猫踏んじゃった
嘆きのほかに何もない宇宙! お前は、
追い立てるのになぜ連れて来たのか?
まだ来ぬ旅人も酌む酒の苦さを知ったら、
誰がこんな宿へなど来るものか!
約三週間前──二〇一九年、四月六日。
大阪は西成区にて。平成の終わりが間近に迫る中、日本屈指の「ドヤ街」として知られるこの区域は──かねてより、あまり治安のいい場所とは言い難かったが、この頃は特に──、殺気立った雰囲気というか、一触即発の緊迫感に包まれていた。
その原因は明々白々であり、街の象徴とも言えるあいりん労働福祉センターが、三月いっぱいで閉鎖されると決定したことだ。大阪万博の開催された年に竣工したこの総合福祉施設は、以来約五十年にも亘り、日雇い労働者や路上生活者たちのよすがとして機能して来た。
しかしながら、経年劣化による耐震上の問題から、先月の三十一日に施設は閉鎖。建物の建て替えが決まり、センターは長い歴史に幕を閉じた──が、シャッターは閉じなかった。
施設の閉鎖に反対する路上生活者が、慣れ親しんだ憩いの場所を守ろうと、建物内に居座り続けたのだ。
彼らの切実さは並々ではなく、結局明くる四月の二十四日に、二百人を超える警察官が出動し、強制的に退去させるという、手荒な結末を迎えることになる。
こうして今度こそセンターのシャッターは下ろされ、職業斡旋所も移転したものの、完全に抗議活動が沈静化したわけではなく……以降も、敷地内に侵入し、寝泊まりする路上生活者は、後を絶たないという。
──少々話が脱線してしまったが、とにかく、そんな物々しい雰囲気漂う街の一角に、美杉探偵事務所のオフィスはあった。
場所は築年数おおよそ三十から四十年とも言われる、古びた雑居ビルの三階。立地としては、新今宮駅から徒歩二分足らず。黄土色の野暮ったい外壁を持つ建物の中には、美杉探偵事務所の他、一階に老舗の洋食屋が一軒入っているだけで、残りは全て空室である。
その洋食店──《ぱのらま亭》で、遅めの昼食を済ませた松谷新は、これから再び書類仕事と向き合う憂鬱さを背負いながら、重い足取りで、狭い階段を上って行った。
松谷が探偵業を始めて、今年で三年目。体力的にも精神的にもキツい仕事ながら、それなりにやり甲斐は感じられているし、自分なりのノウハウを得られたつもりでいた。所長である美杉との関係も良好で、ここ一年ほどは稼ぎも安定している。
これだけ特殊な仕事で食って行けているのだから、十分だろう。この業界に飛び込んだ頃に抱いていた不安が嘘のように、順風満帆と言えた。
先月末に、あの男が入社して来るまでは。
職場のある三階へと上りきり、俯いていた顔を上げると、廊下の先に、一人の老人の姿を見つけた。老人はオフィスの入り口の前に佇み、「美杉探偵事務所」と掲げられた壁のプレートを、観光名所にでも来たかのように見上げている。
──客か?
松谷は声をかけた。
「あのぉ、弊社にご用意の方ですか?」
ハンチングを被った小柄な老人は、驚いたように振り返る。
松谷は老人の風貌を、簡単に観察した。年齢は、おそらく六十前後。足元には運動靴、ズボンは灰色のスラックスで、上はチェック柄のシャツの上から枯葉色のブルゾンを羽織っていた。小綺麗な身なりや柔和そうな雰囲気から、おそらく地元の人間ではないのだろうと、見当をつける。
松谷の問いに、老人は少年のようにはにかみ、短く切り揃えた白い襟足に触れた。
「ええ、そうなんです。どうしても、探偵さんに調べてもらいたいことがありまして、伺いしました」
予想は的中した。これで一、二時間は始末書の製作を先延ばしにできるという安堵と、どの道期日は迫って来るわけで、むしろのちのち苦しくなるだけだという後ろ向きな気持ちを同時に抱きつつ、松谷は依頼人を、オフィスに招き入れた。
入ってすぐの場所に応接用のスペースがあり、部屋の半分ほどを仕切るパーテーションの向こうには、普段松谷らの使うデスクが固めて置かれていた。さらにその奥には細やかなキッチンと、向かって左手の壁には仮眠室の入り口が、四角く口を開けている。
オフィスの様子は、松谷が昼食を摂りに出た時と変わらなかった。事務係の紅一点、沢渡がデスクに座ってPCと睨めっこしているのみで、他の所員の姿はない。
その代わり、仮眠室の中から聞こえて来る、耳障りないびき声も相変わらずで、松谷は気恥ずかしいやら腹立たしいやら、「いい加減ウンザリ」という心地になる。
「誰か寝てはるんですか?」
無遠慮ないびき声は、当然依頼人の耳にも届いたのだろう。老人は和かに笑いながら、尋ねて来た。
「ええ、まあ──すみません、うるさいですよね。すぐ起こして来ますんで」
「いえいえ、気になりませんから。お疲れなんでしょうね。大変な仕事やろうし」
松谷は苦笑で「すみません」と繰り返した。あいつが疲れているわけがない。前の依頼でやらかして以来、まともに働いていないのだから。
とにかく、依頼人にソファーを勧めた松谷は、沢渡女史に声をかけ、客人にお茶を淹れるよう促す。こちらはこちらで平常どおり、三白眼で松谷を眇めると、「はいはい」と素っ気ない返事を寄越し、奥のキッチンへ向かって行った。相変わらず、ふてこいオバちゃんやなと、松谷は内心カチンと来たが……それでも、自分の役割を理解し遂行しているだけ、マシだろう。少なくとも、あの無茶苦茶な後輩とは、比較にもならない。
松谷も客の向かい側に腰を下ろし、自分の名刺を渡す。老人はやはり穏やかな物腰の人物らしく、恭しくそれを受け取ると、「生憎退職したばかりで、渡せる物がないんですが」と前置きしてから、自らの名前を名乗った。
それから一言二言、他愛ない雑談を交わした。そして、沢渡が絡繰人形のように緩慢な動作で、緑茶の湯呑みを運んで来ると、いよいよ仕事内容の確認に入る。
「では、久住さん。そろそろご依頼の内容を伺ってもよろしいですか?」
久住完吾と名乗った老人は、少々緊張した面持ちになって、茶を一口だけ啜り、湯呑みを置いた。
「何と言いますか、非常に難しい仕事やとは、思うんですけどね」
松谷はこの時点で、ある程度依頼の内容を予想していた。妻の浮気を疑うような年齢ではなさそうだし、つい最近定年退職したばかりということだから、新入社員の素行調査とも考え難い。であれば、尋ね人の捜索か、ペット探し辺りだろうか……。
結果から言えば、この予想は、全くの見当違いであった。
「再調査を依頼したいんです。──五十年前に起きた、殺人事件の」
「は?」と、思わず声が出そうになった。松谷が美杉探偵事務所に入社してから、二年と少々。殺人事件の調査依頼が持ち込まれるのは、当然始めてのことだ。
久住老人の言葉は、沢渡にとっても意外なものだったらしい。空の盆を持って下がろうとした彼女が、足を止め、パーテーションの向こうからこちらを覗き込んでいるのが、振り返らずともわかった。事務員の視線を後頭部で感じながら、松谷は一呼吸置き、ようやく返す言葉を探し始める。
「それは、つまり……一度警察が捜査し、結論に至った事件を改めて調べてほしい、という意味ですか?」
「そうですそうです」
話が早くて助かるとばかりに、久住は破顔して頷く。生憎と、松谷は少しも話を呑み込めていないのだが。
「あー、えっと……一応、どのような事件なのか、伺ってもよろしいですか? 仕事を受けさせていただくかどうかは、その後で判断しますので」
「もちろん、無理にとは言いません。こんな話を聴いてもらえるだけで、ありがたいですよ。──ところで、鷺沼グループのことは、知ってはりますね?」
無論首肯する。今や関西圏、いや日本に住んでいて知らない者はそういないだろう。特に、ここ最近は来年開催されるオリンピックのスポンサー企業ということもあり、様々な媒体で広告を見かける。
「実は、私が再調査を依頼したい事件というのは、その鷺沼グループ──いや、鷺沼家で起きたものなんです」
松谷は更に困惑した──と、同時に、否応にも興味をそそられた。あの大企業と関係する殺人事件とは、いったいどのようなものなのか……。
身を乗り出して、話の続きを待つ。沢渡も耳をそばだてているのだろう。
テーブル越しの久住は、記憶のフィルムを切り替えるように、一度両眼を瞑った後、その恐ろしい体験について、語り始めた。
「今でも、鮮明に思い出すことができます。あれは今から五十年も前──一九六九年の、八月十六日のことです」
※
──あの晩は、バケツの水をひっくり返したような大雨で、大きなお屋敷の中にいても、ひっきりなしに屋根を打つ雨音や、唸るような風の音が、ハッキリと聞こえとりました。雷もしょっちゅうゴロゴロと鳴っていて──そんな状態やから、私もお嬢様も、暴漢が忍び込んで来たことには、少しも気づきませんでした。
それが起きた時、私は紫苑お嬢様と一緒に、お屋敷の二階にある部屋におりました。そこにはグランドピアノが置かれとって、紫苑お嬢様が、私に演奏を聴かせてくださっていたんです。曲は確か……ラヴェルの『なき王女のためのパヴァーヌ』やったと思います。
当時、私の父は、使用人兼運転手として、鷺沼家に仕えていまして……そのご縁で、幼かった私は父の仕事が終わるまで、鷺沼家の所有する邸宅や別荘で待たせていただくことが、何度かありました。その日も父は、旦那様たちの用事にお供しとったので、私は紫苑お嬢様や家政婦の人と一緒に、お屋敷で留守番をしとったわけです。
このお屋敷というのは、鷺沼家の本邸ではなく、別荘の一つやったんですが、少々特殊な立地にありまして……まあ、田舎やったんですよ。簡単に言えば。しかも、周囲に人の住む家はなく──元々その土地に暮らしとった人らは、みな立ち退いた後でした──、車で十分ほど行ったところに、当時鷺沼家が経営しとった、大きな病院が建っとるばかりでした。お屋敷の外に人の耳があらへんのですから、ある意味拳銃を使って犯罪を行うのに、適した環境やったんでしょう。
──そうです、拳銃です。犯人はわざわざ拳銃を用意してまで、あんな惨たらしいことを……。
……話を戻しますね。
私が外のうるさい雨音さえ忘れて、お嬢様の達者な演奏に聴き惚れとった、その時でした。出し抜けに、ホイッスルを吹いたような甲高い悲鳴が鳴り響き──それを聞いた私たちは、ようやく異変が起きたことを知ったのです。
紫苑お嬢様は、鍵盤を叩いていた指の動きをピタリとお止めになって、驚いたように顔を上げられました。おそらく、私も同じ表情やったと思います。
「……何かしら?」
お嬢様は、ドアの向こうに大きな瞳を向け、不思議そうに呟かれました。
すると間もなく。今度はそのドアに、何かが打ちつけられるような鈍い音がしたかと思うと、ノブが回り──若い家政婦さんが、血の気の失せた顔を、覗かせはったりました。
「高部さん? どうしたの? 今、すごい声が聞こえたけれど」
お嬢様は椅子から立ち上がり、心配そうに尋ねながら、ピアノの横へ歩み出ました。明らかに錯乱した様子の家政婦さんへ、近づこうとされたのでしょう。が、そうするよりも先に、
「お、お嬢様──お逃げください!」
家政婦さんが、荒い息のままそう叫んだ、直後。
彼女の体を突き飛ばしながら、真っ黒い影のような男が、ずぶ濡れの格好で、部屋の中に入って来たのです!
私は訳がわからず、用意された椅子に座ったまま、動けませんでした。それはお嬢様も同じやったようで、美しいお顔を蒼褪めさせたまま、その場に立ち尽くしておられました。
男は──目出し帽を被っとったんで、顔はわかりませんが──、全身黒尽くめの服装やったと、記憶しています。それこそ絵に描いたような、強盗犯の格好でした。
荷物については、デイパックと言うのでしょうか、いやに大きなリュックを背負っとって、その右手には、黒光りする拳銃が握られているやありませんか。
男は素早く私たちを一瞥すると、屈み込み、倒れてはった家政婦さんを、無理矢理起き上がらせました。それから、くぐもった低い声で、
「お前はその餓鬼と一緒に、向こうの壁に立ってろや」
彼女の耳元で怒鳴ると、その背中を力任せに小突きました。つんのめるように駆け出した家政婦さんは、私の元に辿り着く前に、再び倒れてもうたのですが……すぐに体を起こしはって、暴漢の方を振り仰ぎました。
「何なんですかあなたは! け、警察を呼びますよ!」
当時まだ二十歳くらいやったでしょう家政婦さんは、戦慄く声で叫びはりました。勇気を振り絞った彼女の抵抗を、暴漢は嘲笑い、
「好きにしいや。……ただし、俺の用事が済んだ後で、な」
言うが早いか、目出し帽の男は、紫苑お嬢様に銃口を向けたのです。
「やめてぇ!」
家政婦さんが、金切り声を上げました。
「…………」
紫苑お嬢様は、恐怖に顔を強張らせ、自らに向けられた黒い凶器を凝視しておられました。
そして、私は──やはり、身動きの取れんまま、ただ見ていることしかできませんでした。
男が躊躇うことなく、引き金を引く瞬間を──
耳をつんざくような轟音と共に、銃口から火花が発せられたかと思うと、次の瞬間には、お嬢様が体を仰け反らせるようにして──額から噴き上がった細い血飛沫が、空中で弧を描くのが見えました──、後ろの方へ、吹き飛んでとうたのです。
壁際の床の上に倒れ込んだお嬢様は、別々の向きに四肢を投げ出し、ピクピクと体を痙攣させてはりました。お嬢様の白い額の生え際に下には、オゾマシイ穴が穿たれており……閉ざされたその両の瞼は、私の知る限り、二度と開くことはありませんでした。
私は恐怖や哀しさよりも先に、とにかくショックで……。この暴力的な光景を、現実の出来事として受け入れることが、できんかった……。
その後、男は今度は私たちの方へ銃口を突きつけ、部屋から出るように命じました。私たちは抗うこともできず、お嬢様のお体の真横を通り過ぎ、戸口へと向かった──のですが、
「止まれ」
再び命じられるがまま、扉の目の前で立ち止まることになりました。
今度は何が始まるのかと怯えていると、男はデイパックから取り出したガムテープで、私と家政婦さんの両手を、拘束してもうたんです。
そして、最後に両目の上からタオルを巻かれ、視界を奪われた私たちは、男に突き飛ばされるような形で、今度こそ廊下に締め出されてしまいました。
冷たい床の上に倒れ込むと、乱暴にドアを閉じる音が聞こえ──それからほんの数瞬の間、篠突く雨音と、家政婦さんが嗚咽する声だけが、暗闇の中に木霊しとりました。
が、しかし……すぐに──おそらく数秒後には、全く別の音が、私の耳に届いたのです。
それは、ある意味では、お嬢様が撃たれる瞬間を目の当たりにした時以上に、恐ろしい体験でした。
誰かが──あの男に他ないのですが──ピアノを弾き始めたのです。
その時ばかりは、本当に体の凍りつくような思いがしましたよ。いったい、どれほどのとち狂っとったら、自分が人を殺めた現場で、手にかけた人間の亡骸のすぐ近くで、ピアノを弾くことができるんやろう? 完全に、理解の範疇を越えています。
その恐怖の音色──身に宿した狂気を表現するように、どんどんテンポを上げて行く『猫踏んじゃった』の演奏を聞かされ続け……私は、気がドウカなりそうでした。
殺人鬼の弾く『猫踏んじゃった』の狂ったメロディと、獣の唸りのような家政婦さんの泣き声と、外の嵐の音──立ち上がって逃げ出すことも、耳を塞ぐこともできず、私は恐怖に打ち震えながら、それらの音を聞いていました。
それから、どれほどの時間が経過したのか、その時はわからなかったのですが……やがて、玄関の方で物音がしたかと思うと、すぐさま階段を駆け上る数人の足音が、ドタドタと聞こえて来ました。
それと、ほとんど同時に。
ピアノの音が途切れます。
それまで廊下の床で芋虫のように身を捩らせとった私は、ハッとして動きを止め、耳を澄ませました。──直後、私たちのすぐ近くで足音が立ち止まり、と思う間もなく、二つの叫び声が炸裂しました。
「完吾! しっかりしろ! 完吾!」
聞き慣れた声の主が、何度も何度も私の名前を呼び、と、同時に、強い力でグラグラと体を揺さぶられました。
それから間もなく、両目を塞いでいたタオルが取り払われると──心配げにこちらを覗き込む父の顔が、すぐ目の前にあったのです。
また、私の隣りでは、父と一緒に屋敷にお戻りになったらしい宗介様と、医師の鬼村庄司先生が、私と同じく視界を取り戻した家政婦さんから、話を聴き始めたところでした。
家政婦さんは、それはもう錯乱した様子で、「お嬢様が、紫苑お嬢様が、撃たれて、男が、男がお部屋の中で、ピアノを……」と、うわ言のように繰り返してはりました。
これを受けた宗介様と鬼村先生、そして私の父は、同時にドアの方を振り返ります。しかし、その向こうからは、今や物音一つ聞こえやしません。先ほどの狂乱が嘘やったかのように、静まり返っとったのです……。
三人の大人たちは、無言のまま目配せをし、頷き合ういました。そして、父は私のことを鬼村先生に任せ、一人、ドアへと歩み寄ります。
私は、まだ先ほどの男が部屋の中に潜んでいて、ドアを開けた途端襲いかかって来るんちゃうかと、気が気ではありませんでした。
実際には……私の危惧したようなことは起きず──
薄くドアを開き、中を覗き込んだ父は、すぐに私たちの方を振り返り、
「誰もおりません」
そう言うと、その証拠を見せんとばかりに、一気にドアを開け放ちました。
果たせるかな、父の言葉どおり、お部屋の中には誰の姿もありませんでした。
つい先ほどまで──せいぜい一、二分ほど前まで、狂ったように『猫踏んじゃった』を弾いとったはずの男はおろか、紫苑お嬢様のご遺体までもが、姿を消しとったのです!
私は、酷く不思議な心地でした。まるで手品を見せられたかのような……本当に誰もいてへんのかと、思わず体を乗り出して、お部屋の中を覗き込んだほどです。
そのお陰で、さらに奇妙な事実に気がつきました。
お部屋には、戸口から見て真正面にある壁に、扉──ベランダに出る為の外開きのドア──がありました。廊下と繋がる方のドアを除いて、あの男が脱出できた場所と言えば、この扉以外には考えられません。もちろん、お部屋には窓もありましたが、そちらはそちらで、脱出経路として適さへん「理由」が、別にありまして……。
にも拘らず……にも拘らず、です。その扉には、シッカリと鍵がかけられとったのです!
間違いありません。私が見た時、確かにサムターンキーのツマミは、横向きになっとりました。言うまでもなく、それは内側からしかかけられん物です。
ピアノの演奏が止んでから、私の父がドアを開けるまでの数分間、誰も廊下には出て来とりません。そして、室内には人が隠れられるような空間などはなく、父の開けたドアの後ろに男が息を潜めていた──などということも、考えられへんのです。
つまり、誠に奇妙なことではありますが……犯人は、密室状態の現場から、消え失せてしまったのです。お嬢様のご遺体を連れて……。
その後、警察への通報は、宗介様が手ずから行われたそうです。私と家政婦さんは、鬼村先生につき添われながら、父の運転する車で、病院へ運ばれたので、それから先のことは、ようわかりません。……私が直接体験した出来事は、ここまでなのです。
最終的に、あの目出し帽の男の素性は判明したものの、逮捕には至りませんでした。
事件後すぐ、男が自殺してもうたからです。
また、紫苑お嬢様のご遺体に関しても、部分的には発見されましたのですが……お体のほとんどは、今でもどこにあるんか、わからんままでして……。結局、犯行の動機や、現場を密室にした方法など、多くの謎を残しながら、「被疑者死亡」という形で、捜査は打ち切られてしまいました。
……あの日から、今年で五十年になります。鷺沼家の方々も含め、今ではこの事件を知らん人が大半でしょう。すでに片のついた事件ですし、半世紀も経ってもうたんですから、当然です。
しかし……私はどうしても、納得できひんのです。これだけの謎を放ったらかしにしたまま、再び新しい時代がやって来ることが。
自分でも妙な依頼やとは思っています。ですが、どうか、お力を貸してもらえませんでしょうか? 私は、まだ自分が生きとるうちに、紫苑お嬢様の無念を、晴らして差し上げたいのです。