採点してあげますから
『──ま、高部から聴き出せたんはこれくらいやな。その後は、松谷パイセンと昼メシ食ってから、梶間っちゅう元刑事の家に行って来たわけや』
田花さんはそう言うと、ふうっと息を吐き出した。煙草を吸っているのだろう。
それはそうと、これまで先輩の話を聞いていた僕は、様々な疑問と感情が頭の中で飛び交い、どこから問題を整理すべきか、見当がつかなかった。まさか、この白亜の町以外でも、鷺沼家の関係者が亡くなっていただなんて。
一つだけ合点のいったことを挙げるとすれば、緋村の肩書きを聞いた際、宗介会長が過剰とも取れる反応を見せた理由だ。おそらく会長はあの時、紫苑さんの家庭教師だったサイガという女性のことを、想起したのだろう。
「……田花さん。今、《えんとつそうじ》にいるんですね?」
壁に寄りかかり、こちらもスパスパと紫煙を吐き出しながら、緋村が言った。思考を働かせている為か、いつも以上の仏頂面で。
ちなみに、田花さんの話が始まってすぐ、僕はスマホのスピーカーフォンを入れ、テーブルに置いていた。
『ヒヒヒ、ようわかったな。実は、聴き込みの日にも、昼メシついでにお前らの顔見たろ思って行ってんけどな。あの日は、珍しくどっちもいてへんかったやろ?』
「じゃあ、マスターから聞いたんですか? 僕らがこの町に来ているって」
今度は僕が尋ねる。別に何も不思議なことではなく、ただ人のいいマスターが、口を滑らせただけだったのだ。
『せやで。──つうか緋村チャン、お前いつの間に家庭教師なんか始めてん。しかも相手は女子高生って。あかんでェ、未成年に手ェ出したら』
「意味不明なこと言ってんじゃねえよおっさん。それよか、仮にも探偵業をしてるんたから、こんなベラベラ調査内容を話しちゃだめだろ。守秘義務って知ってるか?」
『はっ、なんやねん今更。お前らさえ黙っとったら問題あらへんわ』
相変わらず無茶苦茶な人だ。まあ、僕も緋村も特に制止することなく、田花さんの話に聞き入ってしまったのだが。
『てことで、話の続きやけどな。梶間から聞き出せたんは、主に虻田のことや。──まず、虻田が自殺したんは、事件の二週間くらい後やった。アパートの自室で、拳銃自殺しよったんや。こう、顎の下から斜めに頭を撃ち抜く格好やったらしい。
で、同じ部屋ん中から紫苑の両手足が発見されたんやが、これがちょっと妙な具合でな。紫苑の死体は、丸焦げに焼かれとったそうやねん。虻田はその焼いた腕と脚を新聞紙に包んで、押入れの奥深くに隠しとったんやと』
「わざわざ体から切り離した上で、燃やしていたわけですか。でも、そんな状態でよく身元がわかりましたね」
性別やだいたいの年恰好ならば、特定可能だろう。が、その死体が紫苑さんのものだと断定されたからには、何か根拠があったはずだ。
『ああ、それは右手の指の骨に、骨折してからくっついた跡があったからや。なんでも、紫苑さんは事件の一年くらい前に、右手の中指と薬指を骨折したことがあって、そん時に撮ったレントゲン写真がまだ残っとったそうでな。そのレントゲンの骨と、死体の骨の状態が一致したことで、身元が特定されたわけや』
となると、発見された人間の両手足は、やはり紫苑さんのものであり、それはそのまま虻田が犯行に関与していたことの証となる。というか、犯行道具も所持したままだったのだし、これで全く無関係なはずがない。
『それと、警察は虻田の関与を裏づける証言も得とってな。虻田が自殺したとみられる日の数日前に、虻田らしき男が、鷺沼家のことを話しとったんやと。話し相手は呑み屋の店主や。なんでも虻田はその店主に、こんなことを言うたらしい。「あいつは兎のような女や」ってな』
「あいつって誰だよ」
『店主も同じように聞き返した。そしたら、虻田はやけに青褪めた顔で、「鷺沼家の女王様や」とだけ答えた。要するに、鷺沼瑠璃子のことを言うてたんやな』
鷺沼瑠璃子は「兎のような女」か。いったいどういった意味の比喩表現なのだろう?
女性を兎に喩えるということは……やはり性的な象徴として引き合いに出したのか? そういえば、高部という元家政婦も、瑠璃子は「いろんな男性にちょっかいをかけていた」と証言していたか。
「虻田のアリバイについては?」
『ない。事件前日の夜と翌日の昼にアパートの近くで目撃されとるそうやが、犯行時刻にどこにおったかは、誰も知らんかった』
「他の人はどうなんですか? 宗介会長や久住さんのお父さんは、用事で出かけていたんですよね?」
『ああ。事件が起きた時、三人は村の集会所におったらしい。内々の話し合いをする予定やったとかで、宗介たちは十七時過ぎには集会所に向かい、それから十九時頃まで、ずっとそこに籠っとったそうや』
「その三人以外に、参加者はいなかったんですか?」
『いや、宗介たちの他に、カミラ村の青年団の代表とやらが二人、立ち合うてたらしいで』
カミラ村……カミラ。どこかで聞いた言葉だと思ったが、そういえば田花さんの話の中で、「神薇薔人教」なる団体が登場していたか。こちらは鷺沼家が支援活動を行う際の名義を、そのまま流用して命名されたそうだが、カミラ村とは関係があるのだろうか?
「カミラ村ってのは?」
『鷺沼グループが強引に地上げした集落や。要するに、そいつらは別邸のあった土地の、元住民たちやな。──そもそも、そん時行われた話し合いっつうのも、カミラ村からの抗議みたいなもんやった。といっても、すでに立ち退きが完了した後やったから、反対活動ってわけやない。カミラ村の連中は、鷺沼グループを訴えようとしててん。で、裁判沙汰になるんを避けたかった鷺沼グループは、社長の宗介自ら交渉に臨んだわけや』
結果的にこの交渉はうまくいったようで、訴訟は取り下げになったという。おそらく、相当な示談金を支払ったのだろう。
『それより、重要なんはこっからや。──その青年団の二人、どうも事件の前に、虻田と接触しとったらしい』
それは確かに、興味深い情報と言える。
カミラ村の元住人たちは、鷺沼家に相当な怨みを抱いていたようだし、彼らが虻田に紫苑さんの殺害を依頼していた──と考えれば、動機の謎も解決する。
「確かなんですね?」と、緋村も食いついた。
『ああ。目撃証言も複数あったようやし、なんなら二人のうち片方は、虻田と会うてたことを認めとる。何の用があって接触したかまでは、吐かんかったそうやけどな。
ただ、そのせいで余計に疑惑が深まってもうたらしい。『お前らが殺し屋を雇って鷺沼家のご令嬢を抹殺したんやろ』ってな具合に。──結果、警察の尋問やら世間からのバッシングやらに耐えきれんくなったその男は、自殺してもうた。ほんでもって、もう一人の青年も黙り決め込んだまま雲隠れ。せやから、結局そいつらが虻田と会うてた理由は、謎のままや』
また、自殺者──死人が現れた。今日だけで、もう五人もの人間の「死」を、聞かされている。
『ちなみに、他の関係者に関しては、めちゃくちゃアリバイがハッキリしとる。瑠璃子と橙子は、昼間から会食やら観劇やらで、梅田の街に繰り出しとったらしい。豪造もそれについて行っとったから、家族ん中で留守番しとったのは、紫苑だけやった』
「紫苑さんの家庭教師だったサイガって人は、別邸に滞在していなかったんですね」
『事件の前日まではおったそうや。けど、親の看病をせなあかんとかで、朝から藤井寺市の自宅に、帰っとったらしい。家族だけやのうて、近所の人間の証言もある。サイガに関しても、アリバイが成立するわけや』
そもそも、犯人は虻田以外に考えられないし、他の人間のアリバイを調べても、あまり意味がないように思う。
『あと、実際に屋敷があった元カミラ村にも行ってみてんけど、さすがに五十年も経っとるから、大して参考にならんくてな。その後、改めて周囲の様子を、ネットと図書館で調べ直したわ。幾つか写真も手に入ったから、気になるんやったら、送ったるで』
「なんというか……引き受けちまった依頼とは言え、あんたに振り回される職場の先輩も、気の毒だな」
『ヒヒヒ、せやろ?』
どうしてそんなに誇らしげなのか。
それはそうと、せっかくなので画像を僕のスマホに送ってもらうことにする。
田花さんから届いたメッセージには、別邸を中心に上空から周辺を鳥瞰した空撮写真と、元カミラ村の簡易的な地図が添付されていた。
一枚目の写真によれば、敷地の周囲には小さな竹林が広がっており、その竹林を北東に向かって突っ切った先に、道路が通っていた。
また、現場となった部屋は正面口から向かって左手の奥にあるらしい。真上からのアングル故に、屋根によって大部分が遮られてしまってはいるものの、ベランダの手すりから溢れ出したブーゲンビリアの花が見えていた。
それから、フェンスの仕切り──久住さんの言葉どおり、このフェンスにも扉が設けられている──と、その向こう側の半分──いや、ベランダの三分の一ほどは、ほとんど屋根に覆われていないことも、わかった。その部分だけ見たら、本当にバルコニーのような造りだ。
『なんとなく感じは掴めたか? 屋敷の周囲に竹林があると思うんやが、警察の見立てやと、虻田は犯行後、そこを突っ切って逃走した可能性が高いらしい。虻田のもんらしき足跡も見つかっとる』
おそらく、竹林を抜けた先の道路に車を停めておき、犯行後すぐさま逃走できるようにしておいたのだろう。
「現場となった部屋の窓は、敷地の外から見えたんでしょうか?」
緋村が妙なことを尋ねた。
『わからん。まあ、竹林に遮られるやろうから、道路の方からは見えんのとちゃうか?』
「それもそうか……」と呟いたきり、緋村は黙り込んでしまう。何を確認したかったのか、よくわからない。
『んなことより、他に質問はあるか? ないんやったら、そろそろお前らの意見を聴かせろや。犯人は、十中八九虻田に間違いないとして、問題は密室や。虻田はどんな手を使て、ブーゲンビリアの花を踏みつけずに部屋から脱出したのか。何か思いつかへんか?』
緋村はすぐには答えなかった。当然だろう。実に五十年もの間暴かれずにいる密室の謎が、たった今概略を聞かされたばかりの人間に、解き明かせるはずがない。
この時の僕は、そう思っていた。
※
「……逆に訊きますけど、田花さんはどうなんですか? 少しくらい、自分でも考えてみたんですよね? 灰色の脳細胞とやらを駆使して」
『はっ、当たり前やろ。俺かてトリックの目星くらいついとんねん。ただ、どうにも釈然とせんくてな』
「なら、先にそっちから話してくださいよ。採点してあげますから」
いやに生意気な言い回しで水を向け、緋村は新しい煙草に火を点けた。どことなく自分には正答がわかっているような口振りだが……いや、さすがにあり得ないか。
『なんやねん偉っそうに。ちょっと会わんうちに、ますますふてこなったなァ。──ま、しゃーないから聞かせたるわ。ただし、俺もホンマにこれやと思っとるわけちゃうからな。あくまでも暫定版や、暫定版』
念押しするように言ったのち、田花さんは自らの推理を語り始める。
『俺がまっさきに考えたんは、虻田がピアノを弾いた理由や。あれはおそらく、屋敷の外におった共犯者に対する、合図やったんやろ。つまり、『たった今紫苑を仕留めた』っつう合図や』
「もうすでに減点したいんですが」
『黙って聴いとれボケ。──んで、『猫踏んじゃった』の演奏を耳にした共犯者は、どうにかこうにか屋敷の屋根の上によじ登った。具体的な方法は訊くなよ? 俺にもわからんからな。
そっから先は単純な話や。そのまま共犯者は屋根の上で待機しとって、宗介らが帰って来たところで、虻田が開けた窓から、紫苑の死体を引き上げた。で、虻田自身も共犯者の手を借りて屋根の上に登り、二人で死体と一緒にトンズラこいたわけや。これやったら、ブーゲンビリアの花を踏んだ形跡がなかったことに、説明がつく』
確かにそのとおりだ。誰もベランダに降り立っていないのだから、花が踏みつけられることもなく、「足跡のない現場」が出来上がる。
とはいえ。さすがにこの推理で及第点を取るのは、難しいだろう。
「なかなか趣きのある推理でしたよ。──そろそろツッコんでもいいですか?」
『ちっ、好きにしろや』
「まず、虻田がピアノを演奏した理由について。外にいた共犯者への合図だと言っていましたが、これは明らかにおかしい。虻田に共犯者がいたとして、どうしてわざわざ屋敷の外で待っていなければならなかったんですか? 初めから一緒に中に入っても、何ら問題はなかった。それどころか、二人で犯行に及ぶ方が、いろいろと都合がよさそうなのに」
『さあな。見張り役として、外に残したんちゃうか?』
「それならそれで、犯行を終えた後は、さっさと二人で死体を運び出して、逃げればよかったはず。確か、久住さんの話だと、虻田は三十分近くもピアノを弾き続けていたんですよね? 共犯者への合図なら、そんなに時間をかける必要はないでしょう」
『……仰るとおり。せやから、俺も自信持てへんねん』
田花さんは案外潔く降参した。二人のやり取りを聞いているうちに、僕も口がムズムズとして来たので、先輩に助け舟を出すことにする。
「合図を送る為にピアノを弾いたかどうかは別として、虻田に共犯者がいたという点は間違ってないんじゃないか? 実際、窓から屋根の上に引っ張り上げてもらったのだとしたら、密室の謎は解決するわけだし」
「お前、本気で言ってんのか? 事件当時、外は土砂降りだったんだぜ? 雨風に晒されながら、屋根の上に死体と仲間を引き上げるのは、まさしく命がけの作業になるはずだ。で、そんな無茶をしてまで虻田と共犯者は、大して意味のない密室を作り上げた、と。──馬鹿げてんだろ。仮にその共犯者が、虻田同様元サーカス団員で、超人的な身体能力を有していたとしても、そんな意味不明なことさせるかよ」
ごもっとも。どれだけ理屈の上では可能だとしても、メリットとデメリットが全く釣り合っていない。
「そもそもの話、その窓ってのは、大人が通り抜けられるような幅があったんですか?」
『写真で見た限り、十分可能なはずや。虻田は小柄やったそうやしな。ま、それでも、相当窮屈な姿勢にはなるやろうが』
その上で、犯行道具や紫苑さんの遺体を持ち出すとなると、相当骨の折れる作業だ。それこそ誰かの補助がなくては、不可能なことのように思うのだが……。
そこまで考えた時。ふと、全く真逆のアイデアが、脳裏に浮かんだ。
素直に窓から脱出したと考えるから、トリックの難易度が跳ね上がるのだ。しかし、本当の脱出経路は別にあるのだとすれば……?
そして、それに最も適した出口は、一つしかない。
瞬間、頭の中で何かがカチリと嵌る音を聞いた気がした。
「……そうか! その為の窓だったんだ!」
『なんやねん、急に大声出して。何か思いついたんか?』
「はい。虻田の本当の脱出経路は、本当は窓ではなく、扉の方だったんです! つまり、虻田は扉からベランダに出た後で、トリックを使って外から鍵を閉めた。これなら、足跡の謎も解決します!」
しかも、僕の思いついたトリックは、かなり単純で、リスクの少ないものだ。
「ずいぶんと自信ありげだな。期待してもいいのか?」
挑戦的な緋村のニヤケ面に、僕は「もちろん」と頷き返す。
「虻田が使ったのは、ミステリで言うとものすごく古典的なトリックです。すなわち、糸の片端をテープでツマミに貼りつけた上で、もう一方の端を外に出しておいた。後は、ベランダに出てから糸を引っ張るだけで、ツマミを回して外側から鍵をかけられる、という寸法です」
『ほほう、なんやそれっぽいやんけ。……けど、扉の外に糸を通すっちゅうのは、無理があるやろ。屋内ならいざ知らず、外も繋がる扉やねんから、下に隙間なんてないはずや。
それに、なんとか力尽くで引っ張って、糸の方は回収できたとして、テープだけは部屋に残ってまうんやないか。さすがに糸と違うて、通り抜けられんはずやし』
そのとおり。そして、それこそが、窓が開け放たれていた本当の理由でもある、と僕は考えた。
「僕もそう思います。ただし、それは扉の下を通した場合の話。虻田は扉の下ではなく、開け放した窓から、糸の端を外に出しておいたんです。これなら、問題なく糸とテープの両方を回収することができる」
そう。あの窓は犯人の出口ではなく、糸の出口として開かれたのだ。
考えてみれば、簡単なことだった。「足跡のない現場」に拘るから、堅固な密室に思えるわけで、実際には窓が開け放たれていた。この大きな「穴」を利用すれば、幾らでもやりようはある。
『窓と扉は、一メートル半くらい離れてたんやで? 久住もそんなこと言うてたし、俺も写真で確認したから間違いない。そんだけ距離が空いとったら、窓から糸の先を出したところで、扉の前まで持って来れんくないか?』
「何より、仕切りのフェンスに阻まれるだろ。フェンスと屋根の間には隙間がなかったそうだから、その上を飛び越えさせることは、できないはずだ。無論、窓からじゃ、フェンスの網目に糸を通すことも、不可能と言っていい」
二人の疑問はもっともだが、僕はそのどちらにも、回答を用意していた。
「糸の先に重しになるものを括りつけて、放り投げたんでしょう。たとえ扉の前まで届かずに、ブーゲンビリアの上に落ちたとしても、身を乗り出して回収すれば、大して花を押し潰すことはなかったはずです。もちろん、フェンスの扉を開けた上で。
つまり、虻田はベランダに出た後、予めフェンスの扉を開けておき、再び室内に入って、重しをつけた糸を窓から放り投げた。後は改めて、扉からベランダに出る際、ツマミにもう片方の糸の端を貼りつければいい」
その後、扉を閉めた虻田は、糸を手繰り寄せることで、ツマミを回転させ鍵をかけた。そして、仕上げに糸を回収し、フェンスの方の扉を閉めてしまえば、完全な密室ができあがるわけだ。
即興のアイデアにしては、なかなか悪くないどころか、上出来の部類ではないか。そう自画自賛しかけたのも、束の間──
『あー、俺よかよっぽどマシなトリックやとは思うで。けどなァ……たぶん、それも無理やねん」
「えっ? ど、どうしてですか? しかも、ちょっと気を遣われてます?」
田花さんにフォローされる日が来ようとは。意外な反応に狼狽えていると、スッカリご意見番と化した緋村先生が、不合格の理由を教えてくれた。
「確か、フェンスにも、ブーゲンビリアの茎が纏わりついていたんでしたよね?」
『せやねん。つまり、誰かがフェンスの扉を開けたりしたら、それが一目でわかる状態やったわけや』
にも拘らず、久住さんがそのことに言及していない、ということは──
「事件当時、フェンスの扉は開かれていなかった……?」
『みたいやな』
肩を落とすしかなかった。どうやら、先ほど頭の中で鳴ったカチリという音は、単なる幻聴だったらしい。
「そもそもの話、そんなクソ長え糸を用意してまで、現場を密室にする理由がわからない。しかも、お前の言ったとおり窓を通して外に糸を出したのだとしたら、糸の長さは三メートル以上になるよな? 扉と窓までの距離が一メートル半くらいあって、窓枠を支点に折り返すような形になるわけだから。そんな大掛かりなもんを持参してまで、密室に拘る意味ってのは、いったい何だ?」
一瞬にして天下が過ぎ去った僕に、追い討ちをかけるかの如く、緋村が理路整然と言い放つ。これが漫画なら、吹き出しの先が矢となって、体にグサグサと突き刺さっていただろう。
「も、もしかしたら、紫苑さんへの手向けだったのかも知れない。虻田はおそらく、カミラ村の人間のように、鷺沼家を恨む誰かに、金で雇われたんだろう。しかし、幾ら殺し屋紛いのことをしていたとはいえ、まだ十三かそこらの少女を撃ち殺すのは、少なからず心が痛んだはずだ。そこで、虻田はせめて彼女の死が特別なものになるよう、奇妙な密室を作り出した……とか」
「じゃあ何か? 犯行後部屋に留まってピアノを引き続けたのも、鎮魂歌のつもりだったって? さすが、事件に遭遇する度に、『儀式』と称して事件記録を執筆してる奴は、言うことが違うね」
僕だって、本気で考えているわけではない。虻田が『虚無への供物』や『匣の中の失楽』に影響されていたとかならともかく──それならそれで、もう少し凝ったトリックを考案してほしいものだが──、そのような証言は、何も出て来ていない。
また、こんなことを言うと「ミステリ脳」だと馬鹿にされるかも知れないが……そもそもの話、目出し帽を被った暴漢と、推理小説さながらの密室トリックという取り合わせ自体、かなりのミスマッチに思える。
そういう手合いは死を飾りつけるようなことなど考えず、もっと現実的な暴力で、欲望を叶えるのではないか?
『さっきから、人のアイデアに難癖つけてばっかやな。けど、そんだけ言うた以上、お前にも、ちゃーんとした考えがあるんやろ?』
「まあ、一応は」
『ほんじゃあ、そろそろ聴かせてもらおうやないか。緋村センセーの模範解答って奴を』
「構いませんが……その前に三つ。確認したいことがあります。まず、現場のカーペットには虻田らしき男の足跡しか残されていなかったそうですが、間違いありませんか?」
『せやな。久住もそう証言しとったし、梶間からも、濡れた足跡は一組だけで、他は血痕以外、目立った汚れはなかったって聞いたわ』
「では、もう一つ。久住さんたちが部屋を追い出され、ドアが閉まってから、ピアノの音が聞こえるまで、ほんの数秒しか間隔が空かなかったんでしたね?」
『そうらしい。久住だけやのうて、高部の証言も同じやった。数秒っちゅうのが具体的にどれくらいの時間なんかは定かやないが……まあ、ドアを閉めてすぐ、虻田はピアノを弾き始めたんやろな』
「……なるほど。では、最後に──これは、高部さんに確認してもらうのが手っ取り早いでしょう」
緋村の指示を受け、田花さんは一度通話を切った。どうしてそんなことを確かめなくてはならないのか、僕には理解できなかったが……ひとまず、報告を待つことにする。
十分もせずに、田花さんから再び着信が来た。
『確認できたで。神薇教の連中が持っとるアルバムの写真は、主に久住の父親が撮影したもんらしい。カメラ自体は宗介のもんで、当時の最新機種を何台か所有しとったそうや。久住親子の写真に関しては、宗介が撮ったんやと』
「……結構。これだけ揃えば十分でしょう」
満足げな笑みと共に、緋村は紫煙を吐き出した。まるで、全ての手がかりが出揃ったかのような口振りじゃやいか。
まさか──本当に解けたと言うのか?
半生記も前に起きた密室殺人の謎が、全て?
当時の警察でさえ、解き明かせなかったのに?
僕の困惑などお構いなしとばかりに。緋村はまたしても、新しい煙草を取り出す。そして、悠然と火を点けると、今度こそ語り始めるのだった。
彼の導き出した、模範解答を。