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白亜の町に死す ドラマツルギー  作者: 若庭葉
第三章:白い家の惨劇
19/42

私は、あの人を……救えなかったのです

 滞在二日目──二〇一九年、四月二十九日。


 鷺沼家の別宅で、由井夫妻の用意してくれた朝食をいただいた後、僕たち三人はリビングに留まり、宗介会長の到着を、待っていた。

 昨夜は旅行疲れもあり、自分の家に帰ってシャワーを浴びた後は、すぐさまベッドに倒れ込んだ。もうこのまま眠ってしまおうと、瞼を閉じたはいいものの、なかなか寝つけず……。様々な疑問や事件の話──さらには倉橋さんの言いさした言葉やら、天道さんから聞かされた怪談話やら──が、頭の中を駆け回り、次第に、ジッと横たわっていられなくなった。

 ここまで目と脳が冴えてしまっては、仕方がない。僕は、いつも持ち歩いているメモ帳とペンを取り出し、昨日聞いた話を書き留める作業をして、眠気が下りて来るのを待つことにした。

 お陰で今朝は寝不足であり、僕は朝から何度も、欠伸を噛み殺す羽目になった。


 十時を過ぎた頃、宗介会長はお見えになった。

「大変お待たせしてしまい、申し訳ありません。改めまして、鷺沼宗介と申します」

 会長は、出迎えた由井夫妻や、家族らと言葉を交わしたのち、僕たち三人と、それから橘さんたちへ、順に白い頭を下げた。服装は──当たり前だが──昨日とは変わっており、紺色のシャツの上から灰色のジャケットを羽織り、下はチノパンと、いかにも高級そうな革靴という出で立ちである。

 実物の宗介会長と対面した時、僕はうまく言えないが、不思議な気分を味わった。特別疑っていたわけではないのだが、「本当に来たのか」という驚きが、第一の感想。

 そして、第二の感想は──「本当にこんな立派そうな人が、殺人事件に関与していながら、五十年にも亘り秘匿し続け来たのだろうか?」である。実際に会った宗介会長は、自らの義妹を抹殺する計画に手を貸すような人間には、見えなかった。やはり、緋村の推察は単なる妄想でしかなく、この人にやましいところなど、少しもないのではないか?

 あるいは、よほど巧みに、本性を偽っているのか……。

「さっそくですが、二階の書斎に移動して、お話ししましょう」

 屋敷に入って早々、会長は荷物を下ろすこともなく、僕らに告げた。まだ着いたばかりなのだから、少し休憩してから始めてもいいだろうに。まあ、こちらとしては、一日待たされているわけで、すぐに本題に入ってもらえるのは、ありがたくはあった。

「話が済むまでは、誰も二階には上がらないように。……もちろん、盗み聞きをするような不届き者が、私の家族や客人の中にいるとは、思いませんが」

 威厳ある声で釘を刺すと、会長は手ずから僕たちを、書斎へ案内してくださった。

「今日は、一人でお越しになったのですね」

 階段を上がりながら、緋村が尋ねる。

「町の前までは、車で送ってもらいました。何ぶん、孫がまだ幼いもので。部下と他の家族には、その世話をしてもらっています」

 東京にあるらしい邸宅から、奈良の山奥まで、わざわざ車で来たのか。それが事実なら、どう計算しても──六時間以上はかかるはずなので──、未明には出発したはずだ。

 もしかしたら、人目を忍ぶ為に、車での移動を選択したのかも知れないが……そんな強行軍のような真似をしてまで、倉橋さんとの面会を望んだ理由が、ますます気になった。ただでさえ、病み上がりだろうに。

「お孫さんは、お幾つになるんですか?」

 こちらも、緋村の問いだ。

「十歳の子が一人だけ。男の子なのですが、まだまだ親離れできないらしく……特にお母さん──蒼一の奥さんには、未だにベッタリですよ」

 十歳であればまあそんなものだろう。自分がそれくらいの歳の頃はどうだったかな──などと考えているうちに、目的の部屋に着く。

 扉を開けてすぐ、宗介会長は壁のスイッチを押し、照明の光を灯した。

 書斎は、縦に長い作りになっており、左右の壁が書架によって埋められている為、少々圧迫感を覚えた。また、奥の壁に背を向ける形で、立派なアンティークデスクと揃いの椅子が置かれている他、部屋の入り口寄りの位置に、小さな円卓と安楽椅子が、設置されていた。仕事をする時は、奥のアンティークデスク、のんびりと読書をして過ごす時はこちらと、使いわけられるように、なっているようだ。

 他に目についた物といえば、向かって右手の角に置かれた頑丈そうな金庫か。この後すぐにわかるのだが、この金庫の中には、町の建物の鍵が、保管されていた。

「カーテンは、開けないのですか?」

 訝るように、緋村が尋ねる。その視線は、窓を覆い隠す、分厚いベージュ色のカーテンに、向けられていた。

「ええ。あの窓は、雨戸が壊れていて、開かなくなっておりまして……。ですから、カーテンを開けても、ロクに陽の光が入らないのです」

 そう言われて、思い出す。昨日、到着してすぐに、この屋敷の外観を、眺めた時のことを。

 確か、ブーゲンビリアの植ったバルコニーの、左隣りに位置する窓だけ、雨戸が閉ざされていたのだったか。つまり、あの鮮やかなコバルトブルーの雨戸の向こうが、今いる書斎なのだ。

 それから宗介会長は、デスクの椅子を引き寄せて来て座り、倉橋さんが、安楽椅子の方へ腰を下ろす。僕と緋村は、彼女のつき人のように、その後ろに控えることにした。

「宗介会長が、母の借金を肩代わりしてくださったと伺いました。本当に、ありがとうございます。お陰様で、借金のことなんて、昨日まで知らずに生きて来られました」

 椅子に座ったまま、倉橋さんは(こうべ)を垂れた。相変わらず、年齢の割に大人びた口調だ。

 宗介会長は少しだけ驚いた様子だったが、その表情は、すぐに苦しげなものへと変わった。

「……いいんですよ。私は礼を言われるようなことはしていません。それどころか、一度はあなたのお母さんを見捨てようとした人間だ。怨まれたとしても、仕方ないくらいです」

「ですが、最後には助けてくださいました。私や、私の家族のことを」

 倉橋さんは心からの感謝を述べているだろうに。どういうわけか、会長の顔つきは険しさを増すばかりだ。

「そうじゃない」嗄れた声を絞り出し、会長は軽く頭を振った。「私は、あの人を……救えなかったのです」

「あの、母の自殺のことでしたら、宗介会長が気に病む必要は」

「違います。それが、そもそも間違っていたのです」

 宗介会長は、いったい何を言いたいのか。僕はその白い口髭が、もぞもぞと動く様を、見守っていた。

「……あなたのお母さんは、()()()()()()()()()()()()()()()()()。それも、()()()()()()()()()()()()()()()

「えっ?」

 倉橋さんが、小さく声を漏らした。僕は、思わず息を呑む。

 予想だにしない言葉だった。聖子さんの死が自殺ではなく他殺であるということも──そして、彼女を殺害した犯人が、今この町に滞在している人間の中にいる、ということも。

「……どうしてそのようなお考えに、至ったのでしょう? 何か、理由がおありなんですね?」

 冷静沈着な声で──しかし、少々強張った面持ちで──、緋村が尋ねる。

「ええ。……ですが、その話をする前に、ご覧に入れたいものがございます」

 宗介会長は、足元に置いたリュックサックを漁り、その中から、茶封筒を取り出した。手紙でも入っているのだろうかと思ったが、違った。

 会長が逆さまにした封筒の中から現れたのは、古い鍵。元々は金色に塗られていたらしいが、今は大半の部分が錆ついて変色してしまったその鍵を、会長は掌に乗せ、僕たちに見せた。

「これが何の鍵か、おわかりになりますか?」

 わかるはずがないだろう。そう思ったのも束の間、緋村がこう答えた。

「……例の廃屋とやらの鍵、ですか?」

「左様です。といっても、警察が回収したものではございません。捜査が済んだ後、私たちに返却された鍵は」宗介会長は、部屋の隅に置かれた金庫へと、視線を投じる。「あの金庫の中で、保管しております」

「そ、それじゃあ、聖子さんが亡くなった場所の鍵は、()()()()()ということですか?」

 僕は思わず声を上げた。もしそうだとしたら、前提が崩れることになる。

 自殺現場となった廃屋の扉は施錠されていた。そして、その鍵は家の中から発見された──つまり、密室状態だったと、昨日聞かされたばかりだ。

「そのようです。私も、この二つ目の鍵の存在は、つい最近まで知りませんでした。──この鍵は、()()()()()()()()()()()()()から、出て来たのです」

 僕はまたしても、目の前の景色が翳るような感覚に、陥った。


 ※


「これが、先ほどのご質問の答えです。あの廃屋(いえ)には、実はもう一つ鍵があり、その鍵を妻──瑠璃子が隠し持っていた。この事実を知った時、私は疑問を抱かずにはいられませんでした。聖子さんの死は、本当は自殺ではなく、瑠璃子が企図した殺人事件だったのではないか、と」

 苦しげな声色で、宗介会長が言う。もしその考えが事実であれば、鷺沼家はまたしても、大きな罪を犯していたことになる。

 五十年前に起きた、密室殺人に続いて……。

「奥様が企図した、とはどういう意味でしょう? 奥様には、聖子さんを抹殺しなければならない理由が、あったのですか?」

 口許に手を当てながら、緋村が冷静に尋ねた。

「ハッキリとは言えません。ただ、おそらく聖子さんのご両親──鬼村夫妻のことが関係しているのだと、思います。……というのも、この二つ目の鍵は、本来は鬼村夫妻が持っていたものなのです。

 しかし、三十年前に二人が殺害された事件を境に、紛失しておりました。それなのに、その鍵が、妻の手に渡っていた、ということは……考えたくもない話ですが、鬼村夫妻の事件に関しても、()()()()()()()()のではないかと……」

「なるほど。つまり、奥様は鬼村夫妻を殺害した犯人とも、通じていた。もっと言えば、その事件の黒幕も、奥様だった可能性があるのですね?」

 緋村の言葉に、宗介会長は項垂れるように首肯した。──いや、「なるほど」ではない。そんな易々と受け入れていい話では、ないはずだ。倉橋さんの母親も、そして祖父母も、みんな鷺沼瑠璃子の手先によって惨殺された、ということになるんだぞ?

 僕は、恐る恐る、彼女の様子を盗み見る。倉橋さんは、血の気の失せた白い顔を俯け、両膝の上で握り締めた自身の拳を、ジッと凝視していた。まるで、押し寄せる責め苦を、耐え凌ぐように。

「そして、奥様は過去の罪業を隠す為に──聖子さんの存在が、何らかの障壁になると考えて──、自殺に見せかけて殺害するよう、誰かに指示を下した。そんな推論が、宗介会長の中で、成り立ってしまった」

「……そうです」

「大変失礼な話ですが、奥様自身が聖子さんを殺害したとは、お考えにならないのですか?」

「それは……瑠璃子の性格的に、考え難いかと。なんと申しますか、人を使ったり試したりすることを、好むたちでしたので。……加えて、十七年前、瑠璃子はこの町には滞在していませんでした」

「そういえば、蒼一社長もそう仰っていましたね。──話をまぜ返すようで恐縮ですが、その鍵は、本当に鬼村夫妻の持っていた鍵と、同じものなのでしょうか? 奥様か誰かが、密かに複製していた、という可能性は?」

「考えられません。この町の建物で使っている鍵は──この屋敷は別ですが──全て同じ鍵屋さんに発注して作ったものです。しかし、その会社は十七年前の時点で、すでに倒産しておりました。また、鍵自体も少々特殊な品なので、他の会社で作成することも、難しいかと」

「で、あれば……三十年前の事件の際、奥様の手に渡ったと考えるのが、妥当ですね」

「ご理解が早くて助かります。……少し、早すぎるような気も致しますが」

 宗介会長の瞳に、訝しむような色が浮かんだ。これまでの緋村の受け答えを聞いていれば当然か。

 緋村が淡々としていられるのは、五十年前の事件の話をすでに知っていたから──そして、その犯行の裏で糸を引いていたのが、鷺沼瑠璃子だと、推測していた為だ。会長の口にした「人を使ったり試したりすることを好む」という瑠璃子の人物像も、事件の黒幕に、相応しいと言える。

「……とにかく、もう一つの鍵の存在を知った私は、聖子さんのご遺族にも、この可能性を伝えなくてはならないと考えました。つまり、聖子さんを自殺に見せかけて殺害した者が、私の家族の中にいるかも知れない、という可能性です。そこで、あのようなお手紙を送らせていただいた、というわけです」

 緋村と違い察しの悪い僕にも、ようやく理解できた。宗介会長が倉橋さんを白亜の町に招待した、本当の理由を。

「その時は、てっきりご家族の方と一緒にお見えになるものと、考えていました。ですから、家庭教師の先生と、そのご友人が帯同されると知った時には、驚きましたよ」

 ここで久し振りに倉橋さんが声を発した。相変わらず、視線は手元に落としたままで。

「すみません。お手紙をいただいたことは、父と祖父にも伝えたのですが……二人とも、母の話は一切してくれなかったので」

「そうでしたか。もしかしたら、差し出がましい真似をしてしまったかも知れません。しかし、どうしてもあなたには伝えておきたかった。そして、もしあなたが望むのであれば……再度調査を行い、聖子さんを殺害した犯人──妻の命を受けた実行犯──を、突き止めたい」

 会長はまっすぐに倉橋さんを見据え、そう言い切る。しかし、十七年も前に自殺と断じられた事件を調べ直すことなど、本当に可能なのだろうか?

「いかがですか?」宗介会長が重ねて問いかける。倉橋さんは、艶のある栗色の髪を揺らし、かぶりを振った。

「わかりません。どうしたらいいのか……」

 すぐに答えられずとも、仕方あるまい。倉橋さんはつい昨日、母親の素性を知らされたばかりなのだ。

 僕は、友人のたった一人の教え子を、不憫に思った。どうしてここまで辛い話ばかり、突きつけられなければならないのか、と。

「今すぐにご決断いただけなくとも、構いません。ですが、可能であれば、我々がこの町に滞在しているうちに、動き出したい。……でなければ、機を逃してしまうかも知れません」

「機を、逃す……。あの、それはどういう」

 倉橋さんの問いを遮るように──あるいは、先回りして答えるかのように──、緋村が平板な声で言った。

「確かに、十七年前と同じ面々がこの町に集まっている今であれば、犯人探しが可能かも知れませんね」

 この発言に、僕は少し違和感を覚えた。

「でも、社長のご夫人は、お見えになっていませんよね?」

「ああ、麗香さんのことですね。彼女は、容疑者から外しても構わないでしょう。あの時麗香さんがここに来ていたのは、偶々私に用ができたからで、聖子さんとも、鉢合わせていませんので」

 麗香夫人がこの町に着いたのは、会長が聖子さんとの面会を終えた、後だという。なんでも急遽会長──当時はまだ社長だった──に目を通してもらわなくてはならない案件が発生したらしく、当時秘書だった夫人は、資料を携え、屋敷を訪ねたそうだ。

 そして、用事を終えたあとは、三十分と滞在することなく、すぐさま町を出て行った、とのこと。

「麗香さんは、その日はビジネスホテルに泊まって、会社との連絡や残った仕事やらを片付けてから、翌日またここに、出向きました。今度は半ばプライベートで。私に仕事の報告をした後は、しばらくこの町で羽を伸ばしてもらう予定だったんです。……ところが、ちょうどこの部屋で報告を受けていた時、例の廃屋の鍵がまだ返却されていないことを、私が思い出しまして」

「それで、麗香夫人が様子を見に行くことになった、と。──ちなみに、聖子さんが亡くなったと思われる時間は、いつ頃だったのでしょう?」

「だいたい深夜二十三時から二時頃までの間だろう、ということでした。麗香さんがご遺体を発見したのが、朝の九時過ぎでしたので、警察も、正確な時刻は絞り込めなかったのです」

 とはいえ、麗香夫人のアリバイは成立するのだろう。彼女がビジネスホテルに投宿したというのが事実であれば、夜中に抜け出せば防犯カメラなり何なりにその様子が映ったはずだ。一見して他殺の可能性が低いからといって、警察が証言のウラを取らないはずがない。

 にも拘らず、自殺として処理された以上、麗香夫人の行動に偽証(うそ)はなかったと見てよさそうだ。

「聖子さんには、倉橋さんのお父さんと知り合う前に、交際していた男性がいたと、伺いました。聖子さんの抱えていた借金も、その男性から借りたお金であり、一度は踏み倒そうとしていた。……もし他殺を疑うのであれば、一番明確な動機を持っていたのは、この人だと思うのですが?」

「そうお考えになるのも、無理からぬことでしょう。しかし、その男にもまた、アリバイがあったのです。

 聖子さんの元交際相手は、事件のあったと見られる時間帯、警察の世話になっていました。なんでも街中で泥酔してしまったとかで、その日は一晩中、警察署の保護室で過ごしていたそうです」

 警察がアリバイの証人であるのなら、覆りそうにないか。あまりにも「できすぎている」ような気が、しないでもないが……。

「それに、その男性からしてみれば、聖子さんを殺めてしまったら、借金の返済も見込めなくなるわけですし……疑いたくなるお気持ちもわかりますが、やはり、この事件には関与していないかと」

「元交際相手は、あくまでもお金を返してもらうことに、拘っていたわけですね?」

「そのはずです」

「宗介会長は、実際にその男性とお会いになったのですか?」

「ええ。直接面会して、聖子さんの代わりにお金を支払いました。不動産会社を経営していたようで、当然ではありますが、それなりに羽振りがよさそうでしたよ。……ただ、ハッキリ申しまして、あまり品のいい方とは思えませんでしたが」

「そういえば、聖子さんは、幾ら借金をしていたのですか?」

「……一千万ほど。──そもそも、聖子さんは(くだん)の元交際相手と出逢う以前から、借金を抱えていたそうでして。どうも学費や生活費を賄う為に、違法な金融会社から金を借り入れていたようです。普通に働いていては返済は難しい額ですし、まだまだ若い身空ですから、自己破産という選択も、できれば取りたくはない。二進も三進も行かず困り果てていたところで、例の男性と出逢ったのです」

「つまり、借金を返済する為に、新たな借金を拵える羽目になった、と」

 そして、今度は元交際相手に返す分の金を工面すべく、聖子さんは鷺沼家を頼った……まさしく負の連鎖だ。もしかしたら、聖子さんは、初めから借金の肩代わりをさせる目的で、その男性に近づいたのかも知れない

 いずれにせよ、倉橋さんにとっては、またしても辛い事実を突きつけられる形となった──と、そこまで考えたところで、僕はあることを思い出す。

「あの、聖子さんは、毒物を呑んで亡くなったんですよね? それなら、事前に聖子さんの飲み物へ、毒物を混入させておくことも、可能だと思いますが」

 話の腰を折る形となってしまったが、思い切って口にしてみた。毒物による犯行であれば、そもそもアリバイの有無は関係ないのではないか?

「それは考え辛いかと。聖子さんは亡くなる直前まで、持参した水筒に入れた緑茶を、呑んでいたそうです。しかしながら、水筒の中身からは、中毒死を引き起こすような成分は、検出されませんでした」

 また、コップの中に残っていた緑茶は、ごく少量であった為、そこから毒物の有無を割り出すことは、できなかったという。

「犯行後、犯人が水筒の中身だけを入れ替えた、という可能性も、考えられます。が、そもそも、いつ口にするかわからない水筒の中身に毒物を仕込んでおくというのは、不自然ではないでしょうか?──例えば麗香さんが犯人だと仮定した場合、毒を仕込むことができたタイミングは、私の元を訪た前後になります。しかし、それから深夜まで、聖子さんが一切お茶を呑まなかったとは、思えません」

「……仰るとおりですね。我ながら、浅はかな考えでした」

 ここは素直に負けを認めるべきだろう。会長の言葉はまさしく正論だし、僕が犯人でも、そんな不確かな方法は選ばない。

「ところで、改めて確認したいのですが……。当時この町に滞在していたのは、瑠璃子さんと麗香さんを除いた鷺沼家の皆さん──すなわち、宗介会長と蒼一社長に、ご兄弟の紅二さんと三黄彦さん、それから彼らの叔母である橙子さん。この五人だけで、間違いありませんか?」

 緋村の問いを聞いた僕は、少しだけ驚いた。まるで、再調査を行うことが決まったかのような、口振りではないか。

 もしや、倉橋さんの返答に拘らず、緋村は単身で、この事件に挑むつもりなのか?

「一応、家事や雑務を頼む為に雇ったお手伝いさんが、一人、同行していました。しかし、彼女は聖子さんとも瑠璃子とも接点がない為、考慮する必要はないでしょう。……ただ、あと一人だけ、容疑者のリストに、加えるべき人物がおります」

「どなたでしょう?」

 宗介会長は石のように強張った表情のまま、低い声を響かせた。

「……()()()()()です。十七年前のあの日、橘さんも、この町に滞在していました。今回と同じく、仕事のお話をさせていただく為に、我々が招待したのです」

 僕には、少なからずショッキングなことが告げられた。あの善良そうな芸能マネージャーも、容疑者の一人だというのか……。

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