とんでもない町に来てしまった
先に言葉を発したのは、田花さんだった。
『鬼村──というか、あの三人にはアリバイがあったはずや。宗介たちは、十七時過ぎから十九時頃まで、村の集会所におった。その話し合いには、鷺沼家の関係者だけやのうて、カミラ村の青年団も参加しとったんやぞ? 仮に、アリバイの証人が宗介と久住の父親だけやったなら、偽証とも考えられるが……部外者──それどころか、鷺沼家に恨みを抱いとるような人間が、二人もアリバイを証言しとる。これはどう説明すんねん』
「その二人もグルだったんでしょう。勿論、真面目に言ってますよ。──カミラ村の代表者たちと虻田が接触していた、という証言があったんですよね? そして、虻田は鷺沼家の人間と通じていた。鬼村医師が関与していなければ、現場は密室にならず、部屋から出て来た彼の存在を、宗介会長らが黙殺したのですから、そう考えるのが妥当です。……となると、カミラ村の人間と虻田の密会も、見え方が変わって来る。青年団の代表たちは、虻田に鷺沼紫苑の抹殺を依頼したのではなく、犯行に際しての打ち合わせや取り引きを行なっていたのかも知れません。
あるいは、彼らの方が先に、鷺沼家の手下となっていて、虻田に依頼を持ちかけるよう指示を受けたか。……いずれにせよ、虻田と鷺沼家が共犯関係にあったと思われる以上、鬼村医師のアリバイの証人である青年二人も、仲間だったと考えるべきかと」
「で、でも、カミラ村の人間は、鷺沼家を恨んでいたんじゃなかったのか? 相当強引な手段で立ち退かせたそうだし」
堪らず口を挟む。それこそ理屈はわかるのだが、容易には受け入れ難い話だ。
「そりゃ、恨んでる人もいた、というか、そっちの方が多かったろうな。しかし、全員が全員そうだったとは限らない。特に若者だったら、本心ではさほど立ち退きに抵抗していなかったのかも。まあ、この辺のことは本人達にしかわからねえし、どこまで行っても想像の域を出ねえけど。──それより、さっき後回しにしていたことについて、そろそろ触れておこうか」
『ああ、耳栓やのうて、ピアノの演奏で物音を搔き消した理由、か。お前の考えやと、物音を搔き消す以外にも、目的があったんやろ?』
「ええ。今の話とも重なりますが、おそらくもう一つの目的は、鬼村医師のアリバイを補強すること、です。もし耳栓のような物を使って音を消した場合、犯人がどれくらい現場に留まっており、いつ逃走したのかが不明瞭になる。それでも、カミラ村の青年団という証人まで用意してアリバイをでっち上げたのだから、十分なようにも思えますが……この犯行を企図した人物は、そうは考えなかったのでしょう。そこで、現場にあったピアノを利用することにした。ピアノの音は、犯行直後から会長たちが帰って来るまで一度も途切れませんでした。すなわち、犯人は犯行後三十分もの間、現場に留まっていたのだと、久住さんたちに、証言させることができます」
これにより、疑いの目は襲撃のあった十八時半から、ピアノの音が鳴り止んだ十九時頃までの間に、アリバイのない人物へと向けられる、という寸法か。容疑を逃れる為とはいえ、ずいぶんと手の込んだことをしたものだ。
「証人の視界を封じ、その隙に鬼村医師を現場に出入りさせたのも、共犯者の存在を悟らせない為ですね。あくまでも、この犯行は虻田一人によるものであり、他の人間──特に鷺沼家の者は、一切関与していない。そう思わせる計画だったんでしょう」
『てことは、虻田が犯行後も犯行道具や紫苑の死体を所持しとったのも』
「虻田の単独犯だと思い込ませる為の仕上げとして、誰かが残して行ったんですよ。虻田を、自殺に見せかけて殺害した上で」
──惨たらしい。それ以外の言葉は浮かばなかった。無論、緋村の語った推察が全て真実であれば、の話だが。
「それと、俺が思うに『用事』を済ませた鬼村医師は、あることをする為に、窓を開けてから、虻田とピアノの演奏を入れ替わったのでしょう。窓の鍵や窓ガラスに血が付着したのは、この時です。そして、虻田だけが先に、紫苑さんの死体を抱え、扉からベランダに出た」
「入れ替わったって、どうやって? ピアノの演奏は、ずっと途切れなかったんじゃ」
「おそらく、リレー連弾の要領で交代したんだろう。要するに、虻田の運指が高音に移ったタイミングで、すかさず鬼村医師が低音を弾き、奏者が入れ替わった。これなら音は途切れません。当然、息を合わせる必要があったでしょうが……まあ、多少ミスをしたとしても、錯乱状態にあった久住さんたちなら、誤魔化すことができたはずです」
『そらまた、えらい器用なことをしたもんやな。けど、そもそもどうして虻田の方が先に現場を出たって言いきれんねん。ホンマは宗介らが帰宅する直前まで、部屋ん中におったかも知れんやろ。
あるいは、虻田だけ一足早く逃げとったなら、鬼村を部屋に招き入れてすぐに、死体を抱えてベランダに出たとも考えられる。これなら、わざわざリレー連弾なんて小難しいことまでして、演奏を入れ替わる必要はなかったはずや。初めから、鬼村一人に弾かせとけばええねんから』
先ほど緋村も言ったとおり、案外鋭い指摘をして来るものだ。いや、僕の思考が複雑な話について来られていないだけで、これくらい、当然のことなのだろうか?
「根拠は、窓と鍵盤の両方に、血痕が残されていたことです。そして、この事実から、鬼村医師が現場を密室にした理由も推察できます。──ところで、窓の方に残っていた血痕ですが、いつ付着したものかわかりますか?」
『いつってお前』考え込んでいるらしく、間が空いた。『……ピアノを弾く前、か?』
「そうとしか考えられません」
緋村は満足げに首肯した。が、僕は少々納得ができなかった。どうしてそんなことが断言できるのだろうか? 警察のような、科学捜査を行ったわけでもあるまいに。
「『なんでわかる?』って顔だな。別に難しい話じゃない。ただ、血って案外すぐに乾くだろ? で、鍵盤にも付着していた以上、誰かが血のついた手でピアノを弾いたことになる。どれだけそいつの手が血みどろだったとしても、さすがに演奏を終えた頃には、血は乾いていたと見るべきだろう。犯人の手から流れ出ていたわけじゃないんだから」
『そういうことやな。──加えて、ピアノの演奏は宗介らが帰宅するまで途切れることなく続いとった。せやから、必然的にその誰かが、窓に血をつけられるタイミングは、そいつがピアノを弾き始める前しかないわけや』
やっと得心がいった。相変わらずややこしい話ではあるが、理屈としては当たり前のことだ。
『順番はええとして、や。結局それが何に繋がんねん。密室を作った理由なんぞ、少っしも見えて来えへんわ』
「そんなことはありません。まず、演奏者が入れ替わったと考える根拠から行きますが……そもそも、最初から最後まで、同じ人間がピアノを弾き続けたのであれば、窓と鍵盤の両方に血がつくことはなかったはずです。これも単純な話で、紫苑さんは拳銃で撃たれました。──つまり、犯行時点で、犯人の手が血で汚れることはなかったんです。そして、ピアノの演奏は、久住さんたちが部屋を追い出された数秒後には、始まっていた」
「窓に触れる時間がない!」
「そう。だからこそ、最初にピアノを弾き始めた人物と、血のついた手で窓と鍵盤に触れた人物は、別の人間だと考えられる。──その人物は、『猫踏んじゃった』の演奏が行われている間に、何らかの理由で手に紫苑さんの血をつけた後、窓を開けた。そして、すぐさま演奏を入れ替わったからこそ、窓と鍵盤の両方に血が付着することになった。
仮に、虻田と共犯者がそれぞれ紫苑さんの死体に触れ、どちらも手に血がついた状態で、片やピアノの演奏をし、片や窓を開けたのだとしても、結局は同じこと。何にしても、最後まで部屋に残っていたのは共犯者の方で、その共犯者は鬼村医師だと考えれば、密室の謎は崩れるのだから」
『……確かにな。けど、そうなると余計に、現場を密室にした理由が謎や。何のメリットもないどころか、自ら首を絞めとるようなもんやろ』
これが窓ではなく扉の方が開け放たれていたのであれば、何ら問題はなかった。花の絨毯など気にする必要はなく、ただ単に犯人はそこから逃走したというだけのことだ。
しかし、実際には窓の方か開けられており、ブーゲンビリアを踏み締めた形跡がなかった為に、奇妙な密室状態が出来上がってしまった。
そもそも、いったい何故、鬼村医師は窓を開ける必要があったのか。そう尋ねると、
「ああ。さっきは『あること』なんてボカした言い方をしたが、要するに──合図を送る為だ。外で待機していた、会長たちに」
またしても、拍子抜けするような答えだ。一応、合理的な理由ではあるが……。
『ちょいちょいちょい。お前、さっき俺が似たようなこと言うた時は、散々酷評しとったやないか。それやのに、やっぱり合図を送っとったって言うんか?』
「あんたのは、虻田がピアノを弾いた理由を、無理矢理捻り出しただけだろ。俺が言ってんのは、窓を開けた理由の方だ。──鬼村医師の用事が済んだ後、すぐに虻田と演奏を代わり、死体を運び出させる手はずになっていたんでしょう。そして、外で待機していた宗介会長や、久住さんのお父さん──あるいは、カミラ村の青年たちも手伝ったのかも知れませんが──が、迅速に死体を受け取れるよう、鬼村医師は窓を開け、合図を送ったんです」
『なんや納得できんなァ。だいたい、なんで窓を開けることが合図になんねん。もしかして、それこそピアノの音を外に漏らしたとか、そんなんちゃうやろな?』
「無論、違います。元からピアノの音は聞こえていたでしょうし、何度も言うように、外は土砂降りでした。窓を開けることで、多少ピアノの音が大きくなっただけでは、わかり難いでしょう」
「もしかして、部屋の灯りとか?」
音がダメなら光ではどうかと考えたのだが、緋村は「それも違う」と首を振った。
「窓のカーテンは初めから開けられていた。だからこそ、カーテンには血がつかなかったんだ。つまり、部屋の明かりも最初から外に漏れていたことになる。──そもそも、窓の真上の屋根は大きく迫り出していたし、目の前にはブーゲンビリアもあった。外からどんな風に現場の部屋が見えたかまでは、わからない。が、少なくとも、窓明りはさほど目立たなかったんじゃねえかな」
『ほんなら、鬼村は何を』
「光、ですよ。つまり、部屋の明かりとは別の強い光を発生させ、死体を運び出す準備が整ったことを知らせたんです」
いや、結局光は合っていたのか。そうツッコミたくなる気持ちを抑え、僕は考える。鬼村医師はどのような方法で、その「強い光」とやらを発生させたのかを。
今度のクエスチョンは、さほど難しくはなかった。そして、答えを思いつくと同時に、「これだけ揃えば十分」という緋村の言葉の意味を、ようやく理解する。
緋村の組み上げたパズルにおいて、これが最後のピースだったのだ。
「……カメラか。鬼村医師は、カメラのフラッシュを焚くことで、合図を出した。窓を開けたのは、光がより鮮明に届くようにする為──そう言いたいんだな?」
「イグザクトリー。それなら、確実に気づいてもらえるだろ?」
大雨の夜であることを踏まえると、これ以上ないほど最適な合図だったはずだ。
窓を開けた鬼村医師は、さながら夜空でも撮影するかのように、ベランダへと手を伸ばし、カメラのシャッターを押す。
と、同時に放たれた、眩い閃光を見上げ──庭で待機していた彼の仲間たちは、少女の死体を受け取るべく、部屋の真下へと移動する。そんな一幕が、瞬く間に、脳裏に浮かんだ。
※
『……ナルホドな。それでお前、やけに写真のことを気にしとったんか。要するに、その合図に使われたんが、宗介のカメラやったわけや』
「おそらくは。当然ながら、当時からカメラ撮影用のフラッシュは存在しました。といっても、今から五十年も前──一九六九年のことですから、たぶんストロボフラッシュではなく、フラッシュバルブを使っていたんでしょう。普及したばかりのストロボフラッシュは、光量が弱かったそうですから。それに、アルバムに納められていた紫苑さんの写真も、赤目現象を起こしていたようですし」
『赤目現象って、フラッシュの光で目が赤く写るアレか?』
「ええ。瞳孔の動きが活発な子供や、瞳の色素が薄い人に、起きやすい現象です。暗い場所で瞳孔が開いているところにフラッシュの光が当たることで、網膜の血管が赤く浮かび上がるわけですね。──加えて、ポケットカメラにフラッシュバルブを取りつける場合、レンズと光源の位置が近いと、余計にこの赤目現象が起きやすくなります。もっとも、フラッシュバルブの多くは白黒写真用だったようで、カラー写真を撮る為には専用の物を用意する必要があるそうですが。──ちなみに、世界で最初のフラッシュバルブは、一九二九年のドイツで」
『いやそこまで訊いてへんわ。ホンマ、いらんことばっかよう知ってんなァ』
あの田花さんを呆れさせるのだから、緋村も大概変人の部類だろう。ともあれ、先輩のお陰でさほど脱線せずに済んだ。
『まあ、合図した方法はわかった。……で? それがどう密室と繋がんねん。てか、そもそもなんで鬼村は、わざわざ扉の鍵をかけた上で、窓を開けっ放しにしたんや? 普通逆やろ。虻田は扉から出て行ったんやから、そのままにしとけば、密室の謎なんて生まれんかったはずや』
「そうしたくてもできなかったんですよ。何故なら、再三言っているように、窓と鍵盤の両方に、血痕を残してしまったから。つまり、鬼村医師はミスを犯してしまったわけです。
おそらく、焦っていたか何かで、血のついた手袋を替えることを、失念していたんでしょう。結果、先ほども説明したとおり、共犯者の存在や演奏を入れ替わっていたことが、露見し兼ねない状況になってしまった。……しかし、鬼村医師にとって、それ以上に問題だったのは、窓が開かれた形跡を、残してしまうことでした」
「どうして? そんなことが警察にバレたところで、大した証拠にはならないと思うけど」
「確かにな。だが、鬼村医師はそうは考えなかった。もしもこのまま、扉の鍵をかけずに窓を閉めた場合、犯人は脱出口として利用したわけでもないのに、窓に触れていたことが、気づかれてしまう。となれば、窓を開けた本当の理由──すなわち、『死体をスムーズに運搬するべく、仲間に合図を送ったこと』にも、いずれ警察は思い至るだろう。虻田以外の第三者が外から侵入した痕跡は、どこにもなかった以上、共犯者を引き入れる為に開けたとは考えられないし、それが目的なら、扉を開ける方が自然だからな」
それこそ再三言われて来たとおり、カーペットに残されていた濡れた足跡は、虻田の物と思しき一組のみ。つまり、他に外からの侵入者が存在した痕跡は、残されていない──残さないようにしたが故に、「犯人が血のついた手で窓に触れた理由」を捻り出すのが、余計に難しくなってしまったのか。
「鬼村医師はそれが嫌で、仕方なく扉の鍵をかけ、窓を開け放したんだ。こうすることで、犯人はそこから脱出したように見せかけ、窓を開けた本当の理由から、捜査の目を逸らそうと考えたのさ」
「つまり、苦肉の策だった? そして、ブーゲンビリアの花が無事だったせいで、結果的に密室が生まれてしまった……」
「ああ。当然鬼村医師も、その矛盾──ブーゲンビリアに足跡が残らないこと──は、重々承知していたはずだ。が、かと言って、凝った細工をしている時間もない。さっさと会長たちと合流して、あたかもたった今、階段を駆け上がって来たかのように、振る舞わなくてはならなかった」
犯人が意味のない密室を作り上げた理由は、結果的にそうなってしまっただけ。それ自体はいいのだが、なんとなく納得できるようなできないような……微妙なもどかしさを感じる。
本当に、そんな余計なリスクを背負ってまで、隠し通す必要のあることだろうか?
『窓を開けたことを悟られたくないんやったら、血を拭き取ればよかったんとちゃうか? 時間的に、そこまでする余裕はなかったのかも知れんけど』
「というより、拭き取るだけでは不十分だったんです。たとえ目に見える血痕は消し去ることができても、ルミノール反応が出ますから」
対象物にルミノール塩基溶液と過酸化水素の混液を噴霧した際、それが血痕であれば、血液に含まれるヘモグロビンが触媒となり、青白く発光して見える。無論、ルミノール反応が検出されたからと言って──要は鉄分に反応して発光現象が起きているだけなのだから──、即座にそれが人の血液だと断定されるわけではない。が、殺人の起きた現場の窓から反応が出たのであれば、被害者の血痕だと結びつけて考えるのが妥当だろう。
そもそも、窓枠やクレッセントキーは金属だったはずだから、発光反応が出るのは当然として……窓ガラスに付着した方の血は、誤魔化しが効かないはずだ。
『ルミノール反応って、五十年前も捜査に使われとったんか?』
「ええ。日本では、一九四九年に起きた事件の捜査で初めて、ルミノール試験が用いられています。外科医だった鬼村医師が、このことを知らなかったはずありません。それならば、血痕を消し去るより、窓を開けた理由をすり替える方が、賢明だと判断したのでしょう。
ちなみに、合図を送る際、扉ではなく窓を開けたのは、そちらの方が雨が吹き込む心配がないと考えたから。別邸の屋根は特殊な形状をしていて、窓の上は軒が迫り出していたのに対し、扉の方は極端に短い造りになっていました。その為、扉を開けて戸口に立った場合、雨風が部屋に吹き込む可能性が高いですし、自分自身も濡れてしまいます」
緋村はそこで言葉を区切り、短くなった煙草を携帯灰皿に捨て、すぐさま次の一本を唇に咥えた。いったいこの数時間だけで、何本吸うつもりなのか。
『……なあ、緋村チャン。今更やけど、根本的な質問してええか?』
「どうぞ」
『余裕綽々やな。──お前が今までツラツラと語って来た推理だか妄想だかが、全て事実やとして、や。どうして当時の警察は、真相に辿り着けんかった? 窓の血痕やとか、不自然な密室やとか、幾らでも解決の糸口になりそうな要素はあったはずや。それやのに、五十年もの間、事件の真相が明かされえへんのは、何が理由があるんちゃうか? 例えば──鷺沼家が財力に物を言わせて、当時の警察に圧力をかけとった、とか』
幾ら鷺沼家が財界の権力者だとしても、さすがに警察を屈服させ捜査の妨害をすることなど、可能とは思えないが……。それとも、僕が世間知らずなだけで、ネットなぞで言われる「上級国民」に対しては、そういった忖度が、暗黙的に行われるものなのか?
「全くそういったことがなかった、とまでは言いきれません。ただ、当時の警察が被疑者死亡という形で捜査を切り上げたのは、他にも事情があったからだと思います」
『どんな事情やねん』
「事件の起きた五十年前は、大阪万博の開催を一年後に控えた年でした。久住さんの話にもあったと思いますが、当時の大阪府は、万博の開催に間に合うよう、反発の起こりそうな集落は、開発の対象から外していたそうです。別邸のあった元カミラ村も、そうした集落の一つでした。
そんな時期、そんな場所で起きた事件ですから、政府としても早期の解決を望んだことでしょう。……そして、おあつらえ向きなことに、容疑者の候補として浮上した破落戸が、幾つもの証拠品を抱えたまま、拳銃自殺した。これ以上ない落とし所だと思いませんか?」
僕は、これまで緋村の話を聞いて来た中で、ある意味最も愕然とさせられた。まさか、この事件を企図した人物は、そこま見越していたと言うのか。
実際、警察は虻田一人の犯行として、この事件を片付けてしまった。紫苑さんの殺害を依頼した人物として疑われたのも、カミラ村の青年たちであり、鷺沼家の名誉は実に半世紀もの間、全くの無傷だ。
僕は、今更のように寒気を覚える。
「じ、事件の首謀者──黒幕は、誰なんだ? 鬼村医師ではないんだろ? なら、やっぱり……宗介会長か?」
「もちろん、その可能性もある。ただ、俺が思うに、会長も駒の一つだったんじゃねえかな」
「じゃあ、いったい誰が」
僕の言葉を遮ったのは、田花さんだった。
『鷺沼家の女王様やな? お前は、鷺沼瑠璃子が黒幕やたと睨んどるわけや』
「……ええ。これに関しては、推測ですらない、ただの勘ですがね」
緋村の勘はよく当たることを、僕は知っていた。
それに、瑠璃子さんは紫苑さんのことをあまりよく思っていなかったそうだし、殺害する動機に成り得た、かも知れない。
僕はそこで、先ほど屋敷のリビングで目にした肖像画を、思い出す。
玉座のような安楽椅子の上で微笑む、彼女の姿を。
メデューサを思わせる、鷺沼瑠璃子の昏い瞳を……。
『……ふむ、あり得ん話ちゃうな。高部曰く、瑠璃子に逆らえる人間は、鷺沼家にはいてへんかったそうやし。例の不倫の噂を本気にしとったなら、動機もあると言える。……ま、何にしてもや。鷺沼家の中に黒幕がおるっちゅうことは、間違いなさそうやな』
「さっきまではアリバイがあるとか言っていたのに、案外簡単に納得するんですね」
意地の悪い緋村の言葉に、先輩はいかにも軽薄そうな声色で、
『何を言うとんねん。俺は初めっから、あいつらが怪しいと睨んどったわ』
密室のトリックばかり考えていただろうに、よく言うよ。
『あー、とにかく、お前らも気ィつけることや。鷺沼家の町におんねんから。……これから何が起こるか、わからへんで?』
単なる悪巫山戯のつもりで、脅かすようなことを言ったのかも知れない。しかし、緋村の推測を聞いた後だからか、田花さんの声色には、どこか真剣な響きがあるように感じた。
少なくとも、警戒するに越したことはないだろう。五十年前の事件を抜きにしても、鷺沼家の人間には、どうにもきな臭いところがある。
そう考えると同時に、僕は先ほど──田花さんから電話がかかって来る前の、緋村の言葉を思い出した。
緋村の言ったとおりだ。僕たちは、とんでもない町に来てしまった。