初春の令月にして 気淑く風和らぎ
約四日前──二〇一九年、四月二十四日。
町の入り口に佇んだカーネル・レンジャーは、驚嘆のあまり唇を閉じることさえ忘れ、眼鏡のツルを摘んだまま、分厚いレンズの奥にある瞳を、瞬かせた。
彼の眼前に広がっていたのは、それほどまでに異常な光景。レンジャーにも見覚えのある景観──が、それでいて本質は似ても似つかない、紛い物の町並みであった。
「噂には聞いていたが……まさか、本当にこんな場所が、日本の山奥にあるとは。君のお祖父さんは、いったい何を考えて、これほど大がかりなものを造ったんだ?」
半歩前に立つ蒼一の背中に、問う。
旧友は答えるよりも先に、歩き出してしまった。仕方なく、レンジャーもそれに倣う。──答えは、少し遅れて寄越された。
「……母への誕生日プレゼント兼、結婚祝いだそうだ。父と母のハネムーンの行き先が、ギリシャのキグラデス諸島でね。母はその時過ごした白亜の町並みを痛く気に入ったらしく、祖父にせがんで、可能な限り再現させたそうだよ」
「豪勢な話だな。鷺沼家の女王様に、手に入れられないものはない、ということか」
静まり返った偽りの町に、複数の足音が響く。
レンジャーは、チラリと背後を確認した。レンジャーのすぐ後ろには、蒼一の部下が一人、主人とゲストの荷物を左右の手に持ちながら、ついて来ていた。背広に身を包んではいるものの、屈強な体つきといかにも残忍そうな顔立ち──その左頬には、石器で斬りつけられたのではないかと思うような、大きな裂傷の跡が刻まれていた──は、到底一般的なサラリーマンのものとは思えない。もしもレンジャーが逃げ出そうものなら、彼は猟犬のように猛然と飛びかかり、力尽くで捩じ伏せにかかるのだろう。
視線を、友人の背に戻す。ジェルで固めた頭は、ずっと前だけを向いていた。
「こんな風に言うと、君は気を悪くするかも知れないけど……僕は正直、傲慢なことだと感じるよよ」
「……何がだね?」
「どんな町にも、そこで暮らす人の歴史や、取り巻く風土というものがある。それを全て無視して、外見だけを再現したところで、本当の美しさまでは手に入らないだろう。遊園地のように多くの人を楽しませる為に存在するのならともかく、それを一族──いや個人で独占しようというのだから、傲慢以外の何物でもない」
蒼一は、すぐには返事を寄越さなかった。やはり気に障ったのだろう。レンジャーが後悔しかけた矢先、
「……同感だな。私も、この町はあまり好きではないよ」
意外な言葉だった。
しかし、そう答える蒼一の声に、レンジャーはどこか懐かしいものを感じる。淡々と、事実のみを述べるようなその声色は、古臭い偏見や世間の風潮に流されない、聡明な留学生──ソーイチ・サギヌマを想起させた。
蒼一の中にも、学生時代と変わらない部分が、わずかながら残っているのではないか。そんな幽かな希望を、レンジャーは見出そうとした。
鷺沼家の別荘に、到着した。
蒼一が靴を脱ぐのを見たレンジャーは、それに倣い、用意されていたスリッパに履き替える。通されたのは広々としたリビングであり、レンジャーは客人というより、入社面接に臨む学生にでもなったような気分で、ふかふかのソファーに腰を下ろした。テーブルを挟んだ向かい側の席に、蒼一社長がかける。
二人が着席してすぐ、アイスコーヒーが運ばれて来た。レンジャーたちよりも少しだけ若いらしい男が、ウエイターのように丁寧な所作で、グラスを客人の前に置く。彼はそのまま退室するものかと思いきや、どういうわけか、蒼一のすぐ後ろに控えた。
「長旅で疲れただろう。まずはくつろいでくれ。本題に入るのは、ひと息ついてからだ」
脚を組んでソファーにもたれた蒼一が、「どうぞ」とばかりにコーヒーを手で示す。旧友と、その背後の壁にかけられた一族の肖像画たちが、レンジャーを見つめていた。
「ありがとう。いただくよ」
従順なフリをしつつ、レンジャーは背後に意識を向けた。リビングの出入り口は、荷物持ちをしていた古傷の男によって、塞がれている。加えて、蒼一の方には先ほどの男がいるわけで、前にも後ろにも、逃げ道がない。
──いや、逃げる必要などない。僕は、ソーイチを救う為に、はるばる日本へとやって来たんだ。
渇いた喉によく冷えたコーヒーを流し込みながら、レンジャーは、自らを鼓舞した。
レンジャーが今回の来日を決意した理由は、決してリンカ・クラハシと再会する為ではない。そもそも、本当にそんなことが叶うとすら、考えていなかった。おそらく、蒼一は自分を誘い出す為だけに、いい加減な出まかせを、口にしたのだろう。
しかし、この際そこに関しては、どうだっていい。レンジャーにとって何よりも重要なのは、蒼一があらぬ方向に舵を取らぬよう、説得することだ。
そして、願わくば、昔の蒼一を取り戻してほしかった。誰が相手であろうと対等に接し、レンジャーの憧れた「聡明さ」と「勇気」を併せ持つ、あの頃の蒼一を。
「それで?」コースターの上にグラスを戻し、レンジャーは尋ねる。「具体的に、僕に何をさせたいんだ?」
「仕事の話は後にしよう。それより、我が国は間もなく、新しい元号へと変わるのだが……当然、君も知っているだろう?」
「社長様は世間話がしたいのか。いいよ。つき合おう。──もちろん、知っているさ。世界中で報じられているからね。確か、『レイワ』だったかな」
「そう。この『令和』という単語の出典元は、万葉集における梅花の歌の序文らしい。
元々の文章を書いたのは、奈良時代初期の太宰府長官、大伴旅人。……そもそも、梅花の歌というのは、大伴旅人の邸宅にて開かれた宴で詠まれた、三十二首の歌のことでね。当時、梅の花は中国から伝わって来たばかりで、一般には珍しいものだった。だからこそ旅人は、花を愛でる為の宴を、催したわけだ」
「詳しいね。勉強になるよ。社員たちへのスピーチ用に、調べたのかな」
軽い皮肉を交えつつ、レンジャーは再びアイスコーヒーを口に含む。少々苦味が少し強すぎる気がしないでもないが、コーヒー党のレンジャーにとっては、むしろ大歓迎だ。
「『初春の令月にして 気淑く風和らぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫らす』。……美しい月の出た春の夜の清々しさと、化粧をした女性のように華やかに咲く梅の花、馥郁たる蘭の香りまでもが、ありありと想像できる。これまで、日本の元号は、すべて中国の古典が由来となっているそうだが……今回初めて日本の古典から採用されたのも、頷けるほどの名文だ」
「……そうだね。僕には少し難しい言葉が多いけど、でも、美しさは十分に伝わったよ。やはり、日本特有の美意識というのは、興味深い」
本心からの感想だった。学生時代、初めて蒼一から日本語を教わって以来、レンジャーはその異国の言葉の持つ独特の響きを、気に入っていた。だからこそ、ここまで流暢な日本語を、身につけることができたのだ。
それはそうと。
レンジャーの置かれている状況は、依然として奇妙なものであった。蒼一の部下らしき男たちは相変わらず突っ立ったままで、一言も発さずに、二人のやり取りを眺めている。
──いったい何故、ソーイチは、こんな話を僕に聞かせるんだろう? こんな、意味のなさそうな話を。
「……しかし、残念なことに、一部の国外メディアには、正しい意味が伝わっていないようでね。イギリスでは、『令』という漢字には『指令』、すなわち『order』という意味があると報じられたらしい。指令だなんて、まるで調和を義務づけられているようじゃないか」
「確かに、あまり聞こえがよくないね。──なあ、ところで、どうして君は」
話している途中で、レンジャーは急激な眠気に見舞われた。そのことを知覚すると間もなく、瞼が重くなり、今にも意識を手放してしまいたくなる。
──おかしい。何故、こんなにも急に……?
レンジャーはブルブルと首を振り、必死に睡魔を退けようとした。しかし、一向に目が冴えることはなく、それどころか、もはや辛うじて瞼を開いているだけで、精一杯の状態となっていた。
「ソー、イチ……」
レンジャーは、テーブルの向こうへと呼びかけた。
しかし、蒼一はその姿など目に映らないとばかりに黙殺し、左腕に巻いた時計を見下ろす。そして、背後に立つ男へと、顔を向け、
「早いな。もう効いて来たのか」
やはり、何かがおかしい。危険を察知したレンジャーは、無理矢理立ち上がろうとしたのだが、脚が言うことを聞かず……カーペットに倒れ込む寸でのところで、どうにかテーブルの縁ににしがみついた。
「どうした、カーネル。随分と眠たそうだな」
その声は、遥か彼方から聞こえているようでもあり、すぐ耳元で発せられたようにも感じられた。
「ソー、イ……」
「眠る前に、一つ、いいことを教えてやろう」
レンジャーの瞼が完全に閉じ、その意識が海底よりも深い夢寐の底に、沈み込む間際。
悪魔とも神とも思われる声が、部屋中に反響した。
「キャシーの死は、事故ではない。本当は、仕組まれたものだったのだよ。──事故死に見せかけて殺すよう、我々がオーダーしたんだ」
──嘘だ! 君に、僕の妻を殺す理由なんて、ないじゃないか!
まともな状態であれば、レンジャーはそう反駁していたに違いない。
しかしながら、それは叶わなかった。
死神にも似た蒼一の言葉を聞いた直後には、レンジャーの瞼は完全に閉ざされ、脳による制御を失った肉体は重力にのみつき従い、頽れてしまった。
※
うつ伏せに倒れ込んだレンジャーは、そのままピクリとも動かなくなる。それを見た蒼一は、やおら立ち上がり、口を結んだまま、出窓へと近づいた。
蒼一は、そこに飾られていた置き物を手に取り、今度は体の向きを変え、眠りに落ちたレンジャーの元へ、歩み寄る。その置き物は、ルーヴル美術館所蔵のヘーラー像──をモチーフにして造られた彫像であり、右手を持ち上げ直立したポーズと、四角い台座の厚みから、鈍器として用いるのに最適な形状をしていた。
「何をなさるつもりで?」
レンジャーの座っていたソファーの後ろから、古傷の男が、訝しげに尋ねる。蒼一はそれに答えることなく、レンジャーの体に馬乗りになり、握り締めたヘーラー像を、薄汚れた赤いキャップ目がけ振り下ろした。
「ちょっと!」
男が制止の声を上げたのとほぼ同時に、ゴンっと、硬い物同士の衝突する音が、リビングに木霊した。へーラー像はレンジャーの後頭部に直撃し、その衝撃で、眼鏡のツルがバッタの脚のように歪む。
レンジャーは顔を歪ませ、低い声で呻いたが、結局目醒めることはなく──。真紅のシミが、赤い帽子と縮れた髪の毛に、広がった。
その様を見届けた蒼一は、しかし少しも気が収まることはなく、鼻息を荒げ、砕けそうなほど歯を食い縛り、再び「女主人」を象った彫像を、振り上げた。
──追撃を阻止したのは、先ほどの男だった。腕自慢らしい無骨な厚い手が、蒼一の右手首をガッチリと掴み、どれほど力を込めようとも、振り払うことは叶わない。
「それくらいにしといたってください、社長。せっかくの人質やのに、殺してもうたら不味いでしょう」
蒼一は、反射的に部下の顔を睨み返した。
しかし、古傷の男は少しも動じず、下卑た苦笑を崩さない。毛虫のように太い眉と、小狡そうな細い目、潰れた鼻、そして分厚い唇──角ばった顔に乗せた特徴的なパーツのどれもが、他人を見下しているようで、改めて見ても、腹立たしい相貌だ。
「鈍山さんの言うとおりだ。それに、結局殴り倒すなら、わざわざ睡眠薬を使った意味がなくなっちゃうよ。兄さんがどうしてもって言うから、特別よく効く薬を貸してあげたのに」
人をおちょくるようなニタニタ笑いを浮かべ、紅二が言った。嫌な連中だ。どちらも立派な犯罪者のクセに、自らの責任を全うしようとしている人間のことを、小馬鹿にしやがって。
が、二人の言動や下卑た表情が、かえって蒼一を冷静にさせた。こんなクズ共に諭されているようでは、先が思いやられる。この計画を完遂し、望みどおりの成果を得る為には、まだまだやらなくてはならないことが、山ほどあるのだ。
「……わかっているとも。手を離しなさい」
「おっと、失礼しました」
解放された蒼一は、掴まれていた手首を慰りつつ、レンジャーの体から離れた。そして、血のついたヘーラー像を、ソファーの上に放り投げる。蒼一は汗ばんだ額を拭い、乱れてしまった髪を、やはり返り血で汚れた手で撫でつけた。
「……地下室に運べ」
「了解しました。ほら、紅二さんもボケっとしてへんと、手伝って手伝って」
「えっ、僕がぁ⁉︎」
助けを求めるような視線を寄越す弟に、蒼一は何も言わず、頷き返す。紅二は不承不承といった様子ながらも、逆らうことはせず、レンジャーの足の方へ、回り込んだ。
「はい、せーの」と鈍山が合図し──根っからの悪人故か、この男は蒼一の犯行に加担する間、終始巫山戯ているように見えた──、二人は気を失った人類学者の体を、持ち上げた。
レンズにヒビの入った眼鏡が、まずカーペットの上に取り残された。それから、レンジャーの頭から、赤い野球帽がずり落ち、眼鏡のすぐ傍らに転がる。
「放っておきなさい。不要なものは、全てあの洞窟へ棄てに行けばいい」
足元に落ちた帽子を目で追いかけた鈍山に指示し、蒼一は、誰も座っていなかったソファーへと、腰を下ろした。ドッと疲れが押し寄せるのを感じ、そのまま深く、背もたれに身を預ける。
死体のように眠る男が運ばれて行くのを、虚ろな瞳で見送り──蒼一は、彼らの姿が見えなくなったところで、自らの手で蓋をするようにして、瞼を閉じた。
レンジャーの監禁に成功したことで、第二段階まではクリアすることができた。しかし、気を抜くにはまだ早い。
──ひと心地ついたら、不要なものを天国洞まで棄てに行かせなくては。それと、ソファーのシーツも替えさせよう。血がついてしまった。忌々しい、奴の血が。
客人が来るまでに、全ての痕跡を消し去らなくてはならない。
そして、それらの処理が済んだ後は、ゲストを迎え入れる準備が待っている。今まで何度も頭の中でシミュレーションして来たことであるし、蒼一には必ずやり遂げられるという、自信があった。しかし、油断は禁物だ。
特に、主賓であるあの娘の前では、公明正大な敏腕社長で貫き通さなくては……。
蒼一の右手が、自然と額から下り、口許へと向かいかけた、その時。
「──血に塗れて眠る、大企業の社長か。さすが、兄貴は悪人役が、よう似合うわ」
冷笑的なダミ声が、不意に投げつけられる。蒼一が瞼を開けると、いつの間にそこにいたのか、厨房の戸口から、三黄彦がこちらを眺めていた。
出来の悪い末弟は、立ったままウイスキーを手酌し、グラスの口をひと舐めする。
「あんなオッサン攫って来るやなんて。まるで俺の『拷問偏執狂』みたいやないか。──なぁ、ホンマに拷問するんやったら、俺にも見学させてくれへん? なんやったら、手伝ったろか? こっちとしても、ええリハーサルになるからなぁ」
三黄彦はさも愉快そうに、酒で赤くなった頬肉を歪ませ、クツクツと引き笑いをする。下衆そのものといった表情に、蒼一は嫌気が差した。
「……お前如きが、何の役に立つというんだ?」
「ふふっ──あぁ?」
「とうに四十を過ぎているというのに、いつまでも妄想遊びがやめられないような人間に、何ができる? お前はアリとキリギリスで言えば、間違いなく後者。それも、すでに冬が訪れていることにさえ気づけない。鳴き声ばかり威勢のいい、惨めな羽虫だ」
「……ふん。ずいぶんと陳腐な比喩表現や。ま、兄貴みたいな使命感の強い人間からしたら? 俺なんか、好き勝手やっとるチャランポランにしか見えんやろうな。実際、俺はまだ満足のいく評価を、もらえてへんし。……けどな、それは今のところってだけの話や。俺にはプランがある。世間がひっくり返るような、とっておきのプランが」
見苦しい。そんな負け惜しみでは、虚勢にすらなっていない。
蒼一は呆れるあまり、頭の中が浮腫んだように、ズキズキと痛むのを感じた。どうしてこう、自分の周りには、クズしかいないのか。
「……興味がない。お前の話を聞いていると、余計に気分が悪くなる。呑むなら、どこか余所へ行ってくれ」
「言われずとも、そうさせてもらうわ。けど、あんまり俺のことを舐めとったら、後で後悔するで? 謂うなれば、俺は眠れる獅子っちゅう奴や。そして、目醒めの時は近い!」
──陳腐な比喩表現はどちらだ。
蒼一の冷ややかな眼差しも、三黄彦には全く届いていないらしい。ウイスキーよりも、自身のセリフに酔いしれているのだろう。
処置なし。こいつはすでに、手遅れのようだ。
蒼一が、気の触れてしまった末弟のことを憐れんでいると、今度はリビングの入り口に、叔母の橙子が、顔を覗かせた。
「あら、二人ともいいところに。私、今からお祈りをしに行こうと思っているんですけどね。せっかくだし、紅二さんも誘って、みんなで一緒にどうかしら? きっと、紫苑も喜んでくれると思うわ。あの娘、昔から賑やかなのが好きだったから」
蒼一の頭痛は、酷くなる一方だった。イカレている。どいつもこいつも……。
しかし、どんなに気の狂った連中ばかりだとしても、家族は家族だ。長男として、蒼一が守らなくてはならない。
偉大なる鷺沼家の栄誉の為に。ひいては、我が国の経済、そして未来の為にも。