武士の家の座敷童
――家が広い。
そんな感想を抱きながら、大森吉之助は黙々と夕餉を口に運んでいた。
下級武士の屋敷は、そう大きなものではない。しかしながら、一人では何かと広過ぎる。がらりと空いた空間にぽつんと一人でいるのは、吉之助には苦手なことだった。
以前は良かった。妻と息子の笑顔や話し声が屋敷に満ちて、淋しさなど微塵も感じなかった。
だが、昨年。江戸に蔓延した流行り病に罹った二人は、呆気なく逝ってしまった。
あの時感じた強い悲しみは、この一年で少しずつ薄れてきた。しかしその欠片は鋭く尖って、今も身の内からチクチクと吉之助を刺す。
誰もいない屋敷にいるのは苦しいが、だからといって行ける場所もない。下級武士の仕事はそれほど多くなく、酒を吞みにいったり遊びに興じたりする金もなし。
仕方なく、吉之助は屋敷で刀の稽古をしたり、書物を読んだりして気を紛らわせていた。
一番辛いのが食事時だ。一人で食べる食事ほど味気ないものはない。
妻子を失って暫くは近所の賄い屋で食事を頼んでいたが、これが結構金がかかる。
そこで、吉之助は妻の姿を思い出しながら、見様見真似で自炊を始めてみた。ついでに狭い庭の隅に菜園も作り、野菜を育てている。
自分で作った食事は不味くはないが、美味しくもない。人の温もりの分を差し引いても、妻の味の方が断然美味い。
妻の味を思い出しながら夕餉を食べ進め、久し振りに手に入った鯵の塩焼きの味が薄いことに気づいて、塩を取りに厨へ立った時だった。
部屋に戻って膳の上を見て、首を傾げる。
皿の上に載っていた鯵がない。その味が薄いと思って塩を取りにいったのだから、間違いなくそこにあったはずだ。しかし今は影も形もなく、空の皿があるだけ。
何処かから入り込んだ野良猫にでもやられたのだろうか。そうだとしても、今から探してとっちめる元気はない。
仕方なく、吉之助は飯と具のない味噌汁だけの夕餉を済ませた。
*
その日を境に、少し目を離すと食事が消えるという珍事が続いた。
吉之助は武士と雖も、下級の身。自身の食事代も惜しいくらいだ。一度や二度ならいざ知らず、こう毎日続くと堪ったものではない。
最初は見て見ぬ振りをしていた吉之助だが、流石に我慢ならなくなって、野良猫をとっちめてやろうと立ち上がった。
ある日の夕餉時。吉之助はいつも食事をする部屋に一膳の料理を用意し、隣の部屋に身を隠した。
蝋燭の火に浮かび上がる薄暗い室内を目を凝らして見ていると、縁側の方から部屋に入ってくる小さな影が一つあった。
しかしながら、想定していた猫の影より随分と大きい。蝋燭の灯りが届くところまで来るのを待ったところ、その影は猫ではなく一人の少女だったことが判明した。
黒々としたおかっぱ頭を揺らして、そろそろと膳に近づいていく。暗くてよく見えないが、毬模様の赤い着物を着ているようである。
少女はくりっとした円らな瞳で部屋を一通り見回してから、膳の上を覗き込んだ。
食事を眺めていたかと思うと、少女は次の瞬間、野菜の煮つけを直に手で掴んで口の中に放り込んでしまった。咀嚼して飲み込み、目を輝かせてもう一掴み食べる。
それを三、四度繰り返すと、皿は空になった。
そして悩むように飯と味噌汁を見ていたが、やがてふいと膳に背を向け、再び縁側の方へと戻って夜闇に消えるように去っていった。
一連の出来事を目の当たりにした吉之助は、暫く呆けていた。
現れ方も消え方も突然で、とても常人とは思えなかった。まさか幽霊ではないかと蒼くなったが、幽霊が物を食べるだろうか。
そこではたと思い至る。
幽霊以外で考えられるとすれば、座敷童だ。
噂に聞いたことしかないが、座敷童が憑いた家には幸福が訪れるらしい。姿形も座敷童と一致する。その時は話半分に聞き流していたが、よもや実在するとは。
このままこの屋敷にいてもらえば、幸運に恵まれるかもしれない。
吉之助はまだ見ぬ幸福に胸を躍らせ、彼女をもてなそうと心に誓った。
*
翌日から、吉之助は自分の分の食事に加え、座敷童の分も用意するようになった。
座敷童の分を廊下に置いておき、吉之助自身はいつも通り部屋で食事をする。食べ終えてから廊下を見にいくと、膳の上は綺麗になっているのである。
彼女の姿を見た時、何処か物足りないような印象を受けたのだが、それは正解だったらしい。子どもにしては少々多めに飯をよそっておいたのだが、米一粒残っていない。
もしかしたら、一応、家主である吉之助に遠慮してのことだったのだろうか。自分の為に用意してくれたものだと理解したから、綺麗に食べてしまったのだろう。
それにしては、以前は主なおかずばかりを食べていたが……まあ、それは言及しないでおこう。
しかし、姿を見た時のあの美味しそうに食べていた彼女の表情が忘れられない。
自分の手料理を誰かに食べてもらったことなどなかったせいか、何とも言えない喜びが込み上げてくる。見様見真似の下手な料理と思っていたが、あんな風に食べてもらえるとなると、嬉しいものである。
(――よし)
吉之助は、少しでも美味しいものが作れるように努力をすることにした。自身が美味しいものを食べたいのも勿論だが、何より座敷童により良いものを口にして欲しいという気持ちが大きかった。
ああでもない、こうでもないと厨で研究を重ね、時には食事処に出向いて客として食事をしながら厨房を盗み見て技を盗んだ。
そうやって十数日が過ぎ、少しは料理の腕も上達したと思えてきた頃、吉之助は座敷童の様子が気になってきていた。
食事の邪魔をしてはいけないと廊下を覗くことはしていなかったので、最初に彼女の姿を見たきりになっている。いつも膳の上は空になっているが、ちゃんと美味しく食べてもらえているだろうか。
座敷童が食べてくれたらそれで良いと思っていたが、自信がついてくると欲が出てくるものである。
ある日の夜、吉之助はいつものように廊下に膳を用意し、部屋に引っ込んだ振りをして細く開けた襖から廊下を窺っていた。
息を殺して待っていると、廊下の向こうからすっと座敷童が姿を現した。慣れたように膳の前に座り込み、一度食事を見渡してから食べ始める。
使い方が分からないのか、箸は使わずに手掴み乃至椀や皿に直接口をつけて口に入れる。
食べ方ははしたないが、美味しそうに頬張っている様子は、見ていて気持ちが良い。
内心ほっとしたのがいけなかったのだろう。襖についていた手の力加減が鈍って、かたりと音が鳴る。
瞬間、座敷童が口の周りに米粒をつけたまま吉之助の方を見た。大きく丸い瞳と、かちりと目が合う。
「ま、待ってくれ」
すぐに立ち上がって背を向けた彼女に、吉之助は思わず声をかけた。それでも無視して行ってしまうかと思ったが、彼女は立ち止まって振り返る。
「あたしのこと……見えるの……?」
「見えるも何も、そこにいるじゃないか」
吉之助が廊下に出ると、座敷童は大きな瞳を更に大きくする。そしてそっと吉之助に近づき、興味津々といった様子で顔を見上げた。
「あたしが見える人、初めて会った」
「君は――やはり、人間ではないのだね?」
恐る恐る尋ねてみると、彼女は「うん」と頷いた。
「人間はあたしのこと、〝座敷童〟って呼ぶよ」
やはり、と吉之助は希望を確信した。
座敷童の前に膝をつき、目線を合わせる。黒々とした瞳は不思議な雰囲気を纏っていて、吸い込まれてしまいそうな感覚がした。
「お願いがあるんだ。これからも、この屋敷にいて欲しい。君の分の食事も、今まで通り用意するから」
すると、座敷童はふっと表情を曇らせた。顎を引き、上目遣いに吉之助を見遣る。
「……あたしが幸福を運ぶから?」
「――それは」
息が詰まったように言葉が出てこない。
彼女が言ったことが理由であることは事実であるが、はっきりそうだと言ってしまうのは気が引ける。正直なところ、安易に肯定をして彼女の機嫌を損ねたらすぐにでも出ていってしまうのではないかという危惧もあった。
妙な間が空いてしまったが、吉之助は笑みを浮かべて自身の醜い感情を隠した。
「昨年、私は妻と息子を亡くしてね。この屋敷に一人でいるのが淋しいのだ。だから、君が共にいてくれたら、嬉しいのだが」
この言葉に嘘はない。だが、幸福を得られるという打算も大きい為、後ろめたさが凝る。
それを悟られないように努めて明るい声で語ったが、不安は残る。
緊張と少しの嫌悪感を抱えながら返事を待っていたが、座敷童は僅かな間だけ悩む素振りをしてから、ゆっくりと頷いた。
「分かった。あたし、ここにいるね」
吉之助は胸を撫で下ろすような思いで、百合と名乗った座敷童と共に笑い合った。
*
「吉之助、最近機嫌が良いな」
自分と同じ下級武士の男に声をかけられて、吉之助は小首を傾げた。
「そうか?」
「そうだよ。去年からにこりともしなくなったのに、ここ暫くはよく笑っているからな。表情も明るい感じがする」
笑っていた自覚はなかった。そもそも、笑わなくなったこともよく分かっていない。
しかし、昨年のことを思うと、それも道理なのだろう。
何の気なしに同僚だからと付き合っていたが、彼なりに吉之助のことを見ていてくれていたらしい。
「何か良いことでもあったのか?」
「いや、特に何もないが」
そう言ってはみたが、自身の変化は百合のお陰に違いない。
あの日から、屋敷に一人きりでないということがこんなにも嬉しいものだと実感していた。自分以外の声が室内に響くのは久方振りで、音が増えたはずなのに心は凪いだように落ち着く。
それに、彼女が運んできてくれるという幸福を思うと、楽しみで仕方がない。
吉之助は、何か隠しているのではないかと詮索してくる同僚を曖昧にあしらう。
まさか座敷童が現れたなどと言えるはずもなく、言ったところで信じてもらえまい。良いところ、頭がおかしくなったと思われるだろう。
不思議そうにする同僚を横目に、吉之助は今宵は何を作ろうと思いを馳せた。
*
最初は箸の使い方も知らなかった百合だが、吉之助が教えると一月もしない内に使いこなせるようになった。まだぎこちない部分はあるが、煮豆もきちんと箸先で摘まんで口に運ぶ。
彼女は妖怪であるから、見目通りの年齢ではないのだろう。幼い頃に読み聞かせられた御伽草子によれば、このような姿であっても吉之助よりずっと年上なのだという。
とはいえ、子どもの覚えの良さには舌を巻く。自身の息子もそうであった。幼い身にはできないことが山ほどあるが、一度教えるとすぐに上達してしまうことが多々あった。
「どうしたの?」
「……ああ、いや。何でもない」
百合に顔を覗き込まれて、吉之助は過去に戻っていた意識を現在に引き戻した。
ふとした拍子に妻子と暮らしていた頃を思い出してしまう癖が中々抜けない。
過去を懐かしんだり故人を想ったりすることは悪いことではないが、それに引き摺られて気分が沈んでしまうのは、悪い癖である。穏やかに思い出を遡れたら、天国の二人も喜んでくれるのだろう。
そうなりたいと切に願ってはいるが、自分がそうなれるかというと自信がない。あの時の感情が波のように襲ってくると、どうにも抑えられないのだ。
ふと見ると、百合が疑わしそうにこちらを見ている。何でもないと言った手前、吉之助は笑みを作った。
「――そうだ。百合は今まで、どんなお屋敷にいたんだい?」
話を変えてしまおうと、適当にそんなことを訊いただけだった。
その一瞬、百合の表情が真顔になった。しかし、すぐにいつもの満面の笑みが浮かぶ。
「そんなの、聞いてもつまんないよ。――あ、ねえ、明日は焼き魚が食べたいなあ」
「焼き魚か。干物で良ければ、用意できるが」
「いつもそればっかり」
百合は口を尖らせてみせるが、基本的に何を出しても美味しそうに食べてくれる。吉之助の財力では多くの物を食べさせてやることはできないが、今のところは嫌いなものはないようで安心する。
だが、先ほどの百合の表情が気になる。一瞬ではあるが表情が消えたし、吉之助がしたのと同じように話をはぐらかされたような気がしたが、話したくないのなら無理に聞き出すつもりはない。
吉之助はいつも通り、夕餉を頬張る百合の笑顔を眺めた。
*
数ヶ月が経ち、年の瀬も迫ってきた。世間は年末年始の準備で忙しく、道行く人々の足も心なしか速い気がする。
そんな浮き足立つ空気の中でも、吉之助と百合は通常の侘しい膳を前にしていた。
本日の夕餉のおかずは、庭で採れた蕪の漬け物と葉野菜の煮浸し。いつものことながら、味気ない。
百合は相変わらず美味しそうに食べてくれるが、正月くらいはもう少し豪勢なものを食べさせてやりたいと思うのは、大人心である。見目だけの感覚で考えているので、実年齢は無視することにする。そもそも、百合の実年齢を知らない。
「もうすぐ正月だな」
「正月?」
「ああ、新しい年を迎えられたことを祝う行事だ。百合は――何が食べたい?」
思わず話の勢いで訊いてしまったが、とんでもない高級品を所望されたらどうしようと内心で焦る。そんな吉之助の胸中を知ってか知らずか、百合は僅かな間を空けてからあっけらかんと答えた。
「いつもの吉之助のご飯が食べたいなあ」
「だが、折角の正月なんだ。もっと美味いものが食べたいだろう?」
「吉之助のご飯は、いつも美味しいよ?」
嬉しいことを言ってくれる。だが、そういうわけにはいかない。
吉之助は、思わず身を乗り出した。
「こんな侘しい食事ではなく、もっと豪勢なものが食べたいのではないかと――」
言葉が途中で切れた。何故か傷ついたような表情をする百合に、喉が詰まる。
何も言えずにいる吉之助に、百合は半分以上残った膳に箸を置いて、すっくと立ち上がった。
「ごめんね。お腹いっぱいになっちゃった。ごちそうさま。――じゃあね」
そう言い残し、襖の向こうに消えていく。その何とも言えない哀愁を漂わせた小さな背中に声をかけることも引き留めることもできなくて、吉之助は彼女を黙って見送るしかなかった。
後に残された部屋は時間が止まってしまったみたいに静かで、寒さに膝を擦った。
*
そんなことがあった翌日から、百合は姿を見せなくなった。
食事時になると元気な声を上げてひょっこりと出てきたものだが、今は呼んでも返事すらない。
吉之助は、再び一人で広い屋敷を持て余す日々に戻るしかなかった。
以前と違うところといえば、食事を二人分用意し続けているということである。百合が姿を現さなくなってからも、それだけは習慣づいて離れなかった。用意し続けていれば、いつか彼女が戻ってきてくれるかもしれないという希望を捨てられないのかもしれない。
しかし、自分が食事をする目の前に誰もいない膳があるというのは、物悲しいものだ。事情を知らぬ他人が見たら、不気味がるかもしれない。それでも、やめることはできなかった。
それにしても、この屋敷はこんなにも広かっただろうか。百合と出会う以前にもそう感じていたはずなのに、今となってはその時よりも広々としている気がする。
空間の寒々しさも手伝って、冷えた空気が身に沁みる。息を吸うだけで身の内から冷やされるようだ。
出来立てのはずの冷たい味噌汁を啜って朝餉を終えた吉之助は、ふと縁側から外を見遣った。ちらちらと、氷の欠片が舞っている。
「ああ、道理で」
窓辺に立って吐いた息が白い。発した独白まで凍ってしまいそうだ。
一体、何がいけなかったのだろう。何が百合の気に障ったのだろう。
自身の言動を思い返してみるが、さっぱり分からない。
吉之助は庭の土に積もっていく雪をぼんやりと眺めて、そこに縮こまる小さな背中の幻影を見た。
百合がこの家を出ていったのだとしたら、何処かで凍えてはいやしないだろうか。
そう思ったら矢も楯もたまらず、吉之助は薄着のまま家を飛び出した。
今まで百合が出かけたところを見たことがないので、心当たりも何もない。それでも、手当たり次第に近所を見て回る。
店の中を覗き込み、家屋の開いた蔀を横目で見遣り、果ては井戸の陰や中に頭を突っ込んでみる。傍目には充分過ぎるほど不審人物であっただろうが、そんなことに構っている余裕はなかった。あの小さな姿が寒さに震えているかもしれないと思えば、他人の目などどうでも良かった。
ふと気がつくと、辺りは暗くなり始めていた。夢中で町中を歩き回って、時間を忘れていたらしい。
雪もいつの間にか強くなって、冷たくなった手足の感覚もあまりない。
今日はもう引き上げるしかないだろうか。本当はもっと捜したいところだが、このままでは吉之助自身が凍えてしまう。
とぼとぼと家路を歩き、その途中で小さな神社に目が留まった。神なぞ信じていない吉之助は、近所にこんな神社があることすら知らなかった。
立ち止まった吉之助は、その場で暫し考える。
信心のない自分が神に願うなど、身勝手だと解っている。それでも――信じてはおらずとも、今だけは神という存在に縋りたくなった。
足の向きを変え、身を屈めて小さな鳥居を潜る。そこで目の前の社を見た吉之助は、思わず足を止めた。
鳥居の外からでは陰になって見えなかった賽銭箱の脇。そこに、小さな影が蹲っていた。
見覚えのある着物の柄に、思わず声が零れる。
「百合……?」
小さな影が顔を上げ、吉之助と目が合う。
久方振りに見た百合の顔は、驚きに満ちていた。
「……何で?」
落ちた雪と共に消えてしまいそうな、小さな声。
吉之助は身体の横で拳を握り、野良猫に逃げられないようにするのと同じように、そろりそろりとゆっくり百合に近づいた。それでも逃げてしまうかと思ったが、百合はぴくりとも動かず、吉之助の顔を黙って見上げる。
吉之助は、やはりゆっくりと彼女のすぐ目の前にしゃがみ込んだ。
「百合、今まで何処に?」
「……ごめんなさい」
百合が顔を俯けて、表情が見えなくなる。しかし、すぐに前髪の下からぽたぽたと雫が落ちた。
吉之助はその頭を撫でようと腕を伸ばしたが、途中で思い留まって引っ込めた。何故だか、今は彼女に触れてはいけない気がしたのだ。
「どうして、謝るんだい?」
探るように、どうにかそれだけを尋ねる。
すると、百合は僅かにしゃくり上げながら口を開いた。
「……あたし、嘘、吐いてたから」
「嘘?」
百合は小さく頷いて、気持ちを落ち着けるように少しの間を置いてからゆっくり話し始めた。
「あたし……座敷童だけど、座敷童じゃないの」
「? それは、どういうことだい?」
「座敷童は、家に幸福を運んでくるでしょ? ……でも、あたしには、そんな力はないから」
意を決したように上げた瞳は涙に潤んで、暗い雪空を映す。しかし、吉之助の顔を見るなり不安そうに目尻を歪めて、目を逸らしてしまった。
「あたしが家に居ても、その家は何も変わらないの。でも、あたしが出ていくと潰れちゃうの。……幸福はあげられないのに、不幸だけは残しちゃうの」
吉之助が聞いた話では、座敷童とは憑いた家に幸福を齎し、その幸福に胡坐を掻いて怠けると出ていってしまう。そして、座敷童に出ていかれてしまった家は没落する、というものだった。
つまり、百合は幸福は与えられないが、没落させることはできると言いたいらしい。
しかし、と吉之助は首を傾げた。
「我が家は没落していないが……」
百合がいなくなった以外に、吉之助の屋敷に変化はない。食べる者がいなくて廃棄される残飯は勿体無いが、その程度で没落するような柔な屋敷ではない。
「それは、あたしがちゃんとあの家を離れてないから」
百合が言うには、身体も心も家から離れて始めて〝家を出ていった〟ということになるらしい。身体だけが離れても、心が家に向いていれば出ていったことにはならない。
それを聞いて、吉之助はほっと胸を撫で下ろした。
「では、我が家に帰ろう。雪も強くなってきたし、ここにいたら凍えてしまう」
周囲を見渡すと、辺りはすっかり暗い。近くの家屋の前に吊るされた提灯の僅かな灯りに目を凝らせば、草木も土も建物も、雪の白に染まりつつあるようだった。
百合は目を丸くして、差し出された吉之助の掌を凝視した。
「何で……? あたし、幸福をあげられないんだよ?」
「もう、とっくにもらっているよ」
不思議そうに目を瞬かせる百合に、吉之助は少しだけ笑った。そして、小さな身体を包み込むように抱き上げる。
「最初に言っただろう? 私は百合が一緒にいてくれるだけで幸せなんだ」
初めは、座敷童の幸福も期待していた。しかし、いつしかそちらの方はどうでも良くなっていたのだ。
妻子と過ごしたあの日は、もう戻らない。
けれど、百合との暮らしは温かく、心地良く、失いたくないと思った。もう二度と、あの時のような悲しみは味わいたくない。
吉之助が再度微笑むと、百合は泣き笑いのような中途半端な表情を浮かべて、ぎゅっと吉之助の首に抱きついた。
新雪に足跡をつけて、歩き出す。
「さて。今宵は何が食べたい?」
「いつものご飯!」
二人の笑顔は晴れ晴れとして、雪の冷たさに負けない温かさを纏っていた。