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透明なひと  作者:
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第二章 旅立つ娘 二

 藤堂が浄霊屋になってから初めて請けた依頼は、悪霊に取り憑かれた娘を救って欲しい、というものだった。巷でよく聞く話だが、明が言うには、生きている人間が悪霊に取り憑かれる事などそうそうないようだ。噂に聞くのは大体が作り話か狂言、または当事者の思い込みであるという。

 それでも確実に、取り憑かれる人間というのは存在する。憑かれる原因としては、病気や怪我などで極端に体が弱っているという事。また、精神的に弱っていても体を乗っ取られることがある。

 けれど取り憑かれる人間の過半数は、憑かれ易い体質であるとされている。体調的な理由か体質的なものであるかは、初めて憑かれた時期による。親に庇護され、本来なら悪霊が寄り付けない筈の赤ん坊の内に取り憑かれれば、それは体質だ。またそういった体質の人間には、総じて霊媒師の素質がある。

 退治屋や拝み屋には霊感さえ強ければなれるものだが、霊媒師はそうは行かない。霊感の有る無しに関わらず、憑かれる体質でなければ降霊する事が出来ない。

 そこから浄霊まで出来るようになるには、生まれついての霊感の強さが問われる。だから霊媒師というのは、世間が思っているより遥かに就き辛い職業なのだ。

「それにしても、様子がおかしくなり始めてから一ヶ月も経ってるなんて、変だよ」

 依頼人宅への道すがら、霊媒師についての講釈を延々垂れていた明は、不思議そうにぼやいた。足を投げ出すようにのろのろと歩いていた藤堂は、聞き返すでもなく明を見下ろす。

「普通、一ヶ月も体を乗っ取られていたら、かなり弱っちゃうはずだよ」

「なんで?」

 明はスカートのポケットから折り畳まれた受付用紙を取り出して、藤堂の目の前に広げた。見せられても藤堂には分からない。

「たまに本人が戻るって書いてあるでしょ」

 備考欄を指差して、明は言う。藤堂は首を捻ったが、うん、と呟いた。

「憑かれると、一つの体に魂が二つ入ってる状態になるの。でも悪霊の方が人間じゃなくなってる分強いから、一ヶ月も経つと同居されてる本人は弱ってくるのね。悪霊を押しのけて、本人に戻れる筈がないの」

「ふうん……」

 分かったような分からないような曖昧な返事に、明は呆れた溜め息を吐いた。基本的に藤堂は、意思の読み取り辛い反応しか見せない。特に理由はないが、そういう性格なのだ。

「もう……ほんと、藤堂さんて何も知らないんだね」

 呆れた表情だったが、責めるような口振りではなかった。諦められているのかも知れないと、藤堂は思う。逐一呆れる割に丁寧に説明してくれるから、年齢にそぐわず律儀な性格なのだろう。

「おじさんもういい歳だから、脳細胞死んでんの」

「藤堂さんまだ三十でしょ」

「お前から見りゃおじさんだろ」

 口を噤んで困った顔をした明は、返答に窮しているようだった。彼女の性格的に、肯定も出来ないだろう。その辺りも見越してそんな台詞を吐くから、藤堂は大概たちが悪いのだ。

 依頼人の家は、閑静な住宅街の中にあった。流行りの縦に長い家が密集して建ち並んでいるから、初めて訪れた人間には、どれがどの家なのか見分けがつかない。

「あ、黒江さん」

 明が唐突に声を上げた。数メートル先の家からひょいと顔を出した人物は、確かに先日事務所を訪れた依頼人のようだ。しかしどこか、浮かない顔をしている。二人は自然と、早足になった。

 愛はしばらくきょろきょろと辺りを見回した後、二人を見付けると慌てた様子で駆け寄ってきた。藤堂と明は、怪訝に顔を見合わせる。

「と、藤堂さん、知恩院さん!」

 藤堂と明に駆け寄りながら、愛はひどく慌てた様子で二人の名を叫んだ。距離が一メートルほどにまで縮まってからようやく立ち止まった愛は、深々と頭を下げる。亜麻色の髪がさらりと流れて、顔を隠した。

「本当に、申し訳ありません」

「どうかなさったんですか?」

 怪訝な声で明が問うと、愛はおずおずと顔を上げた。申し訳なさそうなその表情に、藤堂の心中を嫌な予感がよぎる。

「あの、実は、夫が鳳さんの方にも依頼していたらしくて……」

「鳳ですか!」

 明が驚いた声を上げると、愛は更に頭を下げた。藤堂は困惑した面持ちで頭を掻く。つまり重複して別の業者に依頼してしまったという事なのだろう。大企業だという鳳相手では、こちらに勝ち目はない。

 それなら尻尾を巻いて逃げ帰るしかない。藤堂はそう考えたが、愛は意外な言葉を口にした。

「それで、その……もう鳳さんは中にいらっしゃるんですが、差し支えなければ、上がって頂けますか?」

 これには藤堂も驚いたが、明の方が驚愕した表情を浮かべていた。そんな二人をちらりと見てから、愛は俯いたまま続ける。

「私は悪霊といえど、退治してしまうのは可哀相だと思うのです。変質しているとはいえ、元は人間でしょう? だから、浄霊屋であるあなた方に、なんとかして頂きたかったんです……だから」

 目を丸くしていた明の表情が、徐々に穏やかなものへと変わって行く。藤堂の目には、どこか嬉しそうにも見えた。

「いいんですよ、黒江さん」

 愛は俯いたまま、上目遣いに明を見上げる。

「私達に任せて頂けるなら、鳳さんほどには手際良くやれませんが、誠意を持って対応させて頂きますから。まずは、お嬢さんの状態を確認します」

「ああ……」

 心の底から安堵したような溜め息を漏らし、愛は重ねて礼をした。水飲み鳥のようだと、藤堂は思う。

「ありがとうございます……どうぞ、こちらです」

 愛は自宅の玄関先まで二人を案内し、扉を開けた。お邪魔します、と言う藤堂と明の声が被る。

 玄関に一歩足を踏み入れた瞬間、明があからさまに顔をしかめた。愛は彼女の変化には気付かず、廊下を進む。藤堂は明に理由を聞こうとしたが、あまりにも苦い彼女の表情に首を捻った。暫し悩んで結局、依頼人にこの表情を見られてはまずいと思い直して口を噤む。

「娘の部屋は、三階です。狭いので、気をつけて」

 愛が自家用エレベーターのボタンを押すと、すぐに扉が開いた。最近はエレベーターなど、どの家にも設置されているが、藤堂はこれを見る度複雑な心境になる。

 実家は三階建てだったが恐ろしく狭く、エレベーターが設置出来なかった。幼い頃は、よくエレベーターをつけろと駄々をこねたものだ。無論、真実欲しかったわけではなく、自分の家にだけ無いのが嫌だったのだ。明も愛も緊張した面持ちだが、藤堂は一人、そんなどうでもいい事を考える。

 小さな機械音が響く中、明は思い詰めたような暗い表情で俯いていた。何かあるのだろうかと藤堂は思ったが、何かあるからここに来ているのだ。

 それにしても明のこの様子は、不自然すぎるように思える。疑問に思っても依頼人の前で聞くのは憚られたし、藤堂に霊的な事は分からない。明の変化が依頼人にばれるのも、なんとなく、いけないような気がした。

 ゆっくりと動いていたエレベーターの扉が開いた瞬間、耳をつんざくような悲鳴が聞こえ、藤堂は思わず顔をしかめた。悲鳴では誰の声とも判断出来ない。しかし愛が血相を変えて正面の扉を勢い良く開いたので、娘の声だったのだろうと、藤堂は思う。それにしては、しわがれた声であったようにも感じられた。

 開かれた扉から、冷たい空気が一気に流れ出した。冷気は足元を這うように通り過ぎ、閉じたエレベーターの扉に当たり、瞬く間に廊下を冷やして行く。藤堂は這い上がる寒気に体を震わせ、明は室内の光景に息を呑んだ。

 空き巣にでも入られた後のように荒れた室内には、四人の男が立っていた。スーツ姿の三人は何かを囲むように立ち、口々に何事か呟いている。何も分からない藤堂でも、その様子が尋常でない事は理解出来た。

 唯一Tシャツ姿の男は祈るように両手を組み、三人を見詰めたまま壁際で震えている。これが黒江氏だろう。

 スーツの三人が囲んでいたのは、十三、四歳の少女だった。子供らしい丸みを帯びた顔に、形の丸い大きな目。多少太めだが、への字に下がった眉は、母親のものとよく似ている。普通の状態であれば、可愛らしい少女なのだろう。しかし悪霊に憑かれた今、彼女の顔は窶れきっていた。

 鳥の巣のように絡まった、くすんだ水色に染められた髪。瞳孔の開いた目は大きく見開かれ、飛び回る蝿のように、瞳だけがぐるぐると忙しなく動いている。ぽっかりと開かれた唇は紫色に変色し、小刻みに震えていた。華奢な体は何重にも巻かれた注連縄で椅子に縛り付けられ、時折小さく痙攣する。

「なんだ、こりゃ」

 藤堂は思わず、そう呟いた。あまりの惨状に、一瞬呼吸をする事さえ忘れた。何をしているのかさえ分からないが、娘が真に取り憑かれているであろう事は、尋常ではないその様子から明確に感じ取れる。

 藤堂の声に振り返った黒江の顔からは、完全に血の気が失せていた。入口に立ち尽くしたまま呆然としていた愛が、その顔を見て弾かれたように夫の元へ駆け寄る。握り締めたままの両手を震わせる夫の背中を宥めるように撫でてから、愛は入口を振り返った。縋るような目が、藤堂と明を交互に見る。

 そんな目で見られても、自分には何も出来ない。藤堂は困り果てて壁側へ一歩下がったが、呆然としていた明は、彼女の表情を見て目的を思い出したようだった。

 切り揃えられた黒髪が揺れる。左右に首を振った明は、眉間に皺を寄せて身を乗り出した。

「あ……あなた達、なんて事するの! 無理矢理引き剥がしたらその子の魂に影響が出るって、知らない訳じゃないでしょ!」

 愛の顔色が一変した。黒江は驚愕に目を見開き、声を上げた明を注視する。

 明の悲鳴じみた声にも、鳳の社員達は何ら反応を示さなかった。ただ淡々と、抑揚のない声で何ごとかをぶつぶつと呟いている。明の声が耳に入っていないのか、単に答えないだけなのか、傍目には判断がつかない。

 困惑した表情を浮かべた藤堂が横を見ると、華奢な明の肩が震えていた。限界まで眉をつり上げているから、怒りによるものだろう。

「あれは強制的に、体から霊を引き剥がす時に使う術なの。追い出す術なんて、他に幾らでもあるのに……」

「止めらんねえのか」

 藤堂が聞くと、明は眉根を寄せたまま彼を見上げた。

「呪文が最終段階に入っちゃってるの。今止めたら、尚更あの子が危ない」

 世界の終わりが訪れたかのように、愛は悲愴な表情を浮かべた。黒江は頭を抱え、その場に蹲る。

 最早彼らには、見守る事しか出来なかった。

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