません。ですが、鬼村先生が病院をお辞めになった理由は、他にありまして……。鬼村先生は、重大な医療ミスを犯してしまったのです。手術中のことで、その結果、助かるはずの患者を一人、死なせてしまいました」
十七年前の事件からも、そして三十年前の事件からも、話が逸れてしまった。が、それはそれとして、気になる情報ではある。
緋村も興味を示したらしく、口許を手で覆うポーズをする。
「それは、いつのことでしょう?」
「……五十年前です。その日はちょうど、我々の家族の一人が、事件に巻き込まれた日でもありました」
そう答える会長の顔からは、血の気が失せていた。大して汗も掻いていないだろうに、しきりに広い額を、手の甲で拭う。
──間違いない。鬼村医師が医療ミスを犯した日というのは、紫苑さんが殺害されたのと、同じ日なのだ。
「……そうだったのですね」シラジラしく、緋村が口にする。「ちなみに、それはどのような事件だったのか、お訊きしても?」
「……私の妻の妹──すなわち、私の義妹が、暴漢に襲われ命を落としました。鬼村先生が、手術でミスを犯したのは、その事件の直後で……きっと、相当なショックを受けておられたのでしょう。義妹とは、鬼村先生も、とても親しくしていましたから」
──違う。鬼村医師は、身近な人間を事件で喪い、動揺していたのではない。むしろ、自身がその殺人に関与していたからこそ、罪悪感や焦燥感──あるいは、不要な密室を創り上げてしまったという後悔の念──によって、手元が狂ったのだ。
緋村の推理を聞いた後では、そうとしか思えなかった。
そして、たった今目の前にいるこの老人も、犯行の片棒を担いだ可能性がある。
「不幸が重なってしまったわけですか」
「ええ。本当に、あの時期は、辛いことばかりで……」
「ところで、聖子さんは三十年前の事件について、何か話していましたか?」
「正直なところ、あまり詳細には覚えておりません。ただ、聖子さんは警察の捜査は不十分なものだったのではないかと、疑っていたようでした」
「何か根拠があったのでしょうか? それとも、感覚的なものだったのか」
「わかりません。しかし、もしかすると聖子さんは、事件の黒幕が瑠璃子であることに、気がついていたのかも。無論、それこそ根拠のある話ではありませんが」
「だからこそ、瑠璃子さんに命を狙われた、という可能性もあるわけですね。──ちなみに、三十年前の事件の実行犯は誰だったのでしょう? 自ら警察に通報し、すぐに逮捕されたとは、聞きましたが」
「……私や、他の家族も、よく知る人間でした」
ただでさえ低い声色が、重々しさを増す。僕は直感的に理解した。何か、重大な内容が、会長の口から伝えられるのだと。
「彼は──鬼村夫妻を殺めた犯人は、かつて私の運転手を務めていた男です」
「えっ?」
僕は思わず声を上げてしまった。そしてすぐに、自分の迂闊さを後悔する。
「どうかされましたか?」
会長と倉橋さんから、訝るような眼差しを向けられてしまった。また、緋村は緋村で、呆れたとばかりに、小さく肩を竦めてくれる。
「い、いえ、なんでもないです。すみません……」
不自然極まりないが、謝っておくしかない。これで誤魔化しきれたわけでもないだろうが……特段追及されることもなかった。
「とにかく、犯人は私や家族にとって、ごく身近な人間でした。事件当時は、すでに我が家での仕事を辞めた後だったので、どういった経緯で犯行に至ったのか、詳しいことはわかりません。ただ、私の知る限り、とても生真面目な人だったので、まさかあのようなオゾマシイ事件を起こすだなんて……」
「そして、その元運転手に、鬼村夫妻の殺害を命じたのも、奥様だった、と。──一応、その人の名前を伺っても?」
「……久住吾郎という男です」
やはり、久住さんの父親だったのか!
僕は愕然とした。昨日通話した時、田花さんは三十年前の事件について、何も触れていなかった。
果たして、美杉探偵事務所の二人は、この事実を知っているのだろうか?




