赤い眼の少女
「初めまして、私が高部真澄です。話は完吾さんから伺っています。大したおもてなしはできませんけど、どうぞ上がってください」
二人を出迎えたのは、気立てのよさそうな老婦人だった。五十年前の事件の時点で二十歳くらいだったそうだから、今はもう七十前後だろう。パーマを当てた白髪や顔の皺からは、相応に歳を重ねているように感じられるが、話し口調は実にハツラツとしていて、活力に溢れている。何よりまともそうな相手が現れたので、松谷は密かに胸を撫で下ろした。
「神薇薔人教総本部」と書かれた表札を目にした時は、訪ねる場所を間違ってしまったのかと、久住から受け取ったメモ書きを見返したほどである。
もっとも、容姿や雰囲気で人間性まで見極めることは困難であろうが……少なくとも、今松谷の隣りに立っている男よりかは、よほど真っ当な人間に見える。
「それじゃ遠慮なく──と、そうそう。これ、大したもんやないんですがね」
今日も今日とて、胡散臭いサングラスをかけ、鬱陶しい長髪を肩に垂らした田花は、菓子折りの入った紙袋を、真澄に差し出した。そんなものを用意する発想がこのアホにもあったのかと、松谷は少々意外に感じる。
探偵たちが通されたのは、黒い仏壇の置かれた仏間だった。開かれた障子戸の向こうは縁側で、庭と生垣が見える。
また、縁側の手前に立つ柱には、釘か何かで彫ったような線が二本、別々の高さに刻まれていた。かつてそこで、幼い兄弟の背比べが行われたのだろう。それぞれ背の高い方が「かずと」、低い方は「しゅんた」という名前のようだ。
松谷は、数年来帰らずにいる実家を思い出し、懐かしさとも侘しさとも取れぬ感慨に浸る。仄かに感じられる線香の残り香と、壁にかけられた働き者のボンボン時計──すっかり郷愁の念に浸っていた松谷であったが、真澄がほうじ茶と、手土産の饅頭を運んで来る頃には、なんとか気持ちを切り替えることができた。
今は仕事中で、ここは他人の家──それも、例の表札が正しいのであれば、何らかの宗教団体の本拠地なのだ。気を引き締めなくては。
「……あのぉ、高部さんは、ご家族と一緒に暮らしてはるんですよね?」
凄まじく触れ辛い部分であったが、尋ねないわけにもいかず──とは言えベストな訊き方もわからず──、結果として、迂遠な言い回しとなった。間違っても、「お宅はもしかして、信仰宗教の本部ですか?」とは言えまい。
松谷の問いを受けた元家政婦は、何故か困ったような表情で、
「うーん、なんて言うたらええんやろう? 子供たちはとっくに独り立ちしたので、休みの日に顔を見せに来るくらいでね。普段は私一人で、この家に暮らしています。──こう言うと、まるで自分の産んだ子供みたいに聞こえますけど、実は誰とも血が繋がってへんの。みんな元々は、身寄りのいてへん子やったんですよ」
「はあ……。なんだか、複雑な事情があるみたいですね」
「あ、もしかして、見ました? あの表札。そらあんなこと書かれとったら、怖いですよねぇ。でも、うちは特におかしな団体やありませんよ。そもそも、カミラバラト教なんて名乗ってますけど、特に宗教らしいことはしてませんから。強いて言えば、そこのお仏壇に毎日手を合わせて、鷺沼家のみなさんへの感謝を伝えたり、子供たちに昔の話を聞かせたり、それくらいです」
真澄は首を曲げ、仏間の奥に鎮座する黒い仏壇──恐らくは輪島塗りの最高級品──を目で示す。開かれた左右の扉の内側には、雅やかな研ぎ出し蒔絵によって、水面の上を飛ぶ番いの鷺が、描かれていた。
また、仏壇のみならず、そこに飾りつけられた仏器膳や花立、香炉など、どれも高価な品で揃えられているようだ。
それはそうと、位牌には何も──戒名も俗名も没年月日も──刻まれておらず、真新しい黒のままであることが、松谷は気になった。
「めふらひいご本尊れふね」
行儀悪く饅頭で口の中を膨らませながら、田花が言う。確かに、仏壇の奥に座すご本尊は、一般的な物とは違っていた。どうやら天女を象った象であるらしく、ふくよかな両腕に赤ん坊を抱いているのだ。
「ええ。なんでも、鬼子母神様やそうですよ。子安を司る女の神様でね。私が身寄りのいてへん子供を引き取り初めた頃、奥様が贈ってくださったんです。お仏壇や仏具と一緒に。奥様は、昔っから気前のええ方でしたけど……まさか、あんな高価な物をいただいけるやなんて、思いませでしたよ」
「奥様というと、鷺沼瑠璃子さんですね?」
「そうです」と、高部は松谷の方へ向き直り、首肯する。意外な贈り主だ。
「ご存知のとおり、私は昔、家政婦として鷺沼家で働かせてもろてました。その時のよしみ、ということなんでしょう。それから、うちで引き取った子供たちは、みんな幼い頃、鷺沼家に支援してもろたことがあるんです。せやから、私たちも感謝の気持ちを忘れへん為に、日々鷺沼家のみなさんを讃えとるわけです」
「ははあ。謂わば、鷺沼家そのものを信仰してはる、つうことですか」
二つ目の饅頭をほうじ茶で流し込んだ田花が、合いの手を入れる。どうやら手土産の饅頭は、自分で食す目的で買い求めたらしい。
「まあ、そんなところです。『神薇薔人』いう名前も、鷺沼家が私たちを支援してくださった時の名義を、そのまま使わせてもろてます」
要約すると、鷺沼家は「神薇薔人」という名義で身寄りのない者への支援活動をしており、その被支援者たちが寄り集まって、神薇薔人教団なる団体を設立したわけか。聞く限り、宗教団体の本部というより、児童養護施設といった方が、正しいように思えた。
「ふむ、なかなかオモロ──いや、特別なご関係なんですね。ほんなら、そんな義理堅い高部さんに、お願いします。例の五十年前の事件について、覚えてはる限りのことを教えてください」
腹拵えを終えた田花が水を向ける。元家政婦は頬に手を当て、「そうねえ」と斜め上を見上げた。そして、ことの顛末を語り出す。
その内容はというと、ほとんど久住の証言をなぞるものに過ぎず、あまり目新しい情報は出て来なかった。
「──私はもう恐ろしいやら悲しいやら、とにかくパニック状態でね。タオルか何かで視界を塞がれて、お部屋を追い出された後は、ずっと廊下で泣きじゃくってました。……だいたい、三十分くらいそうしてたんかな。気がついたら、旦那様が私に呼びかけてくれとって……。そう、ピアノの音も止んでました。その時は、気にしとる余裕もあらへんかったけど。──それで、目隠しを外していただいて、旦那様のお顔を見た時は、まさに地獄で仏でしたよ」
真澄が再び視界を取り戻した時、ちょうど久住の父が同じように、息子の顔に巻かれたタオルを取り払ったところだった。
そして、宗介と医師の鬼村に、自分の目の前で起きた惨劇をどうにか語り、その後は廊下で宗介につき添われながら、ことの成り行きを見守っていた、という。
「それから完吾さんと一緒に、鷺沼家の経営しとった病院に連れて行ってもろて、その後は警察の事情聴取を受けたり、一晩経って現場検証につき合うたり、もうホンマに大変で」
「ナルホドナルホド。──ところで、高部さんが一番最初に犯人と出会したんでしたね」
「そうなんです。リビングで編み物をしとったら、いきなり裏口の方から物音がして。『なんやろ?』思って様子を見に行ったら、真っ黒な男がいてるでしょう? 魂消ましたよ、ホンマに。──それで、思わず悲鳴を上げてもうたんですけど、そしたらあの男が、『さっさと逃げや。ボサっとしとったら、殺してまうで?』って、拳銃を見せて来たんです」
その瞬間、高部は暴漢の標的が鷺沼家の人間──紫苑ではないかと考えたという。
「せやから、私はとにかくお嬢様に危機を報せなと思って……それが正しい行動やったかと問われると、そうやなかったと思います。結果的に、お嬢様の元へ犯人を案内してもうたんですから。けど、その時は、気が動転しとったんでしょうね。自分にできることとできんことの区別も、つかんくなっとったというか……」
「無理もないことですし、勇気のある行動やと思います」
松谷は本心を述べたのだが、それで真澄の後悔が取り除かれるはずもなかった。
「……今でも、たまに考えるんですよ。あの時、私が身代わりになるか何かしていれば、今頃お嬢様は子供や孫に囲まれて、幸せに暮らしてはったんちゃうかって。これじゃあまるで、私がお嬢様を犠牲にして、今の人生を手に入れたようなもんやないか……。完吾さんも、もしかしたら同じ気持ちなのかも知れません。せやから、とっくに終わった事件を、調べ直そうと思いはったのかも」
十分に考えられる、と松谷は思う。それと同時に、もう半世紀も経つのだから、いいかげん記憶が褪せてしまったとしても、誰も文句は言わないだろう、とも。
無論、目の前で親しい人間を殺害された経験がないからこそ、そう思えるのかも知れないが。
「任せといてくださいよ。紫苑さんの無念は、必ずや我々が晴らして差し上げますから」
昨日と同じように、田花が胸を張って豪語した。やめろ、無駄に張り切るな。そう言いたくなるのを、松谷は堪える。
「てなわけで、さっそく話の続きをしたいんすけどね。まずは、動機について。何か心当たりはありませんか? 犯人は、虻田っちゅうヤクザモンやったようですが、彼が紫苑さんを殺めるに至った経緯は、当時の警察も掴めてへんそうで。その辺り、高部さんはどう思ってはります? 誰かが紫苑さんのことを特別恨んどって、虻田に殺しを依頼した、とか」
真澄は再び「そうやねぇ……」と呟く。しかし、今度は記憶の襞を探っているというよりも、答えるか否かを迷っている様子だった。
「何か、あるんですか?」と、松谷は思わず身を乗り出す。
「ええ、まあ……たぶん、私の勝手な妄想やとは、思うんですけどね」
「それでも構いませんので、聴かせください」
田花に促され、決心がついたらしい。「一応、鷺沼家の人らには言わんといてくださいね?」と釘を刺してから、真澄はこう続けた。
「実は、紫苑お嬢様と奥様たちは、あまり仲がよろしくなかったんですよ。──あ、奥様たちというのは、瑠璃子さんと橙子さんのことです。三人は姉妹なんですが、それぞれお母さんが違う人で……」
これもすでに、久住から聞かされている話だ。松谷は少々落胆しつつ、
「つまり、紫苑さんと不仲だった二人のうちどちらか──あるいは両方が、虻田に依頼して殺害させた、と。そうお考えなんですね?」
「そこまで具体的には言うてません。ただ、他に紫苑お嬢様を狙う理由も思いつきませんから。──それに、少なくとも奥様に関しては、ホンマに紫苑お嬢様を憎んではったと思います。あんな噂を信じはるほどですし」
「噂、ですか。それはどのような?」
「こんなことを言うんは失礼というか、馬鹿馬鹿しい話なんですけどね──不倫しとるって話があったんですよ。その、旦那様と、紫苑お嬢様が」
──『旦那様と』ってことは……宗介と紫苑が?
思いもよらぬ証言だった。それが真実であったなら、確かに殺人の動機になり得る。
「ホンマなんですか? ホンマに、宗介さんと紫苑さんは」
「まさか。あの二人に限って有り得ません。単なる噂というか、嫌がらせみたいなもんです。そもそもの発端も、橙子さんが『紫苑が宗介さんの寝室から出て来るところを見た』って吹聴しとったことですし。それだって、どうせ出鱈目か、本か何かを借りに行っただけとか、そんなところやと思います」
「でも、瑠璃子さんはその話を真に受けたんですよね?」
田花が念を押すと、真澄は苦笑し、顔の前で手を振った。
「それも噂というか、実際に本人がどう思いはったかは、わかりません。自分の発言を翻すようやけど。──だいたい、旦那様と紫苑お嬢様が不倫やなんて、おかしいですよ。紫苑お嬢様は、亡くなった時、まだ十三歳になったばかりでしたから」
そんなに幼かったのかと、松谷は驚く。その年齢なら、確かに不倫などあり得ないことだろう。
そう納得すると同時に、そんな年端も行かぬ少女を、わざわざ拳銃まで使って殺した理由は何なのだと、犯人に対する憤りが湧いて来た。
もちろん、ここでそんなことを口にしても始まらないので、なるべく面には出さないよう努めたが。
「わかりませんよ? 世の中にはそういう嗜好の人間もいてますし」
「まあ! あなた失礼やわぁ。旦那様はそんな人ちゃいます。あんな立派な人、そうそうおらんのやから」
田花の失言で現実に引き戻された松谷は、慌てて真澄を取り成す。
「そうですよね。すみませんこいつちょっと世間知らずで。──おい、お前謝れ」
当然、田花がそれに従うことはなかった。今日はこっちが引っ叩いてやろうかと、松谷は一瞬本気でそう考える。
「旦那様と紫苑お嬢様の間に、やましいところなんて少しもありませんでした。それは私が誰よりも知ってます。だって──」
その先に続いた言葉こそ、ある意味これまで聴取して来た中で、最も意外なものだった。
「旦那様の浮気相手は、私やったんですから」
探偵たちは、思わず顔を見合わせた。
※
「旦那様──宗介さんは、元々奥様とあまりうまくいってへんかったんです。婿入りやったから立場が弱かったのもあるやろうけど、奥様自身も奔放と言いますか、いろんな男性にちょっかいかけとったようですから。ついつい浮気したなるのも、無理ありませんよ。
そういう意味では、大旦那様も悪いわ。奥様があんな風に育ってもうたんは、幼い頃から大旦那様が甘やかして来たせいやって、みんな言うてました。瑠璃子さんは、最初の奥さんとの間にできた子供で、忘れ形見でしたからね。特に愛情を注がれたんでしょう。せやからあんなワガママに──あ、いや、別に腐しとるわけちゃいますよ。とにかく、瑠璃子さんは女王様みたいな扱いで、大旦那様も含め、誰も逆らえる人はいてませんでした。
次女の橙子さんも、ただ瑠璃子に追従するばかりで……。まあ、瑠璃子さんと橙子さんは歳が近かったのもあるんでしょうけど、うまくやってはりましたよ。せやから、余計に紫苑お嬢様の立場が悪くなってもうたんですね」
堰を切ったように、元家政婦は語った。どうやら真澄は──鷺沼家を信仰していると言う割に──、瑠璃子に対しては、あまりいい印象を持っていなかったらしい。
だからこそ、宗介の浮気を受け入れたのではないかと、松谷は推察する。
「取り敢えず、上のお姉さんたちと紫苑さんの関係は、わかりました。ところで、鬼村医師はどんな人やったんですか? 腕の立つ外科医やったということは、聞いているんですがね」
田花の質問が意外だったのか、真澄は「鬼村先生ですか?」と訊き返す。
「そうやねぇ……ちょっと失礼な言い方になりますけど、暗い感じの人でしたよ。常に自分の世界に入り込んでるっていうか、あまり周囲に関心がなさそうで。口数も少なかったですし。正直に言って、私は少し苦手でした」
「ナルホド。他には?」
「……あ、そういえば、一度揉めごとがありましたね。鷺沼家の本邸に、鬼村先生が泊まりに来とった時のことなんですけどね。なんや鬼村先生が紫苑お嬢様のお部屋から追い出されとって……」
「ほほう。それは、紫苑さんご本人が?」
「いいえ。たぶん、紫苑お嬢様の家庭教師やった人が、追い出したんやと思います。私が見かけた時、珍しく声を荒げてはって、『二度と紫苑さんに近寄らんでください』って言って、鬼村先生を突き飛ばしはりました」
「家庭教師、ねぇ。何という人なんですか?」
「ええっと、確か……そう、サイガ先生やったかな。私より一つか二つくらい歳下やったはずですけどね。とても利発な美人さんで、ピアノがお上手でした。紫苑お嬢様にピアノを教えたのも、サイガ先生です」
ここに来て、新たな関係者が現れるとは。どのよう人物だったのか、松谷が尋ねると、「ちょっと待っとってくださいね」と言って、真澄は腰を浮かせた。
そのまま彼女は襖の奥へと引っ込み、すぐに戻って来る。その手に、年季の入ったアルバムを携えて。
「昔、鷺沼家のみなさんと撮らせてもろた写真があるんです。紫苑お嬢様やサイガ先生も写ってますから。──ああ、ほらこれ。この人がサイガ先生ですよ」
真澄が指差した写真は、若い女性──少女と言って差し支えない年頃に思える──が、ピアノを弾いているところを、ほとんど真横から写した物だった。紺色のワンピースを着て、結った髪の先を胸の前に垂らしたこの人物が、「サイガ先生」らしい。
松谷は写真に色がついていることを少し意外に感じた。が、五十年くらい前には、日本でもカラーフィルムが発売されていたし、裕福な家庭であることを考えれば──当時は高価だったカラー写真を撮影していたとしても──、何ら不思議ではない。
「もしかして、ここが現場になった部屋ですか?」
「そうです。こっちの写真も、同じお部屋で撮ったものですね」
今度は別の一葉が指差される。
白く塗られた扉の傍らに、小学校低学年くらいの少年と、その父親らしき男が、並んで直立していた。特に男の子の方は緊張しているのか、笑顔が少々強張って見える。おそらく、幼き日の久住と、鷺沼家に仕えていた彼の父親だろう。
また、久住親子の右手の壁には、窓が半分ほど写り込んでおり、咲き誇るブーゲンビリアの花が、窓ガラス越しに、顔を覗かせていた。二人を挟んで左右に扉と窓がある形で、その間隔は、おおよそ一メートル半といったところか。
「てことは、これがベランダに出る扉で、こっちが開けっ放しやった窓か」
しげしげと写真を見つめ、田花が独語する。
真澄のアルバムには、他にもベランダの様子や別邸の外観を写した写真が収められていた。どちらもブーゲンビリアをメインに撮影されたもので、無数の赤紫色の花──正確には苞葉──をつけた茎が、やけに広いベランダの三分の二ほどを覆い隠していた。まるで窮屈な檻を飛び出さんとばかりに、手摺りを超えて溢れたり、仕切りのフェンスに纏わりついていたりと、縦横無尽な咲きっぷりである。
松谷は勝手に「花の絨毯」という表現を用いていたのだが、それどころの話ではない。これでは最早、「氾濫」だ。
「変わった形の屋根ですねェ」
花より推理というわけではなかろうに、田花はブーゲンビリアの雄大さなど一切関心がないとばかりに、そんなことを呟く。言われてみれば、確かに屋敷の屋根は、特殊な形状をしていた。
屋根は複数の白い板を互い違いに重ねたような具合で、ベランダ全体に被さっているのではなく、ブーゲンビリアの頭上には屋根が迫り出しているのに対し、扉のある場所は軒が極端に短く、軒下がほとんど隠れていない。松谷が思い描いていた以上に、ベランダが広いこともあり、半ばバルコニーのようにも見える。
これでは、扉の前の空間は、あまり雨風が防げないだろう。あるいは、陽当たりの確保を優先した結果、こんな造りになったのか。
「当時売り出し中やった建築家さんのデザインらしいですよ。鷺沼家の所有する別荘地──というか町──があるんですけど、その町の設計も、同じ人に依頼してはりました」
「鷺沼家の町、ですか……」
呟いた松谷は、再びアルバムのページに向き直る。──瞬間、その瞳は、別の一葉の写真に吸い寄せられた。
暗がりの中、姿勢正しく椅子に腰かけた少女が、可憐な笑みを、撮影者に向けていた。彼女の目の前にあるテーブルには、火を灯したローソクが数本刺さったケーキ──おそらく、誕生日祝いなのだろう。
周囲の闇に溶け込むほどか黒い髪と、ローソクの光に浮かび上がるような白い肌は、日本画の幽霊を想起させる不気味さだが、それ以上に松谷を驚かせたのは、彼女の瞳だった。
長い睫毛に縁取られた二つの目の中には、紅玉が浮かんでいる。
──暗がりで微笑む、赤い眼の少女。
なんということもない。ただの赤目現象だとわかっていても、松谷には彼女がこの世の物ざる存在のように感じられた。ゾワゾワと総毛立つのを感じながら、それでも一向に目を離すことができなかったのは、すでにその魔力に魅入られてしまった為か……。
「……紫苑お嬢様です。お亡くなりになる、少し前に撮ったものですね」
尋ねるより先に、真澄が静かに教えてくれた。事件の起こる数週間前に、紫苑は十三歳の誕生日を迎えていた。
歳が歳なので、まだ子供らしさを多分に残してはいたが……それでも、すでに美人と言えるほど、紫苑は整った顔貌をしていた。中学校の同じクラスにこんな少女がいたら、惚れるとまでは行かずとも、気になりはするだろう。
二つの赤い目を見つめたまま、松谷がそんな風に思いを巡らせていた、その時。
隣りから、意外な言葉が飛んで来る。
「紫苑さんの写真、お借りしてもええですか?」
「えっ? あの、何に使いはるんです?」
「実はこの後、五十年前の事件の捜査に参加しとった元刑事さんへ、話を聴きに行くんです。で、その人にも紫苑さんの写真を見てもらえれば、聴き込みがスムーズになるかと」
田花は、もっともらしい答えを口にした。パッラパーに見えて意外と考えているのか、それとも難事件に取り組む探偵ごっこが、よほどお気に召したのか。
「実物が難しいなら、スマホで撮らせてもらうだけでも構いません」
それならばと、真澄は承諾してくれた。アルバムから取り出した紫苑の写真を、スマートフォンで撮影する同僚を横目に、松谷は湯呑みへ手を伸ばす。
口に含んだほうじ茶は、当然ながらぬるくなっていた。