四巻(一)
第一章 ハエルヌン・ブランクーレ(一)
新暦八九六年晩春[六月]五日、近北公[ハエルヌン・ブランクーレ]を出迎える一行に、サレも同行した。
セカヴァン(※1)に設けられた近北州軍の宿営地に、西南州の使節一行が到着したのは、六日の昼過ぎであった。
その日起こるとされていた皆既日食を見るため、野外に用意させた席で、公は酒をひとりで飲んでいた。
西南州の一行は州馭使に対する礼をもって、公にあいさつをした。他の者が口を濁す中、サレだけははっきりと、サルテン要塞攻略に対して祝意を述べた。
あいさつが済むと、一行はウベラ[・ガスムン]と打ち合わせを行うために、彼の幕舎へ向かう予定であったが、サレは公に呼び止められて、彼の相手をすることになった。
サレが公の近習から大きな杯を受け取ると、公が手づから酒を注ぎはじめた。
酒がなみなみと注がれていく間、サレは公をまぢかで見た。
ひどく痩せていた公は、目の下のくまが濃く、疲れ切っているように見えたが、そのためであろうか、まだ三十を過ぎたばかりで、顔に皺などはなかったのに、どこか老人を思わせた。そして、それは会うたびに変わらなかった(※2)。
「まあ、飲め」と言われ、近北州の強い酒をサレが飲んでいる間、公はサレの目を見ていたようで、彼が飲み干すと、次のように言った。
「南衛府監の目は、泥水を啜ってきた人間の目だな。なかなかのものだ。しかし、私の目を見てみろ。これが身内の血を啜って生き長らえて来た人間の目だ。滅多に見られるものではないぞ。話の種にしろ」
公の言にサレがとまどっていると、ちょうどよく、皆既日食がはじまり、すぐに終わった。
「見事なものだ。我が婚約者どののおっしゃれた通りに日食が起きた。月がお日さまを食った。私のような旧教を信じる者にとっては不吉な事象だが、南衛府監の家はどちらを信じているのだ?」
公の質問に対して、「我が家は代々、新教を信じております」とサレは即答した。
ウベラから、質問には素早く応じなければ、公の機嫌が途端に悪くなる旨、サレは何度も釘を刺されていた。
「そうか。ならば、日食は吉祥だな」
サレと公の会話を、彼の近習たちは愛想笑いもせず、始終、黙って聞いていた。
これもウベラから念を押されていたことだが、公は愛想笑いが嫌いで、そのために斬られた者もいたとのことだった
「さあ、もっと飲んでくれ」と言いながら、酒を水のように飲み続けている公に合わせて、サレも杯を重ねていると、すこし陽気な口調で、彼がサレに声をかけた。
「いや、南衛府監に酒を勧めるのは控えねばならんな。昔飲み過ぎて、ご政道批判の長広舌をふるったそうではないか?」
乾いた笑い声をあげる公に、「若気の至りです」とサレは応じた。
「なるほど。私の予想では、酔ったふりをして、前の大公[ムゲリ・スラザーラ]さまのお耳に入るように、意見を具申したと推測するが、……どうだ?」
高かった公の声が急に低くなった途端、サレは体中から汗が噴き出ているのを感じながら、「若気の……、至りです」と同じ言葉を繰り返した。
笑みを消し、冷めた目でサレを見つめた後、公が抑揚なくつぶやいた。
「大公はお優しい。私ならば斬り捨てている。南衛府監にとってはよい主であったな、大公さまは。それに比べて、私の従者はみなかわいそうだ」
言い終えた公は何事もなかったように、酒杯に再度、口をつけはじめた。
セカヴァンからの帰路、同行していたゼヨジ・ボエヌが、公の印象について、サレにたずねた。
それに対して、サレは次のように答えた。
「何人殺したら、あのような目になるのだろうか。いや、私がいくら人を斬ろうとも、あのような目にはならないだろう。怖いお人だ。彼は敵に回さない方がいい、絶対にな」
※1 セカヴァン
西南州北部の平原。
※2 これは会うたびに変わりはしなかった
ハエルヌン・ブランクーレの心身的な特徴としては、体型の著しい変動があり、痩せているときには躁状態を、太っているときには鬱状態を見せた。そのため、ハエルヌンに一度しか会ったことのない者たちの残した記録を照らし合わせると、その人物像に矛盾が生じる。その点、サレは彼と深い関係にあり、幾度も会っていることから、本書にて示されているハエルヌン像は、彼の実像に近いものと推定される。




