巻頭 ロナーテ・ハアリウの辞(三)
ホアラ候(一)
ホアラ候[ノルセン・サレ]は、前の大公[ムゲリ・スラザーラ]のもとで千騎長を務めたヘイリプ・サレどのと、ボエヌ家の出であるラエの次男として、新暦八七二年に、都のコステラ=デイラにて生まれた。
ゆいいつの兄弟である兄アイリウンどのは、大公により、近北州のルウラ・ハアルクンと合わせて、「デウアルトの双花(※1)」と称揚され、将来を嘱望された若者であった。
しかしながら、早くにいくさ場で亡くなり、弟の候がサレ家の家督を継ぐことになった。
主に母ラエの手により扶育された候は、刀術に優れた青年に長じた。
その腕は万人に優れ、師である剣聖どの(※2)に天才と言わしめるほどであり、大公の近北州下向の際に護衛として同行し、暗殺者を切り捨てる功(※3)も挙げている。
また、暗殺を恐れて宮廷へ出向くことを好まなかった大公であったが、どうしても参上しなければならないときは、候をしばしば同行させた。
しかし、刀術の邪魔になる、無駄な筋肉がつくことを候は嫌い、少年時代から馬、弓、槍の訓練を好まず、それは弓馬を尊ぶ国是から反する行いであったため、弓馬に優れた父兄や、ともに大公へ近習する同僚たちと比較されたことも加わり、サレ家の次男は戦場では役に立たないだろうと周りから目されていた。
それは実際に戦場へ立ってみなければわからない話であったが、二十一で西征を迎えるまで、候は都周辺の塩賊(※4)の掃討に参加するぐらいで、大きないくさに参加する機会を得ずじまいであった。
しかしながら、気をもむ父兄をよそに、候本人は、自分に対する周りの評価や武功のなさを気にする素振りを見せなかった。
候の剣技への執着は強く、視力がわるくなるからと、本は極力読まなかった。その代わり、必要な教養は耳学問で身につけた。
その文字を読むのを嫌った候であったが、七州屈指の能書家として、若い頃からその名を知られていたのは、おかしな話であった。
※1 デウアルトの双花
両者ともに、勇に優れていると世上で評されていた。また、二人ともその美貌で有名であった。
※2 剣聖どの
オジセン・ホランクのこと。
オジセンは西南州の貴族の出。花折流刀術の創始者。七州一の剣豪と目されたが、仕官を求める声に応じず、各地を流浪した。弟子になろうとする者は後を絶たなかったが、正式な弟子は、ノルセン・サレと養子のラシウ・ホランクのみであった。
オジセンが自流を後世に伝える文章を残さず、また、直弟子たちも積極的に広めようとしなかったので、本書はその点からも重要な書物であり、現在、花折流に関する叙述の部分は世によく知られている。
なお、当時、ノルセンの実父をオジセンとする噂が立っていた。
※3 暗殺者を切り捨てる功
北州重大事件のこと。
八九一年四月、近北州の州馭使ハエルヌン・ブランクーレがムゲリ・スラザーラを近北州に招いた際、ムゲリが刺客に襲われた。
ノルセン・サレがその場で刺客を切り殺したため、犯行の目的や指示者が不明のままとなり、ノルセンへの非難が一部で起きたが、事件をうやむやにしたかったハエルヌンおよび、その右腕のウベラ・ガスムンにとっては好都合な結果となった。
遠北州の反スラザーラ派が犯人と推定されたが、近北州内の反ブランクーレ派が起こした可能性もあったためである。
この事件を受けて、ノルセンはハエルヌンとガスムンの知己を得るが、とくに、生来的に気が合うところがあったようで、ガムスンとは深い関係になる。
だが、ムゲリの近臣であった父ヘイリプは、次男と近北州につながりが生じたことを良しとせず、その意を受けたノルセンは、父の生前は近北州との好誼を深めることはしなかった。
ノルセンと近北州が、いつごろからつながりを深めたのかは議論のあるところで、本回顧録に従えば、コステラに再上京した際から始まったように推測されるが、それ以前とみる史家が多勢である。
なお、ヘイリプが次男と近北州の交流を嫌ったのは、ハエルヌンがムゲリの側近たちから潜在的な敵と目されていたためである。
ハエルヌンは、ムゲリに攻められる前に投降した人物で、強力な兵を手元に残し、実質は家臣ではなく同盟者として扱われていた。
そのため、ムゲリも無下に扱うことができず、愛娘ハランシスクをブランクーレに与えることで囲い込みを図った。しかしながら、ハエルヌンは、その生涯を通じてだが、自領への思い入れが非常に強い代わりに他領への関心が薄く、ムゲリ自身の警戒心は薄かったとされている。
※4 塩賊
この時代は、西南州および東南州の南海岸で産出された塩を、都であるコステラに運ぶ「塩の道」(のちのサレ街道)を狙う塩賊がはびこり、大きな問題となっていた。
後年、サレはこの塩賊の討伐に大きくかかわった。