穴だらけの密室/闇
われらが来たり行ったりするこの世の中、
それはおしまいもなし、はじめもなかった。
答えようとて誰にはっきり答えられよう──
われらはどこから来てどこへ行くやら?
一九六九年──昭和四十四年、八月十六日。
屋敷の扉が開かれた──途端、鷺沼宗介らの耳に届いたのは、激しく鳴り響くピアノの音色。まるで、篠突く雨音と競うかのように──あるいは、抑制の効かなくなった激情を、鍵盤へと打ちつけるように──、誰かがピアノを弾いていた。
異常事態の発生を察するには、それだけで十分であろう。宗介たちは階段を駆け上がり、その音の出所を目指す。
ふと、唐突に。
演奏が途絶えた。
競り勝ったのは外の雨音で、今度は彼らの足が階を踏み締める音、そして誰かが啜り泣く声が、シンカンとした別邸内に響き渡る。
直後──
階段を上りきった宗介たちの目に飛び込んだのは、両の手足を拘束され廊下に転がる、二人の人間の姿だった。
「完吾!」
宗介の運転手兼使用人である久住が、愛息の名を叫びながら、そちらに駆け寄る。
「完吾! しっかりしろ! 完吾!」
何度も名前を呼び、体を揺さぶる久住の隣りで、宗介も同じように、もう一人の体を起こし、声をかけた。
「真澄さん! 大丈夫ですか⁉︎ 真澄さん! 真澄さん!」
先ほどの啜り泣く声の主は、家政婦である高部真澄だった。宗介は、泣き濡れた真澄の顔から、視界を塞いでいたタオルを取ってやる。
「そうすけ、さん……」
宗介を見上げる真澄の顔に、ほんの一瞬、安堵の色が浮かんだ。が、しかし、それはすぐに搔き消えてしまい、若い家政婦は、再び声を上げて泣き始める。
よほど、恐ろしい体験をしたらしい──いや、手足の自由を奪われ目隠しまでされていたのだから、錯乱するのも当然か。
宗介は、それまで惚けたように立ち尽くしていた鬼村に対し、手伝うよう目顔で促す。彼らは二人がかりで、何があったのか、真澄から聞き出そうとした。
「お、お嬢様が! 紫苑お嬢様が、撃たれて、お、男が、お部屋の中で、ピアノを!」
悪夢に魘されるかのような真澄の言葉を聞き、鬼村は小心者らしく怯えた眼差しを、宗介に向ける。──が、宗介に躊躇いはなかった。視線を隣りへと移した宗介は、息子の目隠しを取り外し、その体を抱き締めていた久住と、頷き合う。
勇敢な運転手兼使用人は、息子を鬼村に任せると、足音を立てずにドアへ近づいた。
その場にいた全員が全員、息を呑むように、ノブに手をかける久住の姿を見守る。
久住はやはり静かに、細くドアを開き、部屋の中を覗き込んだ。──かと思うと、すぐさま主人たちの方を振り返り、
「……だ、誰もおりません」
言ってから、久住は一気にドアを開け放つ。
果たせるかな、その言葉どおり、部屋の中には誰の姿もなかった。
暴漢の姿はおろか、射殺されたはずの紫苑嬢の亡骸までもが、煙の如く、消え去ってしまったのだ。
後に残されたのは、仄かに香る硝煙の匂いと、少女の血痕。そして──
穴だらけの密室だった。
※
二〇一九年──平成三十一年、四月二十八日。
闇。
夜の生み出す闇とは明らかに異なる、人工物によって成立した深い晦冥。
その中に、彼は捕えられていた。
前後左右、果てどなく続くかのように思われるその闇は、しかし実際には、ごく狭い空間を埋め尽くすに過ぎない。
非常に狭い──箱か、檻のような場所に閉じ込められている。それだけは、彼にも理解することができた。
──いったいいつまで、ここにいればいい? この暗闇に閉じ込められてから、もうどれくらい経った?
闇の中、彼は思考する。
わからない。わかるはずもなかった。時間という感覚はおろか、今が昼か夜かさえも、すでに判別がつかなくなっている。
全てがこの冷たい闇に、溶かされてしまったかのように。
──腹が減った。最後に食事をしたのは、どのくらい前だろうか? どうして僕は、こんな仕打ちを受けなければいけないんだ?
彼は、恨む。
虚無のような、闇の中で。
──騙された。僕は裏切られたんだ! 信じていたのに!
彼は、呪う。
耐え難い空腹と、頭痛に苛まれながら。
──突然意識が遠のいて、次に目が覚めた時には、もうここにいた。きっと、何かを盛られたに違いない。
怒りよりも、悲しさ。そして、それ以上に惨めさが優った。騙される方が悪いと言われれば、そうかも知れない。確かに、彼に仕掛けられた罠は、思い返してみれば、見え透いたものだった。
しかし、後悔しても遅いのだ。彼はあの悪魔たちの思い通りに眠り、そして今、稠密なる晦冥に捕らえられている。
──頭が痛い。腹が減った! 誰か、ここから救い出してくれ!
彼は祈り、そして叫ぶ。
闇の中に木霊した咆哮は、やがて虚しい残響となって宙に溶け……その時、「白亜の町」にいた誰の耳にも、届くことはなかった。